第四話『第十使徒 正宗皇乃』6

「要するにね、ちょっとしたレクリエーションってわけよん。行ってらっしゃいな」

 小峰ファルコーニ遊我は、ブロンドを結い上げた団子から根のように捩れ伸びて眼鏡の中央にかかっていた前髪の束を払い除け、にっかと笑う。

 彼女ひとりがそこに残った。

 怪腕、魔女こと絆・ザ・テキサスと並び立つ『魔女離帝』の魔人。水恭寺沙羅との知られざる死闘で負った傷は既に癒えて。

 ドリンクバーの安っぽいグラスに細かな氷がじゃらじゃらと落ちる。交差点を行き交う人の群れのように。

 不良少女として瞬間を生きることは、この今だけを焼き付けるために、瞼というシャッターを必死に見開き続けることなのだ。

 ――映るのが、結局。

 ――かすれたような影だけでもさ。

 ボタンを押している間、黒々としたコーラが注がれる。夜のようにそれはプラスチックの内側を満たして、弾ける。

 ボタンを押している間。保証などありもしないくせに、無責任な書き口に喉が苛立つ。

 溢れて、迷宮のように世界を沈めて、溺れて消えるその瞬間まで、遊我は指をボタンから離さないだろう。そうしようと思えば。

 それが小峰ファルコーニ遊我だった。

「うんうん。やっぱりぼくたち、親睦を深めるには喧嘩が一番なんだな」

「それ絶対こういう意味じゃないから!! バッカじゃないの、アンタら!!」

 赤ん坊を背負ったふわふわ髪の羊崎トオルと、きんきん声を張るウルフヘアのアウグスティン恋愛。

 ふたり、競り合うように駆けていく。派手な壁紙も剥がれかけたカラオケボックスのべたつく廊下を。

 窓は埃に汚れたビニールテープで潰されている。靴音は開け放たれたドアの向こうのひび割れたアニメソングと啄み合う。

 遊我はコーラをひと口だけ飲んで、咳をした。

 見通しの悪い店だった。彼女が持ち込んだ闘争の怒号は、地球の裏側から届くかのように響く。

「きゃあっ」

「な、何!?」

「邪魔なんだな! 怪我したくなきゃッ」

 この店は大っぴらに『苦楽碧海<クラックペッカー>』の拠点とされているわけではない。あくまで、煙草の吸える溜まり場を求める彼女たちが客として頻繁に利用しているというだけのこと。故に、不良の世界とは一切関係のない客がそこには居合わせるわけだが。

「とっとと荷物まとめて、非常階段で帰りなさいよね! 会計は『魔女離帝(うち)』で持っとくから!」

 顧みることなく、突き進む――のが特攻隊ナンバー2・ピカドールの役目で、顧みるのが親衛隊ナンバー2・恋愛の役目なのである。

「ティンさーん、こいつらって片っ端から遠慮なくやっちゃっていーんですよね?」

「ちょっと、程々にしときなさいよね! この後こいつらの頭と交渉あんだから!」

「りょでーすっ」

 カラオケボックス制圧のために召集されたのは、ピカドールと恋愛を除いて七名。うち五名がそれに応じていた。

 中でも、率先して次から次へと扉を開けていた尖兵たる少女たちは、意外にも親衛隊所属だった。

「はーい、一番小っさい個室でふたり発見。ボーナス二万であざまる水産っ! うっへぇ指ゴムの箱出しっぱだし。うちのガッコほんとレズ多くてぴえんだわ、えんがちょ」

「なんでなんでやだやだ絶対やだリンダ親衛隊なのに無理無理喧嘩なんて無理無理やだやだ無理やだ無理やだ無理はっもしかして全員秒で潰せばもう喧嘩しなくていいかも潰す、潰す、潰す!!」

 左義長ベルーカ<サギチョー・―>がストローでエナジードリンクを飲みながら靴の厚い底で見知らぬ不良少女たちを廊下へ蹴り出し、乞巧奠リンダ<キコーデン・―>が頭皮を掻き毟りながら消火器で手当たり次第に壁を殴りつけ一般の客を脅して逃がす。

「おおう、親衛隊にも活きのいいのがいるみたいだな」

「当ッたり前でしょ!」

 戦闘を本職としない者を集めた親衛隊の中では荒事との距離が比較的近い、彼女たちは親衛隊・威力班という。

 早い話が、脅迫・恐喝を専門とした小集団だった。

「引き入れる条件にしたのは三つよ。絆の直属じゃないこと、優秀であること、友達がいないこと。全部満たしてる中でも、とびっきりの三人なんだからね!」

 その声が聞こえてきて、エレベーターの前に陣取っていた鍬木茉莉里は思った。

 ――え?

 ――あたし、あそこら辺と同じ枠なの?

 左義長ベルーカ。乞巧奠リンダ。そして、顔に大きな傷を負うまではプロの諜報員であった恋愛に目を掛けられている直属の部下の鍬木茉莉里。

 彼女たちが、アウグスティン恋愛の選定した親衛隊からの裏切りメンバー。

「-・・-- ・・-・・ ・・-・- -- ・・- -・・・ -・--・ --・・ -・-・- ・- ・-・ --・」

『あんな奴らどうだっていいぜ。アタシたちだけでもいいとこ見せっぞ!』

 勿論、もう一方もまた負けてはいない。

 唇を真一文字に引き結んだまま数取り器で符号を打つコアントロー・ワンダーと、いつも通り薄手のパーカーのフードを被って少年のような短髪を覆う栞・エボシライン。当然、特攻隊から動員されたのは遊我の子飼いの遊撃班である。しかし、派手な髪を盛り上げて浴衣を着崩したコアントローの打った通り、今日はユ・ミンスと女原ソニアの姿がない。

 開け放たれたドアから、びりびりと肌を震わせる大音量のヘヴィメタル。音の突風を物ともせず、鋼鉄の脚は踏み込んだ。

『おらよっ』

 マイクを持っていた少女を殴り倒すのとほぼ同時に、隅で脚を組んで煙草を吸っていた少女の胸倉を掴む。

『ロー!』

 白兵戦のために造られたその肉体は機構。この程度であれば造作もないことで、エボシラインシステムを使うまでもなく制圧を終えた栞はコアントローの方を振り返った。

 こくりと頷き、通路から個室の中を覗き込みながら、花魁めいた装いの彼女は扇ぐように両手を振る。

「んむぐっ!?」

 煙草が、床に落ちて、栞の靴底に踏みつけられるまでの。瞬間にも満たないほどの瞬間で。

 目を丸くした『苦楽碧海』の少女の両手首は麻縄で縛り上げられ、口には手拭いの猿轡が噛まされていた。

『さあて、テメエらの頭がどこの部屋にいんのか教えてもらおうじゃねえか。この店にいるってのは割れてんだぜ』

 栞・エボシラインが凄む。誰かが彼女の中に吹き込んだ声を合成し直した、声ならざる音で。

 手品のように取り出した拘束具を投げつける過程で数取り器をどこかへやってしまったコアントローは、符号を打つこともできずに黙していた。

「ぐ、んぐっ」

 膝の裏を栞に蹴り上げられた少女は涙目になりながら身を捩り、結び合わされた両手で必死に廊下の左奥を指した。

『あっちですピカドールさん!』

 廊下に飛び出す。見ると、すたすたと小走りでピカドールが角を曲がってきていた。

「うーい。今行くんだな」

「あー、ぶー」

 穢れを知らない鼓膜には、栞という機体の発する作り物の声はどう響くのか。いずれにしても、早歩きで左手へ向かうピカドールの背に負ぶわれたローラは、薄い瞼をぱちくりさせて生物ならざる彼女の方へ手を伸ばしていた。

「遅いっての!」

 しかし、奥まったパーティールームの前には、恋愛たち親衛隊が既に辿り着いていた。ベルーカが暢気な顔のピカドールを一瞥して意地悪そうに微笑みながらドアを開ける。彼女の肘が肩に当たり、リンダは瞼を震わせて俯きぶつぶつと何やら呟き始める。

 部屋の奥のソファに腰掛けていたポニーテールの少女が『苦楽碧海』の総長なのだろうとすぐに見当がついた。居合わせた誰にでも。膝まで捲り上げたジャージにサングラスといくら三下くさい装いをしていても、不良少女同士であれば伝わるものだ。大なり小なり、人を従えている者に特有の気配は――当然、ラクシュミなどに比べれば圧倒的に脆弱なそれではあったけれど。

 だが、例えば絆・ザ・テキサスや小峰ファルコーニ遊我には皆無なのである。下に就くことを喜びとしている者たちというのは、何故か決まってそうなのだ。

「はい停止~やっぱ親衛隊しか勝たん! ほむほむ、ってかライキリとかばっか歌っててマ? ウケみ~」

 恋愛の脇をすり抜けて室内へ飛び込んだベルーカがリモコンを操作し、カラオケ音源を止めて選曲履歴を表示する。流れていたのは「来週も霧の予報」という動画サイト出身の音楽ユニットが配信リリースした代表曲だった。ボーカルに軛るい<クビキ・―>という中学生のアイドル配信者を起用したことが話題となり、ミュージックビデオのサビの箇所で女子高生風のキャラクターが行っている手遊びを真似た動画の投稿がSNSで流行している。

「んだ、てめえらァ!」

「やだ怖い怖い怖いなんでなんでやだやだなんでありえないありえないありえないおっきい声出さないで出すなっつってんだろ!!」

 虫に食われたようにぼろぼろのポロシャツの襟元から手を突っ込み、ブラジャーの紐が赤く擦れた痕のある皮膚を執拗に掻きながら、リンダはテーブルを蹴り上げた。立ち上がった『苦楽碧海』の不良少女たちもたじろぐ。キッと歯を食い縛りながら上げた乞巧奠リンダの目の下にはくっきりと涙の痕がついている。

「はい、退いた退いた!」

 そして、部下の間を彼女が行く。

 アウグスティン恋愛。鬼百合女学院最大勢力、資本の殿堂『魔女離帝』親衛隊ナンバー2。プロの諜報員をしていた過去を持つが、何のしがらみにも縛られることなくひとりの不良少女として気ままに過ごしている今の方が活き活きして見えるとは専らの噂で。ピンク色に染めた髪をウルフに切り、細身の四肢をスキニージーンズとボアコートの韓国風コーデに包んだ彼女が、つかつかと『苦楽碧海』総長に歩み寄る。ベルーカとリンダがその両脇を固めているからか、周囲の不良少女たちも殺気立った視線を送るばかりだった。

「お手並み拝見だな」

 ピカドールと栞とコアントローもまた、パーティールームの入口を塞ぐように立ちながら親衛隊の動向を見ている。

 その三人の影が重なる後ろから、どれどれとばかりに遊我が頭を覗かせる。

『遊我さん』

「ガッハッハ――栞、ロー。ここはもういいからあのバカ探しに行ってきてくんないかしら。なーんか嫌な予感すんのよねん」

『ユの奴ですか』

「そそ。ソニアからは体調不良で行けないって連絡来てんだけど」

『ロクでもねえ奴っすね……了解っす! おい、ロー! 出るぜ!』

 機械の少女は、頷いて掴む。瞬きしながら魔人の瞳を見上げるコアントローの、何らかメッセージを打ちかけた手首を。

 オーグメンテーション。

 カノジョたちの戦場はここだけではない。何にも縛られずに動き戦えるからこその遊撃班。

 ふたつの足音が軽快に遠ざかっていったものだから、『苦楽碧海』の少女たちは振り返り、そこで気付く。小峰ファルコーニ遊我の存在に。鬼百合女学院と縁のない不良少女であっても、『魔女離帝』の平構成員になど見覚えがなくとも、彼女のことこそは見間違えるはずもない。ブロンドのお団子と黒縁眼鏡、そして何よりその巨体。

「小峰だ……小峰ファルコーニ……」

「なんで、鬼百合の『魔女離帝』がここに……」

「んふふ。その辺の話はティン子にお任せよん」

 そう――それは尤もなこと。

 ここに、『魔女離帝』が襲撃をかけることはない。誰しもそう思っている。

 何故ならこの店は、鎌倉市内に所在しているからだ。『酔狂隊』の御膝元であり、その街に暮らす不良少女には中学時代以前に水恭寺沙羅や乙丸外連と縁のあった者も少なくない。故に、本来であれば『魔女離帝』が鎌倉に揉め事を起こしにくるなどあり得ない。

 だからこそ、遊我たちはこの地で手勢を揃えようというのである。水恭寺沙羅の宿敵、『魔女離帝』のマハラジャたる楽土ラクシュミと通じている者の潜んでいる可能性が湘南域において最も低い場所だから。

「『苦楽碧海』! アンタら今モメてるはずよね、八代目『艶屋<イロヤ>』ってのと!」

 顔面に大きな傷跡のある恋愛は、迫る。桃のリップを香らせる吐息、感じさせるほどに近く。

「今日『間違って』カチコミかけちゃったことのケジメで、代わりにあたしらが『艶屋』とナシつけてもいいわ!」

「……!」

 どんな事情の力学が裏で働いていようと、不良少女の社会においては、その様子は一通りにしか解釈されない。

 『苦楽碧海』が『魔女離帝』の小峰ファルコーニ遊我たちの権威を借りて八代目『艶屋』との対立を収めるということは、即ち、『苦楽碧海』が『魔女離帝』の傘下に組み込まれたのだということ。

 そう、世間に表明することになる。

「だとボケ、ゴラ、ああ!?」

「こっちも旗背負ってやってんだよ!」

 無論『苦楽碧海』にとっては到底受け入れられない話で、しかし、彼女たちは受け入れるしかない。

 そういう状況の相手を選んで、声をかけているからだ。

「なんだ、随分……」

 罵声を浴びせるばかりのチンピラとは異なり、確かに、上に立つ少女は理解していた。

「スカウト回りってか? 随分格好悪い手ェ打ち始めたんじゃねえの、天下の『魔女離帝』がよ」

「悪いけど、これでも不良なわけ。格好よくたって悪くたって、義理を通すのが筋でしょうが」

 アウグスティン恋愛は大見得を切る。ある情報を悟らせないために。

 それは――ほんの少し前、今日の午前中。全く同じ話を持ち掛けられた八代目『艶屋』が、頷いているということだ。

 仲裁も何もない。初めから『苦楽碧海』も『艶屋』もまとめて併合してしまおうという魂胆で、恋愛は出方を練っていたのである。

 そのことを、総長は知らない。『艶屋』の少女たちには地獄で逢った仏の顔のまま厳しく口止めしてあるし、噂が広がる間もないほどの迅速さでことを進めたのだから。

「さてはてめえら、小峰の独断で動いてんのか。呆れるぜ、それで義理もクソも――」

「はぁっ!? バッカじゃないの!?」

 誰にでも。

 誰にでも、アウグスティン恋愛は苛烈である。きんきんした声で。燃え盛る焚火が、周囲へ平等に火の粉を撒くように。

 それが彼女らしさであった。特徴がなくどこにでも馴染む、それこそが最大の長所であった顔に傷を負い、若くして職業諜報員を引退せざるを得なかった彼女は。

 しかし今、何を真似ることもないあるがままの彼女で、騒々しい日々を過ごしていた。

「あたしらが動いてんのは、マハラジャへの義理に決まってんでしょ!」

 楽土ラクシュミが守護している、鬼百合という土地で。

 感謝しているのだ。楽土コンツェルンの情報室セクションを離れてすぐに、人並みより少し書類仕事が得意なごく普通の女子高生としての生活に還っていくことができたのは、彼女が不良少女の楽土としての自由な学び舎を標榜していてくれたおかげに他ならなくて。

 故に、アウグスティン恋愛は賛同した。小峰ファルコーニ遊我の計画に。

 だって、これは――裏切りというよりも、サプライズを企画しているようなものなのだから。

 楽土ラクシュミと絆・ザ・テキサスに、蜜月の時間というプレゼントを贈るための。

「マハラジャは優しすぎるから。あんなに強くて頭もいいのに、自分のことは後回しなんだな」

 よしよし、と。

 背中に括りつけた赤ん坊の機嫌を取るように、尻を押さえて上下に軽く揺すってやるピカドール。

 ちらり、振り返る。眠たげな顔のまま、ふわふわの髪を揺らして。

「でも、考えたもんだな? 学校外のチーム引き込もうなんて」

「まあねん」

 ――何も、鬼百合だけが不良の世界じゃないのよん。

 彼女の目線は、周りの子供たちよりも遥かに高くて。

 どうやら、囲われた安全な世界は狭すぎるようだと――

 ずっと、そう思っていた。

 ――小坊中坊の頃なんかさ。

 ――特にそうじゃない。みんな、学校の中だけが世界みたいな気でいて。

 同じ海辺の町並みでも、地中海の島では、人がいとも簡単に殺されているのに。

 ――バレー部とか、バスケ部とか。

 ――「あなたがどうしても必要」なんて言われても、全然、自分事だと思えなかったわ。

 ユリア。Y・U・G・L・I・A。シチリアを震え上がらせたドン・ファルコーニは大きなタトゥーを胸部に入れていた。我が身よりも大切なものを持っている――と、周囲に信じ込ませるために。

 しかし、敵は気高くも人質など取らず、真っ向から大悪党に散弾を浴びせた。

 左胸が吹き飛ばされ、LとIを失うその刹那まで、父親は必要に迫られて産ませた娘の顔を思い出すことなどなかったのだろう。既にすくすくと発育良く育ち始めていた彼女は、避雷針としての役割を果たすことにもならぬまま、遺臣たちの手で逃がされた。母親の故郷、日本へと。

「まあいいさ」

「姐さん!?」

「タぁコ、ちったぁ考えろ。湘南の野良じゃあ、ここらが潮時だったんだよ。なら――鬼百合のどっかが湘南制覇、神奈川制覇をやってのけるのに早めに賭けるが吉ってな」

 ジャージ姿の『苦楽碧海』総長は後頭部に手を回してポニーテールを解き、億劫そうに立ち上がる。左義長ベルーカと乞巧奠リンダがアウグスティン恋愛の両脇を固めて備えるが、しかしサングラスを外した彼女が見据えたのはパーティールームの入り口、小峰ファルコーニ遊我だった。

「で? 頭下げろってんだな、『魔女離帝』に」

「ん? ガッハッハ、違うのよねん」

 アメリカンスピリットの黒い箱が、手の中でくるりと一回転。

 危険性を高めます。

 ――ましてや、不良グループがどうとか。

 ――そん中でも一番、馬鹿馬鹿しいじゃないのよん。

 ――高校生にもなって、そんなことに時間使って。

 あらゆる危険性を吸い込まないためには、真空に身を置くしかないのだけれど。

 この町で息をする不良少女にとって、潮の香りこそが生なのだ。たとえそれが、生存競争に敗れていったものたちから漂う腐臭なのだとしても。

 ――でも、マハラジャはさ。

 ――人が簡単に死ぬものだって知ってたはずなのに、鬼百合の王になったのよ。

 ――今を、全力で楽しむために。

 ――学校の外がどんだけ困難に満ちてるかをよーく知ってるあの子だから、不良連中がそんなの知らずに済むようにしてんでしょ。

 いつか手放すものなら意味がないからと。

 囲い込まれた塀の中になど興味を抱かなかった、背の高い少女に、楽土ラクシュミは声をかけた。

 楽しんで生きるための土地。故に、楽土。

 そこに小峰ファルコーニ遊我は、必要ではなかった。だからこそ、差し伸べられた手が嬉しかったのだ。

 ただ必要とされ続けるだけの生命体ではない、そこで共に時間を過ごすための自分を求められたのなんて、きっと生まれて初めてだった。

「あたしはいつまでも『魔女離帝』だけど、今はそんな名前で動いてないの」

「あン? てめえ、反乱か――いいねえ、面白くなってきてんじゃねえか」

 ――あたしは「面白そうだから」スカウトされたけど、ザっちんは違って。

 ――あの子こそマハラジャが生きていくのに必要な子で、それ以上に、あの子が生きていくのにマハラジャは不可欠で。

 ――だからどう見たって鬼百合になんか合ってないのに、毎日必死に尽くしてる。

 黒縁眼鏡に、長い指を押し当てる。手のひらで、自らの熱い吐息を受け止める。

 絆・ザ・テキサスをからかいながら、決して三人にはならず――ふたりとひとりのひとりとして過ごした日々を、手放したかったわけはない。

 ――そりゃあ、あの子が望む時間だって、与えられなきゃ報われないじゃないのよん。

 それでも、もう戻れはしなかった。

 勝手に水恭寺沙羅にタイマンを挑み、全てを終わらせようとまでしてしまったのだから。

 それが不良少女としての、彼女の貫く信念だから。

 ラクシュミと絆への、これは恩返しなのだ。少しばかり暴力的すぎる、鬼百合らしいやり方の。

 小峰ファルコーニ遊我。羊崎トオル。アウグスティン恋愛。いずれ劣らぬ、楽土ラクシュミの統治を支える名将ばかり。ここに。

 故に、あくまでプライベートとして、集っている。

「あたしら別に、マハラジャやザっちんの敵になろうってわけじゃないわけ。ふたりのためにふたりを裏切る、ちょいと急進的なお庭番」

 特攻隊と親衛隊の垣根を越えた別動隊。

 それは、暗闇に愛されて育った少女なりの献身に他ならなくて。

「だから名前は――『遊離庭園<サイレントマジョリティ>』、ってとこよん」

 象が争う時、傷つくのは草である。

 そう知りつつ、巨象は立ちはだかった。

 彼女が守りたいものは、たった一輪の百合の花で。

 そのためならば、壌土に蔓延る雑草など、根絶やしにしてしまってもよかった。



 桜森恬という少女は、あの時、きっと主役ではなかった。

 挑んで敗れ、便所の床に座り込んだ少女としてそこにいたくらいだから。

 しかし、いつか主役になれる器を持っていた。

 そんな見知らぬ後輩に憧れて、ここまで到達した者がいる。

 姓は糺。名は四季奈。

 鬼百合女学院において、誰の支持も受けてはいない、たったひとりの大統領<プレジデンテ>。

「肉豆腐」

 姿勢を低くして、床を蹴った。色とりどりの雑誌が散乱し赤ワインに浸っている、コンビニの病的に白かった床を。

 左腕を顔の前に掲げて攻撃に備えながら、右の拳を一度、二度、抉るように捻じ込む。

「って、あるであろう。すき焼きの子分っぽいやつ」

「っ、ぷ」

 ごつっ。ごつっ。

 ユ・ミンスの腫れた唇の隙間から涎が垂れる。

「余、ヴィーガン故キャベツを肉の代わりにしてな? よくすき焼きやるのであるが」

 森の色をしたワンピースが揺らめいて、高波のようにそれを押し上げた膝が、腹を殴られて上体を折ったミンスの額を捉えた。

「鍋料理というほどではない規模でちょっと作ったすき焼きは、それはもう、肉豆腐なのである。でも余、肉入れてないし」

 衝撃で跳ね上がったミンスの後頭部が、ドリンク棚のガラス戸に強かぶつかった。火花が散る。そこに白い手が伸びる。

「つまり、肉抜きの小さいすき焼きって、『豆腐』とイコールなのであるか?」

 ごとん、と鈍い音がして、分厚いガラスに蜘蛛の巣状のヒビが走った。叩きつけられたミンスの頭を中心とし、乱れた黒交じりの金髪と重なり合うように。

 同じ箇所への立て続けのダメージは、単純に倍では済まない。

 がくん、とミンスの首が落ちる。地を抉る螺旋のツインテール、跳ねる。その隙間から疾走する。視線が。

 回し蹴りの軌道を、既に半ばまで描いていた。四季奈の細い脚、死神の鎌となって。

 ガラス戸は、果たして粉砕される。

「気に食わぬよなあ? 脇役を蔑ろにする料理名」

 直撃させはしなかった。四季奈の蹴りはミンスの頭の真上でただ分厚いガラスだけを割った。それは慈悲のようにも、嘲弄のようにも見えただろう。

 踊っていたのは、肩に掛けられた安っぽい襷。「本日の主役」という文字が正面から見えるよう、指先が軽く整える。

 スロットマシンがメダルを吐き出すように、叩き割られた冷蔵棚から缶やペットボトルがごろごろと転げ落ちてくる。ミンスの血が流れたタイルの床にそのまま降り注ぐ。

 細い息をしているミンスをちらりと見下ろした四季奈は、小さな欠伸をしながらすたすたと奥の棚へ歩いていき、バナナを手に取って躊躇なくビニールを破った。

「で……余、もう帰って良い?」

 皮を剥き、バナナを齧りながら、そこに立っている。

 絶対的な強者。ユ・ミンスは、初めから彼女に勝利することなどイメージできていなかった。

 それでも。うっすらと開けた目の前に、細い鎖が垂れ下がっていた。

 女原ソニアから奪い取った、瞳孔に届く光量を大きく制限して情報量をカットする特注レンズの片眼鏡。ソニア以外の人間にとってはほぼ目隠しのようなものだ。ただミンスを虚仮にするためだけに、四季奈はそれを嵌めている。

 閉ざしかけていた瞼に力を込める。奥歯を噛みしめる。ずきずきと痛む頭は、身体は、もうどうしようもないけれど。

 それでも、いつでも立てるよう膝を起こす。

 勝てるわけがない。ユ・ミンスが、糺四季奈には。格がまるで違う。

 そんなことはとっくに承知で、それでも彼女はここへ来た。

「……、」

 ソニア。女原ソニア。

 ユ・ミンスにとって、命より重い「一般の方」。

 彼女の、困ったような笑顔を想う。やわらかな肌の冷たさを想う。共感覚の頭痛に喘ぎ便器の前に崩れ落ちた、震える背中を想う。

 ミンスが丁寧に守ってきたものを、この女は、ただ桜森恬に背かれた鬱憤を晴らすために踏み躙った。

 息を大きく吸い込んだ。

「――――――!!」

 腕を折られようと、脚を折られようと、ミンスにはたったひとつの武器が残っている。

 それは喉の奥に仕込まれて、一瞬で出すことのできるものだ。

 使い道ひとつで、人を救うことも殺すこともできる。今ここで揮われるのとは異なる意味の上においてだけれど。

 即ち――声。

 プロフェッショナルとして鍛え上げた、電撃のような「声」そのもの。

 ユ・ミンスは、気を緩めた糺四季奈に向かって、ただただ大きな声を出した。

 たちまち、駐車場に面したコンビニの窓ガラスのうちミンスが手ずから叩き割っていなかったものが全て割れて弾け飛ぶ。蛍光灯も同様に砕けて、真昼の店内に翳りが差す。

 声帯が焼き切れても構わない。舌の付け根の震えは、誇らしく感じていた。

「ひっ、ぎいいいいっ!?」

 バナナの皮を放り出して、四季奈は両手で耳を塞ぐ。唇の隙間から咀嚼しかけた薄黄色い果肉が零れる。

「うっ、るっ、さいな貴様ぁ! 見苦しいのである!」

 振り返って、しかし。

 ぐらり。

「お?」

 四季奈の細い肩から、主役の襷が滑り落ちる。傾いた背筋をぴんと伸ばす、ただそれだけのことができない。尻餅をつきかけて腕を広げ近くの棚を掴む。

 肉体が、踏ん張り方を忘れている。

 鼓膜から振動を伝導させ、平衡感覚を司る三半規管を損傷させる。ただ「大きい」だけでなく「細かい」、そういう周波数の音をミンスは放ったのだった。

「うっ……」

 眩暈と吐き気には、遅れて気付く。阻害されながら、四季奈の目がミンスの姿を探す。ガラスの割れたドリンク棚の前に彼女の金髪は既にない。這うように移動し、アイスクリームのケースの陰から顔を覗かせている。

「――――!!」

 再びの、叫び声。

「余に、同じ手が……ッ!」

 そう、通じない。理解している。だから、耳孔に指を突っ込んでいた四季奈のことは狙わなかった。

 陳列棚が吹き飛ぶ。反対側の通路で、爆発。

 大した規模ではないが、ミンスの声撃をやり過ごした四季奈を驚かせるには十分な――爆発!

「んな……!?」

 ――コンビニって、何でも置いてんだよなー。

 ――ガスボンベとかよー……!

 温度とは、分子の振動である。電磁波のエネルギーで水分子を振動させ加熱するのが電子レンジだ。

 ミンスの声の周波数は、棚の下方に陳列されていたガスボンベを瞬間的に高速振動させ、発火させたのである。

 すぐさまスプリンクラーが作動する。天井から突き出たノズルが雨のように水を吐き出し、床を濡らしていた赤ワインやミンスの血、その全てを洗い流していく。

 その隙を、見逃したりはしなかった。雨のように降り注ぐ細かな水の粒を浴びながら、渾身の力で床に拳を突いて立ち上がり、滑らないよう助走もつけずに彼女は跳んだ。脇腹目がけて細い脚を振り上げ、四季奈の小柄な身体を蹴り飛ばす。

 蹴り技の多彩さというテコンドー最大の特徴を、今のミンスは活かしきれない。それでも、立て続けの想定外がこじ開けた四季奈の僅かな隙に、ただ振り上げた脚を叩きつけるだけの捨て身の飛び蹴りは、刺さった。

「ぐえ」

 泳いだ緑衣の上体が、斜めに棚へぶつかっていく。螺旋の黒髪が押し縮められた発条のように勢いよく散らかる。水滴に濡れた袋菓子が落ちる。しかし、ミンスも万全な着地などできなかった。つるつるした床を離れて跳ぶ瞬間、着地のことなど考えていなかった。

 ばしゃ、と。全体重を乗せた蹴りの後、そのまま小さな尻が水の張ったタイルに落ちた。尾てい骨への鈍痛は、しかし立てないほどではない。

 立てないことなど、あるものか。

「なー……教えてくれよ生徒会長」

 ずきずきと。

 失血したミンスの頭を苛む痛みが去るわけではなく、その意識は瞬間ごとに明滅して。

 しかし、濡れた金髪を打撲痕だらけの肌に貼りつかせながら、声優は立つ。亡霊のように。

「そりゃよー、あたしはてめーより弱えーんだよなー。……じゃあよ、弱え奴が大事な奴守るには、どうすりゃいいんだよ」

 パーカーを脱ぎ捨てる。無地の黒いTシャツは痩せた身体に汗でぴったりと貼りついている。プリンのように黒の交ざった長い金髪を、指でひと房にまとめて肩から垂らした。

 静かに、静かに、切り取られた聖域のような冬の中に冷たい雫が滴り続ける。

「うむうむ、そういう態度は余、感心。では答えてやるのである」

 萎れた螺旋のツインテールは、頭を強く振って後ろへ払い除け。

 水を吸った長いワンピースの裾に、拾ったワインボトルの破片ひとつを当てた。

「逆転のための努力もまともにできぬ雑魚が、大事だのカイジだのほざくな。整形女」

 びいいいいいっ、と一気に引き裂く。

「貴様は余よりブスだ。貴様は余よりバカだ。貴様は、余よりザコだ。なら、余以上に努力してナンボであろ」

 かしゃん、とそれを水浸しのタイルに投げ捨て、蹴り飛ばし。

 糺四季奈はそのまま脚を開くと、白い肌を露出させた膝に手を当て、股関節を押し込むように肩を捻った。

 主役の襷は見つからないが、濡れそぼって、それでも彼女は猛者としてそこにいた。

 小峰ファルコーニ遊我の巨いなる迫力とは全く異なる。小柄でありながら、その威圧はまるで災害だった。じりじりと、ミンスの肌がそれを感じ取る。

「芝居だけはよー、あたしはてめーより上って自信あっからよー、わかんだよなー」

 しかし。

 彼女もまた、不退転の決意の下にこの瞬間を迎えている。

 痛みを伴わない結末など最初から期待していなかった。土台、勝てる見込みのないタイマンなのだから。

「てめーは不良を演じてるだけだって」

 感情ば売りもんにすっとやろ? 普段は抑えよらんと。

 女原ソニアがそう言うから、ミンスは、平たい声を心掛けてきた。彼女の目には銀色に映っていたらしいけれど、自分ではさっぱりわからない。

 灰色が精々だったのではないだろうか。

 それでも。

 そんなつまらない少女が声優になれたのは、ソニアが導いてくれたからだ。痛みを伴う瞳の力で。

 ――わりーなー、ソニアー。

 ――こんなことしてたって、一緒に夢を見てくれたおめーが喜ぶわけねーってわかってんだけどよー。

「本物の不良だったら!! 他人は正論より拳でぶん殴る方が楽しいって知ってっからなあ!!」

 ――お前を踏み躙られても人殺す声が出ねえんなら、端から役者なんか向いてねえわ。

 拳を握り、ひとつは腹の前に置く。脚を前後に開き、軽く膝を曲げる。食い縛った歯の隙間から息をする。鬼の脚が、揮われる刹那を待っている。

 水音が立つ。呼吸がある。ふたつ、向かい合って。

 割れた窓の外の空で音もなく雲が裂けた。

「脇役どころが裏方の身で、よくぞ出張って吼えたものである。……ほれ来るがよい。タイマンであるぞ。本気の余で殺してやるよ、声優」

 棚から毟り取ったジップロックに、スマートフォンを入れて。

 自作の四つ打ちミニマルダンスミュージックを、再生する。

 電子音に合わせて、軽く踵を上げながら何度か跳ぶ。都度、足下で浅い水面がかたちを変える。その時、小柄な少女の四肢であらゆる力みは解れ、羽のように軽くなる。手足の先まで悉く、攻め寄せる不浄を弾き飛ばす、研鑽の果ての柔なる盾。

「絶対防御<オートガード>」

 妬みと嫉みを一身に集める彼女は、あらゆる成果を天賦の美貌に帰されてきた。

 そんな彼女に教えたのは、桜森恬との出会いならざる出会いだった。成功とは、楽しむための戦いの後からついてくるものだと。

 この世の全てを薙ぎ倒すその瞬間、どんな果実よりも甘美に滴るのだ。

 努力の天才、糺四季奈。

 もはや永久に主役たる彼女が、圧勝を躊躇することはない!

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