第四話『第十使徒 正宗皇乃』5

「お話しすることは何もないのです」

 固く閉ざされたままの、冷たい扉。

 それが彼女からの、放送室を訪れた百合子たちへのメッセージそのものであった。

「別に何かしようってんじゃないんだ。たださ、小野。百合子もこれから『酔狂隊』で一緒にやってくわけだから、顔くらい――」

「それこそ何の話だか」

 しかし、小野憩美<オノ・ヤスミ>は。

 そこに閉じこもり続ける、たったひとりの放送部員は――和姫が自然に紡ぐ当たり障りのなさに失笑して、遮る。

「『酔狂隊』の使徒なのは、小野じゃなくて皇乃さんだし。小野はただの、皇乃さんの舎妹(スール)なのです」

「……ああ、そうだった。悪いな」

 夢から現へ舞い降りた、正宗皇乃という少女。がさつで不器用だが気風が良く、ファンのことを何よりも大切に思っている姐御肌のバーチャルヤンキー。

 小野憩美はいつか、そんな誰かに憧れた。空想した身に余る翼は、モニターの中に作り上げられた。

 和姫を言い負かすことなど、本来はできるはずがない理論だった。他でもない彼女が要望通りに描いてくれたイラストを基にして、正宗皇乃の3Dモデルは組まれたのだから。

「じゃあ、今、正宗皇乃の方と話せるか? この前さ、こいつが『酔狂隊』に入るって時は顔出してもらったけど……改めて挨拶くらいさ」

「皇乃さんはバーチャル不良界の平定に忙しいのです。ご連絡は……まあ、後で、DMででも」

 誰も面と向かっては否定しない。だが、面と向かって肯定するのも和姫ひとりくらいのものだった。……誰とも面と向かわずに済むよう、小野憩美は誰よりも早く登校してから誰よりも遅く下校するまで、ずっと孤独に新校舎の放送室を死守しているのだったけれど。

 ただ藤宮和姫が、鬼百合の不良少女として在るには、あまりに物分かりが良すぎるという話である。

 ――あれ……?

 ――小野さんの声……さっきの……正宗さん……?

 0と1の狭間にある楽園の理を、今の百合子は理解できない。

 ただ、黒髪を飾る紅い花を揺らして首を傾げるばかりである。

「小野さん……わたし……謝花、百合子」

「ああ、お噂はかねがね。小野は第十使徒・皇乃さんの舎妹、小野憩美なのです」

 目の前を占める扉という拒絶。そこに。

 乏しかった自分の世界をタイマンで拡張することを覚えた百合子には、体当たりのようなコミュニケーションしかできなかった。

「……? 小野さんが……動画の、正宗さんの声の人……でしょ……?」

「だーっ」

 和姫は百合子の肩を掴み、放送室の前から階段下へと引き摺るように連れて行った。

「百合子」

「でも……」

「でもじゃない。『そう』なんだよ。お前に通したい理屈があるように、あいつは……小野は、『それ』が真実だっていう信念で不良になってんだ」

 暗黙の了解などというものは、本来、そう簡単には罷り通らない。鬼百合女学院は優しい土地であっても、甘い土地ではないのだ――主張する権利は平等に与えられるが、疑わしく思う者の多い主張であれば、それに対する淘汰圧は高くなるのが当然というもの。

 正宗皇乃と小野憩美は「別人」である――そう強引にでも納得させる後ろ盾は、ただ「彼女」が『酔狂隊』の使徒に数えられているという一点であった。

「それを、お前は尊重してやらなくちゃいけない。仲間だと思うならな」

 たかがそんな、と笑い飛ばすことなど誰にも許されない。

 誰かの大切なものが他の誰かにとっては下らないものだなんて、そんなのはどこにでもありふれた話で、だからこそ和姫はきつく響くとしてもはっきりと断言する。百合子が他者を理解することに情熱を傾ける生き方を選ぼうとしているなら、それは知っておかなければならないことだったからだ。

「どうしても否定するなら、それは、タイマンになる。相手の信念を折りに行くって、それだけ重いんだよ」

「タイマン……!」

「あああ、お前そういう奴だった! 待て待て待ていや違うんだって、その……お前の望む……」

 小さく鼻息を鳴らして拳を固め、黄昏の海の色をした瞳、煌めかせる百合子――慌てて制止しながら、和姫は茶色の癖っ毛をわしゃわしゃとさらに乱す。

「ククッ、アホらし」

 黙ってその様子を見ていた桜森恬が、肩を震わせて笑いながらラッキーストライクに火を付けた。

「ジブンが」

 煙が立つ。惑わせるように。燻る火の先のそれよりは、恬が鮫の歯の隙間から威勢良く吐き出すそれの方がいくらか直線的だった。

「ホンマに小野を許せへんのか、よう考えたらええ。不良やさかい気持ちと気持ちぶつけるいうんは、そら、ええねんけど――ジブン当たり屋やないねんから、なんもハナからぶつかってへんモンぶつけにかかる必要あるか? っちゅー話やねん」

 桜森恬は語る。一度口を挟むと決めたら、それはもう大いに。心のすぐ隣に舌があるその名前は伊達ではないらしく。

「僕かてわからへんで、あんなんの言うこと。せやけどジブンな、けったいなこと言いくさる奴なんかなんぼでもおるやん? 政治・宗教・野球っちゅーアレもな、意見合わへん身からしたら正気で言うとんか信じられへん話題の三本柱なわけやろ? オレンジハッピ着て読売最強ですー言うとる連中も、脳みそにミッチミチもんじゃ焼き詰まっとんちゃうかな思うてんけど、言わせとけ思えるさかい僕もそこら中全員どたまカチ割って回ったりせえへんで済んどんねや」

 燃えるような紅の髪、光の射さぬ新校舎の廊下の端にて。その背後、階段の踊り場に設けられた小窓からは葉を落とし終えた寂れ枝の影が覗く。

 和姫は自在の左手で、セーラー服の上に袖を通さず引っ掛けた大きなモッズコートの肩を襟元へ引き寄せてから、そっと百合子の頭に手を置いた。

「ま、結局はお前と小野の関係だから。あいつがそういうハウスルールを大事にする世界で生きてるってことだけ頭に入れておいてやれば、あとは率直に、お前の思うように話してみるのが一番だとも思う。小野は難しい奴だけど悪い奴じゃないし、仲間同士で気を遣い合ってても仕方ないしさ。私たちもここにいるから」

「ククッ……ま、なんぼ言うても向こうにだんまり決め込まれたら終わりやねんけどな」

 高みの見物というつもりなのか、恬は踊り場まで登っていって、壁際にしゃがむ由緒正しき不良座りで煙草を咥えながらにやにやしていた。

「……うん」

 小さく口を開けて和姫の眼鏡越しの瞳を見ていた百合子は頷くと、再び足を向ける。依然として閉ざされたままの、放送室の扉へ。

「わたし……小野さんと、話したい……聞かせて、小野さんのこと」

 隔てるものは無機質で、しかしその奥では確かに誰かが息をしている。

 少しでも近付こうとしたのか、百合子はスカートを膝の裏に折り込んで扉の前にしゃがみこんだ。

「小野の? ……小野は、皇乃さんみたいに面白い人間じゃないのです」

「ううん……そんなことないし、関係ない……わたし、小野さんとも……仲良くなりたいから……」

「謝花さん、小野をどう思ってるか知りませんけど、あなただって相当――変な人なのです。わざわざ……っ、こんな風にしか話せない小野のところに来なくったって」

 百合子に憩美の姿が見えていないように、憩美にも百合子の姿は見えていない。だから、彼女はそう簡単に警戒を解かない――

「わたしも……喋るの、得意じゃない……うち、民宿だけど……お客さんの、前だと……わたし、いっつも……おばあの後ろに……隠れてたし……」

「……はあ」

「でも……嫌ってわけじゃ……なかったから……」

 表情筋の硬い口元をマフラーに埋めて、短い黒髪を耳に掻き上げながらぼそぼそと言葉を紡ぐ百合子。

 ――そんなに、細かく覚えちゃいないけど。

 ――やっぱり大人になったよな、こいつも。

 ――当たり前なんだろうけどさ。

 広間で和姫が大声で騒ぐ男児たちや酒飲みの師範とテーブルを囲んでいた時、頭に紅い花飾りをつけた百合子は女将の陰に縋るようにおずおずと手伝いにやってきて、皿を運びながら和姫にだけ小さく手を振った。稽古場に差し入れを運んでくる度に名残惜しげに目をぱちくりさせて、和姫の突きや蹴りをじっと見ていた。朝な夕なに暇を探しては和姫に手を引かれ、背の高いさとうきびを揺らす風に吹かれて海岸で過ごした。

 一年のうち和姫が来ていない三六〇日の間はどうしているのかまるで想像できないほど、べったりだった。

 そんな百合子が今では、手と手を取り合える仲間になるかもしれない誰かの心を開こうと、懸命に歩み寄っている。冷たいリノリウムの廊下にしゃがみ、頬を林檎のように火照らせて、ヘーゼルの双眸を扉の向こうへ真っ直ぐ向ける。

 それはきっと、和姫を追って鬼百合に来て、不良少女という生き方を知ったからで――和姫には、悪いことだとは思えなかった。

「別に、小野だって人と話したくないわけじゃないのです。ただ……『酔狂隊』の方々とは、正直」

「……? 小野さんも……あ……えと……小野さんの友達の正宗さんの、仲間だよ……『酔狂隊』の……みんな……」

「だからなのです。だから――合わせる顔がない」

 彷徨うように、蝶の舞うように。

 小野憩美は、伸ばされた手をすり抜けて、レトリックに終始する。

 それが彼女にとっては、安寧だったからだ。灼けつくような胸の疼痛を伴うのだとしても。

「どういう、こと……?」

「ああ、もう……わかったわかった、わかりましたよ。言うのです」

 和姫は静かに息を呑んだ。

 これまで、誰にも。

 誰にも、小野憩美は踏み込ませなかった。半ば強引にでも相対することができるとしたら、より強く拒絶されている『酔狂隊』の面々のみだったのだろうが――生憎、使徒たちは「同じ勢力」という括りのさらに内側にある「身内」という括りの外に出てまで他人に干渉していこうとはしない者ばかりだった。同じようにセーラー服を身に着けているたった十数人だというのに、その中でさえ各々がさらに小さく閉じていた。

 謝花百合子が、来るまでは。

 現在のところ最も大きな変化を見せたのは、何を隠そう藤宮和姫だが――乙丸外連も、硯屋銀子も。

 そして今、小野憩美が堅牢に培ってきた氷の砦が、融け崩れていこうとしているかもしれない。

 ただ穏やかに真っ直ぐ向けられた黄昏の瞳が穿つ、蟻の穴のようなひかりで。

「小野には、好きな人がいるのです」

 ほ、と。

 目を丸くした拍子に、百合子の唇から息の塊が零れる。

「好き……って」

「そりゃあ勿論、恥ずかしい方の意味で」

 ラブの方。

 だなんて、そうそう口にしたくはないはずで。

 百合子は厚手のタイツにすっかり覆われた細い脚を伸ばして立ち上がり、和姫の方を見る。

「恥ずかしくは、ないけど……わたしにも、いる……」

「でしょうよ。謝花さんの『酔狂隊』入りの日、一目見た時から――気付いてたぜ、って、皇乃さんは言ってたのです」

「小野さんの、好きな人……銀子しーじゃー?」

「え? いや、普通に違うのです。……銀ちゃん先輩には、よくしてもらってますけど。古い映画好きの誼で。寅さんのDVD全部貸してくれたり……そうだ、あの人、小野のことヤスって呼ぶのです。憩いに美しいで、ヤスミっていうので……銀ちゃんとヤス、みたいな」

 言葉は、まるでシャボン玉のように。

 それ自体が仄かな色を帯びて、扉をすり抜けてくる。今は、いくつも。

 小野憩美が親しみの持てる少女であることを、百合子はとうに確信していた。故にただ単に飛来するそのひとつひとつが嬉しく、だが、どれほど鈍くとも勘付く。この、にわかに吹き出されたシャボン玉の数々が、何か別の色を紛れ込ませるためのものであることにくらい。

「『酔狂隊』の……誰か……?」

「アキネーター? ……そう、『酔狂隊』の。あの森の陰にある礼拝堂で、ひとり太陽のようなひと」

 ――沙羅しーじゃー……

 思い出す。寒風の中、校門で初めて会った彼女の姿を。

 水恭寺沙羅。鬼百合十字軍『酔狂隊』の総長にして、当代最強と噂される不良少女。

 百合子にとっては、そんな言葉はどうでもよかった。きっと扉の向こうの彼女にとっても。

 引き摺りそうなほど長いスカートも、目に痛いほど濃いルージュも、決して洒落てはいないのに――確かに、パーマのかかったポニーテールをなびかせながらすらりと立つ彼女の姿は、強さなど抜きにしても見惚れるほどだった。

 それだけではない。肘をついて脚を組み、にやにやと笑いながら仲間たちを見つめる沙羅。古臭い半纏に身をくるみ、背中を丸めて礼拝堂の壁際で陽だまりを探す沙羅。

 落ち着いているようで変に蓮っ葉ぶっていて、子供っぽいようで誰より他人を見ていて。

 そんな沙羅に声をかけられたから、百合子だって『酔狂隊』に入ることを決めたのだ。

「恋をして美しくなる子もいると思うのです。だけど、小野には無理でした」

 確かに、沙羅は、太陽のようだ。

 どこまでもひとりで燃え輝く力があって、それでも、寄ってきて周りを巡る小さな星を嫌な顔せず照らしてくれる。

「あのひとの役に立ちたくて使徒になっても、そこには……あのひとの隣には、いるのです。小野なんかよりよっぽど強くて、涙が出るほどお似合いのひとが」

 沙羅の姿を想像する。古風なパーマのポニーテールと引き摺りそうなスカートで、柳のように立っている。

 誰でもない誰かの気分になって、ぽかぽかとした胸の温度が伝わるように赤外線のつもりで彼女に視線を送っていると、後ろからひょこっと現れる。色を抜いた髪のちびっ子が、やいやい何じろじろ見てんだい、と絡んでくる。

 百合子のシミュレーションでは、そういうことになった。

 ――……?

 ――沙羅しーじゃーのこと、好きになったら……外連しーじゃーに怒られた……

 ――……だからよ。

 絵に描いたような自問自答。

 手のひらと手のひらを合わせて、百合子は納得に至った。

「そっか……」

「まあ、そういうわけなのです。……居た堪れないでしょう、小野は。礼拝堂でずっとあのふたりを見守り続けるなんて、申し訳ないけど無理なのです」

 睫毛を伏せて。

 百合子は、躊躇っていた。

 拳で解決できることなら、すぐにでも憩美の力になりたいけれど――それは、しっかりと矛盾するのだ。百合子がタイマンを通して知った、外連の、沙羅とのかけがえのない今を守りたいという想いと。

 ――もし、わたしが……鬼百合に来て……

 ――他の好きな人と、一緒の……和姫を……見たら……

 ――どう、思ったかな……

「一番信念ないんはジブンやな、和姫」

「はあ? なんだよ急に」

「平穏平穏って口癖どこ行ったん、何にでも首突っ込んどるやん最近」

 踊り場まで。

 対話を邪魔しないように、藤宮和姫は登っていた。自分だって小野憩美があれほど会いたがらなかった『酔狂隊』の一員なのだから、放送室前にぼんやり残っていては盗み聞きになってしまうと思って。

 ラッキーストライクの強い煙は鼻につく。口元を隠すように、和姫は左手を顔に添えた。

 桜森恬。

 百合子が、『酔狂隊』のみんなともタイマンを通して通じ合いたいと意気込んで憚らない百合子が、本音では恬のことをどう思っているか和姫には量りかねている。

 ただ少なくとも、和姫と恬の間にあったこと――かつて確かにあって、そして消え去ったことについては、できるなら百合子に伝えずに済ませたいと考えていた。

 彼女自身の曇りなき瞳で、恬という少女を見てほしいと思ったからだ。

「そない女にええ格好したいんか? みっともないで」

 セーラー服の上からさらにスカジャンとジャージで武装して、狐目をさらに細めて笑う。

「うるさいな……別に、何事もなく暮らしたいって気持ちは変わりないけど」

「けど、なんやねん。下々の腕まで折らはるお転婆お姫様からは一瞬も目ぇ離されへん~言うんか? 気色悪い」

 煙草を咥えたまま、恬はスマートフォンを操作する。ひび割れた画面に触れてカメラを立ち上げ、階段下の百合子に向けてズームする。

「僕かて、謝花と同じくらいムチャクチャな自信あるで? 天真爛漫の恬ちゃん言うてな」

 そして首をがくんと後ろへ倒し、気まずそうに立ったままの和姫の顔を逆さまに見上げた。

 水が滝を滑り落ちるように、紅い髪が肩の輪郭に沿って流れる。

「違うよ。お前の喧嘩狂いと、百合子は……違う」

 小窓から隙間風が入っているのだろうか。

 冷える。和姫は左手の甲で頬を擦り、スカートのポケットに突っ込んだ。

 決して、視線を逸らしたわけではなく。神経質に、ローファーの爪先でもう片足の踵を擦る。

「……ほーん。ほな、僕には未練あれへんわけや」

 上の階の廊下を複数の足音が疾走した。声が遠雷のように響き、誰かが誰かを追いかけているのが推測できる。

 そのどこか懐かしいような騒々しさに、恬の呟きは吸い込まれた。



 響きの聖釘、グマシンフォニー。

 想いの聖釘、グマノクターン。

 奏での聖釘、グマコンチェルト。

『そして――滅びの聖釘、グマレクイエム!』

 シリーズ第十三作、『プティグマ・ダ・カーポ♪』。その名の通り音楽をモチーフにした作品でメインターゲット層からの人気も高かったが、前作『ガオガオ!プティグマ』から一転したハードで不条理演劇的なストーリー構成は後に多くの批評家から賛否両論を集めることとなる。

『音色できみを釘付けよ!』

 プチっとスティグマ、略してプティグマ。アニメ・『プティグマ』シリーズは日曜朝の女王だった。絆の力で悪を磔刑に処す、戦う美少女兵士たちの姿は――世界中の子供たちと一部の大人を虜にしている。

 だから、児童がそれを真似ている光景など、この国のどこででもありふれているものだった。

『えっと……ユさん、やったとよね? えへへ……』

『あ?』

 プティグマの真似をしていたのを見られて恥ずかしい、という感情はなかった。演技とは人間の文化史の中枢に坐し続けた誇り高い営みであり、それに没頭することは魂の研磨であると七歳のユ・ミンスは既に肌の内側で理解していた。

 ただ、まずいことになったとは思った。初めての授業参観で、早くもクラスの女王の座をほしいままにしていた三郎辻美左<サブローツジ・ミサ>が得意の音読を披露した直後に指名され、つまらなさそうな顔のままそれを遥かに上回るクオリティの朗読劇を演じてしまったものだから、ミンスは三郎辻とその取り巻きによって人間関係の輪から弾き出されている真っ最中なのだ。

 校庭に聳えるポプラの木の陰で、スケッチボードと鉛筆を砂の上に投げ出したままミンスが独り『プティグマ』の台詞を練習していたのは、そういうわけだった――小学校の敷地内にある好きな植物をスケッチするという名目で自由に校舎裏を探検できる授業でも、ミンスと時間を共にしようという女子などいなかったから。

 この、仲良くもないのに急に話しかけてきた、地味で鈍くさい女原ソニアを除いては。

 彼女のことを、知ってはいる。勉強も、運動も、何をやっても人並み以下。本人さえ後になって知ったことだが、小学校に上がる時には彼女の発達段階について家族と学校と病院とで話し合いの場が持たれたそうである。病理としての障害は見られなかったとの判断が下され、彼女はそこにいて、ユ・ミンスと出会うことになったわけだが。

 三郎辻の手先なのか、あるいは本当に何も考えていないのか。いずれにしても、この垢抜けない女はいずれ自分の足を引っ張るであろうと、ミンスは思ったのだ。

『ユさん、将来プティグマさなりたかとや?』

『あ? バカじゃねえのか、お前』

『レクイエムの声は、もっと青かよ。ユさんの声は黒すぎばい』

『……んだと、おい』

 かちんときた――何もわかっていないくせに。

 ただアニメの真似をして遊んでいるのとは訳が違うのだ。ユ・ミンスは世界で最も繊細に役としてのキャラクターを研究している七歳児だっただろう。

『適当なこと抜かすんならよ、せめてわかるように喋れってんだよな』

 それも、こんな薄らぼんやりした童女が。

 青だか黒だか知らないが、口を出すなと――

『本当ったい。私には見えっとよ』

 しかし。

 彼女の口にしたことは、少なくとも彼女自身にとって、端的に事実だったのである。

 共感覚。

 ある刺激に対して、一般的な反応としての感覚以外の感覚を生じさせる体質のことを指す。

 例えば、文字に。数字に。そして、声に。色を感じるであるとか。

 女原ソニアの右目、後に『日々の形容詞<ワークライフバランス>』と名付けられるライトパープルの瞳の場合、その対象は「万物」であった。

 チョコレートドーナツの甘さはピンク色。遮断機越しに踏切の中を駆け抜けていく快速列車の速さは浅葱色。真夏のアスファルトを素足で踏む痛さと熱さはメタリックオレンジ。あらゆる情報に彩色を施して、ソニアの右目は人並みの脳へ送りつける。

『は? んなこと……おい。何してんだ、お前』

『だ……大丈夫、心配……せん、で……』

 それだけの負荷をかけられ続けている脳は常に悲鳴を上げていて、幼いソニアの傍には頭痛と眩暈が両親のように寄り添っていた。

 ただ漫然と視界に入ってくる色の多さを処理するだけでも苦痛であるのに、その時、ソニアはミンスの声を凝視した――脳の血管が膨れ上がるような感覚は、小学校に上がったばかりの子供にとっては己に巣食う怪物の胎動以外の何物でもなかった。

『今の……私ば心配しよる声……青くなりよってたけん……』

 野暮ったいズボンが汚れるのも気にしていられなかったのだろう、崩れ落ちるように座り込んでしまった女原ソニアは、冷たい目のミンスを見上げて、笑っていた。

『もうひとがんばり、ばい……!』

 何も考えずににへらと笑いながらでなければ、ソニアはまともに過ごせなかった。それが、誰にも理解され得ない気を狂わせるような痛みの連続から幼い彼女が逃避するための唯一の手段だった。

 しかし、ミンスがそんなことを知る由もない。

 だから。

『……滅びの聖釘、グマレクイエム!』

 目の前の「変な子」を無視せずに、騙されたと思って試してみたのは、ほんの気まぐれでしかなかった。

 クラスメイトの仲良し三人組から成る初期メンバーの三人とは違い、心に闇を抱えた少女。対立を乗り越えてプティグマの力に覚醒する、いわゆる追加戦士枠。そんなレクイエムがなぜ戦うのか、想いを馳せる。償うため。ひとつひとつの偽善に意味を見出せない己を呪い、それでも、目の前で誰かが傷つくのを拒むため。

 黒を基調にした衣装を纏う初めてのプティグマと話題になった。しかし、彼女の本質は、もっと澄み渡るように凛々しい決意――

『音色できみを、釘付けよ!!』

 むしろ優等生キャラのグマノクターンに近いような声色で、ミンスは変身の口上を演じきった。

 自分自身が真っ先にその変化に気付き、目を瞠った。

『すごかぁ……』

 藤色の片目、塞ぐように押さえたままで。

 もう片目を輝かせて、ソニアはゆっくりと立ち上がった。

 口元に浮かぶ笑みの形は、瞬間瞬間をやり過ごすためのそれとは異なり、大きく広がる未来の空を見つめてのものだった。

『音読ばしよった時ね……ユさんの声が、透明な水色みたいな薄い緑で、ばり綺麗に見えたんよ。今と同じ……私の、頭の痛か思っとったとが、すうっとなくなったと』

 声で。

 誰かを、助けることができるなんて。

『そんお礼たい』

 ミンスは、演じるという技術を高みへ至らしめることについて、その小学生離れした知性と感性を武器に全身全霊で向き合ってきた。

 しかし、何のために――誰のために演じるのかについては、ここで初めて考えたのである。

『……』

 ある日、算数の授業の前に、担任がクラス全員を着席させた。生活科の授業で教卓に置いて使っていたDVDプレイヤーが無くなったのだという。

 ミンスはちっとも興味が持てずに、机の上に丸めたジャンパーに顔の下半分を埋めて、懇々と続く担任の言葉を右から左へ聞き流していた。隣の席をちらりと見ると、ソニアが真っ青な顔で俯いていた。ミンスにだけ、彼女は打ち明けていたのだ――誰も見とらんとこは真っ白に見えて、不安になるんよ。そいば隠したかて思って手ば伸ばすけん、触ったり取ったりしてまいよるんばい――

 クラスメイトなんて、誰がどうでも関係ないと思っていたはずだった。

 世界なんて救えないし、別に救いたくもないけれど、声というミンスの小さな釘は、退屈な日常に風穴を開けるくらいの役には立つかもしれないと。

 その日、その時、そう思った。

『ねえ昨日さ、美左が何か持ってなかった?』

『あ、大きい袋!』

 クラスの全員が、きょろきょろと教室中を見回し、そして。

『え――!? はあ!? 何ば……!!』

 顔を真っ赤にして反射的に立ち上がった、三郎辻美左の端正な顔が歪むのを見る。

『うちやなか!! ねえ先生!! 本当ばい!!』

『みんな静かにして! 誰、今言ったのは! 誰の声!?』

 誰の声でもない。そんな会話をしたふたりの児童は、この教室のどこにもいない。

 ミンスの声だとは誰も思わなかったはずだ。

 唇にジャンパーを押し当ててくぐもらせていたし、教室で声真似のひとつも披露したことがないのだから。

 ソニアの瞳でなくともわかる、「真っ赤な」嘘。それでも――集団という意識の流れは既に三郎辻ただひとりへと向かってしまい、それは証拠が何もないなどという些細な理由で押し留められるものではなくなっていた。

 三郎辻が取り巻きひとりひとりの机へ向かって行って乱暴に喚き立てる。当然、身に覚えのない童女たちは必死で反論する。担任がそれを制止しようとする。混乱の中、ソニアは罪悪感と頭痛で額に玉の汗をいくつも浮かべながら、恐る恐るミンスの顔を見た。

 ミンスは、つまらなさそうに鼻を鳴らした後で、ちらりとだけソニアに視線を遣り舌の先を突き出すと、ジーンズを穿いた両脚の間に手を差し込んで椅子の下でピースをした。

 放課後ふたりはソニアの家で、ケーキを食べながらプティグマのDVDを観た。そして翌朝、何食わぬ顔で教室の棚にそのDVDプレイヤーを押し込んでおいた。

 ユ・ミンスに初めて友達ができた日だった。

『ミンスちゃ……いつもの声、だいぶ赤かとよ。色ば抜いて……銀色の声ばキープったい』

『ん……んー? 上手くできねえよ、そんなん』

『息ば抜く感じやけん、こう……感情ば売りもんにすっとやろ? 普段は抑えよらんと』

『ああ? こんな感じとかかあ? ……どうしろってんだよー、ったくよー』

『今の! 今のよかとよ!』

 ――あたしが声優になれて今があるのは、まー間違いなくソニアのおかげなんだけどよー。

 ――そんな恩なんか返し切れるわけねーし、せめて一番近くで守ってやるくれーはあたしの義務じゃねーかなー……

 ――だから、あいつを傷付ける奴だけは。

 現在時刻。湘南の二月も終盤に差し掛かり、指先凍てつく午後一時。

 キャップの上からパーカーのフードをかぶり、普段よりも色の濃いサングラスで人相を隠したミンスは。

「死んでも許さねえって決めてんだよなあああああ!!」

 コンビニの駐車場に立ち、ガラスの壁に向かって大きくバックスイングを取ると――一寸の躊躇さえもなく、歯を食い縛って振り抜いた。

 店内、出入口側の内壁には雑誌のラックが並んでいる。ぐわっしゃあああああん、と派手な音でガラスを粉砕した鉄パイプは、ミンスの手をじんじんと痺れさせながら、繋がった白いラックの列をそのまま薙ぎ倒した。車でも突っ込んできたのかと、客や店員が悲鳴を上げて一斉に逃げ出す。

 爆心地には、立ち読みしていた少女がひとり。

「おっ、とっ、とぉ!?」

 瞬間的に、ファッション誌を持ったまま交差させた両腕で顔を庇い、倒れそうなほど後ろに重心をかけて踵で跳ぶように後退っていた。

 常在戦場。その心が、鬼百合女学院に吹き荒れる血風の中を無所属で渡るには不可欠。

「……からの、荒ぶる余のポーズ!!」

 斜めに三歩下がってレジの前に着地すると、獣が威嚇する如く両腕を吊り上げて片膝を構える。

 ヨーロッパの森林のような深い緑のワンピースの上に、同じく暗い紫のボアブルゾン。自身の容貌の魅力に合わせた的確なセンスのファッションを、「本日の主役」と大きく書かれた安っぽい襷が破壊している。ドリルのようなツインテール、いらすとやのメロンとスイカで作られたヘアピン。ふざけているのはそうした目に留まる箇所のひとつひとつではなく、彼女の存在そのものだ。カチコミの挨拶は、憎き相手の黒い髪を僅かに乱した程度だった。

 舌打ち、聞こえないように。ミンスは鉄パイプを投げ捨て、ガラス窓の残骸を踏み越えていく。

「待て待て待て名乗れ、何奴であるか貴様!?」

 指を雑誌のページに挟んだまま、ミンスに向かって突きつけた。

 生徒会長<プレジデンテ>、糺四季奈。無所属でありながら鬼百合でも屈指の実力者と目される不良少女。

 ターゲットは健在。襲撃、続行。フードを外す。

「よおー、正義の味方のプティグマだぜー。グマ……めんどくせーなー、グママジョリティでいっかー。語呂終わってんなー」

「え、また貴様……? 正直ガッカリであるな……余と貴様の喧嘩、もう撮れ高ないであろうに……」

 糺四季奈はドリルの片方を指でくるくると弄りながら、美しく描かれた眉を露骨に顰めた。

 そこに見られるのは、突如現れた兇賊が格下であることへの安堵。

「用件は二個でよー」

 腹が立つ?

 否、腸ならピアスを引き千切られたソニアの絶叫が響いた瞬間からずっと煮えくり返っている。

「ソニアの『目』を抑えるモノクルを返してもらうってのと……てめーに惨めにくたばってもらうってのがあんだよなー」

 LEDに隙間なく照らされる店内は病室のように白く、どこかぞっとする。砕け散った窓からは冷たい風が容赦なく吹きつける。

 四季奈のなだらかな胸が上下しているのが見える。表情は平然とすましていても、さすがに呼吸は荒くなっていた。しかしそれはミンスも同じことで、まだ手首より先にぼんやりとした痛みが残っている。渾身の乱入にもう少しは肝を潰してくれると思っていた――そのまま勢いで押し込む、というのがミンスの想定していた勝ち筋ではあった。四季奈の息が上がっているのは突然の激しい動きによるものでしかなく、それが治まるのはミンスの手が十全に動くようになるより早いはず。そもそもテコンドーを遣うミンスにとって武器は手よりも脚だ。

 だからこそ迷う。行くべきは今この一瞬か。あるいは一旦、牽制のために――

「……桜森なら、今の間に三回は殴りに来ていたはずである」

 ミンスの意識が静止した、ほんの一瞬。

 床を蹴った四季奈は棚に突っ込みながらひとつの商品を毟り取っていた――爪切り。手のひらの中で素早く包装を剥がして回転させ、ぱちん、ぱちんと自らの爪を切り落としていく。……掴みを伴うタックルの妨げになる、ストーンアートを施した手の爪を。

 それは何よりも明確な、戦闘開始の意思表示。

「あたしは卑怯でクズだからよー」

 奥歯を砕けそうなほどに噛みしめたミンスは、棚の逆側からボトルワインを一本、引き抜いた。そしてそのまま――ぱきゃん、と棚に叩きつける。ボトルは首の先十センチほどで砕け、赤ワインを血のように床へ垂れ流しながら、短剣ほどの凶器(ドーグ)へと変貌する。

 現代社会の雑多さを象徴するような領域が、戦場という単一属性に塗り替えられていく。

「てめーをブチ殺せるなら何だってやる」

「おっカッコいいではないか、『てめーをブチ殺せるなら何だってやる』……うむうむ、余もどっかでパクろ」

 軽く鑢で丸めた爪の先を見て、ふっと息を吹きかける。

 それから、ぽき、と青い血管が透けそうなほど白く細い首を鳴らして、唇を舐めた。

「とっとと来るがよい。民にやさしい大統領<プレジデンテ>であるからな、二分くらい相手してやるのである」

 ブルゾンのポケットを漁り、のど飴の包みやレシート、ライターなどに紛れて入っていたソニアの片眼鏡を――嵌める。右の眼窩に。ぶらぶらと揺れる細い鎖の先端には、まだ血が赤黒くこびり付いて固まったままだった。

「ナメてんじゃねえぞ!!」

 背水のユ・ミンス、対するは余裕綽々の糺四季奈。

 ――余、発見。

 ――余が裕(ゆた)かと書いて余裕であるな!

 ひらひらとしたワンピースの裾と襷を翻しての後ろ回し蹴りが、突進しながら刺す形で構えられた瓶の残骸を早くも粉砕した。

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