第四話『第十使徒 正宗皇乃』4

「ママー、あのお姉ちゃん、すっげーでっけー!」

「ちょッ……すみません、すみません!」

 受け取った料理を手に座席へ向かう道すがら、小峰ファルコーニ遊我はすれ違った幼い女児に指を差された。

「ガッハッハ、いーのいーの」

 ショッピングモールのフードコートである。彼女の隣には抱っこ紐で赤子を連れた羊崎トオル、通称ピカドールがいた。

 かの『魔女離帝』特攻隊ナンバーワンツーの威光も、不良少女の世界という枠組みの外にいる人々にはさすがに届くはずもない。

「ガキンチョ、いっぱい食ってあんたもでっかくなんのよん」

 見るからに重そうな器の乗ったトレーを軽々と片手で支え、遊我は小学校に上がるか上がらないかというくらいの子供の頭をぐしぐしと豪快に撫でる。二メートルに届こうという巨躯の彼女がそうするためには屈伸運動に近いほど膝を曲げなければならなかったが、鍛え抜かれた体幹には苦にもならないようだった。

 ただ戦闘のために生を享けたかのような、恵まれた肉体は天性である。筋肉や発条を育て上げたのは彼女自身であるにしても、身長ばかりは持って生まれなければ努力ではどうにもならなかった――もし、当代鬼百合第三位を決する機会があるとしたら、それが彼女と生徒会長<プレジデンテ>・糺四季奈との差を決定的にする可能性は大いにあった。

 ――皮肉なもんよねん。

 ――あたしは必要に駆られて産まれた。それは事実でも、別に「戦う必要」じゃなかったってのに。

 雷雨のような暴力でシチリア島の裏社会を支配したドン・ファルコーニも、大男だったという。

「お前も子供好きだったなんて意外なんだな」

「あん?」

 小盛のうどんに、コロッケをふたつ。ローラが抱っこ紐の内側からトレーに手を伸ばそうとするのを上手く躱して、長い睫毛を瞬かせた。ふわふわの内巻き髪、眠たげな目、口元に黒子。パーカーもスニーカーも蛍光色とサイバーパンクライクなファッションをしている少女は、音に聞こえし子連れピカドール。

 微かに、口元を綻ばせたようでもある。

 クールな表情を崩さずにとぼけたことばかり言う彼女のような存在を、人は「何を考えているのかわからない」と笑うわけだが――唯一、こうして母性じみた面を覗かせる時だけ、必ずしもそこまで難しいわけではないと思わせる。小峰ファルコーニ遊我にとっては、その領域における甚大な欠落を自覚しているからこそ、余計に。

 ――真人間ポイント、よねん。

「ガッハッハ、冗談……」

 豪快に笑う。自分の声がどれほどよく通るか知っているので、大嫌いよんと言い切ることまではしなかったが。

 そう、こんな時、飲み込んだ言葉は反響を繰り返す。強くさっぱりした女という印象は天然の鎧に過ぎない。女子高生離れしてグラマラスな遊我の肉体は、巨大なだけの空洞なのかもしれなかった――

「遅っそいじゃない! 何この距離でチンタラしてんのよ!」

 がつん、と。

 愛らしいフォルムをしたムートンブーツの爪先が、軽くテーブルの裏を蹴り上げた。

 ピンク交じりの茶髪をウルフカットにした、大きな吊り目の少女。腕を組み、脚を組み、焼きカレーの皿はとっくに空にしてしまっていた。ランチミーティングと言うならばランチを二分で片付けてじっくりミーティングを行う方が効率的だという持論を、日々率先して検証している。

 かつてはチャームポイントでもあった、すべすべした額。そこには、痛々しい大きな傷の縫い痕がざっくりと走ってしまっている。跳ねさせた長めの前髪で隠してはいるが、やはり目につく。そのせいで、彼女は天職であった潜入諜報員から転身することになったのだ。

 それでも『魔女離帝』の事務方トップとして、月に一度は趣味の化石発掘旅行に出かけながら不良少女ライフを満喫している。後輩の絆・ザ・テキサスを親身に補佐する親衛隊ナンバーツー、アウグスティン恋愛<―・ココア>こそ彼女であった。

「こんなとこで何食ったって変わんないんだから、バッと買ってガッと食えっての!!」

「び~~~~~」

「おおーよしよし。うんうん、ローラはこういう下品な女に育っちゃだめなんだな」

「ああ!?」

 抱いた赤子の背を摩るピカドールへ、彼女は噛みつかんばかりに見える。

「わざわざ来てもらって悪いわねん、ティン子」

「だァれがティン子よ!」

 遊我はニット帽の深さを指先で整えながら、その上品とはとても言えないニックネームであえて呼びかける。

 苛立ちを隠さないのは、無意識のパフォーマンス――「そんな態度で振る舞うことを許容させる」という形で、彼女は施しの対価を他者へ要求している。

 ――早い話が、照れ隠しか。

 ――っていうか、いい人と思われたくないだけかしらねん。

 故に、ダウンジャケットに包まったまま席に着いた遊我は黒縁眼鏡越しにチェシャ猫のような笑みを投げかけ、その愛すべき怒りに薪をくべてやるのだ。

「……」

「アンタの言った通り、誰にも伝えてないから安心しなさいよね!」

 恋愛は椅子の背に掛けていたコートのポケットに手を伸ばして、キスロマンティックの華やかな箱を取り出し――一瞬だけ視線を落として瞬きをし、手の中でくるりと回転させ、カードを伏せるギャンブラーのような手つきでテーブルに置く。

「吸い始めるかと思ってびっくりしたんだな」

「チッ……吸うわけないでしょ、ガキの前で煙草なんか!」

 ニットセーターのハイネックに覆われた首を苛立たしげに掻き毟り、顎で乱暴にピカドールの胸元を指す。即ち、そこに抱かれているローラの小さな頭部を。

 ……その良識があるのなら。そもそも、ショッピングモールは喫煙所を除いて全面禁煙だ。

 ――底抜けの善人、ただしその善悪を社会正義と噛み合わせようとはこれっぽっちも思ってない。

 ――そうそう、こういうとこ。あたしにゃ理解できないけど、人間が大好きな面倒見の鬼……

 ――だから確かに、ティン子はこの「裏切り」に加担してくれるはず!

「それに小峰――アンタは無駄なことするタイプじゃないし。こんなとこに呼び出すからには何か訳があるんでしょ」

「まあねん」

「ぼくは?」

「存在が無駄」

「ひどいんだな~」

 ピカドールはローラを抱きしめて頬に頬を擦り寄せながら、泣き真似をしてみせる。眠たげな表情のままで。恋愛は彼女をとことん無視して、遊我に人差し指を突きつけた。

「雑踏に紛れるのも手ではあるけど……ただ人に聞かれたくない話ってなら、あたしらの行動圏じゃマハラジャの家がベストに決まってるし、そうでなくても理事長室の方がよっぽどマシ。買い物なら後で領収書だけ寄越せば済む話だし、ここに来る誰かを尾行なり待ち伏せなりってことだとしたら、泣き出したら即目立つ赤ん坊なんか連れてくるのはありえない。ってことは、アンタが内緒にしたい相手ってマハラジャか絆……ふたりともか。そういうことじゃないの、どうせ!」

 水の流れるように、すらすらと言い当ててみせる。理詰めで現状を解体する思考法は一見回りくどいようで、実際には彼女らしい最短距離の辿り方だった。

「ご名答……ま、特に地獄耳のザっちんかしらねん」

 一応、虚勢を張ってはみせるものの。

 ――楽土コンツェルンの情報室からしてみりゃ、子供の遊びみたいな推理なんだろうけど。

 ――やっぱ、敵に回さなくて済むってだけでも引き入れる意味のある女よねん……

「盗聴対策ならばっちりなんだな、ふふん」

「へえ、頭ピカピカドールにしては気が利くじゃない。なんか仕掛けたわけ?」

「おー。小峰もティン子も声がクソでかいからマイクなんか全部ワンパンだな」

「死ぬか? アンタにワンパン入れてもいいのよ、こっちは!!」

 恋愛とピカドールの間には、浅からぬ因縁がある――それは昨年六月のこと。最初の夏を待たずして、ピカドールがふたりの親友と始めた『死闘組合』はその名を鬼百合の勢力図から消した。混沌とした抗争劇の裏には、恋愛の姿があったのだ。両親ともが楽土コンツェルンで役職に就いている彼女のことをラクシュミは信用し、『魔女離帝』立ち上げ以前から味方につけた上で『死闘組合』に潜り込ませていた。

 全て、全て、過ぎたことではあるけれど。

 それでもやはり思うところがないわけはないのに、剽軽に振る舞ってみせることができるのは、きっとピカドールの美徳だった。

「で? 何の話なのよ。マハラジャたちに内緒ってことは、サプライズでも仕込もうっての?」

「ガッハッハ……ヴァ・ベーネ、ヴァ・ベーネ。そう身構えなくてもさ。軽い雑談といきましょうよ、わざわざこんな、いかにもJKっぽいとこで集まってんだから」

 音を立てて、遊我はテーブルにトレーを置く。湯気を立てるのは名古屋コーチンの親子丼だ。

 自然と、ふたりも彼女の方を向く。

「ぼくも親子丼と迷った……小峰、お前、卵料理好きだな?」

「どこの誰がこの流れでマジの雑談すんのよ!!」

 恋愛の甲高い声が炸裂する――三人は、不揃いな三角形を描くようにテーブルを囲んでいた。壁紙も照明も白、温もりを想起させるクリームめいた白で、遥かなる楽土宮殿の白亜とは質的に異なっているけれど。

「んふふ、好きよん。ほら、卵ってさ……有精卵とか無精卵とかあるけど、結局、生まれたかもしれない命の可能性なわけじゃない」

 肉とか魚みたいに生まれちゃった命を後から殺したんじゃなくてさ、と。

 視線を下げたまま、不揃いに欠けた割り箸で、遊我は黒い丼の中の卵と鶏肉をかき混ぜる。回帰の象徴を凌辱するように、ぐるぐると、ぐるぐると、必要以上に。

「それを食べるってなんか、神様みたいな気分よねん?」

 箸が対を成す蛇と化してうねって、分断する。無作為に、墓標のように突き立ちながら。

「小峰……お前……」

 ぱき、と乾いた音を立てて片手でローラを支えながら口に咥えた割り箸をもう片手で割ったピカドールが、ふわふわした髪を耳へ掻き上げる。

「粋がり方、中坊みたいだな?」

「……は?」

「キャッ、キャッ」

「ちょっ……ぶ!!」

 一瞬の間に色々なことがあった。

 ぽかんとする遊我を余所に、ピカドールが背中を丸めてコロッケに箸を伸ばしたその途端、ローラがさっとテーブルに手を伸ばして水のなみなみ入った紙コップを小さな手で掴み、すぐさま恋愛の顔面に向かって投げつけた。 

「何を――」

「このクソジャリ!! どういう教育受けてんのよ!!」

 当然、遊我より先に噴火したのはびしょ濡れの恋愛である。もはや反射神経の領分であった。

「わっ、ごめん。ごめん。これは謝る。勘弁してほしいんだな」

 茶化してきたピカドールに言い返す暇もないまま腰を折られた遊我は仕方なく立ち上がり、近くのテナントで紙ナプキンを貰ってきて恋愛に手渡した。

 その往復、脚の長い遊我には十数歩。反芻には少し足りないくらいの時間だけれど。

 ――粋がってる……ように聞こえんのか。

 ――うーん、言い得て妙。身体がデカいってだけじゃなくて、脅かして遠ざけようとしちゃうのはあたしの癖だわ。

 ――そういうつもりで言ったのか知らんけど……ピカドールだし……

「ローラ。人にものを投げちゃダメ。ティン子だから許してくれたけど、知らない人だったら大変なことになってたかもしれないんだな」

「まだ許してないけど!? あと人に怒られるからダメって叱り方やめなさいよ!! ガキのためになんないでしょ!!」

 どうやらいずれ許す予定はあるらしい。ウルフヘアは濡れそぼって元気のない子犬のようになってしまっているが、その舌は冷えることもない。

 ……赤ん坊が相手でさえ目を見て叱るピカドール。人間観察に長けたお人好しの恋愛。

 遊我だけが、他者と視点の高さを合わせられない。

 それは裏を返せば誰かの痛みに鈍感でいられるということでもあり、故に喧嘩でならなかなか負けないのだが。

「ティン子、マジで大丈夫?」

「寒っ……無理無理! こんなん風邪引くの時間の問題だわ! ちょっと上で服買ってくるから……」

「オッケー、じゃ適当に食べながら待ってるわねん」

 なんとか無事だったコートを羽織りかけるがぴたりと静止し、これにまで被害を広げてしまうだけと判断したのか舌打ちをして、濡れたセーターのまま駆け出そうとする恋愛を、今度はぐずり始めたローラを小さく揺すりながらピカドールが呼び止めた。

「ティン子!」

「何!? 別にいいわよ、もう……」

「マハラジャたちには内緒だから! 領収書切るとまずいんだな!」

「あ!? 何よ、てっきり『追い謝罪』だと思ったじゃない恥ずかしいわね! んなモンどうにでもできんのよ、最後はあたしが会計の確認してんだから!」

 人気の多いフードコートでさえよく響く甲高い声を残して韋駄天のように走り去る恋愛の背中を見送って、ピカドールはうどんの汁を啜り湯気の混じった息を吐く。

「よくしゃべる奴だなー」

「……あんた、ほんと無敵だわ」

 大きな袋をカートに乗せた家族連れ。宿題に取り組んでいる中学生たち。平穏たる空間に潜んで、不良少女たちは派手な喧嘩の準備の準備に勤しむ。

 小峰ファルコーニ遊我。羊崎トオル。アウグスティン恋愛。歪なところを抱えた者同士で、今は、固まり合っている。母体である『魔女離帝』自体、そうだ。完全な形をしている人間なんて、楽土ラクシュミ以外にはいない。

 ――マハラジャ。ザっちん。

 ――あんたらが余計なこと考えなくて済むように、ヴィランはあたしが引き受けるから。

 ――まあまあ上等な仲間にも、出会わせてくれたわけだし?

 悪巧みの時間が、始まる。



『おーし、こんちゃんきー! テメエら揃ってんな? 皇乃だぜー、っつって……なわけで今日もこちらのよぉ、「鉄女神伝説スケバンジェリン2」進めてくんで夜露死苦! 昨日の配信いた奴らはわかってっと思うけどよ、三章まで来てて、一周目なんで今一旦まずエーコを舎妹(スール)にしに行こうってとこなんだわ……お、ス……スタ、スタニスワフさんスパチャありがとな。もうちょい読みやすい名前つけろやブン殴んぞ』

「……和姫、何なのこの子……?」

「『酔狂隊』第十使徒」

 歩きながら和姫のスマートフォンの画面を横から覗き込んでいた百合子は、表情の乏しい中にも精一杯の困惑を浮かべた。

『お、ヨーヨーだ。んーーー鋼鉄かよ! この先もう火焔しか使わねえんだよな……何? 「皇乃ちゃんの周りにヨーヨー使いのヤンキーはいますか」っているわけねえだろ。凶器(ドーグ)使ってる奴自体ロクなもんじゃねえし、使うなら使うでもうちょいマシなの……ああいやバーチャルの話な!? バーチャルの話だからまあ喧嘩とかもあるっていう』

「アニメ……?」

「配信者だよ。顔出す代わりにこういうモデルを動かしながらさ、喋って……今はゲームやってるみたいだけどな」

 映し出されているゲーム画面のウィンドウの隣に立っているのが、「正宗皇乃」。セーラー服の上に短ランを羽織りドカンを合わせたコーデはツッパリの女体化というコンセプトなのだろう。奇妙な衣装の割に頭部はシンプルな美少女アニメ調CGで、セミロングの黒髪に金メッシュを何本も入れた勝ち気そうな表情の少女として造形されていた。

「色んなことをする色んな人がいるけど、総称でVとかって言い方をしてさ。『正宗皇乃』は、結構人気あるVなんだよ。世間的に」

「ん……そういうアニメってこと……?」

「なんもわかってへんやんけ」

 ラッキーストライクの煙を景気よく吐き出しながら肩を震わせ笑うのは、気が向いたのかふらりとついてきた恬だ。

 胃の中の酒を嘔吐し終えた百合子が落ち着くまで、和姫は皇乃が流行のアニメソングを歌う動画などを観せてみたが、今ひとつ趣旨を理解できていないようだったので「じゃあ、まあ会いに行くのが早いか」と、三人は連れ立って礼拝堂の森から校舎の方へと向かっているのである。

「ちなみに、このキャラデザしたの私な」

「!……すごい……かわいい……」

「単純なやっちゃなホンマに」

 和姫を真ん中に、左側に恬で右側に百合子。百合子は和姫の吊られた右腕を庇うように傍に立ち、時折肩に触れたりしながら歩く。一方で恬は、指先からの煙が後ろへ流れていくだけの隙間を詰めようとしない。それが現時点での彼女たちの歩法だった。

 恬は真っ直ぐ前を向いたまま乾いた笑い交じりに百合子へちょっかいを出すが、百合子は和姫の顔と足下とを何度か見比べて結局は口を噤んだ。実家の民宿で客を前にしていた時、幼い百合子にとって和姫の代わりは祖母だった。

 どのようなスタンスで相手をするべきか見定められていないから、隠れる。そんな自分の手を初めて陽の下で引いてくれたのが和姫で――彼女を追って訪れた湘南の町では、真正面からぶつかり合うことで他者という小さな銀河を理解する術を知った。それが心地いい。一発ごとに自他を再定義してゆく拳の応酬の感覚は、夏の渚へ躍り出ることと同じくらい爽やかに胸を突き抜けていくのだ。それは未知の領域を探索し開拓するヒトの本能であるのだろう。

 ――でも……

 ――桜森さんとは、なんだか、うまくいかない……

 桜森恬。

 百合子は彼女について、それほどよく知っているわけではない。

 喧嘩を好んでいること。『酔狂隊』の一員であること。……藤宮和姫と、何らかの因縁があるらしいこと。

 もっと、知りたいと思う。知った結果、かけがえのない関係を結ぶことはできないという結論を下すことになるのだとしても。

 南の島の果ての村とは違う、寒空の下でさえ人に溢れる湘南の町で、偶然にも巡り会ったのだから。

『通れ、通れ……いったァ! 勝った……けどフラグ立ててねえからこれ仲間になんねえんだよな』

 正宗皇乃の動画だけが、昇降口の引き戸を開ける和姫の手の中で流れ続けている。画面はモッズコートの背中に隠れてしまった。永遠に若いまま、永遠に幼いまま、不良でい続けることの許された少女。

 生身の彼女たちは、そういう風にできていないから。

「……桜森さん」

 スカジャンのポケットに両手を突っ込み、真紅の長髪を揺らしながら歩く恬に。

「なんや? どないしたん」

 百合子は、和姫の陰に隠れながら、蚊の鳴くような声をかける。

「どこか……怪我、してる……?」

 顔の絆創膏や腕の湿布は、百合子の目には、貼った本人が感じた以上に痛々しく映っていたのか。

 恬の負傷を、そっと指差して。

「……は?」

 それは、些細な気遣い以外の何のつもりでもなく。

 故にこそ、その裏側の小さな棘が、数日前に揉みしだかれたばかりで軟いままだった恬の心を鋭く引っ掻いてしまったのだろう。

 俄かに凩が吹きつけたかの如く、拭い去られる。三人の少女の間に生じかけていた、熱力学の新たな法則。

「見たら……わかるやろ……!」

 たまたま、最後のきっかけになっただけで。その一言に対する応答としてではなかったのだが。

 それは、桜森恬という人格の内部で完結する話であって、客観的にはこの時、恬は不意にその内で何かを爆発させたように見えた。奥歯で強く歯軋りをし、カチューシャでオールバックにした長い髪に爪を立てて、少し離れて歩いていた彼女はその時、全身の血流が滾る音を聞いた。

 それは遥かなる潮騒。今はまだ胸の奥に秘匿されてその存在に気付けもしない、いつか到りそして超えるべきもの。

 不良少女として、燃え上がる恋のように生きること。

「あんなぁ、謝花。いい機会やし言うといたるわ」

「おい、恬……」

「止めんなや。ジブンのツレやろ? そもそも……きっちり教える責任いうんは、ホンマはジブンにあんのとちゃうんか、ええ」

 スカジャンのポケットに両手を突っ込み、滑る死霊のようにゆらりと先行して百合子の正面に回り込んだ恬は、止めに入ろうとした和姫の影を鋭い眼光ひとつで縫い留めた。冷たい空気に満ちて静まり返る新校舎一階の廊下。張り詰めていく。永遠に続いているような錯覚。和姫は躊躇いながら動画を止めた。

「喧嘩なめとんのとちゃうで、ジブン。怪我もすんねん。痛い思いもすんねん。そんでも必死の人間だけが喧嘩なんてアホなことせんと生きてかれへん。ジブンみたく一個も怪我せんと面白おかしく上等かまそうなんちゅう輩、他だぁーれも居れへんのよ」

「……」

 泳ぐ。百合子の、視線。タイマンが痛みを伴うものであるのは当然のこと。

 しかし、人と人とが交感する営みというのは、悉くそうなのかもしれなかった。

「僕が生きてるって感じられる喧嘩いうんは、本気の削り合いとか! 毟り合いとか! そんなんやないと意味ない! ガキの使いやないねんから、贅沢モンとの綺麗なお遊びなんかなあ、これっぽっちもおもんないねん!」

 びり、と。大喝が、乾いた空気を震わせる。

 決して、ただ自らの優位を示すために威圧する不良の儀礼に則った叫びではなかった。それはどこか悲痛でさえあった。

 彼女、桜森恬というモノの根幹を支えている観念だから、喧嘩という文化の価値を損なわせるかもしれない謝花百合子をどうしても許せなかったという――それだけのことなのだった。

「恬……」

 肌を覆うスカジャンとジャージは装甲で、セーラー服の威光だけではなく自らの手足で闘うという意志。どれだけ恐れられようとも海という戦場を離れることができない鮫のように、桜森恬は血風の中でのみ己として生きていられる少女だった。

 だから、彼女には怒鳴りつけることしかできなかった。

 そうしなければ、積み重なった感情の地層の中で最も脆い部分が露出してしまう気がした。

「どいつもこいつもホンマに……っ! 腹立つ……!!」

 まとわりつく何かを払うように、強く首を振る。

 瞼の裏には、彼女の姿。黒髪を対の螺旋にした、ぞっとするほどの美少女。

 密やかに執り行われた、桜森恬と糺四季奈とのタイマンについて――百合子も和姫も、知らずにいた。だから、歯を食い縛ると同時に僅かに滲んだ涙の意味を正確に受け取れた者はいなかった。

 敗北し、手傷を負わされた。そのことへの悔しさなどでは断じてない。少女の皮膚の裏側で静かに煮えくり返っていたものは。

「大きい声出して悪かったなあ。……ま、そういうわけやから。僕のことは嫌っといてくれてかまへんよ。もうホンマに、僕は悪者でええ。ジブンが強いんはようわかったさかい、僕もちっとは楽しみやってんけど……ジブンもあのドリルとおんなじみたいやんか」

 恬には、吐き出すものだけ吐き出してしまったら、後はこうして意地悪く有耶無耶にするしかなかった。手を出して、よしんば百合子を捻じ伏せることができたとしても何の意味もない。喧嘩による決着というものの捉え方自体が恬と彼女とでずれていることがそもそもの問題なのだから。

 しかし、それを許さない少女がいる。

 いつだって、正論にも屁理屈にも抗うのが不良少女なのだ。

「ううん……」

 ゆっくりと。

 和姫の隣を離れ、歩み出て、百合子は小さく首を振る。揺れる、揺れる黒い髪が。そこに挿した一輪の紅い花。

 断固として。彼女は、害意をいよいよ自分の心の形に練り上げてみせた恬に、気圧されはしなかった。

「そうだとしたら……わたしと、桜森さん……たぶん……いつか、本気で、タイマンできるよ……」

 確かに謝花百合子は、まだ知らない。不良少女として生きる世界のことを。本当のタイマンの果てにのみ彼女たちが辿り着くことを許される、潮騒の向こう側のことを。

「わたし……桜森さんのことも、知りたいし……『タイマンで色んな人を知りたいわたし』は……桜森さんと、ぶつかる……でしょ……?」

 それでも。

 ――大人しいくせに、頑固なんだよな。

 ――お前に、「鬼百合っぽい」ところがあるとしたら、間違いなく……

「……ククッ、アホちゃうか。勝手にせえ」

 百合子と、和姫と、恬が。共に歩くのは初めてで、ぎこちなさは隠しようがない。窓は凍てつくような白い空の下で曇り、校舎の外を覗かせない。ただ、彼女たちだけがそこにいる。春に焦がれながら日々の中にいる。

 階段を登る靴音は互い違いで、ワルツのようなリズムを刻む。

「ほな、行こか」

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