第四話『第十使徒 正宗皇乃』7

 目を覚まして。

 乱れた着衣を整えることもなく、女原ソニアは耳の横を強く指で押していた。健康的な範囲で肉の余りがちな肢体の白い肌には、就寝中に自らの爪がつけたと思しき痕が幾筋も残っている。色を認識しない無意識下では苦しみもないが、昼間のうちに脳に負担をかけすぎているためか、この数日のソニアの睡眠は実に不安定なものだった。

 とても作戦行動ができる体調ではないので、遊我の召集については欠席の連絡を入れていた。昨夜は特に頭痛が酷かったから、起床が昼前になるのは予想していた通りで。

 ふたりで過ごすには程よく狭く、ひとりで目覚めるには広すぎる、海の見えるそんなワンルームマンション。ミンスはファッションにはこだわるがインテリアには無頓着で、白と木材の色を基調としたモダンな家具や雑貨は大抵ソニアが選んできたものだった。

 覚醒してなお、片目は開かない。それは万色を連れてくるから。激痛と共に。

 普段ならベッドのサイドテーブルをまさぐり、そこに寝かせてあるモノクルを目に嵌めることから彼女の一日は始まるのだが――

「ミンスちゃ……?」

 黒い髪を指で梳き、ベッドから降りて初めて、彼女は大いなる不在に気付いた。

 モノクルを失って数日。しかし、今日はそれだけでなく。

「どこば行っとうね……ミンスちゃ?」

 遠い遠い北九州の実家を離れ、鬼百合女学院に通うことを家族に許されているのは、親友同士のふたりが支え合って一緒に暮らすという条件を付けてのことであった。ミンスであれば声優の仕事が忙しくなって、ソニアであれば『日々の形容詞<ワークライフバランス>』が痛んで体調を崩し、それぞれ授業を休みがちになっても問題なく卒業できる高校。それが鬼百合女学院だった。

 ただ卒業さえできればよかったはずが――そこで知った『魔女離帝』としての生き方は、なかなか魅力的だった。アルバイト代わりにとまずはミンスだけが不良の世界に足を踏み入れ、最初の給金でソニアに右の視力を絞る特注のモノクルを贈った。彼女が不良の世界にどっぷり浸かって道を踏み外してしまわないよう、お目付け役のつもりでソニアもそこに加わった――

 ――そがんこつなか。

 ――ミンスちゃ、お芝居上手かろうもんね。不良の真似っこに決まっとーよ。

 ――悪か子は、私だけばい。

 共感覚。女原ソニアの藤色の右瞳は、あらゆる情報に色を乗せる。万色は洪水となり竜巻となり彼女の脳を襲うが、無色もまた苦しみをかき立てるのだ。

 他人の意識が向いていない、空隙の線。そこをソニアは白く見る。白い、圧倒的な空白として見る。

 空白――欠落。それは根源的な不安で、彼女の心臓を冷たく握り潰そうとする。だから、手を翳して、なぞって、隠そうとしてしまう。水面に向かって藻掻くような、本能としての防衛。

 しかし結果的に、社会はそれを盗癖として見る。

 他人の意識が向いていないと領域を示す白い線。禍々しくさえ見えるそれを覆い隠そうとすると、行きつく先にあるものに触れ、掴み取ってしまうのだ。

 ものを盗むのは、良くないことで。

 そんな自分を肯定できるほど打たれ強くなかったソニアは何度も治そうと努力して、それでも、彼女は色の欠けた線に対する不安を克服することができなかった。

 手が伸びてしまう。他人の隙へ。そんな自分の手が汚らわしいどぶ川のような色に見えて、だから、ミンスが隣でより汚い色を作ろうとしてくれていることに気付いていないわけがなかった。

 ミンスはソニアの隣で、ソニアよりよほどわかりやすい小悪党をいつも演じていた。何かあった時、まず自分へ疑いの目が向くように。

 そう、ソニアは思っている。

 本当のところはわからない。

 どれだけ連れ添った親友であろうと、隣に立つ人間の心の奥の奥まで、理解できるはずがないのだ。

 それは当たり前のことで、それが人間の幸せだった。

「ミン、」

 枕元には、昨夜飲んだ痛み止め。箱からはみ出たアルミのシートに、二錠だけ残っている。それが女原ソニアを正気に繋ぎ止めてくれる。

 幼い頃、彼女はぼんやりと生きていた。痛みを堪えることの他には何も考えられなかったから。色彩を操った名高い画家の中に自らの手でその生涯を終えた者が多いのは、あるいは、彼らがソニアのそれに似た目を持っていたからなのではないかとも思う。

 いずれにしても、彼女が世界の本当の色を知ったのは、ミンスと出会った後だった。

「ミンスちゃ……!」

 だから、ミンスの露悪という自己犠牲を甘んじて受け入れて過ごす今が、ソニアにはとても嫌で。

 それでもなお、捨て去れないのだった。

 部屋の鍵だけをスカートのポケットに入れて飛び出した。モノクルに制限されていない右目は、おろしたての絵具セットを全て水面にぶちまけたかのように、サイケデリックに世界を映す。突き刺してくる痛みと引き換えに、ソニアはミンスの足跡を見る。

 たった一本の線が、どんなGPSよりも正確に、ミンスのところへ導いてくれる。

 履いているのはドロシーの銀の靴ではなく、中学の頃から使っているくたびれたスニーカーだけれど。

 魔法のような瞳の力に頼らずとも知恵と心とちょっぴりの勇気を兼ね備えていたソニアなら、半身のような彼女のもとへはひとっ飛びで。

 故に、足下は正解を示すエメラルド色の道だった。



「そん子に――何ばしよっとね!!」

 灯りは落ち、ガラスは砕け、棚は方々へ列を崩し、商品は水の溜まった床に散乱した、惨憺たる有様のコンビニを見つけ、すぐさま駆け込んでいった。

 滑り、しかし踏み止まる。慣性に振り回されるそんな身体の流れのまま放たれた、ソニアの蹴りを――

「はあ~~」

 糺四季奈は、振り向きざまに鋭く突き上げた肘でいとも容易く払った。

 後ろが見えていたわけもないのに。

「ま、勝手にタイマンと言ったのも余であるし? 余的には別に何人で来ようが構わないのであるが?」

 四つ打ちの電子音に合わせて。

 這い蹲ったユ・ミンスの前で、リズムを刻み踊るように踵を鳴らしながら。

「どうせ不意を討つなら、貴様、もうちょい上手くやれよなあ~~~」

 糺四季奈は、濡れて肌に貼りついた黒髪を指先で梳く。

 駆けつけた女原ソニアの渾身は、彼女に膝をつかせることすらできなかった。

「……っ、せからしか……!」

 ばしゃ、と音を立てて下ろしたソニアの靴に冷たい水が染み込んでいく。

 なぜコンビニの床が浸水しているのか、彼女には想像を巡らせる暇もなかったけれど。

 いずれにしても、小柄でありながら圧倒的な威圧感を放つ四季奈の、濡れそぼった細い輪郭の向こうに。

「おま、え……なんで……」

「ミンスちゃ!!」

 息も絶え絶えな中で必死に頭を持ち上げこちらへ視線を向ける、よく知った彼女の姿があった。

 日頃から体温の低い骨ばった四肢は力なく投げ出され、商売道具のひとつだからとそれなりの額を注ぎ込んで整形を繰り返した顔は酷く腫れ上がっている。

「逃げろ……何しに……! ソ、ニア、おめーじゃ、」

「わかっとーよ! そげなこつ!」

 珍しく本気を出したかと思えばミンスとのタイマンを妨げられ、呆れたような顔でレジカウンターの奥へ煙草を探しに行った四季奈は、ソニアから奪ったモノクルをもう嵌めていない。ミンスを挑発するために装着したそれがどれほど視力を制限するかを理解し、拳を交える中で外したのだろう。

 彼女にとってミンスが片手間には凌げないほどの強敵であった、とは考えにくい――だって、結果的に、どれほどまで善戦できたのか知らないが、四季奈の顔身体に目立つ傷や痣はほとんどないのだから。

 追い詰められてもいないのに、挑発行為をやめている。それが、本気で喧嘩するというメッセージでなくて何だろうか。

 つまり、今の糺四季奈は、格下相手に手を抜かない。正々堂々、真っ向から、本気でユ・ミンスを蹂躙した。そんな状態の生徒会長<プレジデンテ>に、付け入る隙などありはしない。

 ミンスでさえ敵わない彼女を、ソニアがひとりで倒せるわけがないのだ。二の腕にも腿にも些か余分な肉があり、ただでさえ平均より上ではない運動神経の足を引っ張っている。かといって腕力が強いでもない。おまけに頭痛が動きを鈍らせる。格闘技の経験もまるでなく、それを補うほど喧嘩の経験を積んでもいない。心技体のうち体と技までは鬼百合の平均水準からすれば壊滅的と言って差し支えない。乱闘の局面においてお荷物にしかならない彼女が特攻隊に配属されたのは、ミンスのパフォーマンスを向上させる添え物としてに決まっていた。

 バレエと体操の経験があるから人より少し身体が柔軟で、あとは変な目を持っている。女原ソニアはそれだけの少女だ。

 だから女原ソニアを巻き込まないように、ユ・ミンスはひとりで糺四季奈に喧嘩を吹っ掛け。

 しかしユ・ミンスが冷たい水の中に倒れ伏していると、女原ソニアだって戦わずにはいられないのだ。

「タイマンとか何とか、私にはそがん大事やなかけん。申し訳なかとは思わんとよ――糺先輩!」

 耳朶には、ガーゼを留めるテープ。モノクルを繋いでいたピアスは四季奈に引き千切られた――その傷痕に残る疼きなど、ソニアの頭蓋を内側から砕こうとする頭痛には全く及ばないけれど。

 モノクルを外してベッドに潜っても瞼を透かす色彩という情報の洪水に気が狂いそうになって寝付けない、そんな夜の度に、ソニアは涙をこぼしながらミンスにピアッサーを手渡した。彼女の少し硬い指先の針がソニアのやわらかい耳を貫けば、じわりと熱を帯びた別種の痛みが頭痛を忘れさせてくれた。

 似合わないことなどわかっている星団のようなピアスは、ひとつひとつがミンスとのつながりの記憶なのだ。

 故に――キャスケットの鍔を摘まみ、くっと引き上げる。おどおどしたソニアらしくなく。

 脚を肩幅に開いて立ち、構える。水の薄く張った床に。足先までよく撓るソニアの持ち技と言えば前蹴りくらいのもので、摺り足で間合いを管理しやすい直立は彼女のニュートラルな戦闘姿勢として正しい――正しいが、今は絶対に適していない。

 弾丸のように突っ込んでくる低いタックルが、シキナリアン・パンクラチオンの初手として定石。四季奈よりも身長の高いソニアは、今、衝撃に備えて全身全霊で重心を落とすべきなのだ。

 唇から細く血を流し、震える腕を立てて――熱い吐息を漏らしながら歯を食い縛るが、ミンスは立ち上がることができない。

 レジまでは一本道。棚と棚の間に、ソニアは鼻息も荒く激昂を身に走らせて立っている。どこにも逃げ場などはなく、ミンスを虐げた四季奈を真っ向から迎え撃とうとしている。

 目に見えるようだった。お世辞にも喧嘩勘の良い方ではないソニアが、恐らくは数分と保たず、この冷たい床に叩き伏せられるのが。

 ――何をやってんだー、あたしの身体はよー……

 ――今以外、いつ動くってんだよ……!!

「おいおい、舐めてもらっちゃ困るのである」

 レジカウンターに腰掛け、拾ってその場で開けた安い青のラッキーストライクを咥え、四つ打ち音楽に合わせて細い脚をぶらぶらさせていた少女は――唇の端を歪めて笑う。

 それは他人を見下すのではなく。

 ただ、ただひたすらに、主役たる自分を誇っているのだ。

「連戦が何だというのであるか? 余はこのシキナリアで、たったひとりの大統領であるぞ。いつだって、全校生徒が敵だと思って戦ってきた」

 ひとたびレコードに針を落とせば、音楽は、夜が明けるまで止まらない。

 それが、無所属で生きるということ。

「故に、余の絶対防御<オートガード>は絶対なのである」

 血の気の多さを作法とする鬼百合にも、攻め手を主体としないファイティングスタイルの不良少女は少数派ながら存在する。

 例えば、ピカドールこと羊崎トオルであったり。例えば、藤原御前こと藤宮和姫であったり。

 そして、中でも最堅の鉄壁を誇る生徒会長<プレジデンテ>こと糺四季奈に関して言えば。

 本気を出した彼女の絶対防御<オートガード>は、神の子・水恭寺沙羅や帝王・楽土ラクシュミでさえ貫けないのではないかと、噂になっていたり。

 ――ダメだっつってんだろ……!

 ――逃げろ、ソニア……!

 ――お前じゃ勝てねえんだよ、あたしが勝てねえんだから……!!

 潰れた声は届かない。乱れた呼気の中で。それはミンスの、たったひとつの誇るべき武器なのに。

 災害のようにふたりの日々を急襲した四季奈を刺し貫くこともできなかった上、今となっては、ソニアを止める役にすら立たない。

 敗れ去った不良少女には、もはや指一本動かす権利もなく。

 四季奈はつややかな前歯で煙草をそっと噛み、羽織っていたブルゾンを脱いでカウンターの奥へ投げると、濡れて細い胴に貼りつくワンピースのボタンを外し、すとんと脱ぎ捨てた。波打際で水をそうするように、重い布を足先で軽く蹴り払う。白い肌に残るは、真紅の、宝石めいたランジェリー。嘘のようによく似合っているが――下着のみを身につけた少女が灯りの落ちたコンビニの店内に立っているのは、奇妙な光景でしかなかった。

 依然、真冬の気温の中である。彼女が危惧したのは、スプリンクラーの水に濡れた服が気化熱を奪っていくことによる体温低下か。それとも、裾を裂いてなお、脚にまとわりつく布を嫌ってか。

 いずれにしても、ふたつの事実が明らかになる。彼女は目の前の喧嘩に――女原ソニアとの殴り合いに本気で向き合っており、そして、ごく短時間での決着を前提として認識しているということ。

 ミンスにとってのかけがえのない少女は、舐められているわけではない。戦闘者として尊重された上で、低い評価を受けているのだ。

 止めなくてはならない。見下されていた方が、まだ手抜かりの余地がある。本気の糺四季奈を相手に、ソニアでは、万に一つの勝ち目もない。

 しかし。しかしユ・ミンスに、何ができるというのだろうか。

 果たして糺四季奈が、まだ長い煙草を床の水溜まりに投げ捨て、ジップロックの中で電子音を鳴らすスマートフォンをショーツに挟んで。

「オン余マーク――ゲットセッ」

 足首を唸らせながら突っ込んでいっても、ミンスはひとり、雑誌棚であった残骸の前で惨めに転がっているだけだった。

 既に、四季奈はサンダルを脱ぎ捨てている。機動力を切ることで、転倒のリスクを注意深く排除した。薄く水の張ったタイルの床の上で、前傾した小柄な彼女の疾走を足指の握力が支えていた。力強く一歩一歩、タックルの予備動作として勢いを乗せながら彼女は走る。さながらミサイル。塊として指向性を帯びたパトリオットミサイル。

「――は」

「やあっ!」

 蹴り上げる。迎撃のつもりで。ソニアは歯を食い縛る――それは筋肉に力を込めるため。それは脳へ突き上げる頭痛を和らげるため。

 当たる、わけがない。隙だらけの前蹴りなど。四季奈の姿はその弧状の軌道からとうに消えている。タックルはフェイク。水を躍らせながら四季奈の小柄な身体が左へ傾いている。

 すぱん、とソニアの脹脛内側へ鋭い右ローキック。あっ、と高い声が漏れるのを置き去りに、そのまま腰を捻り、遅れてやってくる四季奈の上体――その鋭い肘が、ソニアの顔面を真っ向からしたたか捉えていた。

「うっ、くうっ」

 鼻血が滴る。赤ワインの混ざった水溜まりに。ずきんと痛むのは鼻か、その奥にある脳の血管なのか。わからないままソニアは後退る。その判断に意味などもはやなく。

 霜の匂いのするアイスの冷凍庫に、腰がぶつかる。

「そこでよいのか? 大股三歩は、余の領域<ドメイン>であるが」

 躍動する。白い肌が。下着をつけた獣として、最短距離で跳びかかる。

「即ち――余ドットコム」

 浮き上がった糺四季奈の素足の裏が、女原ソニアの腹部へ捩じり込まれた。

「あ、」

 歪む。歪む。

 ミンスの隣でいつも困ったように微笑んでいた彼女の顔が、苦痛で。くしゃりと歪んでいく。

 落ちたキャスケットを、藍色のペディキュアに彩られた四季奈の足指が踏んだ。

「あああ、」

 後頭部を冷凍庫のガラスに叩きつけられたソニアが、膝を折って崩れ落ちるところを、ミンスは見た。

「てめえッ……畜生ぉぉッ……!」

 ミンスは、声優として秀でている。声色を見ることができるソニアのサポートを受けた彼女の技巧は、ヒトの発声器官の限界を超越したレベルに達している。

 しかし、それでも。

 彼女は、なかなか主演になれない役者なのだ――そんなことは、自分が一番わかっている。

 だが、それでも。

 こんな時くらい――大切な誰かのために不退転の決意を固めたこんな日くらい、スポットライトを浴びてもいいではないか。

 それでも、膝を冷たい水につけたまま、割れた窓から吹き込む冬の風に苛まれている。そうして、惨めに、かけがえのない少女の肉体がいとも簡単に蹂躙されるところを見ている。

 ただ力のみが支配する、優しくも残酷な鬼百合女学院で、ユ・ミンスは――

『なんだこれ? なんだよ、何があったらこんな状況になるってんだ』

「・- --・-・ ・・ -- ・・- --・-- --・ -・-- ・- ・-・・ ・- -・ ・- ・---・ ・- -・-・ -・・・ ・- -・--・」

 ひとりでは、決して主役になれないから。

 ソニアが我武者羅に両腕を振り上げる。糺四季奈は、それを肘で弾き上げた。素足の踵、うっすらと浅い水面に鳴らしながら。四つ打ち電子音の中で踊るように。

 強い。物語たり得たはずの要素を全て台無しにしてしまうほど、糺四季奈は強い。彼女は、掛け値なく主役のひとりだ。並大抵でない努力の果てに主役となる資格を掴み取った少女だ。

 ユ・ミンスは違う――集団の中のひとりであることを前提として、その上で初めて個性を語ることができる。役者としても、不良少女としても。

 だが、ここは湘南である。不良少女の渚である。

 秩序はそこでは反転する。

 コロスのひとりが主役を殴り倒しても、構わないのだ。

 ただその力さえあるのなら。

「てめえ、ら」

 組織の規律を乱してまで挑んだ糺四季奈の壁を越えられなかったミンスたちを、探しに来たのか。

 朦朧とする意識の中、ミンスは、栞・エボシラインとコアントロー・ワンダーを見た。

 ふたりの少女は、ぴしゃぴしゃとスプリンクラーの水を靴の裏に恐らく感じながら、コンビニの中へ踏み入ってきていた。まるでこの店の中だけで暴風雨が吹き荒れたかのような惨状を異なことと認めながらも、ワインの混ざった水に薄く染まったタイルの上で倒れ込んだミンスを発見し、近寄ってきたのだ。ミンスに対する親愛の情などからではなく、ただ、無断欠勤の班員を見つけて確保するという、それが彼女たちに与えられた役目だったから。

「……たのむ」

 疑問に感じている暇さえ、なかった。

 這い蹲ったまま、ミンスは掠れた声を絞り出した。

「てめえらに、頼みごとっ、するしかっ、資格なんか……ないって、わかってんだけどよ……頼む、何だってするから……」

 彼女たちを仲間だと思ったことなどなかった。仕事の上でチームを組まされているだけで。

 小峰ファルコーニ遊我の体のいい小間使い集団としか思えなかった遊撃班という名前に、少なくともミンスは、誇りも帰属意識も欠片たりとも持てなかったし。

 むしろ、意図的に攻撃的な言動をとってばかりいた。声でのコミュニケーションを拒むコアントローも、どこかで聞いた声を基に合成して正論を放つ栞も、自らの声にしかプライドとアイデンティティの置き所がなかったミンスにとって、視界にも入れたくない存在だった。

「あたしが、時間をっ、稼ぐ間に」

 そんな彼女たちに向かって、どれだけ追い詰められようと、ミンスが己のために頭を下げるわけなどなかった。

 ただ、ソニアが。

 ミンスを追ってきたソニアが、今、遠い鼓動のように一定のリズムを刻む電子音の中で、叩き伏せられている。キッと睨み上げた顔面を素足で軽々と蹴られ、今、濡れた床にまた転がった。

 ただでさえ生まれ持った目に苛まれ続けている彼女を、巻き込んでしまった。

「あいつを……ソニアをっ、ここから、連れて逃げて……くれ……くだ、さい……っ」

 傾いた商品棚の向こうに、彼女がいる。ほんの数メートルが、今のミンスにはこんなにも遠い。

 しかし、踊るようにソニアの必死の蹴りを払い除ける四季奈は、訪れた栞とコアントローの存在にまだ気付いていない。彼女たちが物陰に隠れたタイミングでミンスが必死に声を上げでもして――他ならぬミンスの「声」を、四季奈が警戒していないはずはない――ひとりが奇襲で一瞬の隙を作ってひとりがソニアを助け出す。

 そんなことも、きっと不可能ではないだろう。

 もし、今ここでミンスが、ひとりぼっちではないのだとしたら。

『あァ? テメエ、よく言えたもんだな。ダチとも何とも思ってやしねえアタシたちに向かってよ』

「……」

 人間以上に人間を侮辱するような冷たい無機質な視線も、数取り器を打ちかけては躊躇して明後日の方へ伏せる視線も。

 ミンスへの、ごく当たり前の応報だ。

「……っ」

 それに――栞・エボシラインとコアントロー・ワンダーが、ユ・ミンスと女原ソニアに加勢しないとしたら。

 その理由は、ミンスが繰り返してきた彼女たちへの個人的な仕打ちだけではない。

『大体、テメエはあいつのために喧嘩しに来て、あいつはテメエのために喧嘩しに来たんだろ。それを何、都合いいことほざいてんだ』

 ミンスもソニアも、『魔女離帝』の所属である。そうであることを常に表明し、鬼百合で生活している。その彼女たちによる襲撃は、個人的なものとしては済ませられない。個人が個人と構えたという話ではない。『魔女離帝』という組織が責任を取り、糺四季奈という事件に対処しなければならなくなる話なのだ。

 故に、小峰ファルコーニ遊我は頭を悩ませた――『遊離庭園』を立ち上げようってクソ忙しいタイミングで何やらかしてくれちゃってんのよん、と。

 水土世代の最強五本指として同格に語られることの多い中、遊我と四季奈を隔てる決定的な差とは何か。

 単純な話として、無所属の糺四季奈には己の身ひとつを除いて失うものがないのである。

 究極的には、機嫌を損ねたというだけの理由で『魔女離帝』に襲撃をかけ、力尽きるまで兵隊を薙ぎ倒し続けるかもしれないのだ。そして、彼女を制圧できたからといって組織として得られるものなどほとんど何もない。仮にそのような状況が訪れるとすれば、楽土ラクシュミか絆・ザ・テキサスか小峰ファルコーニ遊我のいずれかが直接出動した場合だろうが、既に十分に恐れられ警戒されている彼女たち三人に大物狩りの箔を付けるメリットは今更ないからだ。

 つまるところ――近付くだけ大損の、大迷惑存在。

 栞とコアントローがすべきことは、ここでミンスを気絶させるなり回収するなりして余計なことを言いかねない口を塞ぎ、ソニアが完膚なきまでに倒されたところで糺四季奈という災害が「飽きる」のを静かに見守ることである。それ以外の手はあり得ない。

 彼女たちが、『魔女離帝』の、あるいは『遊離庭園』の、兵隊でしかないのなら。

『けどよ』

 栞・エボシラインは、生物ではない。

 人の手で造られた、鋼鉄の不良少女である。

『今テメエが百%女原のことしか考えてねえってのが、何故だかわかっちまうんだ』

 彼女は決して、アルゴリズムに背く行動は選択しない。

『「助けてくれ」ってんなら、手なんか貸すつもりはなかったがよ。……今のテメエを』

 ただ機械的に、彼女は演算し――

『見捨てて行っちゃ、アタシが不良少女型として造られた意味なんかねえだろうが!!』

 そうあれかしと願われたように、不良少女として正しい道を判定するのである。

『立てよ、ユ・ミンス』

 栞・エボシラインは、手を差しだす。血の通わない手を。

『連れて逃げろだ!? 違うだろ! テメエが立って、テメエの拳で、大事な女を傷付ける野郎をぶっ飛ばすんだろ!!』

「……ぁ」

 息を漏らしたミンスは、痛む全身を起こす。

 冬の容赦ない冷気が、たちまち全身を切り裂くようだ。劣勢であることなど、依然変わらない。

 それでも、ミンスの筋肉は、震えながら動いた。

「るっせえよ……むかつくんだよ……ずっとずっと……」

 立ち上がる。ゆっくりと。すっかり濡れて体温を失ったミンスの手は、そういう意味で、掴んだ栞の手と何も変わらなかった。

 痣と鼻血の痕で酷い有様の顔から、さらに何か滴る。

 それは涎か、鼻水か、あるいは。

「てめーの……その声がよー……!」

 楽土ロボティクスが製造した、栞・エボシライン。

 人と変わらぬ姿で瞬きをする、彼女の声は。

 事務所を通して正当に依頼を受け、報酬を貰って、ミンスが吹き込んだ声だった。

 何に使われるのかなど大して気にしないまま彼女が録った発音サンプルのひとつひとつが、人工知能によって滑らかに組み上げられ、栞・エボシラインの声として出力されていた。

 同じ班に配属された日にそう気付いて以来、ずっと、気に入らなかったのだ。

 作り物のくせに、いつの間にか露悪的にしか己を演じられなくなっていたミンスよりよほど筋の通った不良少女として在ることを許されている彼女が。

 あまりにも。

 すぐ近くで、あまりにも眩しかったから。

『そうかよ』

 肉が肉を打つ音がする。

 目を背けたくなるような音だ。だが背けない。栞・エボシラインは背けない。彼女には人の心がないから。だから、注視することができる。

 驚くべきことに、女原ソニアはまだ意識を繋ぎ止めていた。

 殴られても、殴られても、彼女は歯を食い縛っていた。ユ・ミンスを痛めつけた糺四季奈に一矢報いる、そのためだけに。

 ――ったく。

 ――どいつもこいつもよ……!

『アタシも、思ってたぜ。ずっと』

 ふらふらと上体を泳がせたソニアが掴みかかる。下着姿の糺四季奈は、ステップを踏むように重心を移し替えながら、軽々と持ち上げた腕でソニアの手を次々と払い上げる。

 コアントロー・ワンダーだけが、まだ視線を彷徨わせていた。着物の袖から覗く白い手に、数取り器をきつく握りしめて。

『どこまでいっても機械で、人工知能でしかないアタシと違って、アタシに声を吹き込んだこいつは――こんなに自由でいられるのかよ、って』

 ――あたしは。

 ユ・ミンスは。

 ――アタシは。

 栞・エボシラインは。

 ――――同じ声のこいつが、ずっと憎くて仕方なかった。

『今、死ぬ気で戦ったらよ。アタシにも、仲間ってやつができんのか』

「……さあ、なー……知るかってん、だよー」

 しかし、六百秒後。

 ユ・ミンスは、女原ソニアは、コアントロー・ワンダーは、栞・エボシラインは。

 この上なく無残に、倒れている。

 彼女たちはそういう役で、これはそういう物語である。

 正しい意味で「四人組」であった瞬間など一度としてなかった『魔女離帝』特攻隊遊撃班というコロスが、初めてひとつになって圧倒的なものに立ち向かい、そして敗北するまでを描いた、ほんの些細な幕間である。

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