第二話『第一使徒 乙丸外連』4
階段を、登り切る。
鉤括弧の形をした新校舎の三階、短く突き出した鉤に当たる箇所。そこに理事長室はあり、ラクシュミ自身は誰でも自由に寛げる空間としての開放を宣言しているものの、実際に日常的にそこを訪れるのは大規模勢力『魔女離帝』の中でもごく上層部とされる数人くらいのものだった。敵対勢力が近寄ろうとしないのは勿論のこと、数多いる『魔女離帝』の構成員たちさえも緊急の連絡時などはともかく気軽に遊びに来たりは決してしない。……大抵は、マハラジャとの時間を邪魔された親衛隊長の絆・ザ・テキサスが茶を出しながら無感情な瞳でじろりと見てくるのに耐え切れないからであったりするのだが。
しかし今日は、極めて例外的に――来客があった。
「あら」
理事長室に鍵をかけてはいなかったのだが、彼女たちはドアの外に立って待っていた。階段を登り終え、パーティードレスの裾を払って直したラクシュミは目を丸くする。その背後にふらりと立つ絆、腰に手を当てる遊我。
「あらあらまあ。お早いお帰りどすなあ、楽土ラクシュミはん」
「待ちくたびれたあるよ。コミックス持ってくればよかったね」
顔の下半分を覆う黒マスク。指の間に三本のピザカッターを挟み構える、黒髪に着物とストールの少女。
両頬に「妲己」「褒姒」と刺青。トンファーのように自転車の空気入れを握る、前髪で目の隠れた少女。
「『月下美人會』、橘高絹ゑ<キッタカ・キヌヱ>」
「『月下美人會』、郭春涵<グオ・チュンハン>」
絆はどこからともなくタブレットを取り出すと、鬼百合の生徒名簿を開いて検索――偽りはない。このふたりは『月下美人會』だ。それも絆のひとつ年上、ラクシュミや遊我の同期となる二年。名前に聞き覚えがないから、さほどの強者ではないのだろうが。
三年生はほぼ全員が昨年のクリスマスを以て「引退」し、覇権争いの舞台を降りている。そして――四月には、新入生が来る。不良少女たち、特に比較的小規模な勢力に属する者の血の気が多くなるのがその狭間の時期である。強力な一年生を引き入れるために、少しでも勢力図を有利に書き換えて春を迎えたいのだ。当然、矛先が向くのは『酔狂隊』『魔女離帝』の二大勢力となる。
「うちら何しに来たんか――」
「――言う必要ないあるな?」
楽土ラクシュミの首を獲ることができれば、名前が上がると――そう、考えているのだろう。絆は頭が痛くなった。鬼百合女学院が今の形で生き続けられるよう守り支えているのが誰かも知らないで。
喧嘩に凶器(ドーグ)を持ち出すのは、鬼百合では『月下美人會』くらいのものだ。『下人會』と蔑まれる理由を、彼女たち自身は認識した上で悪党として振る舞っているのだろうか――もっとも、そんなのはどうでもいいことだった。そんな彼女たちさえも、敬愛するマハラジャは受け入れる。理事長として、どんな不良少女にもとっても居場所となる鬼百合を維持することに腐心していた。絆はただその遺志を尊重するだけだ。
……何を使われようと、負ける気などしなかったし。
「ほな、消えてもらいましょか。さいなら」
「魔女狩りの時間あるね。覚悟するいいよ」
橘高絹ゑと郭春涵が、それぞれの得物を手にリノリウムを蹴る。
と、同時に。
ラクシュミの陰から、ふたり、音もなく飛び出した。
絆・ザ・テキサスが橘高絹ゑの胸元にドロップキックを突き刺し。
小峰ファルコーニ遊我が郭春涵の首にラリアットを叩き込み。
「「……………?」」
轟音、残りて――
恐らくは何が起きたのかもわからないまま――『月下美人會』のふたりは廊下の壁際まで吹っ飛び、重なり合う如く仰向けに崩れ落ちた。衝撃で震えた窓ガラスが砕ける。持ってきた凶器など、一度として振るわれないままに転がる。
黒々として長い睫毛の中、切れ長の目に翡翠の光輝を湛えて、褐色の少女はその一瞬の交錯をじっと見ていた。どこか残念そうに、つくりの美しい鼻腔からそっと息を漏らす。無言のまま。
「他愛ないですね。実に……」
「ヴァ・ベーネ、ヴァ・ベーネ! ガッハッハ、鍛え直しなさいよね」
着地した絆は素っ気なくポンチョの飾り紐を払い、遊我はにんまりと笑いながらコートの腰に手を当てた。彼女たちの声は、一瞬で沈んだ『月下美人會』の連中には届いていないのだろう。
恵まれた体躯から惜し気もなくプロレス技を放つ小峰ファルコーニ遊我は特攻隊長、即ち『魔女離帝』の戦闘チーフであるのだから強力なのも当然だが、絆・ザ・テキサスもまた、マハラジャの身の回りの世話に加えて事務や諜報を統括する親衛隊長という身でありながら、『月下美人會』の兵隊を瞬殺できるくらいには――強い。
ラクシュミは不敵に笑う――否、笑うことなど何もない。ごく当たり前のことなのだから。『酔狂隊』と同じく、『魔女離帝』もまた喧嘩を売られることなどこの鬼百合では日常茶飯事であり――ごくごく当たり前のこととしてその全てを打ち伏せてきたから、彼女たちは今、最大勢力として君臨しているのだった。
指を鳴らす。傍らに跪いた絆が、葉巻のケースを差し出した。
銀の蓋が開く。そこに並べられた手巻きの一本を指の間に挟み――
「これがわたくしたち、ウィー・アー・『魔女離帝』――お退きあそばせ、王道の邪魔ですわ」
「で、ここは図書室。校舎から少し離れてるでしょ? 沙羅の妹の綺羅って子が、ずっとひとりで中にいるんだ」
黄色いレンガの道を行くドロシー御一行のように、四人の少女が縦隊を成しながら敷地を巡っていた。背の低い乙丸外連が時折後ろを振り返っては、マフラーを靡かせ靡かせ歩く謝花百合子に学校施設の説明をする。その度、右耳から吊るされた逆十字のピアスが揺れる。先導する彼女がドロシーだとするなら、百合子はマフラーを巻かれた案山子だろうか。折った腕を吊るブリキの木こり、スケボーに片足を乗せて滑るライオン。
図書「室」と言うが、それは独立した構造物になっていた。寄木細工の箱のような、木造の立方体。二階建ての民家くらいだろうか、さほど大きいわけではない。冷たい北風の中で、凍りつきそうな両耳に手を遣りながら見上げる。クリーム色のマフラーの端が、煩わしいほどにはためく。さほど大きいわけではないが、しかしひとりきりで篭もるには、この建物は大きすぎるだろう―—閉ざされた扉、嵌め込みガラスの奥は暗くて、人の気配はまるで感じられない。鋼鉄の冷たさまでは感じさせないものの、どこか監獄のようでさえあった。
この中に、ひとりで。
――寂しい……だろうな……
「沙羅せんぱいの……妹……」
そう――確か、言っていた。百合子が転校してきた日、校門を押し開けてくれた沙羅が。背の高い彼女が鬼百合最強の不良少女であるということを、あの時は知らなかったけれど。
百合子は、少しだけ妹に似ていると。そう、言っていた。
「どんな子なの……?」
「お嬢はッスね……眼鏡で、委員長って感じの見た目の人ッス! あとメシ作るのがマジで上手くて、時々オレらにも差し入れ持ってきてくれるんスよ! おいなりとか!」
振り返った百合子に、鷹山覇龍架は矯正器具の嵌まった歯を見せて答える。アスファルトからコンクリートへの境目で器用にスケボーを操り、止まったり進んだりしながら。
チョコレートの箱のような、ピンクと黒のセーラー服。金属のスタッズやスパイクで装飾されていてパンキッシュに見える。中学にもこの改造制服で通っているのだろうか。
「そういや、百合子さん若干お嬢に似てるッスよね! ねえ外連さん」
「似てない」
ぴしゃりと。
振り向きもせず、吐き捨てるように乙丸外連は言った。
よく練られた濃茶のような深い緑のセーラー服の上から羽織ったパーカーのポケットに両手を突っ込み、不機嫌そうにローファーの爪先で雨樋を軽く蹴る。その脚は小鹿のそれのように細くて、寒空の下に産毛もなく白いまま晒されていた。
――そんなに……
――沙羅せんぱいも、似てるって言ってたけど……?
「そ、そうッスか……ッスよね……すんません……」
妙に低い外連の声にどきりとしたのか、スケボーの上で子犬のようにしょぼくれる。見かねて、百合子は声をかけた。
「……鷹山さん。だったよね」
「ウス」
「鼻、どうしたの……?」
百合子は、細い指で自分の顔の中心を指す。鼻に絆創膏を貼っている覇龍架は、まるで子供向け漫画に出てくるわんぱく小僧のようだ。板から下ろしたスニーカーの底が強めに路面を叩いて、前方へそっと滑り百合子の隣へ。受ける風の冷たさに目を細めていた。
「ああ、これッスか? 大したことねーッスよ、四番目の妹がぐずって玩具投げてきたのを、ちょっと食らっちまっただけッスから!」
「そう……早く治るといいね……」
「あざッス!」
「……きょうだい、多いんだ」
「そッスね……んーと、何人いんだ? クソ、わかんねえ……」
「……わかんないの……?」
外連が百合子の案内役を買って出ると、沙羅は『じゃ、あたいは先に帰ってのんびり風呂でも入ろうかね』と大きく伸びをした。それでちょうどお開きの雰囲気になったが、覇龍架は人と待ち合わせがあって時間が中途半端だからと外連の校内ツアーについてきたのだ。
「それで……? 沙羅せんぱいの、妹さんのこと……もっと、教えてほしい……」
「そうッスねえ。オレの見る限りッスけど、鬼百合の中で嫁にしたい女グランプリっつったらダントツでお嬢ッスね!」
指折り数えていた覇龍架は顔を上げて矯正中の前歯を見せるが、情報量が限りなくゼロに近かった。
選手交代とばかり、和姫が口を開く。幼馴染と後輩の不器用なコミュニケーションが可笑しいようで、暫しは後ろから見守っていたのだけれど。
「元々、沙羅さんが水恭寺……ああ、沙羅さんと区別して、妹の方が『水恭寺』な。元々、鬼百合を水恭寺が安心して通える学校にするために、沙羅さんが『酔狂隊』を作ったってわけなんだよ。……ですよね、外連さん」
「んー……間違ってはないけど、うちの感覚的には順番が逆なんだよね」
小さな手のひらで覆いを作りながら、外連はキャスターに火を灯す。甘い甘いバニラの匂い、立ち込める。黄昏ゆく学校の片隅に、蕩けるように。
そして、ゆっくりと細く煙を吐いて、ぽつぽつと語り出した。
昔のこと。今現在の『酔狂隊』においては、彼女だけが語り得ること。
ようやく、ちらと振り返って。百合子に、退廃的な流し目を送って。
「元々、沙羅とうちと、あとふたりで『酔狂隊』名乗り始めてさ。ガキの頃だったから、みんな、憧れてたんだ。ヒーローに」
冬の空は暮れ色にぼやけていた。今にも破裂しそうなほど、一杯に雲が詰まっている。
沖縄の空よりもずっと高く見えて、そこには絶対に手が届かないのだと嫌でも思い知らされている気がした。
「お姫様みたいに可愛い綺羅を、みんなで守ろうって。そんな風にして、うちら、始めたんだ……鬼百合どうこうは、その後」
ぱっちりとあどけない二重瞼の奥。揺らめいて立つ細い煙に隠されて。乙丸外連の瞳は、何を見ているのだろうか。
過去。未来。それとも――ただ、つまらなさそうに足下だけを?
「ま、変な話でさ。今はもう、誰も綺羅に手なんか出さないんだよ。美笛さんと知り合って、うちら、喧嘩のやり方教わって……水恭寺沙羅は、いつの間にか伝説になってた」
靴紐を結ぶように腰を落とし、外連は煙草を躙り消す。
幻惑の甘い煙に取り巻かれて、おどけた童女のような仮面を外す。
この人は年上なのだと、和姫は実感した。あまりに超大な不良少女だった従姉の背中越しに見たオリジナルの『酔狂隊』四人の姿を覚えている。乙丸外連はその中で最も、あの頃と背丈が変わっていなくて――なのに、あの頃の彼女はもうどこにもいないのだった。
「『酔狂隊』も、すっかり有名チームになっちゃったしね。成り上がろうとして沙羅やうちらに喧嘩売ってくる奴らはいるけど――沙羅マジギレさせたら洒落になんないって、みんなわかってっから。そこだけは踏み越えちゃダメだって察して、誰も、この図書室には近付かない」
ぽつり、ぽつりと。笹舟に乗せて流すように、一文一文をそっと区切りながら、しゃがみ込んだ外連は言葉を選ぶ。
たった、ひとりで――水恭寺綺羅は、この図書室にいる。沙羅や外連が何かをするまでもなく、彼女は自ずから、見えない力に守護されている。水恭寺沙羅は妹のためにどこまでも強くなって、その結果、彼女を孤独の中に閉じ込めてしまった。
それなら――
「今の『酔狂隊』ってさ。何のために、あるんだろーね」
答えられる、わけがない。誰にも。
それをわかりつつ、しばらく、彼女はそうしていた。
後ろには藤宮和姫や鷹山覇龍架。使徒たちの中では付き合いが長い方だ――やがてここを去らなくてはならないのなら、後を託せるのは彼女たちくらいのものだろう。
だが――
謝花百合子。彼女の影は、混沌のように外連の靴の裏まで伸びていた。
スニーカーソックスの縁、踝に軽く触れて立ち上がる。
溶け合ってしまわないように。人知れず、外連は唇を噛んだ。皮が千切れるほど強く。
冬の日はあまりに短命である。
道半ばにして鷹山覇龍架が別れを告げて去り、たったひとりの放送部員はトロイメライを流し始める。
屋上へと続く階段を、登っていく。もはや振り返らない乙丸外連の後に続いて。藤宮和姫と、ふたり並んで。
校舎裏手の森の奥、『酔狂隊』のチャペルはある。そこを出て、旧校舎と新校舎を巡り、綺羅の図書室や部室棟、体育館やプールを見て回ると、すっかり夕暮れ時に差しかかっていた。敷地の全体を大まかに見て回ったその最後に、外連が百合子を連れて行こうとしたのは新校舎の屋上だった。階段の踊り場で、叩き割られテープで補修された窓ガラスに薄汚れた蛍光灯がはっきり映って見えるのは、外が既に黒々として昏いから。
屋上にわざわざ見るべきものなんて何もないことを、藤宮和姫は知っている。それでも、外連が百合子をそこへ案内しようというのに異論は全くなかった。見ておくことに意味はあるだろう――恐らく、これから幾度となく足を運ぶことになる。鬼百合で、胸を張って生きていくのなら。最も天空に近いそこは、拳を通して交感し合うふたりの不良少女のための閨として好んで使われていた。
「どうだよ、鬼百合は」
ただ沈黙を紛らわせるために、和姫は眼鏡の奥の目を百合子に向けた。
校内では多くの不良少女とすれ違った。誰しもセーラー服を見るとさっと身を隠し、目に留まらないようにひそひそと噂話をしていた。『酔狂隊』を目の敵にしている勢力は少なくないのだろうが、本気で構えるのであれば綿密な計画の上で襲撃するはずだ――それだけ、『酔狂隊』の使徒は精鋭揃いなのである。ただ目が合ったくらいで無闇に突っかかってくるのは『月下美人會』くらいのものか。たまたま、喧嘩も目撃した。『魔女離帝』特攻隊のグループと『武狼怒道<ブロードウェイ>』という小勢力が、「実験室通り<サイエンストリート>」と呼ばれている旧校舎一階の日陰の廊下で掴み合いになっていた。
改めて見ても――本当にもう、ろくでもない学校だと和姫は再確認した。なぜ現代の日本で、女子高生が女子高生の顔面を全力で殴っているのか。一瞬でも冷静になってみれば、何もかもがおかしい。
「……すっごく、楽しい……和姫は……こんなところに、いたんだね……」
「た、楽しい……?」
うっとりと目を細める百合子の答えがあまりにも斜め上で、和姫は階段から足を踏み外しかけた。
「こっちの、学校……和姫が、昔……言ってた通り。すごく、色んな人がいて……不思議」
「物は言いようって感じだな」
苦笑する。恐らく、小学生の和姫はこんな光景を指してそう言ったのではなかったはずだ。
しかし、それはともかくとして。
和姫は、長い息を吐かずにいられなかった。
あの図書室は例外として、全体が薄暗い灰色を基調とした廃墟のような学校だったけれど――百合子がその澄んだ瞳で見て回ったのは、汚れた壁でも砕けた窓でもなく、人だった。
――同じなんだ……こいつが見てる景色は……
――美笛姉ちゃんが大好きだった、鬼百合と……
「……ね、和姫」
逆に。百合子から、問いかける。
「和姫は……なんで、ここに通ってるの……?」
それは――藤宮和姫という少女に対して、周囲の人々がいつも抱く疑問。
家族には、階段から落ちて骨折したと言った。そういう診断書も貰ってある。喧嘩で怪我をした鬼百合の生徒を診て「然るべく処置してくれる」よう理事長の楽土ラクシュミが金を握らせている病院が、湘南にはあるのだ。和姫は家族に心配をかけないために、鬼百合がこういう学校であると隠して通っている。後から知ったことだったが、一緒に住んでいた従姉がいつもそうしていたように。そうまでして、何故。
「そうだなあ……そうだよなあ」
人目に付かぬよう、セーラー服をコートで覆って。
ただ平穏な生活を願いながら、何故、藤宮和姫は鬼百合女学院の教室の片隅に身を置き続けていたのか。
自分でも、そこに確たる理由など見つけられなかった。考えてみれば当たり前の話だ。本当に静かに暮らしたいのならば、こんな終わり果てた学校を一刻も早く離れるべきであるということくらい。転校してきた百合子に、そうすることを勧めたように。
だから、くしゃくしゃの髪を片手で一層掻き乱して、言った。
「美笛姉ちゃんがどんな景色を見てたのか、知りたくて……かな」
声が、今も耳に残っている。
『お前も来いよ? うちのガッコ。おもしれーぞ?』
『鬼百合は――女が、生き方を見つける場所なんだ』
そう笑って、彼女は玄関で片手を軽く挙げたのだ。それが、和姫が従姉と交わした最後の言葉だった。
ただ思い出すくらいでは、もう、涙を浮かべることもなくなってしまったけれど。……何度も夢に見ては、朝、窓を開け放つ前に力なく息を吐くのだ。
百合子は、その答えを噛み締めるようにそっと頷く。顔も知らないひとに、想いを馳せる。潮騒の彼方のニライカナイから、そのひとは見守っているのだろうか。和姫を、沙羅たちを――鬼百合を。もしかしたら、百合子の母親と並んで。
「そっか……ね、和姫。わたしも……一緒にいて、いい……?」
鼻を鳴らして、藤宮和姫は唇の端を片方、吊り上げる。
なくした夏の続きが、そこにあった。
「……ダメだっつっても、離れないんだろ」
「うん……」
冷えてかさついた百合子の右手を、和姫はそっと取って、モッズコートのポケットへ導いた。
謝花百合子はここにいる。藤宮和姫はここにいる。
ふたりには、それで十分だった。
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