第二話『第一使徒 乙丸外連』3

「こんにちはー」

 藤宮和姫は、重い木製扉を無事な左肩で押した。謝花百合子が細い両の腕でふるふると頼りなく支えている間に、身体を屈めてその隙間へ滑り込ませる。

 和姫が『酔狂隊』の礼拝堂を訪れることはそう多くなかった。ただ平穏に暮らしたい彼女は、『酔狂隊』の使徒であることを極力ひけらかさないようにしていたのだ――冬場はコートを脱がず、なるべくセーラー服を隠そうとしていたのと同じ理由。もちろん、転校してきた百合子のような例外を除けば藤宮和姫が『酔狂隊』第七使徒であることを知らぬ者など校内にはいなかったのだけれど、ただ態度の在り方として。

 薄く埃の積もった長絨毯に、やわらかな午後の光が射し込む。ふたりの影、伸びる。

 ――静かな、場所。

 覗き込んだ百合子が最初に抱いた感想はそれだった。校内の喧騒を離れた森の奥に建つ礼拝堂の壁は扉と同様に厚い。一昨日、水恭寺沙羅にここへ呼び出されてスカウトを受けた時は、和姫を含めて八人ほどの使徒が長椅子の所々を埋めていた。第二・第十は通信機器越しの参加を選んで姿を見せず、百合子自身がその座に収まることとなった空位の第六に加えて第三が欠けていたが――『酔狂隊』の半数以上、考え方によってはほぼ全員と言ってもいいだろう。それだけの人間を収容したここにはざわつく雰囲気があって、今ほど静かには感じられなかったのだ。

 中にいたのは三人だった。オルガンの前の椅子に腰掛けて脚を組み、透き通るようなスカイブルーに染めたブロンドを耳へと掻き上げながら、割り箸を上手く使ってコンビニの天丼を頬張る白人の少女。その傍の長椅子に寝転び、長い脚を背もたれに乗せて音楽雑誌をめくる人相の悪い銀髪の少女。長絨毯の果て、床に座り込み講壇に背を預けて顔にハンカチを乗せている赤毛は一瞬死体にも見えてぎょっとさせられるが、ただ寝ているだけであるようだ。

 講壇の傍には大きなストーブがあって、上に置かれた薬缶がしゅんしゅんと静かに蒸気を噴いている。広々として天井の高いこの空間を温めるには少し力不足であるようで、コートを脱ぐには肌寒すぎる。勿論、屋外よりはずっとましだったが。百合子は長い袖の中に隠していた指で冷え切った耳に触れた。

「おや」

 長い睫毛、上下させて。

 温存しておいた海老天を乗せて最後のひと口を掻き込んだ彼女は、割り箸とプラスチックの器を床に置く。

 両手を合わせて、ご馳走様でしたと丁寧に発声。その一拍を済ませた後に、彼女は立ち上がった。

「珍しいな、和姫君がここに来るのは」

 微笑し、口元に指を伸ばす。海老の尻尾を摘まんで、空になった器へ投げ捨てた。

 濃紺のセーラー服はなかなかの表面積を持っている。ざっくばらんに言ってぽっちゃりとした体形であるのだが、醜さを欠片も感じさせないのは、コーカソイドらしく端正な顔立ちと纏う謎めいた雰囲気によるものだろうか。

「いやあ、あはは……まあ、付き添いですかね。今日は」

「つれないな。お姉さんとしては、可愛い女の子は増えれば増えるほど嬉しいものなのだが」

「それなら尚更、私の出る幕じゃないですって」

「……君は可愛いよ。自信を持つといい」

 左腕だけを使って、肩を竦める仕草をした和姫。その後ろで、マフラーを巻いた小柄な少女がこくこくと頷いていた。この空間において今日の、否、当面の主役となるであろう彼女に、豊満な体型の不良少女は改めて蒼い目を向ける。

「外は寒かったろう? ストーブの傍に来て温まりたまえ。そして、ようこそ『酔狂隊』へ。お姉さんは君を歓迎しよう――謝花百合子君」

 一昨日、和姫以外の使徒たちは沙羅と百合子とのやり取りをただ静観していただけだった。百合子としても彼女たちの顔を見てはいたが、実質的には初対面のようなものである。豊かに張り出した胸に片手を当てて、大柄な白人の彼女は名乗った。

「お姉さんの名前はヘルミ・ランタライネンという。君のひとつ前、第五使徒だ。ミッリと呼んでくれても構わないぞ」

 くりくりと大きなヘーゼルの瞳で、見下ろしてくる背の高いひとと視線を交わらせる。

 そこに敵意は決してない――つい一昨日、謝花百合子は「『酔狂隊』全員とタイマンしたい」という願望を、畏れることなく口にしたばかりだというのに。

 和姫は、背中を見る。腕を吊ったままで。南の島の子、謝花百合子の小さな身体。海と太陽を想像させる健康的な地黒の肌をしているのに、触れたら割れそうなほど細く見える輪郭。不良少女――一般にそう称される鬼百合の喧嘩好きたちと同じようには、とても見えないのだけれど。

 それでも彼女は確かに、ここにいることを選んだ。濃紺のセーラー服をダッフルコートの下に着込んで。

 タイマン――喧嘩。それは彼女にとって、何だというのだろう。譲れないものがあるからこそぶつかり合うのが不良少女であるのなら、百合子にとってのそれは何なのだろう。和姫は、まだ百合子という存在を測りかねている。

「……ヘルミせんぱい。どうも……えっと……よろしく……」

「うむ、こんなに可愛いのだから流れるような無視も許したくなってしまうよ。……誰も彼も、そんなにお姉さんを愛称で呼ぶのが嫌か。悲しくなるな」

 腕を組み、芝居めかして溜息をつきつつ歩き回る。ぴたり足を止めるのは、礼拝堂へ入ってきた和姫と百合子に目を向けようともしなかった銀髪の少女の前でだ。

「どう思う、お姉さんのことを呼んでさえくれない銀子君?」

「……発音しにくいだろ、日本人には」

 舌打ちひとつして、苛立ちを隠そうともせずに雑誌をばさりと閉じる。そして、目の前に立ちはだかったヘルミの肉感的な臀部を手の甲でぺしんと叩いた。蝿でも払うかのように。

「尻を叩かないでくれたまえ」

「でけえケツが邪魔なんだよ、デブ」

 唇尖らせるヘルミを睨みつけ、スカートのポケットから煙草を出すが――もう一度、舌打ち。どうやら火種が見つからなかったようである。ゴロワーズの蒼い箱が、埃の上に転がった。

「この人相と口の悪い彼女は硯屋銀子君といって、第四使徒をしている。安心したまえ根は善良だ、君も困ったことがあったら頼るといい」

「オイ、殺すぞクソが」

 目に痛いほどの銀色に染められた頭をわしゃわしゃと撫でるヘルミの白くもちもちとした手を、痩せて骨ばった銀子の手が鋭く払い落とす。硯屋銀子の第一印象は、まるで野犬のようだ――否、その毛並みと眼光のぎらつく鋭さは原生の狼か。ヘルミが人当たり良く見えるからこそ対照的に――近付かれることを拒んでいるようにさえ、見えた。

 百合子は和姫の腕を指先でつついて、踵を上げ背伸びして耳打ち。

「銀子せんぱいとヘルミせんぱい、仲、悪いの……?」

「いや……お前めちゃくちゃ素直かよ……あのふたり、あんなノリでいっつも一緒にいるんだぜ」

「聞こえてんぞ藤宮ァ」

 銀子が長く細い脚を伸ばし、オルガン脇の椅子を蹴る。きょとんとしていた百合子がびくりと肩を跳ねさせたので、和姫はそっと手を伸ばして指と指を絡めた。雪がゆっくりと融けるように、強張った皮膚がやわらかく熱を伝え始める。その指先に力が込められたら引き寄せて間に入ってやるつもりだったが、その必要はないようだった。

 ――ビビらされても、逃げようともしないんだもんな。

 ――昔は、ずっと私の後ろでオドオドしてたのに。

「チッ……なあ、謝花っつったか。あたしは誰が抜けて誰が入ろうが興味ねえ。面倒臭えことだけ起こすな……っつっても、まあ、無理なんだろうけどよ……せめて、あたしを巻き込むんじゃねえぞ」

 掠れた低い声で、銀子は言う。百合子のくりくりした大きな瞳を、三白眼で睨めつけて。おっ、と和姫はプラスチックフレームの眼鏡を指で押し上げた。単なる格闘・運動能力としての「喧嘩の強さ」だけではなく、威圧に立ち向かう「胆力」のような部分もまた鬼百合で生きていく少女たちには不可欠である――鬼百合で生きて、戦い続けたいのならば。銀子の眼力の前には、喧嘩慣れした不良少女たちでさえ気圧される。だが、百合子はその鋭い切っ先に似た視線を突きつけられてなお、ヘーゼルの瞳に宿す光を一切揺らがせることなく、一切曇らせることなく、じっと見つめ返していた。顔の下半分を、巻いたマフラーに埋めたまま。大したものだ。

「……聞いてんのかお前」

「うん……」

 ――いや……ただぼんやりしてるだけなんじゃないか……?

 ――あとなんでこいつ先輩に敬語使わないんだ……?

 和姫はハラハラと見守っていたが、硯屋銀子にとってはやたらと話しかけてくる人間よりも百合子のように無口な方が実害が無い分だけ好印象なのだった。言葉遣いなど至極どうでも良い。

「……お前、ライター持ってねえか」

「煙草……吸わない……」

「そうか」

 立てた片膝の上にすらりと長い腕を投げ、銀子は気だるげに天井を見る。

 そうなると、静かな時間があった。銀子の前の椅子に腰を下ろし、ヘルミは髪を掻き上げて、ビニール袋からコンビニ弁当の天丼を取り出した。二杯目である。百合子は目を丸くしたが、銀子も和姫も何ら特別な反応は見せなかった。ヘルミ・ランタライネンという少女を知っていれば、それはさほど驚くには値しないことだった。

 ぱかりと蓋を開け、満足げに付属の出汁つゆをかける。箸を割って、手を合わせた。

 銀子は雑誌の続きを読もうとするでもなく、ただ目つきの悪い無表情で脚を投げ出し座っていた。講壇に寄り掛かった赤髪の彼女は起きる気配もない。こうしていても仕方ないので、和姫が所在無さげに立っていた百合子を呼んで校内の他の場所に連れて行こうとしたところ――思いついたように、銀子はぽつり口を開く。

「……そうだ、桜森が持ってんだろ――おい、ブタ。餌ばっか食ってねえで、そのバカのポケット見てみろ」

「人遣いが荒いな君は……自分で起こして頼みたまえよ。お姉さんは君の奴隷ではない」

 ヘルミは視線を流して、天丼を頬張り続けた。つゆが渇いて衣がぐずぐずになった薄いカボチャの天ぷらを口に運び、ご飯を掻き込む。口元に跳ねたつゆを指先で拭う様はどこか扇情的でさえあった。

「あァ?」

 不機嫌そうに凄む銀子。やれやれ、とヘルミは大袈裟に肩を竦めてみせる。

「銀子君、斜に構えて格好つけるのもいいが自分で何もできないのは深刻にダサいぞ。先週も煙草を買いそびれていただろう、お姉さんが気付いて注文しておかなければ君は否応なく数日禁煙する羽目になっていたはずだ」

「……何だテメェ、オイ、喧嘩売ってんのか」

「耳の痛いことを言うのは愛しているが故さ」

 芝居がかった語りに合わせて丼を置いて立ち上がり目の前で腕を組むヘルミに、銀子は左の瞼をひくつかせた。

「……ナメてんのか? 二度とメシ作んねえぞ」

「よし、和解しようじゃないか。人生は長く、あらゆることは少しずつ変えていけば済む話だ。うむ」

 和姫は夫婦漫才を無視して百合子に話しかけようと横を向き――

「あれ?」

 いつの間にかするりと手を離した彼女の姿が、そこにないことに初めて気付いた。

「……」

「お、おい、百合子……!」

 百合子はふらふらと礼拝堂の奥へ歩いていき、講壇の前で屈むと、ハンカチを顔に乗せて寝ているらしき赤髪の少女の肩をそっと揺すっていた。

 和姫は息を呑む。考えるまでもなく、その薄布が捲れた下にあるのは桜森恬の顔だ――逃げようにも間に合わない。

「くぁ……ん……なんや……?」

 星に手を伸ばすように腕をぐっと持ち上げると、顔からハンカチがはらりと落ちる。

 それはまるで、スローモーションのように。

 視線、踊って。

 目くるめく万華鏡のような冬の陽が、チャペルの窓を透かし射し込む中で――彼女たちは、出会う。

 謝花百合子。藤宮和姫。桜森恬。それは密やかにして、目撃したのは硯屋銀子とヘルミ・ランタライネンのたったふたりきりであったが。

 いつか新しい世代の伝説に変わっていく三人の不良少女が、初めて、一堂に会した瞬間なのであった。

 まだ夢現であるのか、恬は片目を閉じたままでこちらを向き、微笑した。

「よ、カーズキっ」

「……恬」

 和姫の表情は引き攣っていた。

「ククッ、ホンマに骨折っとる。どいつもこいつも、何をテンコーセーにサクッとやられとんねん。アホ」

 そう口では言いながらも、嘲笑うというよりは親しみを込めて笑っているようだった――まるで猫のように、寝起きの目元を擦って背中を震わせ笑う。頬が髪と似て林檎のように赤く染まっているのは、ストーブの傍で寝ていたからか。

 床に落ちたハンカチをくしゃくしゃに丸めてスカジャンのポケットに押し込み、ほつれた髪を手櫛で梳くと、虎縞柄のカチューシャでオールバックの形を作り直した。

 首を回し、次は、自らの肩に触れた黒髪の少女に。

「ほんで……こっちのマフラーちゃんが、噂の謝花百合子やんな。僕は桜森恬。ジブンと同い年の一年や」

 細い目は瞳の形を隠し、感情を読み取らせない。ただ口元は鮫のような笑みを作っていた。すべすべとして露わになった額は、不釣り合いなほどにあどけなくも。

 ……遠巻きに見ているヘルミと銀子の纏うオーラが変性したことを、百合子はなんとなく感じ取った。弓を引き絞るような音持たぬ緊張の匂い――「何か」が起きれば、力ずくでも介入しようとしているかのように。

「聞いとんでー? 何や、来て早々ハッスルしとるみたいやん」

「うん……ありがと。頑張る」

「褒めてへんわボケ! ……ククッ、おもろいやっちゃホンマに」

 恬は手を伸ばし、百合子が頭につけた大きなハイビスカスの花弁に触れる。百合子は身じろぎせずに恬の狐目を見据え続けていた。鳳凰の刺繍を入れた灰色のセーラー服とその上に着込んだスカジャンの袖が置き去りにされて、恬の腕に紺色の銃口が見えた。タトゥー。百合子の僅かに浅黒い肌が粟立つ。この真っ赤な髪の少女は――おかしい。人相が悪いとかそういった次元の話ではなく、何か、深いところが人と「違う」。

「そら、僕らは田中と仲良しやったいうわけやない。せやけど、『酔狂隊』の使徒が転校生に負けて追い出されたいうんは困るんよ。僕らヤンキー、メンツが命やさかいな」

 漬ける野菜にスパイスを揉み込む如く、指先でハイビスカスの花弁を擦り続ける。木彫の聖母像の目の前、講壇の陰で、ふたりの少女は睦み合っているようにも見えた。

「……?」

「早い話な――『あんま調子乗んなや』言うとんねん」

 急に、声が無色になる。平坦な、大胆な、刃のような低音。

 ふらり、と桜森恬は立ち上がった。腰に手を当てて捻り、固まった背骨をぽきぽき鳴らしてほぐす。

「……おい、恬……何もそんなこと言わなくったって」

「……」

 止めようとした和姫を無視し、恬は狐目を一層細める。百合子は口元をマフラーに埋めたままだったが、見上げる目を少しだけ見開いた。ヘーゼルの瞳。ふたつ、爛々として。

「わかるやろ? 謝花……なんぼ沙羅さんに認められたかて、ジブンのこと良う思うとる使徒はひとりもおらへんねんで」

「え、そうなのか? お姉さんはかなり気に入ってしまったのだが……可愛いし……なあ、銀子君」

「知るか。良いも悪いもそもそも興味ねえよ」

「「「……」」」

 沈黙。

 素朴に口を出してしまったヘルミは銀子の肩をつついては鬱陶しがられている。気まずいのは三人の一年生だった。

 ……

 無限大の沈黙が、あった。

「エーーーっ!! いや何やねんアンタら!! 合わせてえや!! 最悪やわこんなん、僕ひとりでイキっとるみたいになるやないですか!!」

 恬が大仰に振り返る。空気が、錐の穴を開けられたビニール袋のように弛緩していく。

「……桜森さん、楽しい人?」

「ホラこうなってまうやろがーーーい!! エー勘弁してや、僕そういうキャラ違うねん、違うねんで。な、和姫」

「私に振るなよ……」

 燃えるように紅蓮の髪をわしゃわしゃと掻き乱して、恬は叫んだ。不思議と――そう騒がしくしている間は、あの血染めの鋸刃のような昏くぎらつく気配が消える。ごく普通の、お調子者の少女と見えるのだ――髪を紅く染め、銃のタトゥーを入れていても、彼女はどこまでも平凡な少女というシルエットで存在しているのだった。背が高いわけでも低いわけでもなく、太っているわけでも痩せているわけでもない。全てが、十六歳の少女としての平均。あまりにも没個性的なその肉体に、誰にも共感され得ないほど狂い果てた精神が入ってしまった。それが桜森恬――『酔狂隊』第九使徒、桜森恬であったのだ。

 しかし、和姫に秋波を送る彼女は、再び表情に凄惨の影を落とす。

「ああん、冷とうせんといてや。なあ? 思い出してや、僕ら――」

「恬!!」

 千鳥足めいて、恬は長椅子の間を行く。絨毯、ブーツの靴底で踏んで。眩暈の先に藤宮和姫が立っている。裾の長いモッズコートを肩に引っ掛けて。肩に、力が漲っているのがわかる。片腕が使えずとも――

「ククッ……和姫ぃ、そないカッカせんといてーな。怖いやん、なあ……」

 桜森恬の霞む視界に、藤宮和姫は像を結ぶ。くっきりと。オルガンの傍、恬の一挙手一投足にじっと目を光らせているふたりの同級生もそうだ。

「謝花ぁ。ジブン、タイマンしたいんやって? ええやん、僕はいつでも相手んなったるで」

 和姫の万全ならざる右肩に軽く手を置いてすれ違いながら、恬は背後の彼女に言った。振り返ることはない。謝花百合子がどう見えるか、知ってしまってはつまらない。

 どうせ、いずれ拳を交えるに決まっているのだから――

「タイマンの数だけ強うなるんやろ? ケッタイなやっちゃ……ほな、楽しみは後にとっとかなね」

 桜森恬は、ぱきりと細い首を鳴らす。

 紅い髪をしたラプンツェル。青春というこの塔の中で、彼女は喧嘩をすることしか知らなかった。

「ほな今日は僕、適当に誰か捕まえて喧嘩してくるわ。『下人會』おるとええねんけどなー、一昨日やっけ、人がええ気持ちで『下人會』のアホ共と喧嘩しとったのに、何や三年のババア連中が出張って来よってん。……ま、ええわ。そないなわけで謝花、よろしゅうな。お相手は天下無敵の恬ちゃんでしたー♪」

 流れる水のように淀みなく喋り続けながら、スカジャンのポケットに手を突っ込んでチャペルを出て行く。残された四人ともが、背中で揺れる炎髪を見送った。誰にも動くことを許さなかった。空間内の誰もが彼女から目を離せず、しかし誰もが動けない。抜き身の凶器が風に吹かれてひらひらと飛んでいるかの如く。

 硯屋銀子がライターを借りそびれたことに気付いたのさえ、恬がチャペルを出て行った数秒後であった。



「……ね。和姫……」

「ん?」

 カップに口をつける。

 どうしたものかと和姫は思っていた。百合子に校内を案内している途中だったわけだが、恬が喧嘩場を求めて徘徊し始めたとなればそのうちどこかで騒ぎが起こるだろう。なるべく迂回して動きたい――ふたりが午後の授業を休むと決めると、ヘルミはコーヒーを淹れてくれた。

 長椅子に、並んで座っている。片腕しか使えない和姫が天板にカップを置けるようにと、間を少しだけ空けて。

 ゆったりと響くのはアコースティックギター。手慰みにか、銀子は目を閉じて指に馴染んだコードを刻む。それを心地の良いBGMとして、セーラー服の少女たちは思い思いに午後を楽しんでいた。最初に引き合わせる使徒がヘルミと銀子になったのはラッキーだったと今更ながら和姫は思った。このふたりは『酔狂隊』どころか鬼百合の不良少女たち全体の中でもかなり常識人寄りである。

 膝の上、右手で取っ手を摘まんだカップを左手で支えている百合子が、小さな口から小さな声を出した。よほど寒さに慣れていないのだろう、鼻の下まで埋めたマフラーを引き下げるのは飲食の時だけだ。

「なんで……田中さんは『田中』で、桜森さんは『恬』なの……?」

 いっ、と和姫の喉から声を成さぬ声が漏れた。手にしたカップの中でコーヒーが細波立つ。

 ――なんでこいつこんな無駄に鋭いんだよ……!?

 ちらり、と和姫は横目でフィンランド人の上級生に視線を送る。助け舟を求めて。だがヘルミはこちらを見ていない――二杯目の天丼を片付けた後は窓際に静かに立ち、物思いに耽るように頬に手を当てていた。銀子もまた全く興味無さげに目を閉じたまま小さく首を振ってギターを鳴らし続けているが、彼女の方には初めから期待していない。

「あーーーーー……えっとな……色々あって……」

 和姫は天然パーマでウェーブを成した髪に手を遣り、好奇心に囚われた子供のように大きな瞳でじっと見つめてくる百合子の瞳に耐えかねて目を逸らす。

 ――いつまでも隠し通せるもんじゃないよなあ……

 実際――和姫が後ろめたい思いをするというのも理屈としては妙なのだ。小学六年生の夏にさよならを言って、再会の約束をして、和姫と百合子とはそれきりだったのだから。別に遠距離恋愛を続けていたわけではなくて、百合子が南の空を越えて手を伸ばさなければその運命の糸が手繰り寄せられることもきっとなかったのだから。

 再び巡り会うまでの間に、藤宮和姫と桜森恬との間に友人以上の関係が結ばれた季節があったという、ただそれだけのことを――ひた隠しにする必要も、だから本当はないのだろう。

「和姫……?」

「っ」

 それでも。

 和姫は、亡き従姉や彼女を慕っていた不良少女たちのように、格好良い人間ではなくて。

 きっと、今の百合子を傷付けることで胸の中のあの夏さえも砕け散ってしまうのを恐れて。

 息が詰まる。汗が滲む。隣に座る小柄で純粋な少女との間に、果てしない距離があるような気がした。

 ――ああ、そうだよ。

 ――私は弱いし、卑怯だよ。

 ギプスの中で、折れた腕がじんじんと痛む。こんなに寒々とした礼拝堂で、身体のどこかが熱を帯びる。

 ひとの心に刃を突き立てる、その瞬間を――少しでも、先延ばしにしようとしていた。

 そして、得てして、そんな時に限って救いの手が差し伸べられてしまったりするものなのだ――天使のものか悪魔のものかは、神様にしかわからなくとも。

「たっだいまー。ふいー、お腹いっぱい……あれ? ヒメ」

「外連さん!! 丁度いいところに!!」

 厚い扉がきいと軋んで、日中の光が忍び込む。和姫はすぐさま振り返り、大きな声を出した。先頭に立っていたのは小柄な乙丸外連だったが、長いスカートのポケットに両手を突っ込んだ水恭寺沙羅とスケボーを小脇に抱えた鷹山覇龍架も一緒である。

 ヘルミがふとオルガンの前に座って、そっと指を動かし始めた。外連が長椅子のひとつの背にぴょんと腰を下ろす頃にはヘルミの指使いは軽やかに駆けて、クラシックの教養などない和姫にもよく耳慣れたメロディーを成した。パッヘルベルのカノン。硯屋銀子がそれを耳にして、意外なほどに優しく弦を爪弾くアルペジオで追いかける。

「どったの? 珍しいじゃんか」

「いやあ、えっと、百合子に『酔狂隊』の皆さんを紹介しようと思いましてね……ほら、沙羅さんと、第一使徒の乙丸外連さんと、第十二使徒の鷹山覇龍架。鷹山は中学生で、沙羅さんの舎妹(スール)なんだよ。舎妹制はわかるよな、田中とお前――」

「ヒメ、とりあえず落ち着きな」

 沙羅たちの方と百合子の方とに交互に顔を向けながら早口で喋る和姫に、沙羅は苦笑する。セーラー服の上に臙脂色の半纏を羽織った、蓮っ葉な喋り方をする彼女――『酔狂隊』、十二使徒を束ね上げる長。鬼百合最強とも噂される、秘蹟の右手。百合子が、鬼百合女学院で初めて出会った不良少女。

 その言葉の端に見えた、幼馴染への呼称を――謝花百合子が、聞き留めた。

「……ヒメ?」

 ――よし! 話が逸れた!

 和姫は内心でガッツポーズをした。

「ああ、昔のあだ名でさ。美笛姉ちゃん、私の死んだ従姉が私のことそう呼んでたんだよ。和姫の『姫』を取ってな」

「へえ……」

 微笑む。嬉しそうに、暖かそうに。余り気味の袖に隠れる指先を、口元に当てて。

 懐かしいような音楽を、硯屋銀子とヘルミ・ランタライネンが背景に徹して紡ぎ続けてくれている。

 百合子が和姫と共に過ごした時間は、全て合わせても五十日にも満たない。十六年の人生の中の、たった五十日。それを寂しいとは、全く思わなくて――

 ――嬉しい。

 ――わたし、これからもっとたくさんの和姫を、知っていくんだ……

「あたいらも美笛さんには世話になったもんでね。ヒメとはその頃からの付き合いってわけさ」

 沙羅は左手を腰に当て、右手を外連の色を抜いた頭に当てて短い髪を梳いた。毛繕いを愉しむ動物のように、外連は上機嫌で首を反らし沙羅の胸元にぐりぐりと頭を押し付ける。

 片耳ずつのピアス。音楽の中に揺れている。正十字と逆十字。

「よく遊んだよねー。いっつも美笛さんが何か楽しいこと思いついてさ、ヒメと沙羅とうちと案<アグネ>と――」

 ぶらぶらと、木の枝のように細い脚を振り。身体こそは小学生の頃のままのような彼女が、不意にはっとして。

「っと……ごめん」

 表情を、曇らせた。

 ひとの不在は、決して独りで持ち得るものではない。それは共有されるもので、分有されるもので、どれほど近付いてもあくまで他人である沙羅や外連が受け取ったものよりも――藤宮和姫のそれは、大きくて重いはずだから。

「いやいや、気にしないでください。沈んでたら美笛姉ちゃんが帰ってくるってわけじゃないんですから」

 眼鏡を、指で支えて。

 和姫はへらへらと笑うのだ――モッズコートの下に着たセーラー服を、雲の上の彼女は似合うと笑ってくれるだろうか。

 たくさん話そうと思った。謝花百合子、あれだけ言ったのにきっともうここを離れることはないこの少女にも。永遠の栄光の中にいた、誰よりも強くて大きかったひとのことを。

 もう、それしか、出来ないから。

「鷹山は、美笛姉ちゃんと会ったことないんだよな」

「そうッスね……沙羅の姐御がオレを舎妹にしてくれたのが二年前ッスから。マジ、お会いしたかったッス。姐御たちを鍛えた方なんて、想像もできねーッスよ」

 山深く湧いた石清水が下流では大河となって魚や藻を育むように、清か静謐の中にあった礼拝堂は今や賑々しく人の声と自由な音楽に溢れていた。

 百合子は積極的に会話に交ざっていける性格ではなかった――ただ新入りであるからというだけでなく、口下手で声も小さい。それでも、輪の端にひっそりと加わってヘルミのコーヒーを飲みながら、目を細めて外連や覇龍架の声を聞いていた。

 ――不思議。

 ――今帰仁のうちと、似てる……

 実家の民宿で、百合子は女将である祖母の背中に隠れてばかりいたけれど――それでも、それぞれ初対面の客同士が酒を飲んで楽しそうに笑っている、あの暖かい雰囲気が好きだった。騒がしいのに、煩いと感じるよりもむしろ、自然と笑顔になってしまうような。

 口元のマフラーを引き下げたまま柔和に微笑む彼女に視線を遣り、腕を組んだ沙羅は口を開いた。

「――どうだい、謝花。『酔狂隊』は」

 沙羅が口にした問いのひとつで――使徒たちの視線が、百合子に集まる。銀子とヘルミさえも、楽器を奏でる手を止めて振り返った。

 第一使徒、乙丸外連。第四使徒、硯屋銀子。第五使徒、ヘルミ・ランタライネン。第七使徒、藤宮和姫。第八使徒、桜森恬。第十二使徒、鷹山覇龍架。

 そして――彼女たちを束ね上げる頭、水恭寺沙羅。

 全員ではないが、構成員の多くと会った。会って言葉を交わし、彼女たちが過ごしてきた時間の片鱗を見た。

 その輪の中で、和姫の隣で、一緒にこれからの思い出を紡いでいきたいと――あの眩しかった夏の続きを始めたいと、思ったから。

 百合子はうっとりと目を細めて、小さく頷く。

「すごく……素敵だと思う……」

「そいつは――嬉しいね。こいつらみんな、あたいの自慢のバカ共さ。……それで? 今でもまだやっぱり、全員とタイマン張りたいってのかい?」

 真っ赤なルージュの唇をにやりと歪めて、からかうように。

 周囲の緊張を、百合子は感じているのだろうか。少なくとも、和姫は隣で痛いほどに感じている。既に百合子とのタイマンを済ませ見事に腕をへし折られた和姫は、どちらの立場として今、鼓動を速めているのだろうか。

 今度は、少し大きく。

 こくんと、百合子は首を縦に振った。

「……」

 空気が、もはやこれ以上ないほどに張り詰める。

 確かに、それはふざけたような話だ。目の前でなされることをどうしても許容できない状況にあって、自分の中にスジを通すための闘争行為が――不良少女のタイマンである。理由もなく、練習試合のようにして仲間と気軽に繰り広げていいものでは決してない。

 それでも、百合子の眼差しに迷いは見て取れなかった。何もわからないまま、口先だけで言っているのではなかった――そう思わせる気迫があった。毅然として、彼女は沙羅の視線を真っ向から受け止めていた。黒髪の中に咲く、一輪のハイビスカス。己の頭を飾るその花のように――

 誰かが唾を飲み下す。沙羅の舌先が走って上唇を舐めた。まさしくその場の使徒全員が、それを見た。

 大きなストーブは空気を暖め、かき混ぜる。この天井高き礼拝堂の中央で、主は、彼方から来た者に何を語るのか。

「そうかい、そうかい。そんならあたいは、もう止めやしないさ。好きにしな――」

 祈るように、胸の前で指を組み合わせて。

「――ただ、うちの連中は一筋縄じゃあいかないよ? ふふっ、覚悟するんだね」

 満足気に、笑った。

「謝花百合子。改めてだけど、あんたは今日から――あたいの使徒だ。よく来てくれたね、『酔狂隊』に」

 右手。拳に握って揮うことであらゆる奇跡を為す、輝ける右手を――差し出す。ぱちくりと大きな瞳を瞬かせる、ハイビスカスの少女に。

 鬼百合最強と謳われる水恭寺沙羅。その手のひらは――凍えるような冬の中で、やはり乾燥して硬く冷たかったけれど、しかしその奥にじんわりと熱を帯びていた。

「えっとぉ……姐御? オレ、よくわかんねえんスけど……結局、謝花、さん……百合子さん……? が、第六使徒になるんスか? 使徒全員とタイマン張るって言ってんのに?」

 合点がいかない様子の覇龍架だったが、沙羅にとってそんなことは問題でもない様子で。

「あんたの中じゃ、それとこれとは別なんだろ? 謝花……ううん、そうさね、ユリ。うん、ユリがいいかな」

 顎に手を当て、からりとした笑みを浮かべながら片目を瞑ってみせる沙羅。

「わたし……もっと、色んな人のこと、知りたいから。嫌いだからじゃなくて……仲良くなりたいから、したいの。戦って、みんなのことを知れば知るほど、わたし、強くなれるから……タイマン、したい……」

 ちらりと、見る。ギプスで固められた和姫の腕。……そこまでしてしまったのは申し訳なかったけれど、やはり、通じ合えたこともあった。田中ステファニーを倒し、沙羅のスカウトを受けて『酔狂隊』入りを決めた百合子を、和姫は死ぬ気で止めようとした。鬼百合はやはり危険な場所でもあって、そんな世界に百合子は足を踏み入れずともいいのだと。その想いに応えて、百合子は瞳を輝かせた。突きや蹴りに、和姫と一緒にここで青春を過ごしたいのだという全身全霊を乗せた。

 それは世界で最も甘美な戦争だった――紛れもなく、ふたりだけの蜜月だった。冷たい隙間風が差し込むあの教室で、机や椅子を跳ね飛ばしながら、百合子と和姫は空白の年月を満たすように語り合った。

 百合子は、思ったのだ。この箱庭に生きる不良少女たちの輪が裂け、ひび割れ、荒れ狂っているというのなら――和姫や沙羅、使徒たちと力を合わせ、喧嘩を通してわかり合い、そこに花を咲かせることができるのかもしれない、と。平穏なれどそれ故に尊い、和姫と夢見た学園生活。それを――自らの手で創り出せるのかもしれない、と。

「はー、なんか恬さんみたいッスねえ。……ま! オレは全然、姐御が決めたことなら反対も何もねーッスけど!」

 百合子の言葉の意味をわかっているやらいないやら、ぼけっと口を開けたまま曖昧に頷く覇龍架。

「ふふっ、つくづく面白い娘だな。何より可愛い。うん、一昨日も思ったが間近で見ると本当に可愛いな君……ここがお姉さんにとっての理想の環境にまた近付いてしまうじゃないか。なあ銀子君」

「だから興味ねえっつってんだろ」

 ヘルミと銀子も長絨毯を踏みしめ近寄ってくる。

 このふたりもこのふたりで――不思議、と百合子は思った。決して『酔狂隊』の中で浮いているわけではなく、沙羅たちとの関係も悪くないようだけれど、このふたりはまるで肌先一センチ、このふたりにだけ吸うことを許された空気を纏っているかのような。

「沙羅君も、そう思ったからいきなりスカウトしたのだろう?」

 あんたにゃ敵わないよ、と苦笑混じりに首を振って。

「まあ、ね。……いいじゃないか、色んなのがいるからこの学校は面白い……ってね」

 沙羅は、パーマのかかった髪の先を弄った。

「結構、結構。では近いうちに歓迎会かな」

「うおお、いいッスねえ! 食べ放題が良くねーッスか!?」

「うむ、よくぞ言った。お姉さんも全く同感だよ、覇龍架君。……銀子君はどうだい?」

「知るか。一生メシ食ってろデブ」

 ――良かった……

 ――和姫の……お友達。素敵な人ばかりみたい……

 ――わたしも、仲良くなれるかな。

「さて……『酔狂隊』のみんなに挨拶もできたし、そろそろ次行くか? 百合子」

 和姫は左手で前の椅子の背もたれを掴みながら、そっと立ち上がる。

「なんだいヒメ、どっか行くのかい?」

「そもそも今日は、百合子にそろそろ学校のあちこち見せて回ろうと思って。まずここに来たところだったんですよ」

 口数の少ない百合子に代わって、和姫が説明する。

 彼女に小さく頷いて、立とうとした時だった。

「……謝花、うちが案内してあげよっか? 怪我人のヒメひとりじゃ、万が一の時危ないじゃんか」

 そう、いつものように――明るく。何かを誤魔化す子供のように、明るく。

 しばらく黙りこくっていた乙丸外連が、人差し指を立てた。

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