第二話『第一使徒 乙丸外連』2

「それにしても――『力學党X<ダイナミクス>』の人らがねえ」

 鬼百合の昼休み――弁当やコンビニの軽食を持ち込む者も多いが、近隣の飲食店へ食べに出る者もまた多い。秩序の崩壊した鬼百合女学院なれば、いつ如何なる時間帯であろうと校門が施錠されることはなく、敷地への生徒の出入りは自由である。チャペルが建つ森の外れ、新校舎を抜けた先の校門を目指す三人もまた、国道沿いの喫茶店でナポリタンでも食べようと出かけていくところだった。

 中学三年生・鷹山覇龍架は、履き古したスニーカーの薄い底で舗装道を蹴る。光沢のあるステッカーで飾ったスケートボードの車輪が、小柄な彼女の片足を天板に乗せて回る。ひと蹴りまたひと蹴りと繰り返す度に、左右で長さの違うツインテールが風に靡く。

「そうなんスよ。恬さんとオレで十人くらいは倒したんスけど、まだまだ『下人會』の奴らが出てくる出てくる……さすがにマズいと思ったら、たまたま店に『力學党X』の三年たちが入ってきたんス。んで、オレらと『下人會』の間に入って」

「へえ……」

 沙羅は形の良い顎に手を当てて、考え込みながら歩く。「倒した」のはほとんどテンの方なんだろうねえ、と思ったけれど口には出さずに。乙丸外連が箱を開けて咥えた煙草の先に、背の低い彼女のパーカーのポケットからひょいと抜き取った百円ライターで火をつけてやった。

「ありがと、沙羅」

 キスの時に似た形の唇から細く煙を吐いた外連は、顔を沙羅の方へ傾けて笑ってみせた。ちゃり、と逆十字が玉鎖のピアスの先、揺れて。

 現在の三年生だけでメンバーが構成されている『力學党X』は、事実上もう解散したチームと言える。人数も七、八人で勢力としては小規模だったが、鬼百合統一を掲げて様々な強者と積極的にぶつかり合っていた。沙羅や外連たちとも何度も拳を交えたことがあり、決して『酔狂隊』と良好な関係ではなかったはずだ――卒業を前にして心中穏やかになり、たまたまダーツバーへ遊びに行って喧嘩に遭遇したところ、見知ったセーラー服の少女たちに手を貸して仲裁したと……そう好意的に考えられなくもないが。

「……よくわからん人らさね。クリスマスの大抗争ですっぱり引退しておいてくれりゃいいのに」

 どうも何かが頭の中でぎざぎざと引っかかっているようで、気持ちよく腑に落ちなかった。

 沙羅は眉間に皺を寄せ、頬を掻く。頭の悪い女ではないが、政治的な計算を巡らせるのはあまり得意ではない――そういうところは大抵、留守にしている第二使徒の役目だった。

 しかしそれでも、水恭寺沙羅は考えねばならない。

 この鬼百合を、妹が安心して通えるような学校にまとめ上げる――沙羅と三人の幼馴染から始まった『酔狂隊』は、その目標を手に入れたことで、鬼百合における勢力のひとつとなったのだから。

 異国情緒めく鎌倉を自由に駆け回るただの童女では、もはやいられない。沙羅は茶色く染めた髪にパーマを当て、真っ赤なルージュを引き、裾を引きずりそうなほど長いスカートを穿く、古式ゆかしい不良少女になったのだ。

 鬼百合女学院は、決して自由なりし楽園ではない。息の詰まるような箱庭――そこで沙羅は、喘ぐように息をしている。失ったものたちを何度も、頭の中で並べながら。

「沙羅の姐御は『力學党X』と構えてんスよね?」

「まあ、そういうこともあったけどねえ。そりゃ先輩方にとっちゃ、あたいらは面白くなかっただろうさ」

 苦笑する沙羅の歯から零れる息は、白い。白く、そしてすぐに消えていく。隣を行く乙丸外連の吐く煙が細く天に立ち昇り続けるのとちょうど対照的に。

「引退、かあ」

 指の先に吸いさしの煙草をぶら下げたままでいた外連の視線の先は、曇り空。灰と化したその先端は弱々しく砕け、崩れていく。そうして落ちる灰の粉がどこへ向かうのか、一瞥することもなく通り過ぎる。

 頭ひとつ以上背の高い幼馴染は半歩先を歩く。セーラー服の上に羽織った半纏を北風に靡かせながら、スケボーを操って速度を合わせる覇龍架の頭をわしゃわしゃと撫でる。きっと彼女は彼女で悩み事をいくつも抱えているのだろうが、それをまるで見せず、舎妹の前で不敵に笑う。そんな横顔が見えると、外連の胸はしくりと痛む。

 ――沙羅。

 ――うちの大事な、大好きな沙羅。

 ――そんな顔しないでよ。

 あと一年。一年後を見据えて、沙羅が覇龍架に見せようとしている背中。本当はもっと細くて小さいくせにさ。

 覇龍架は何も学ばなくていい。ずっと、沙羅と外連のバカで可愛い妹分でいてくれればいい。

 春なんて、来なければいい――

 天邪鬼な外連にそんなことを口にできるわけがなくて、煙草をぽろりと取り落とす。何か冗談めかして明るく笑いながら駆け出す。ローファーの革が軋む。自分よりも僅かに背の高い覇龍架のスケボーの後ろに飛び乗り、驚いて回る首に抱き着いた。



 絆・ザ・テキサスの特技のひとつは楽土ラクシュミの足音から彼女の気分を察知することである。

 チョコレート色の肌をした彼女はヒールの高い靴が好きで、常にかつかつと高く音を立てる。大抵は腕を組んで、大きく張り出した胸を支えながら。歩幅はさほど広くないものの、補うように脚をきびきびと動かすので基本的に歩くのが早い。寛ぐ時にはゆったりと身体を使うので、常にせっかちな性格であるというわけではなく、単に移動という無駄にかかる時間をなるべく短縮しようとしているだけなのだろう。飛び級制度を利用して留学先で経済学の修士号を取得している彼女は、そんなところまでステレオタイプのビジネスパーソンといった雰囲気を帯びている。

 そして、彼女の速度が平常時よりさらに早まるのは――機嫌がいい時と悪い時、であった。そして前者であれば爪先から、後者であれば踵から足を下ろすのだ。常にマハラジャの傍らを歩く絆だけが、それを知っている。

 ――今日は、深刻ですね……

 叩きつけるようなヒールの先端は鋭く、一撃にして廊下に散らばる窓ガラスの欠片を粉砕した。

 ……楽土コンツェルンの総帥として、今日のランチでは大葉地所という企業の経営陣と会食の場を持った。海の見える高級ホテルのレストラン。食の好みを聞かれたラクシュミが要望した通り、メニューはカレーであった。地元・湘南の野菜を一流のスパイスで丁寧に煮込んだ高級志向のオリジナルカレー。楽土側に不動産投資を求めたい先方のたっての希望があり、では昼休みに行ける距離でと湘南まで呼びつけたのだった。とても公にはできない依頼話を切り出すにあたり、料理が片付いたところで役員のひとりがラクシュミに同行していた絆・ザ・テキサスと小峰ファルコーニ遊我<コミネ・―・ユーガ>に顎でドアを指して退席を促したのだった。それまで一言も口を利かなかったふたりを、女子高生社長が浮かれて連れてきたクラスメイトだとでも思ったのだろうか。

 楽土ラクシュミという女は、決してただ気に食わないからと臍を曲げるお嬢様でも気紛れに他者を責め立てるサディストでもない――奇矯な振る舞いをしながらも大局的な視野を持つ賢者だと、絆は贔屓目を抜きにしても思わずにいられない。だが、一度でも逆鱗に触れた相手を決して許さない苛烈さもまた、彼女が時として垣間見せる一面に違いなかった。

『ご馳走様。大変、美味しゅうございましたわ』

 相手の話を遮り、ラクシュミはスプーンを皿の端に置くと、ナプキンで品良く口元を拭って立ち上がる。言うまでもなく、絆も遊我もほぼ同時に倣う。

 そして、ウェーブがかった髪を耳に掻き上げると、ほのかに微笑してみせた。

 楽土ラクシュミは紛れもなく不良少女である。我慢ならないことは、我慢ならない。大人を相手取っては、両の拳の代わりに経済資本とネットワークというふたつの武器を振るってやるだけの話。

『絆、お代を。この方々にお世話になることなど何ひとつありませんもの』

『はい』

 すっと翡翠の目を細めたラクシュミに縋りつこうとする彼女の数倍は年上の会社役員たちの前へ割って入った絆は、手品のようにどこからともなくジュラルミンケースを取り出し、ダンサーを思わせる無駄のない動きで身体をラクシュミの方へ回転させながら蓋を開く。

 半泣きになりながら床に頭を擦りつける会長の絶叫に近い懇願をそよ風のように聞き流し、ラクシュミは、ぎっしりと詰まった札束のひとつを掴み取る。手早く紙帯を爪で切り――

『それでは、御機嫌よう』

 蜂蜜色をしたシャンデリアの光に照らされて、桜の花が散るように舞い広がる紙幣の雨の中。

 ふたりの仲間を引き連れて、密室を出た。いつも通りに、かつかつと靴音高く。

 車のドアを閉めさせるまで、ラクシュミは残酷さを意図的に露わにした微笑を崩さなかった。

「……」

 仕立ての良いミルキーイエローのドレスに皺を寄せて腕を組みながら、ラクシュミはほぼ小走りに近い速度で鬼百合女学院の薄暗い廊下を行く。打ち寄せて岩に砕ける波のようにドレスの裾が閃いて、褐色の足首が覗く。腹の虫はまだ収まらないようだ――

 勿論、付き従う者も同じ速さで歩く必要が生じる。そんなことさえできない人間をラクシュミが傍に置くはずもないのだが。絆・ザ・テキサスは無表情のままテンガロンハットを押さえて主より小柄な四肢を苦もなく駆動させ続け、また小峰ファルコーニ遊我はそのあまりに大きな歩幅のために悠々と闊歩するだけで十分にふたりを追うことができた――何せ、彼女の背丈は二メートルを超えようかというほどなのだ。そのふたり、『魔女離帝』の親衛隊長と特攻隊長。

 車を降りて校門を通り、旧校舎を抜ける間――ラクシュミは、一瞬たりとも歩く速度を緩めなかった。軍人の行進さえ想像させるような、無駄のない脚捌き。『魔女離帝』に籍を置く不良少女たちとすれ違い、声をかけられても一瞥すらせず、代わって絆が片手を挙げて応えた。いつもなら、マハラジャたる彼女は二百人を超える構成員ひとりひとりの名前を呼び、にこやかに話しかけるというのに。

 絆はお下げ髪とポンチョの飾り紐を揺らしながら、ちらりと横顔を見やる。ラクシュミが「歩くこと」をストレス解消の手段として利用しているのはもちろん絆の知るところであるが、このまま理事長室に辿り着いても主の苛立ちが引っ込まなければどうしたらいいだろう? 早めに何か手配しておくべきか――絆は思案する。思案しながら、半ば駆けるように歩く。絆は思案する。楽土ラクシュミの翡翠の瞳は、どんな世界を見ているのだろうか。後ろへ流れていくこの鬼百合の昼、きりり引き絞られる弓のように張り詰める冬の情景の向こうに――絆・ザ・テキサスは、いつでも想いを馳せている。たったひとつ年上の少女という枠に収まりきるはずがないほどの神秘を帯びる彼女の主が、叡智と情熱の双眸で何を見ているのか。

 目まぐるしく周囲が行き過ぎる。ラクシュミに手を引かれて世界中を見た彼女の、今は確かに居場所である鬼百合女学院。その壁は壊され汚され、治安の悪さはいつかのブロンクスと大差ないように見えるけれど。

 目の前に王がいる限り、その進む道は王道であるのだ。絆・ザ・テキサスは笑わない。笑わないけれど、ポンチョで覆った胸の中に己の名を感じて微熱が熾り、痩せた脚により力を込めてリノリウムを蹴る。

「ああ、はしたない……」

 しかし――かつん、と。

 楽土ラクシュミは唐突に、溜息ひとつついて足を止めた。

 彼女の親衛隊長と特攻隊長は、一歩、余計に踏み込んでしまっていて。

「マハラジャ?」

「嫌になりますわね。わたくし、久しぶりに……」

 絆は振り返る。ラクシュミが纏っていた怒気がすっと輪郭の内に引っ込んでいく。絢爛にして高らかに笑う常の彼女しか知らぬ者には想像もつかないであろう、ぽつぽつと降る小雨のように低く静かな声。髪と同じく漆黒の長い睫毛が、翡翠の瞳を煌めかせるように瞬きをした。

 立ち止まったそこは、見慣れた新校舎の片隅だ。陽当たりは良好で、天井の蛍光灯こそ誰かに叩き割られていても自然光がアンバーの壁を十分に照らしてくれている。階段を登れば、理事長室である。楽土ラクシュミの鬼百合における居城、『魔女離帝』の殿堂。それ以上ないほどに、彼女たちのホームグラウンド。

 そこは龍の棲家。部下である『魔女離帝』構成員たちでさえ、急ぎの伝令でもなければ積極的には足を踏み入れない領域である。ましてや敵対勢力の者など近付くはずもない。人気のないその一角で、消火栓の曇った赤灯だけが気の抜けたコーラのようにぼんやりと光っていた。

 ――帰ってきたことで、自然とヨガの呼吸に戻られたのですね。

 絆は小さく息を吐く――安堵の笑みを浮かべるのは、彼女の表情筋の硬さでは難しかったが。

「……いえ」

 目を閉じ、眉間を指で押しほぐす――憂いを隠そうともしないのは、周囲に最側近しかいないからであろう。彼女の視界に入るようその場に片膝をつき、可能な限りはっきりと、絆は首を振る。

「ご自身を責めないでください、マハラジャ。マハラジャが私たちのために怒ってくださったこと……嬉しく思います」

 胸に手を当て廊下にしゃがみ込んで見上げる絆に力なく微笑み、ラクシュミは短い黒髪の襟足を指で弄る。

「鬼百合は、どんな不良少女でも受け入れる。受け入れて、守る……わたくしが、そうしていますもの。でも――」

 そこで言葉を切る。絆と遊我が息を潜めて褐色肌の彼女の一挙手一投足を見つめている。ラクシュミは廊下の窓ガラスに触れた。ビニールテープを剥がした糊の痕が茶色く斜めに残る、決して美しくはないガラス。しかし寒さに曇るガラスを拭う指の平は、絆の肌に触れる時と同様に優しく踊った。

「自ら鬼百合に相応しく在ることの、なんと難しい……わたくしも、まだまだ修行が足りませんわね」

 物憂げなラクシュミは――美しい。高く通る鼻筋を軸とした彫りの深さが、大きな翡翠の瞳を際立たせる。同じ名を持つインドの女神から賜った美貌が、静謐として完成された形のまま、エーテルに揺らぎながら世界に顕れている。近代、西洋絵画の巨匠たちをアジアやアフリカへ旅立たせたエキゾチシズムの魅惑が、その憂いの中に全て詰まっていた。

 だがそれでも、絆・ザ・テキサスは、高い声を張り上げて自信満々に笑う彼女が好きだった。

「輝かしきレディ・ラクシュミ、私のマハラジャ。あなたよりもこの学校に相応しい人間など存在し得ません。……小峰先輩もそう思いますよね」

 表情は虚無であるまま微かに目を細め、どこかうっとりと口にした絆。同意を求めて、蝋人形のガラス球が如く感情のない瞳に可能な限りの強迫を込め視線をずらす。

「……」

 並外れた長身の小峰ファルコーニ遊我は、純色のブロンドを頭頂でお団子に結い上げた美女であった。その名の通りイタリア系のハーフで、長い睫毛を無言で瞬かせ、儚さを湛えたようでさえある真紅のルージュの唇を結んだまま微笑を浮かべている。proportionという単語は「調和、均整」という原義を持つが、まさしく彼女の肉体は美たる調和の造形をそのまま拡大した姿として在った。二メートル近い巨躯ではあれど、その大きさ、即ち強さは美しくないことを意味しない。

「まあ、律儀だこと――もう喋ってもよろしくてよ」

 マハラジャたるラクシュミが微笑むと、長身――という単語で片付けるにはあまりに長身すぎる彼女は、ぷはっと息を吐いた。

「あ、そう?」

 言うなり、紫のドレスから大きく覗く胸の谷間に手を突っ込む。確かにポケットなどないとはいえ、そんなところに隠さずともよさそうなものだが――いずれにしても、引き抜いたのは黒縁眼鏡だ。

 それを掛けると猫のようにすうっと瞳が縮む。遊我は犬歯を見せて豪快に笑いながらオーダーメイドのコートの内側、ドレスを纏った腹を叩いた。小気味のいい音など鳴らない――鍛え上げられた屈強な腹筋が、みしりと静かに己が手のひらを受け止める。

「やーーー、食った食ったァ! マハラジャぁ、毎日ああいう会食にしてくれないかしらね!?」

 身体だけでなく声も大きく、唾を飛ばされるのが嫌で絆は上体を引いた。くっきりと描かれた眉を弧状に下げる彼女に、ほんの一瞬前までの穏やかな気品はまるでない――そこにいるのは、見るからにがさつな女だった。……とてもではないが、絆の目にはラクシュミの傍に仕える者として適格とは映らない。

 ラクシュミが激昂するに至るまで、確かに広々としたレストランの個室は和やかな雰囲気の中にあったが――それでも、そこで供された高級カレーライスを瞬く間にぺろりと完食したのは彼女くらいのものだった。ラクシュミからの言いつけをバカ丁寧に守り、一言も口を利かないまま、ジェスチャーだけでお代わりと瓶ビールまで貰っていた。

「そう。小峰さん、貴女にはあれがお気に召したんですの?」

 しかし――ラクシュミは、くすりと可笑しげな笑顔を見せる。少女らしく、翡翠の瞳が華やいで。

「あん? そりゃーそうよ。本場の人はどうか知らないけど、ああいうお母さんのカレーの最高進化系みたいなやつ嫌いな日本人いないっての。そうよねえ、ザっちん」

 美しいブロンドがほつれることも気に掛けずガシガシと頭を掻く小峰ファルコーニ遊我。声を張っているわけでもないのに、とにかく、煩い――女性としては低めであるその声が、やけによく通るのだ。腹式呼吸があまりに完璧であるせいか。絆はうんざりしたのでテンガロンハットの位置を直すふりをして無視した。

 ――黙っていれば美人なんですがね。

「そう、好き好きですわね。わたくしの口には、絆お手製の豆(ダル)カリーの方が合いましてよ」

「……勿体無いお言葉です」

 ふむん、と遊我は絆たちの視線よりだいぶ上で唇をへの字に曲げた。恥ずかしげもなくコートの上から尻を掻く。

「ホント好き好きって感じねー。ザっちんの目の前で言うのもなんだけど、あたしアレ苦手なのよね。なんか貧乏臭いっていうか……具がゴロゴロしてる方が贅沢で楽しいじゃない?」

「小峰先輩、いい加減覚えてくれませんか。マハラジャは野菜が苦手でいらっしゃいます」

「……絆、いらっしゃい」

 手招きし、絆の細い手首を取る。

「余計なことは! 言わなくて! よろしいですわ!」

「……痛いですマハラジャ。痛いですマハラジャ」

 白いシャツの袖を捲り上げ、ラクシュミは伸ばした二本の指で絆に何度も「しっぺ」を打った。

「そもそも、それは違ってよ?」

 ぱ、と仕置きを終えた絆の手を離し、楽土ラクシュミは不敵に笑う。

 不敵に笑い、足を掛ける。彼女たちが帰るべき理事長室への階段に、まず一歩。……小峰ファルコーニ遊我よりも目線を上に保つため、まだ追ってこないよう手で制しつつもう一歩、二歩。

「野菜だなんて、わたくしの王道に不要なんですの。ビタミンはサプリメントで十分。植物なんて穀物とスパイスと茶葉、それに煙草が残ればよろしくってよ! おーっほっほっほ!!」

 そこでくるりと振り返ると、口元に手をやり、背骨を限界まで反らして高らかに笑った。

「……」

「……」

 絆と遊我は顔を見合わせ。

 にやにや笑いを浮かべた遊我が、絆の背中にばしんと思い切り平手を打ち込んだ。その長い腕を覆う筋肉量故に、冗談の一撃が冗談では済まない――痩せた胴体に詰まった内臓が一気に跳ねて息が詰まる。

「嬉しそうな顔しちゃってえ。そうしてる方が可愛いじゃないのよ、このこの」

「あの、本当に痛いので。体格差考えてください。あと何ですかその絡み方は、気色悪いです」

 そう言って肘で巨躯の上級生を押しやりつつ、事実、絆は微かに頬を緩めていた。常に引き結ぶ唇を、ミリ単位ではあれど曲線として。

「なんですの貴女方」

 喝采があるかと思いきや妙な置いてけぼりを食らったラクシュミは、微妙に不服そうな表情をして階段の半ばで腕を組む。

「やー、ね? ザっちんワンコがさ、いかにも『マハラジャがいつも通りに戻って良かったワン』って顔してっから。ガハハハ」

「誰が犬ですか。……くっ、重いんですよこの筋肉スリヴァー」

 マハラジャの笑わない道化師は膝まで動員して遊我を突き飛ばすと、上目遣いにラクシュミを見て、目元の蒼い星を指先で撫でた。

 きょとんとして口元に手を遣ったラクシュミは、すうっと目を細める。翡翠の光――引き絞られる矢の如く。

 その視線の先には、絆・ザ・テキサスがいる。いつかと同じように。いつもと同じように。

「うふふっ」

 ――いじらしい子。

 ――わたくしにだって、小峰さんにするように、遠慮なく何でも言ってきて構いませんのに。

「おーーーーーっほっほっほ! 最高ですわ、ええ最高ですわ! これでこそわたくしたち、これでこそ『魔女離帝』!!」

 ラクシュミは両腕をゆったりと広げる。「喧嘩上等」の文字が大きく刺繍された特攻服、翻し。

「ええ、ええ、よくよく考えてみればわたくしが間違ったことなど皆無じゃあございませんの! 威風は堂々、楽土は王道……楽土ラクシュミ、完・全・復・活!! ですわァ~~~~~!!」

 絆は大きく頷いてポンチョの飾り紐とお下げ髪を揺らしながら階段を駆け上がり、遊我は鼻の下を指で擦り腰に手を当てる。

 楽土ラクシュミ。絆・ザ・テキサス。小峰ファルコーニ遊我。

 彼女たちが鬼百合女学院における最大組織、資本の大鯨『魔女離帝』の幹部会であった。

 隣へ登ってきた絆の耳元に、ラクシュミはそっと囁く。まるで抜き足差し足のように、ヒールの高い靴を爪先から下ろして。

「絆。後で足をマッサージしてくださいまし。下らない八つ当たりなんてするものじゃありませんわね、脹脛が攣りそうですわ」

「勿論……ですが、それほどお疲れでしたらエステティシャンを呼びましょうか」

「貴女がいいんですのよ」

「……はい、喜んで。私のマハラジャ」

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