第二話『第一使徒 乙丸外連』1

「くぁ……」

 雲が燐光を帯び始める。南へ向かう飛行機が一条、斜めに空を駆けていく。明け方、街はまだ浅い眠りの中にある。

 欠伸をしつつ、乙丸外連は部屋を出た。髪を解いて枕を抱く目の前の沙羅を起こさないように、そっと。板張りはまるで厚氷で、ぺたぺたと廊下を歩く足の裏も刺されるように痛む。短い髪にもしっかりと寝癖がついていて、あまりいい気持ちはしない。くしゃくしゃと指で荒らす。彼女の小さな輪郭を、二月の朝の絶対的な気温が悪戯めかしてなぞりゆく。

 身を震わせながら、瞼をぎゅっと閉じて細い腕を天高く思い切り伸ばした。

 水恭寺の離れを出て黄色いサンダルをつっかけ、朝露を含んだ石をじゃりじゃりと踏んで足跡のような窪みを造りながら、古い木の香りに満ちた肺の中の空気を冷たく透き通ったそれに入れ替える。母屋の勝手口を覗き込んだ。

「おはよ、綺羅」

 既に台所のコンロには鍋が用意されていたし、小気味よく包丁が走る音が聞こえていた。そこは既に万人微睡む早朝らしい静けさを失って、ひとが営みを行う場所と書き換わっていた。先客に、外連は声をかける。

「おはようございます、外連ちゃん」

 外連より少し背の高い、ひとつ年下の少女。首元で短めに切り揃えた栗色の髪はシルエットとして丸みを帯びて、銀の細い縁の眼鏡の奥には柔和な光。おっとりとして垂れ目がちな彼女の豊かに発育した胸元は、エプロンを大きく張り出させていた。丁寧に、包丁を一度置く。どうやら漬物を刻んでいたところのようだ。

 水恭寺綺羅<スイキョージ・キラ>はかの『酔狂隊』を率いる頭・水恭寺沙羅の妹であり、それ故に鬼百合女学院における絶対安全圏なのであった。

 エプロンの下には、上にブレザーを着ることで制服として完成するところのブラウス。決してセーラー服ではない。彼女は、『酔狂隊』の所属というわけではないのだった。……むしろ逆である。『酔狂隊』は、そもそも――水恭寺綺羅のために姉の沙羅が外連らと共に立ち上げたチームであったのだ。それはずっと昔、幼い頃の物語。

 彼女がいた。鎌倉は水恭寺の敷地内、自宅部分の台所に、こんな朝早くから。タイル、蛍光灯、ステンレスのシンクに滴る冷水。人工物ばかりが配置された直方体の空間であり、古刹たる水恭寺において唯一無二の結界。

 住職である父とキャリアウーマンの母のために、彼女はこうして包丁を握るのだ。もちろん姉の分も作って離れに運ぶのが、昔から彼女の常であった。離れで独り暮らす沙羅のところに週のほとんど泊まっていく外連も、沙羅のために朝餉を用意したい。そこでふたりは共同戦線を張ったのだった。二年ほど前からのことだ。もとより十年来の付き合いなのだったし、当番を決めて力を貸し合うことにお互い何の抵抗もなかった。

「んんっ? なんかいい匂い……今日は何?」

「いつもと同じ、鮭です。昨日、大きくて脂の乗ったのが買えましたから……ふふ、でもちょっと冒険です」

 そう微笑んで、綺羅はコンロを開ける。

「わ……」

 外連は目を輝かせた。

「オリーブオイルをベースにしたバジルとレモンのソースで合わせてみたんです。ムニエルともちょっと違うんですけど」

 台所にふわりと広がるスパイスの香りは寝起きの胃袋をどぎまぎさせるほどに魅惑的で、優しげな綺羅は悪戯っぽくはにかむ。

「実はちょっと、お姉ちゃんへの仕返しなんです。いっつも、食べたいもの言ってくれないんですから。『いつもと同じでいいよ』って」

「沙羅、おじさんみたいだよね。朝は白いご飯と味噌汁、焼き魚って」

 冷蔵庫の脇のフックからエプロンを取り、パジャマの上から羽織って紐を結ぶ。デフォルメされた動物たちが笑顔で描かれているそれは明らかに子供用であったが、外連はもはや気にしないことにしていた。サイズがぴったりで、厚手なのに軽くて便利なのだから。

「よーし、じゃあうちも味噌汁なんか挑戦しよっかな。カレーにしちゃうか」

「あっ外連ちゃん、冷蔵庫のデザート試食してもらっていいですか? 昨日作ってみて、冷やしておいたんです」

「ん、勿論! なーにっかなー」

 外連は冷蔵庫の中に手を伸ばす。ラップを張った小さなカップに満ちた、緑色のもの。光に煌めくカップ、五つ。

「うえ。何これ」

「ほうれん草のムースなんですけど……水飴で甘くしたらスイーツっぽくならないかなって。こうすれば、お姉ちゃんもお野菜食べられると思うんです」

 ――お寺の台所に水飴って、一休さんみたいだな……

 くだらないことを考えつつ、外連はラップをめくり、棚からスプーンを取ってひと口。

「うーーーん、綺羅、ごめんね? 正直おいしくない……」

「そうですか……わかりました! もっと研究が必要ですね。ありがとうございます」

 外連は小さく舌を出して首を振ったが、綺羅は落ち込む様子もなく、むしろ柔らかそうな白い手を小さい拳に固めて嬉しそうにしていた。

 上部の小窓から、朝の光が白く差し込む。微笑み合う少女たちを照らす。大切な人たちのためと思えば眠気も感じない彼女たちの営みは、切り取ってしまえば何ということもない日常の一場面に過ぎないのだけれど、それでも確かに輝かしいものであった。

「やっぱり、外連ちゃんに味見してもらうのが一番です。お姉ちゃんだと、何でも『美味しいよ』で食べてくれちゃいますから……わたしへの思いやりだって、わかってはいるんですけどね」

「わかるー! 沙羅ほんと言うよね、『うん、美味しいよ』ってさ。何食べさせてもおんなじ!」

 だけれど――そんな、同じような時間の反復こそ。

 小さな彼女の、もとい彼女の小さな、喜びであったのだ。

 まずは出汁と味噌を選ぶ。そのうち、のそのそと目を擦りながら起きてくるであろう、女神が如き彼女のことを想いながら。

 乙丸外連。『酔狂隊』の筆頭使徒にして、恵まれざる体格を補って余り有るセンスは鬼百合でも白眉とされるほどの喧嘩上手。

 そんな彼女の朝は、大抵、水恭寺沙羅の食事の支度から始まるのだ。



「……なあ」

 口一杯に押し込まれたコーヒーマシュマロを飲み込んだ後で、藤宮和姫は物憂げに口を開く。

 分け合ったサーモンのサンドイッチで消化器が満足すると、今度は頭が午睡を求めて全てを曖昧に受け止め始める。昼休みというのは、そんな時間であった。

 私立、鬼百合女学院――不良少女たちの割拠する魔県・神奈川は湘南地区、海沿いに位置する学校である。窓という窓が叩き割られ壁という壁にスプレーの落書きが施された、暴風吹き荒ぶ学び舎。秩序だった集団授業システムがとうに事実上の崩壊を迎えているにもかかわらずこの学校が学校としての認可を受け続けているのは、政界にも太いパイプを持つ楽土コンツェルン総帥・楽土ラクシュミが生徒兼理事長であるからだ――生徒兼理事長兼、最大の喧嘩勢力『魔女離帝』の頭であった。

「なあに、和姫」

 椅子を彼女の机の脇まで動かして甲斐甲斐しく世話を焼いていたのは、謝花百合子だ。吐く息も凍りそうな二月の寒い朝、沖縄からこの湘南・鬼百合へ転校してきた彼女。視た身体動作を写し取るヘーゼルの瞳を持つ、ハイビスカスの少女。

「私たちさ、器用じゃないよなあ。……久しぶりに、会ってさ。あんな風にぶつかり合って。でも」

 ローファーの踵がぶらぶらと揺れて、潰れかけたコーヒーの空き缶を蹴飛ばす。健康的な色をして、それでも毛細血管を透かしてみせる薄い瞼が不安そうに二度三度瞬く。

 その見つめる先に座る、和姫が――

「ここまでやる必要、なくねえ!?」

 ギプスでがっちりと固められた右腕を、必死に振り上げた。

「……ごめんね」

 返す言葉もなく、百合子はただ小さくなりながら指先でマシュマロを揉む。

 およそ五十時間前の田中ステファニーによる殴打で、彼女の目元は少し腫れたままだ。しかし、連戦となった昨夜の和姫とのタイマンで負わされた傷はどこにも見当たらない。

 琉球空手とボクシングに加え、一部とはいえ水恭寺沙羅独自の喧嘩術まで模倣する百合子の猛攻を徹底的に防ぎ切るのはさすがの藤宮和姫にも難しく、結果的に――和姫の右腕は、他ならぬ百合子によって圧し折られた。

「タイマンって言っちゃったから……本気でやらないと、失礼だと思って……」

「そんな失礼があってたまるかよ」

 と吐き捨てたものの、確かに沙羅さんたちの言いそうな理屈ではあるよな、と思い直して。

「ったく。馴染みすぎなんだよな、鬼百合に……」

 無事な左腕で頬杖をついたまま、そっぽを向いておいた。……和姫の何よりの趣味であるイラストを描くのに差し障るから、折るならせめて左にしてほしかった。

 兄のお下がりであったメンズのトレンチコートを失った和姫は、セーラー服の上にモッズコートを引っ掛けていた。腕を吊っているから袖は通せないものの、いつも首に掛けているヘッドホンを大きなポケットに放り込んで。

 机の反対側にとてとてと回り込んでその表情を心配そうに窺う幼馴染のダッフルコートの内側にも、濃紺をしたセーラー服の大きな襟が覗く。それは紛れもない『酔狂隊』の証。よく吟味した上で、百合子が水恭寺沙羅からのスカウトに首肯した証であった。

 机の上に顎を乗せる不安げな百合子はまるで子犬のようだ。顔の向きを変えてみる。再度、百合子はとてとて小走りで和姫の机の反対側へ行った。可笑しくて笑いそうになるのを堪えて、もう一往復だけ振り回してみる。

 実際、和姫はそこまで本気で怒っているわけではないのだった。いや、何を考えてんだという気持ちはないでもないが、怒ってはいない。極めて自覚的にそう思う。

 地球儀で見れば指の先でも、村を出たことのなかったこの少女にとって、たったひとりで飛ぶ沖縄から湘南までの距離はどれだけ遠かったことだろう。憂鬱ぶって粋がって、それだけの想いに目を瞑ったバカ者は――指輪の代わりに、腕の一本くらい献上して丁度かもしれない。

 ――な訳あるか。

 そう、冷笑的に茶化して思考を打ち切るのが藤宮和姫という少女の本当にどうしようもない常套手段であったのだけれど。

 いずれにしても真実は、コートの袖口からはみ出した小さな指先で机の縁にしがみついていた。

 ……そんな風に、相も変わらずふたりきりの教室で睦まじく食休みをしていると。

 光景としてはリフレインのように、しかし一昨日の殺気は伴わず、ドアが蹴り開けられた。

 びくりとして和姫は背筋に緊張を走らせる。利き手を失った今の和姫に戦闘能力はない。そんな事情を汲んでくれる、筋の通った不良が相手ならばいいが――

 だがしかし、そんな思考は杞憂なのだった。

 ドアの方を向いていた百合子が、小さく手を振った。

「ちょりーーーっす。ユリぽよ、ロカボのメロンパンとスムージーで良かったっしょ?」

「……うん。ありがとう……ご苦労さま、田中さん……」

 セーラー服を若草色のブレザーに着替えた、プリン金髪の少女。片手は上着のポケットに突っ込み、ローファーを履き潰して、白いコンビニ袋を掲げていた。額には包帯を巻き、頬には大きなガーゼを当て、しかしメイクは完璧に。つまらなさそうな顔は生まれつきで、機嫌が悪いわけではないのだろう。

「え……」

 田中ステファニー。昨日の今日だというのに、自らが『酔狂隊』から追われる直接の契機を作った百合子に服うて、かつて哀れなりしクラスの少女たちに強いていたような使い走りの憂き目に遭っていた。

 が、しかしその没落ぶりはともかく。

「お前……なんつーか……よく出てこれたな!!」

「は?」

 何を言っているのかわからない、と言いたげに。

 敗残の暴君・田中ステファニーはコンビニ袋を和姫の机にどさりと置くと、百合子の華奢な肩に手をやって目元でピースサインをした。

「あーし、ユリぽよの舎妹(スール)になったんで。ヨロね」

 傍から見れば、いじめや恐喝の犯行現場でしかないだろう。だがしかし、彼女の手の温度に棘はもはやない。少なくとも百合子は、故にその手の甲にそっと自分の指を重ねた。

 和姫だけが、ぽかんとしていたのだった。

「は……?」

「あーしさあ、今までクラスでめっちゃ卍カマしてたじゃん? だから急に『酔狂隊』じゃなくなったら普通にぶっ殺されっかもしんなくね? マジで」

 両手で百合子の線の細い肩をしっかりと掴み、思いの外丁寧に肩を揉みながら、ステファニーは語る。

 田中ステファニーという女はその口調から想像されるほどバカ者ではない――そういうところには敏感なんだよな、と和姫は思った。

「だから、ユリぽよに舎妹にしてっつったワケ。『酔狂隊』の使徒の舎妹に手ぇ出す奴いないし? マジ何でもやるんで、的な?」

「そりゃわかるけど……百合子、お前ちゃんとOKしたのか?」

「うん……便利そうだったから……」

 ――いいのか、それで……?

 お互いに。

「マジな話さ」

 ぽん、と最後に軽く叩いて、ステファニーは百合子の肩から手を離す。

 自分よりうんと小さくて細くて、軽そうな身体。だが、その肩からどんな拳が繰り出されるのか、ステファニーは身を以て知っている。

 だからこそ。

 ヘーゼルの瞳、しっかりと見つめて。

「あーし、ユリぽよに賭けっから。いつか鬼百合のテッペン獲って――あーしのこと、使徒にしてくんね?」

 かつて鬼百合に夢を見て――まだ見続けることをやめられない田中ステファニーという少女は、そうすることを選んだのだった。

 見た目と言動とその他諸々の割に、純真なのである。

「全部、託すわ。ユリぽよとヒメぴりかに」

「おい、誰だヒメぴりかって。私? 私のことか?」

「はあ~~~? うっさいんですけど。言っとくけど藤宮、あーしが一番嫌いなのはお前で変わんないから。それをさあ、ガチ死ぬ気で抑えて、仲良くやっていこうっつってんじゃん」

「仲良くやっていこうって態度じゃないよな!?」

「……ふたりとも、実は……仲良し?」

「「ないから」」

 それにしても、不思議な状況だ――和姫は思った。

 先週までであれば想像もできなかった。同じクラス・同じ『酔狂隊』使徒でありながらなるべく距離を置こうとしていた田中ステファニー。幼い頃は誰より特別な間柄だったがこの五年間は連絡さえ取っていなかった謝花百合子。そのふたりといつもの教室の後方で顔を突き合わせ、こんな風に昼休みを過ごしている自分なんて。

 ちらり、百合子を見やる。コートの袖を余らせた手をそっと口元に当て、童女めいて可愛らしく静かに笑っている。舎妹だと名乗っているはずのステファニーに、こめかみを拳でぐりぐりと押されたりしながら。百合子。謝花百合子……一昨日つい口走ってしまったことは、一部、和姫の本音でもあった。謝花百合子というあの南の島の少女がまさか和姫の人生において再登場してくるとは、思ってもみなかった。

 藤宮和姫が、過去の中に置いてきた夏。

 あの季節が――蘇るというのだろうか。これからの日々が巡っていく中で。

 視線に気付いて、百合子が小さく首を傾げてみせる。微笑んで。前髪が流れ、追うように頭のハイビスカスが揺れる。細腕をあんなに鋭く振るってステファニーを殴りつけ、無表情のまま教室を駆けて突風のように和姫の腕を膝で蹴り折った恐るべきストレンジャー、木漏れ陽が落とした影の如き不良少女。本当に彼女と同一人物なのか、戸惑うほど。

 唯一、藤宮和姫の中で確かだったのは。

 謝花百合子が転校してきたことによって、もはや鬼百合において「傍観者」ではいられないんだろうな、というどこかさっぱりとした諦めが発生したことだった。

 ――あーあ。

 ――私、平穏に暮らしたいだけだったはずなんだけどなあ!

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