第一話『第七使徒 ――――』5

「沙羅はさ、甘すぎるよ!」

 布団の上で胡坐をかき、脚の間にビールの空き缶を置いて。

 眉間に皺を寄せながら、キャスターの灰を振り落とす――裸のままの、乙丸外連。

 足の親指と人差し指で安物のライターを挟み、くりくりと動かしていた。どこか苛立たしげに。

「ちゃんとケジメつけさせないで辞めさせちゃうなんてさ! うち、田中のこと一発くらい殴ってやりたかったのに」

 むくれる彼女は、本当に子供にしか見えない。脱色した髪を刈り上げた耳元には、逆十字のピアスが煌めいているけれど。

「はは――ま、謝花とヒメに十分ドツかれたわけだし、それがケジメってことでいいんじゃないかい」

 沙羅は畳の上、窓辺で片膝をついて電子煙草の蒸気を吸っていた。彼女がそれを咥えるのは、密室で、外連とふたりきりの時だけだった。

 鎌倉市内、裏通り――水恭寺という古刹がある。そこが、水恭寺沙羅の実家であった。雑木林を背にした敷地内の離れを、長女である沙羅が自室として使っている。母屋に暮らす両親や妹と顔を合わせることはほとんどなかった。

「そう――謝花! あいつのことだってさ、うちは納得できないな。ねー沙羅、お前なんで新しい第六使徒にあいつ選んだの? 田中を倒したからって、あんな――」

「……そうさねえ。なんで、って言われちゃあたいも上手く説明できないんだけどさ」

 鬼百合では、喧嘩の勝敗についてのニュースは何よりも早く駆け巡る。朝の田中ステファニーと謝花百合子とのタイマンを見届けたのは藤宮和姫ただひとりだったはずで、関係三者の誰も言いふらしてなどいないにも関わらず、「『酔狂隊』田中、転校生に打倒さる」の報は昼頃までには鬼百合ほぼ全校生徒の知るところとなった。

 早くもその日の夜だったのだ――礼拝堂に現在集まれる使徒全員が集められ、彼女たちの目の前で沙羅自ら謝花百合子に田中ステファニーの後任として第六使徒にならないかと打診したのは。

 そして、藤宮和姫がはらはらと見守る前で、よく考えているのかはたまた何も考えていないのか、大きな目をぱちくりさせながら――表情変えず謝花百合子が口にしたこともまた、同じくらいに衝撃的であったのだった。

「朝、校門のとこでオロオロしてたあの子と会ってねえ。なんだか――鬼百合を変えてくれるような、新しい風が吹いた……そんな気がしたんだよ」

「……ふうん」

 唇を尖らせて、煙を吐き出す外連。

 きっと父親のせいなのだろうけれど、幼馴染の中でも中学に上がる前から煙草を吸っていたのは外連だけだ。絶対に怒るだろうから口には出さないけれど、だから背も伸びなかったのかね、と沙羅はぼんやり思った。

「目的は別に人それぞれでいいけどさ、うちはチームを大事にしてくれる奴しか使徒にしたくないな。……うちとお前が始めた『酔狂隊』なんだからね」

「ああ、わかってるよ」

 天使のタトゥーが大きく入った背中を小刻みに揺らして、笑う。……外連がいてくれて、よかった。不器用な沙羅だけではきっと、勢力として最低限のまとまりさえ維持できなかっただろう。『酔狂隊』は沙羅のチームなんかではないと、つくづく思う。決して謙遜などではなく。

 窓の外は冷たい黒の一色。結露をなぞって濡れた指先はそのままに、電子煙草の蒸気に浸る。

 身を傾けて障子の枠に肘をかけると、木の匂いが鼻腔に広がった。

「春まで、あと二ヶ月か。……そしたら、あたいら最後の一年だ」

 水土世代だなんて言われても――結局、何も成し遂げられないまま今になってしまった。かつて大いなる人に手を引かれ、皆で追った謎の光は――今も、遠いままだ。

「外連。……今のあたいらを美笛さんが見たら、なんて言うかねえ」

 ちゃり、と。

 明るい茶髪を耳に掻き上げると、十字架のピアスが金属音を立てる。外連と揃いのピアスを、彼女は正十字として吊るしている。

「……」

 キャスターの火を消した外連は、敷いた布団の上、膝をついて沙羅の背中に近付くと――身体を押し付け、そっと腕を首元に回した。

「……大丈夫。沙羅は何も間違ってないよ。あの頃のまんま、うちが惚れ惚れするくらいずっとまっすぐなんだ」

 外連の高い体温を感じる。乙丸外連。沙羅の使徒たち、その筆頭。

 電子煙草を咥え、腕を上げて色を抜いた髪の下に触れる。サイドを刈り上げたツーブロックの形は、直に見ずとも頭の中に思い描けた。さりさりと指先に心地のいい感覚を与えてくる地肌もまた暖かい。

「それにさ? もし、世界中が敵になったって――うちだけは、死ぬまでお前の味方なんだからね」

 囁くような声音の中には、慈しみの響き。優しく、沙羅の耳朶を打つ。

「……ありがとね、外連」

「なんだよぅ、恥ずかしいこと言うじゃんか」

 そりゃあんたの方さね、と沙羅は笑って、蒸気を味わう。

 大体、鬼百合の不良少女なんてそんなものだ。恥ずかしいことを平気でできなければ、誰が本気で喧嘩などするものか。

 大人の女になることを拒んで、少女は不良になるのだから。

「ね、ね、沙羅。明日の朝ご飯、何がいい?」

「何でもいいよ」

「もー! ……じゃあ、ご飯とパンだったら?」

「そうさね……白いご飯に焼き鮭と卵焼きがありゃいいね」

「ん! 今日は綺羅がお味噌汁当番だったから、明日はうちなんだ。期待しててよね」

「……ああ」

 鬼百合のこれまでとこれからを考えていたところに、明日の味噌汁の話だなんて――そのスケールの落差に、変な笑いがこみ上げるけれど。

 閉め切って電気毛布のスイッチを入れていても冬の夜は冷えるから、そろそろ服を着て。

 今夜は、それでいいのだった。



「じゃ。お先です」

「はーい、お疲れ硯屋さん」

「……ども」

 ロッカーのフックに外したキャップを掛け、隣で着替えていた年上の女子大生に気持ちばかりの会釈をして、硯屋銀子は事務所を出る。銀髪でも鬼百合の生徒でも働くことができ、さほど愛想笑いも求められない茅ヶ崎のガソリンスタンドは彼女にとってなかなかいいアルバイト先だった。

 そこは交差点の角であった。夜、冷たく澄み切った空気の中に吐く息は白い。濃紺のセーラー服の上から黒革のジャケットを羽織り、ポケットに両手を突っ込んで歩道を見やった。

 その辺りで、待っているはずだ。

「やあ銀子君、今日もよく労働したようだな。やはり可愛い女の子がひたむきに動き回る姿はいい。お姉さんに言わせれば美そのものだ。……君と一緒に引っ込んでいった娘は特に」

「……ブッ殺すぞスオメン猪八戒」

 美しい水色の髪をしたヘルミ・ランタライネンが右手を軽く右手を挙げる。アイボリーのロングコートに長身を包んでブロック塀に背を預けているその姿は、もう少し全体的に細ければハリウッドセレブのようにも見えただろうか。寒空の下に白い湯気を立てて、コンビニの大きな肉まんを頬張りながら。……その足下にはビニール袋がふたつあって、片方には既に空になった天丼のパックとおでんの汁の残ったプラ椀が突っ込まれていた。

 それを目にして、銀子はあからさまに苛つく。自分より背が高く、目と髪の蒼い女をちらりと視界の端に入れて。

「テメー路上でどんだけ食ってんだデブ。恥ずかしくねえのか人間として」

「はっはっは、人が生を希求する上で恥じらうことなど何もないとも」

 ふたりは歩き出す。「じゃあ行こうか」といった類の掛け声は、不要なのだった。酒や菓子の類が詰まった重い方の袋を、銀子はヘルミの腕から黙って奪い取った。レザーブーツがつかつかと踵に力を入れて行く斜め後ろを、ハイカットスニーカーがゆったりと爪先立ちがちに。違ったリズムで違った形の脚を動かし、しかし結局は同じ速度で。

 歩きながら後ろに手を伸ばし、コートのボタンの隙間から指を差し入れてヘルミの腹の肉を抓った。

 む、とそれに気付いたヘルミはにやにやする。

「せっかちさんか君は。ホテルに入ってからにしたまえ」

「……違えよ殺すぞ。この豚肉を恥じらえ」

「お姉さんの銀子君への愛が詰まっているのだよ」

「即捨てろ」

 髪をアップスタイルにまとめていたクリップを一度外して付け直しながら銀子が吐く暴言を、ヘルミは気に留めることもなくからからと笑い飛ばす。そういう風にして、ふたりは在った。何もかも失って川崎の駅前でひとり歌っていた銀子の前で見知らぬ外人が涙を零した、あの瞬間から――鬼百合女学院に流れ着いた今でも。

「君は誰に対しても平等に素直じゃないが、お姉さんには格別だな。まったく、これも買っておいてやったというのに」

「……」

 ヘルミが見せた緑色のライターを、銀子は舌打ちひとつして引っ手繰るように取った。そのまま、ジャケットのポケットに入っていたゴロワーズを咥えて火をつける。ガソリンスタンドは火気厳禁である。アルバイトの日、銀子は煙草の箱は持ち歩いてもライターは持ち歩かないようにしていた。

 大通りの交差点を曲がると、道行く人の影も漸減していく。大通りの街頭スピーカーからはバレンタインの訪れを喜ぶポップソングが流れていたが、その音も次第に遠くなった。銀子が吐いた煙はヘルミに躱されると漂い消える。

「しかし、なかなか面白くて可愛い子が入ってきたものだな。……そう思わないかい、銀子君?」

「……知るか。興味ねえよ」

 煙草を唇から離すと、そこに冷気を感じる。

「……」

 ヘルミは、結んで提げたゴミ袋の紐を白い指先で弄んだ。銀色の髪を窮屈そうに持ち上げて束ねるクリップをじっと見て。

 潰れたパチンコ屋の脇の道を入る。無人の駐車場と薄汚れた中華料理店。その先にはけばけばしいネオンのホテルばかりだ。車がやっと一台通れるくらいの、息が詰まるような裏通り。見上げれば、澄んだ空にはいくつかの星がうっすらと見えた。オリオン座の三連も、辛うじて。

 僅かに大股の一歩で、痩せた背中に近付く。耳元に口を寄せる。

 魔法をかけるように、蒼い女が囁いた。

「銀子君。もし君が『酔狂隊』を出て再び鬼百合制覇を目指そうとするのなら、私は沙羅君ではなく君につくよ」

「……興味ねえっつの」

 謎めいた微笑みを湛えたヘルミ・ランタライネンの顔は、決してふざけているようには見えなかったが――硯屋銀子は薄く鼻で笑いながら、迷うこともなく首を振ってみせた。銀子が実家から大切に持ってきたアコースティックギターは、手放せなかった相棒は、今、礼拝堂の奥の倉庫に置いてきている。もう、硯屋銀子の居場所はあの礼拝堂だけなのだ。

 そんなことを、彼女は死んでも口にしないだろうけれど。

「あたしは、『酔狂隊』だ」

「そうか、そうか。……それはそれで満足なのだよ? お姉さんにとってはな」

 うんうん、とヘルミは嬉しそうに何度も頷く。

「女の子には誰でも、夢を見る権利がある。私はそう信じていたいのさ。鬼百合女学院はそれを許す学校だ。……本当に、心地がいいよ」

「……訳わかんねえ」

 硯屋銀子は、何かを諳んじるように口にするヘルミを一瞥して、鼻を鳴らし唇を微かに歪める。それは苦笑とも呼べないような、銀子にとっての苦笑であった。

 しかし。

 湘南は昼夜を問わず、一瞬にして戦場へと変転し得る土地なのである。

「……あ、来た来た」

 ホテルの向かいにコンビニがあり、その店先に座り込んでひとりの少女が煙草を吸っていた。バンダナを海賊巻きにしてセーターを着た少女。銀子とヘルミを視界に入れて顔を上げたようだったが、銀子としてはその顔にまるで見覚えがない。ちらりと窺うと、ヘルミも首を振っていた。

「どうもー。『酔狂隊』のスズランコンビですよね? 硯屋銀子先輩と、ヘルミ・ランタライネン先輩」

「……誰だお前」

 膝に手のひらを置いて、屈伸するように立ち上がる少女。ふたりを順に指差すと、得意気な微笑を浮かべて腰に手を当てた。

「私、春から鬼百合に進学するんですけどね? 『繚乱』に入れてもらおうかな、と思ってまして。硯屋先輩、めちゃめちゃ『繚乱』にスカウトされ続けてるらしいじゃないですか。だから――先輩方おふたりの首を手土産にしたら、私、スピード出世できるかなって!」

 アスファルトにぽとりと落とした煙草を踏み消して、少女は両腕を広げる。

 ヘルミと顔を見合わせた。

「誰だか知らねーが、バカだってことは察しがついたな」

「ふふ、可愛い子じゃあないか。おいで、サルミアッキをあげよう」

「……痛い目見せますよ? 中坊だからって、あんまナメられると」

 中学生は、勢いよく首を捻って鳴らす。まともに相手をする気がさらさらないふたりに、早くもカチンときたのだろうか。相当プライドが高いようである。

 だが、残念ながら。

 プライドだけで倒されてやるほど、硯屋銀子は甘くない――

「……あ? テメエ、おい、今なんつった」

「君が思っているより遥かに強いぞ、銀子君は。お姉さんはそれなりだが」

 可笑しそうに、ヘルミはくつくつと笑う。

「まあ、本人が納得しないのなら仕方あるまいよ。銀子君、軽く遊んでやるといい」

「いや。……面倒臭えけど、徹底的に殴る。二度と喧嘩なんてしようと思わねえくらいな」

 舌打ちをして、銀子はビニール袋をまさぐる。中に、缶のストロング酎ハイが――

「意外とノリノリですね、硯屋先輩? 何事も『興味ない』ってのが、先輩の口癖だって」

「興味ねえよ。興味ねえから――手っ取り早く、『俺』にやらせんだ」

 プルタブを起こし、息を呑んだヘルミが止める間もなく――銀子は、ぐびりとそれを喉に流し込む。

 どくん、と。

 銀子の心臓が、拍動する。傾いて落ちた缶が、アスファルトで跳ねて転がった。

「……おい君。事情が変わった。逃げろ、全速力で」

 ヘルミ・ランタライネンの笑みが、一瞬で消えた。

 その蒼色の視線の先で、銀子は――

 ひく、と小さくひとつしゃっくりをして。

 身体の半分を、煌々と夜を照らすコンビニの白い光に晒して。

 目つきの悪い顔を微かに紅潮させ――自然に開いた手のひらを前に突き出しながら、膝を吊り上げる。その構えは中国拳法、功夫――

「酔太子拳<ツイタイズウチュエン>……!」

 目にも止まらぬ速度で、銀子の影が動いた。

 バンダナの中学生が瞬きをして、次の瞬間には、ギターに馴染んで硬くなった硯屋銀子の指先が彼女の顎をくいっと持ち上げていた。

「お前、面白え女だな」

「ひ――」

 ヘルミは肩を竦め、溜息をついた。



「いやー、にしてもホンマ……ビックリ仰天の恬ちゃんやわ」

 水槽のようにブラックライトだけが灯る、薄暗い藤沢市内のダーツバー。丸テーブルに肘をついて半球グラスのブランデーを舐めながら、少女は狐目をさらに細めて肩を震わせ笑った。

 ビビッド・レッドに染めた髪を腰上まで伸ばし、虎縞柄のカチューシャで前髪をオールバックにして額を露出させている。捲った袖口から覗く両腕には、アサルトライフルを象った大きく精緻なタトゥー。右腕では蛇が、左腕では茨が、それぞれ銃身に絡みついていた。

 そして、鳳凰の刺繍が入った灰色のセーラー服――ここ湘南において、その意味するところは唯一。

「田中のアホ、一年間あんだけ僕らにイキり散らかしといて何をサクッと負けとんねん! 何やのホンマ、ウケ狙いで使徒やっとったんかな」

 無論――彼女もまた、『酔狂隊』の使徒であるということだった。

 第八使徒、桜森恬<サクラモリ・テン>。藤宮和姫らと同じ一年生でありながら、時に鬼百合で最も狂った女とも呼ばれる。

「恬さん、あの人のこと嫌いなんスか?」

「いや好きな奴おらへんやろあんなん! 僕ら同期な、田中ハブった『「酔狂隊」一年組』いうLINEグループで一緒にスポッチャとかスイパラ行ってんねんで」

「だいぶしっかりクズじゃないッスか」

 鷹山覇龍架が、腕を大きく振るって力一杯ダーツを投げる。まるで見当違いの方向へ飛んでいった。ちぇっと舌打ちをして、テーブルの山盛りフライドポテトを掴み、豪快に口へ詰め込んだ。他にも、小さなテーブルの上にはソーセージや鶏の唐揚げの皿が所狭しと並んでいる。大家族育ちの覇龍架はいつも腹を空かせていて、彼女を舎妹(スール)にしている沙羅を始めとした上級生たちは誰しも夜遊びに連れ出す度に気前よく食事を奢ってやっていた。もちろん、恬も例外ではない。

「……しかも相手が相手やんな? 何やねんあのチビっ子、僕やったらワンパンで泣かしとるでホンマ」

 その恬は、グラスを撫でてぽつりと言う。

「アカン、今の無しや。今のは無しやで覇龍架。チビはアカンわ、外連さんに刺さってまう。なんちゅうこと言うねんジブン」

「ええ!? 言ったの恬さんッスよね!? だいたいそれわざわざ言う方が失礼じゃ」

「ククッ、うるっさいねんアホ。何や、僕かて先輩やで中坊」

 口からポテトの切れ端をこぼしながら詰め寄る覇龍架にヘッドロックをかけて頭を軽く小突きながら、思い出す。『酔狂隊』の本拠地たるチャペルで、か細い声で、しかし堂々と宣言した彼女。謝花百合子。

 ぱ、と手を離し。

 恬は、唇を舐めた。

「……覇龍架ァ、あの謝花っちゅー奴、どこまで本気で言うとるんやろ?」

「さあ……正気じゃねーッスよ、『酔狂隊』全員とタイマン張りたいなん……て!」

 野球のピッチャーのように足を上げて振りかぶり、力みながら苛ついた様子でダーツを投げる覇龍架。激しく揺れる左右不均衡のツインテール。矢は当然の如く、あるべきコースを逸れて飛ぶ。

「正気やない……そら、正気やないやろなァ」

 喉が灼けるほどのブランデーをがぶりと大きくひと口呷ると、恬はテーブルの上のダーツを指に挟んでスローラインへ歩き、覇龍架を押しのけて。

「って、正気の人間が鬼百合来るかーーーい!!」

 丁度、覇龍架に倣ったように、大きく振りかぶってダーツを放つ――しかし、それは鋭く、鋭く、空を裂いて。

 快音響かせボードの真央、ブルに深々と突き立った。

「おお、ナイッシュー」

「当ったり前やん、僕を誰やと思てんねん。ククッ、天下無敵の恬ちゃんやで?」

 身体を動かして酒が回ったのか上機嫌でテーブルに戻り、置いてあった赤丸の箱を両手の指で弄ぶ。赤と青のマニキュアで互い違いに塗り分けたネイルが、ブラックライトの下で踊る。

「まあでも、あの和姫さんのマブダチだってんじゃ、そんなにイカれた人でもないんスかね?」

「そうそうそれやねん。謝花百合子、和姫のガキん頃のアレなんやろ? ほな、僕にとっては――」

 蓋を指先で弾き開け、煙草を一本引き抜いて――

「元カノの元カノ、いうことやんな?」

 口元から余裕めいた微笑を消し。

 狐目、残酷でもあるような鋭さにさえ、すっと細めて。

 フードに手を伸ばしかけていた覇龍架はぞくりとした。そうだった。桜森恬は、ただの面倒見のいい先輩ではなかった。かの鬼百合女学院においてさえそう多くはない、本物の狂人だ。自分と他人との間に何かしらの因縁を見つけて喧嘩をすることにしか興味がない――

 彼女の視線がどこへ向かっているのか、隣に立つ覇龍架が窺おうとすると。

「おい、桜森――テメエ『酔狂隊』の桜森だろ」

 声が、掛けられた。立つふたりの背後から。まるで穏やかではない調子で。

「何やねんワレぇ、僕はサインせえへんで」

 ラッキーストライクを指先でペンのようにくるりと回し、手の内に握り込んでいたジッポーで点火する。

「すっとぼけてんじゃねーぞ……知らねーわけねーよな、ここがあたしら『美人會』の行きつけだって」

「んなッ……!?」

 絶句したのは覇龍架ひとりだった。『月下美人會』。それは、鬼百合女学院に割拠する中でも、より好戦的な傾向のある不良少女たちが成した連帯だ。ほぼ『酔狂隊』と『魔女離帝』の二強だけしか存在感を発揮できていない現状に最も不満を抱いている勢力である、とも。

「……で? 僕がそこで飲んどったらなんや問題なん? 金払うとるし、ジブンらの店いうわけやないやろボケ」

 しかし恬は焦る様子もなく吊り上げた唇の端から煙を吐いて、煙草を灰皿に立てかけると、半球の底をブラックライトに透かして残ったブランデーひと口の水面を揺らし、啜る。旨そうに、くつくつと肩を揺らして笑いながら。狐のような目は、『月下美人會』のザコの方など見ようともしない。

「はぁ!? 恬さん!? わかってて来たんスかぁ!?」

「当たり前やん、アホかジブン」

 ぴん、と引っ張る。長さが異なる鷹山覇龍架のツインテールの片方を。

 覇龍架はバカのように口を開けて矯正器具の嵌まった歯を見せながら、細波立つ恬の赤い髪に意識を釘付けにされていた。それは炎だ。狂い燃える炎。鮮烈に煌めいていずれ消える、瞬間の華。

「何日もまともな喧嘩してへんし、僕、運動不足やねんな」

 鮫の、笑顔。喰い合いの中でしか彼女は生きられない。

 手首を折り曲げてバキバキと関節を鳴らしながら、振り返った。アロハシャツにポニーテールの女が、腕を組んで恬を睨みつけていた。申し訳ないが、顔を覚えられそうにない。その後ろにも四、五人の『月下美人會』構成員。いずれも同じだ。その影はぼんやりとしている。こうなりたくなくて、誰の目にもはっきりと像を結ぶ「桜森恬」になりたくて、恬は拳を握るのだ。

 思い描く。チャペルに姿を見せた転校生。田中ステファニーをタイマンで打倒したという彼女。

 ――謝花、百合子。

 ――なあ、ジブン、僕より強いんか?

「ほな、かかって来いや? ……できひんなら死ね、とっとと」

 咥え煙草のまま引っ掴んだ空のグラスを顔面に投げつけ、テーブルを蹴倒す。フードが床のタイルで跳ねて踊り、皿が砕ける。恬はブランデーの水滴ごと握り締めた右拳を引いて、間に挟まるグラスを叩き割りながらそれをアロハシャツの女の顔面に捻じ込んだ。高い音が不快に響き渡って、『月下美人會』の女が流血で弧を描きながら手足を投げ出して倒れていく。

 悲鳴が上がり、客が逃げていく。

「ぶっ殺してやっよ桜森ぃ!!」

 周囲にいた女たちが怒号を上げながら掴みかかる。

 ガラス片で切った手から流れる血など気にすることなく、踊るように身体を捻って次のひとりの鳩尾に下から拳を突き込んだ。

「アンタも道連れよ、クソガキ!」

「うおっ……あァ!? ナメんじゃねーぞ、『酔狂隊』の鷹山覇龍架を!!」

 ダーツを手に向かってきた女の腹に細い脚で蹴りを入れ、覇龍架も吼える。完全に巻き込まれた形だが、いざ喧嘩となったら頭に血が上ってそんなことを考えなくなる、極めて単純な少女だった。

「ククッ、ええよええよ! おもろい喧嘩しようやん、なあ!!」

 生粋の喧嘩中毒者、銃のタトゥーの桜森恬。

 彼女もまた、鬼百合で夢を見る少女のひとりなのである。 



 魔県・神奈川、葉山町――

 敵対する横須賀と隣接しているが故に却って小競り合いが少なく、不良少女たちの喧騒から離れた湘南東端。避暑地としても知られるその地に、白い館は建っていた。高級住宅街のはずれ、というより一区画がまるまる敷地とされている。

 海を望む高台に、見上げるほど大きな大理石のドーム天井。天を衝いて聳える森の如く、純白なりし円柱がそれを支える。子供が絵に描く城のような威容を誇りながら、アジアンテイストの異国情緒溢れる巨大建築物。人呼んで、楽土宮殿。

 たとえば正面から入ろうとすれば、大きな門を抜けた先で前庭を突っ切る必要がある。噴水を回り込み、左右には緑が鮮やかに映えているタイル張りの道を数十メートルほど行って、ようやく神殿めいた正面玄関に辿り着く。

 そのまた奥の奥の奥、騎士甲冑や動物の剥製が立つ長い絨毯の回廊を行き、手摺りさえ黄金細工の階段を登った先にある。謁見の間は、即ち王の閨でもあるのだった。

「……その後、田中ステファニーは水恭寺沙羅に呼び出されてクビ切られたみたいです。それで、後任の六位には転校生の謝花百合子が……田中を倒した女が、そのままスカウトされたって話で。謝花が『酔狂隊』入りするかは引き続き様子を見て報告します」

 髪を茶色に染めたそばかすの少女が、消え入りそうな声で語っていた。部屋の中央に鎮座する木目美しい黒檀のテーブルの脇に、人とテーブルとどちらが偉いのかわからないほど縮こまって立ち。

 鍬木茉莉里。ふたりの『酔狂隊』使徒がいる一年二組の観察を任された、『魔女離帝』の末端構成員であった。彼女は所属勢力をあえて公言せず、田中ステファニーに弾圧される民のひとりを装いながら、女王の目として密やかに機能していた――

 畏敬を帯びる視線の先。薄紫色の寝台に座す彼女のために。

 指に挟む太いシガーから紫煙をくゆらせる女が、そこにいた。並ぶ白磁の燭台が、そこに揺れる橙の灯りが、幻惑の雰囲気を醸し出す。

「まあまあまあ? ざまァございませんわね、あの『酔狂隊』の? 使徒が? 転校生にタイマンで負けるだなんて……インド人もビックリですわァ~~~!?」

 口元に手を遣り、よく通る高い声で笑う。

 心の底から痛快でたまらないと言わんばかりに、長い睫毛の目を弧状に細めて。

「お~~っほっほっほ!! 沙羅のコンコンチキ、十字軍だの何だのと吹いておきながらこの体たらく……おヘソでチャイが沸きましてよ~~~!?」

 チョコレート色の肌をした女だった。エキゾチックな容貌を、ゴールドのアイシャドウで輝き際立たせている。ウェーブがかった黒髪は短めに切り、しかし女性らしい色香を確かに放っていた。こんなにも頭の悪そうな大声を発しているというのにどこか妖艶な光を湛える瞳は翡翠。

 メロンのように豊かな胸を収めたサニーオレンジのパーティードレスの上から、純白の特攻服を羽織り。

 その背には、大きく大きく「喧嘩上等」の黄金刺繍。

 そう、傍目には何かにかぶれたバカ者としか見えない彼女こそが――水恭寺沙羅と並び恐れられる、「水土世代」の立役者。

 鬼百合全校生徒三六五人の凡そ六割二二〇人を数える最大勢力『魔女離帝』の堂々たる頭、楽土ラクシュミその人である――!!

「結構ですわ、ええ大変結構ですわ……喧嘩は上等、楽土は王道。猪口才にメンバーを入れ替えようが、この! わたくし! たちが! ……まとめて叩いて潰してカリーの具にして差し上げましょう? お~っほっほっほ、あ、お~~~っほっほっほ!!」

 ラクシュミは発条仕掛けのようにすくりと立って、大理石のタイルの上、純白のハイヒールでくるくると舞い踊りながら背筋を目一杯に反らして哄笑するのだった。

 暖炉に似せた暖房がよく効いている部屋で、それでも茉莉里の額に冷や汗がじわりと浮かぶ。

 ついていけない――この人には。

「あ、あのぅ……あたし、もうお暇してもいいでしょうか?」

「よろしくてよ。ええと――」

「鍬木さんです」

「そう、鍬木茉莉里さん。引き続き監視に励んでくださいまし。和姫さんと……その謝花百合子という子の、ね」

 こほん、と咳払いひとつ。楽土ラクシュミは落ち着きを取り戻し、微笑で部下と相対する。

「絆。茉莉里さんの働きに応えて、欲しいバッグを贈って差し上げなさいな。……二十ほどあれば足りますわね?」

「承りました」

「にっ、にじゅっ……!?」

 茉莉里は、絶句した。若くして楽土コンツェルンを統括する、鬼百合女学院の生徒にして理事長――それが楽土ラクシュミであると、知ってはいたけれど。今までだって、そこらのバイト代とは比べ物にならないくらいの給料を貰いながらレポートを上げていたのだけれど。喧嘩の腕で修羅場を潜ったわけでもなく、ただ些細な観察と報告をしただけの自分が、百万以上にもなるような褒美を貰えるだなんて。

 なんて、素晴らしいチームなのだろう。『魔女離帝』は。

 鍬木茉莉里は夢見心地で頭を下げて、足取りも覚束ない様子のまま女王の間を出て行った。

 楽土ラクシュミという女の奇行のことなど、気にもならなかった。

 女王は見送る。再び寝台に腰を下ろし、ドレスの裾を遊ばせて脚を組み換えながら。葉巻の煙をよく味わうように深く呼吸をして。

 彼女は、燭台の陰に目を向け声をかけた。

「それで? 貴女はどう思いますの、絆?」

「はい」

 微動だにせず傍らに控えていた、表情のない少女。セミロングの髪をふたつ結びのお下げにして、サイケデリックな七色に染め分けている。

 右目の下、泣き黒子のように小さく青い星型のタトゥーが入って、さながら道化師めいて。しかし笑顔の欠片も持ち合わせてはおらず。

 マントのようにポンチョを身につけテンガロンハットをかぶっているその装いは、カウボーイのコスプレだろうか。

 手にしたタブレットを何度かスワイプして、謝花百合子の顔写真を表示させる。誰が撮ったのやら、教室で藤宮和姫と何か楽しげに話している様子。廊下でステファニーと向かい合い構えている様子。次から次へと見比べながら、しかし顔に表情を貼りつけることは一度としてないまま。

 人呼んで、『魔女離帝』の魔女。

「……田中ステファニーは小物ですから、消えたところで大勢に影響はないでしょう。ですが」

 お下げの髪を、入り乱れる色彩を、指で梳きながら。

「謝花百合子には、注意する必要があるかと。『酔狂隊』使徒のうち高校入学まで水恭寺沙羅と面識がなかったのは田中を含め七人ですが、その中で『知り合ったその日に』勧誘された人間はひとりもいません。謝花が初めてです。ですから、水恭寺沙羅がそれだけ強く手元に置こうとした……何か、彼女に天性めいたものを見出した可能性があると考えます」

 絆は、淡々と語った。光の宿らない瞳に、液晶の反射光だけ映して。

「加えて、私の個人的な見解を述べさせて頂くなら。彼女のことを、あまり好ましくは思えませんね」

「あら。どうしてですの?」

「このように表情筋の硬い女は、信用できませんので」

「……絆。いらっしゃい」

 葉巻を灰皿に置いて、手招き。

「……痛いですマハラジャ。痛いですマハラジャ」

「わたくしより! 面白いことを! 言うんじゃなくってよ!」

 絆の袖口を捲り上げ、ラクシュミは金のマニキュアを塗った二本指で執拗に「しっぺ」をした。

 折檻される最中も、その表情は蝋人形のように虚無のまま。

「まったく、育ての親の顔が見てみたいですわ……きっと、どこぞの? 強大にして壮麗な王の中の王ですわね?」

「……はい。その通りです、マハラジャ」

 こくりと小さく頷く。テーブルにタブレットをそっと置いて、空いた手をポンチョ越しの胸に当てる。

「いずれにしても――マハラジャ、私は貴女の剣。私は貴女の盾。転校生が『魔女離帝』に害を為すなら、この絆・ザ・テキサスが即座に潰しましょう」

「……ええ、ええ。可愛い絆。わたくしのシャクティ……貴女が、『酔狂隊』のおたんこなすカボチャ共なんぞに負けるはずなくってよ」

 絹のシーツに、絆は膝をつく。その両肩に、彼女の王が手を置いた。

 楽土宮殿に、他の使用人はいない。波音の届かない葉山の夜は、静謐として更けてゆく。

「カボチャはほうとう、楽土は?」

「王道」

「よろしい」

 テンガロンハットを、テーブルの上へ投げて。

 楽土ラクシュミの褐色の指が撫でる。絆・ザ・テキサスの白く細い喉を。

 それを受け入れて、絆は線の細い身体を、大君の胸の中へと沈める。鼻腔をくすぐる香が、彼女の瞼を落とした。

「――貴女こそ、鬼百合の王です。マイレディ・ラクシュミ。我が愛しの、マハラジャ」



「……お前な、何考えてんだよ……」

 窓の隙間から吹き込む寂しく冷たい潮風が、瞬間、カーテンを大きく孕ませて。

 和姫は、そっと窓に手を伸ばした。

 翌朝。同じように冷える朝が来て、それでもガラスについた水滴は昨日までよりも少ない。

 少しずつ、春が近付いているのか。

「『酔狂隊』に入って……しかも、使徒全員とタイマンしたいって? ……イカれてるよ、お前。そんなの――」

 新調したトレンチコートの前を、今は開けている。群青に白いラインの襟、セーラー服。『酔狂隊』の特権。

「鬼百合全員と戦うって言ってるのと同じじゃねーか……」

 そう口にする和姫はもう今にも頭を抱えてしゃがみ込まんばかりだったが、しかし。

 唇を結んだまま、百合子はこくんと頷いた。

 頬にはガーゼ。腕には湿布。絵に描いたように満身創痍で。

「わたし、いろんな人と喧嘩したい。技を視れば視るほど、わたし、強くなれるから……」

 それでも胸の前で手を合わせ。

 恋する少女の顔をして、細めた目で和姫に微笑むのだった。

「和姫と一緒に、戦えるの」

 わざとらしいくらいに大きな溜息をつき、和姫は頭を掻く。

「死ぬかも、しれないんだぞ」

「……わたし、死なないよ。和姫がそばにいるから」

 それには、はっきりと首を振る。水掛け論にはさせない――誰にも譲れない論点があって、藤宮和姫にとってはそこだった。

「死ぬんだよ。人は。……美笛姉ちゃん、私の従姉妹でさ。太陽みたいな人だったけど……死んだ。喧嘩だってあの沙羅さんたちがみんな慕うくらい強かったのに、ビビった余所の女にナイフで刺されて、あっさり死んだんだ」

 和姫が中学に上がった年だった。

 だから和姫は――頑張ることを、戦うことを、原則的には悉く、やめた。人の感情をいたずらに増幅させがちである青春などというものは、目を閉じていても過ぎていく。それでいいと、自ら選んだのだ。

「私はさ、百合子。もう誰にも死んでほしくねーんだよ」

 鬼百合女学院への進学を決めたのは、最後の妥協だった。大人になってしまう前に、光輝なりし彼女が愛した学校で過ごしてみたかったのだ。

「死なないよ……和姫。わたし死なないし、誰も死なせない。わたしが、それくらい強くなるから。だから、一緒にいたいの。ここで……」

「……無茶苦茶言ってんなよ、お前」

 首を振る。

 穏やかな、笑顔で。

「だって和姫……好き、なんでしょ。この学校が……鬼百合が」

 加えて――知ったようなことを、言うのだ。

 数年ぶりに再会した、その翌日だというのに。

「和姫の好きな学校、だから……わたしも好きになりたいの」

 苦笑しか、できなかった。

 ――ああ、クソ。こいつ何でも見てるんだもんなあ。

 ――美笛姉ちゃん、言ってたんだよ。

 ――鬼百合は、女が生き方を見つける場所だって。

「……じゃあ、和姫。こうしよ……? 今から、タイマンで……和姫が勝ったら、わたし、『酔狂隊』入らない。でも……わたしが勝ったら、一緒に……ね?」

「な・ん・で・そ・う・な・る・ん・だ・よ!!」

 とは、言いつつも。

 それが避けられない、運命的に確定された流れなのだと――藤宮和姫も理解しているのだ。

「ったく、よくもまあ昨日の今日で……ってか、お前な! さりげなく負けても学校には残るルールにしてんじゃねーよ!! 沖縄帰れっつったろ!!」

「……バレちゃった」

 顔を傾けるとハイビスカスの花弁が振れる。

 ったく、と。

 盛大に溜息をつきながら、和姫は脚を後ろに曲げてハイソックスの位置を直した。

「田中よりよっぽど強くてヤバい女に、お前、きっと殴られるぜ」

「……なんくるない」

「そりゃあもうビックリするくらい、男に全然モテなくなるぜ」

「……なんくるない」

「DQNばっかで、まともな思い出なんてできないんだぜ」

「……なんくるない。和姫と一緒なら、わたし大丈夫」

 小さく首を傾けて、前髪揺らして。……謝花百合子は、微笑む。藤宮和姫と向かい合い。

 藤宮和姫もまた、嫌々、大変嫌々、謝花百合子と向かい合った。

「あーーーーー畜生、私、ただ平穏に暮らしたいだけなんだけどなあ!!」

 諦め気分で叫んだ後で、唇の片端を上げて笑って。

 和姫は拳を固めて脚を開き、細く静かに長い息を吐く。肺を空にして、心眼を開く。琉球空手は、打ち合う相手の心との対話である。互いに、それぞれの在り方で伝統を崩しつつも、それをベースとして遣う少女同士。

 赤縁眼鏡の向こうに、少女がいる。見える。時空を超えて。青い空と海の狭間、ハイビスカスを頭に挿した彼女。ヘーゼルの瞳を煌めかせる、彼女。和姫の――きっと、初恋の娘。

 クリーム色のマフラーが、教室で宙を舞う。机が、倒れる。

 いつかの夏の潮騒のように、止まることなく胸が高鳴って。

 薄汚い床を同時に蹴り、ふたりの拳は交差する。


『……ねえ。カズキの学校って、どんなところ……?』

『ん? 楽しいぜ。色んな奴がいて、色んなことしてて。仲のいい奴も悪い奴もいるけどさ、そういうの、皆合わせて『学校』って感じなんだ』

『へえ……うん、楽しそう……いいなあ……』

『百合子も一緒に通えたらいいのになー』

『……うん。……そう……したい。わたし、いつか、カズキと一緒に――』


 後に、前人未到の湘南制覇を成し遂げる伝説的「不良」――藤宮和姫と。

 彼女の右腕、『タイマンのユリ』と呼ばれ恐れられることとなる謝花百合子の。

 それが、伝説の幕開けであった。


(第一話『第七使徒 藤宮和姫』完)

(第二話『第一使徒 乙丸外連』へ続く)

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