第一話『第七使徒 ――――』4

「大体さぁ」

 ふたりきりの教室に。

 田中ステファニーが、土足で踏み込む。

「何なわけ? ユリぽよ――まずはアイサツっしょ? 常識じゃね?」

 短いスカートのポケットに、両手を突っ込んで。

 セーラー服に金髪の女王が、不遜に進軍する。たったひとりで。派手な音をわざと立てて、クラスメイトの机を左右に蹴散らしながら。彼女は教室において誰よりも恐れられ、しかし戦いに臨んで付き従う者など誰もいないのだった。

「ぶっちゃけウザいんだよね。そいつとどんな関係か知んないけどさあ、このクラス締めてんのはあーしなワケ。なんでお前、そのあーしにどーでもいーですみたいなツラしてんの? 調子乗んのもいい加減にしてほしいんですけど」

 大きく開いたセーラー服の胸元には、下品なほどに存在を主張する毒々しい水玉柄のスカーフ。大きな襟を飾るそれは彼女が、田中ステファニーが、『酔狂隊』第六使徒である証。

「……なあ、田中。百合子は今日――」

「テメーーーは黙ってろし藤宮。……あーし、テンコーセーちゃんと話してっから」

 二メートル。一メートル。渦まくような煙を纏って、女は近付く。

「気に入らないワケ。わかる? ねえ。ユリぽよ。どいつもこいつもさあ」

 教室の暴君。礼儀知らずのストレンジャーを踏み潰そうと、迫る。迫る。今にも痩せた胸倉を掴まんばかり。

 だが――威圧に屈せず、百合子は言葉を紡ぐ。

「……田中、さん?」

「あん?」

「後にして……今、カズキと……大事な、話……」

 口元隠すマフラーを指で引き下げて、視線を右へ左へ振りながら、百合子は蚊の鳴くような声で呟く。

 その喋り方は謝花百合子という少女の常であって、決してステファニーに怯えているわけではないのだったが。

「何? 何オドオドしてんの? キモいんですけど。てか聞こえねーっつの」

 椅子の背にローファーの靴底を当てたステファニーは。

「はっきり喋れっつってんじゃん、クソブス!!」

 そのまま、椅子を蹴り飛ばす――それは床で何度か跳ねながら教室の後方まで吹っ飛んで、大きな音と共にロッカーに凹みを作った。

「それ媚びてるつもりなん? 全ッ然カワイくないかんね。ってかムカつく」

 轟音にきゅっと目を瞑ってカズキのコートを掴んだ百合子。ステファニーの体温はさらに上がっていく。

「アッハ、それともアレ? クソ×××使ってオトモダチ作りって感じ? オタッキーなブス同士お似合いかもしんないけどさあ、だったらもっと目立たないようにやってくんね? キモいから」

 酷薄に笑う。言い返さない寡黙な転校生に、苛立ちを全てぶつけるかの如く。

「……」

 下品な言葉に眉を顰めつつ、カズキは百合子の手首を取って自分の背後へと下がらせようとした。

「ねえ、何とか言ってくんね? お前あーしのことナメてんの? この一年さあ、うちのクラスそういう感じでやってきたワケ。ユリぽよだけ特別扱いできないっしょ?」

「……」

 百合子は依然として目を逸らさない。ステファニーの三白眼から。

「目立つな。粋がんな。っつーか、あーしの顔色見て動けし」

 膝を、持ち上げると――

 鞭のようにしなった脚が、机の上を撫でる。目にも止まらぬ速度で、蹴り飛ばす。カズキの教科書を、筆箱を。そして、コーヒーマシュマロの袋を。

 薄茶色のふわふわした塊を撒き散らしながら汚れた床に落ちた袋を、ステファニーはローファーの底で踏みつけた。

「ね、藤宮ぁ。嬉しいん? テンコーセーにちやほやされてさ。いーんだもんね、アンタはさぁ……そうやって気取って、周りにトモダチ作らなくても。なーーーんにもしなくても好きんなってくれる人がいるって、マジ羨ましいんですけど~~~? 」

「っ……!!」

 何が――どの言葉が、引き金になったか。

 眼鏡の奥の目に宿った怒りを、必死で抑えているようだった。

 ここには百合子がいるから。むしろ、ステファニーが目をつけているのは彼女だから。巻き込むわけにいかないから――

 だが、そんなカズキの必死を無に帰すかのように。

「……カズキに謝って」

 キッ、と。

 百合子は、あからさまな敵意を向けて――細腕を広げていた。カズキの前に壁を作ろうとしているかのように――その体躯は、あまりに頼りなく思えたけれど。

 それでも、百合子は――カズキの知らない顔をしていた。

「え? 何? あーしにハンコーしちゃう系? ウケる」

 引き攣ったような笑いを浮かべながら、ステファニーは傍にあった机の天板で煙草を捻り消して。

 震えているようでさえ、あった。怒りと屈辱で。

「へえ……いや、ヤバいね。マジでウケるんですけど。『酔狂隊』に上等張るテンコーセー、新しすぎっしょ」

 前髪を掻き上げ、獰猛な目を剥くステファニーに――百合子は、小さく首を振る。

「『酔狂隊』……? のことは、知らない。わたし、やるならあなたと――タイマンがいい」

 カズキは、自分の呼吸が止まったのを感じた。唾を飲み下すのに、何秒もかかった。

 ――なんで。

 ――なんで、こいつの口からそんな言葉が出るんだよ……?

 決して、声を荒げることなく――

 それでも、百合子の身体には漲っていた。何かが彼女の血潮に代わって、燃え盛りながら全身を駆け巡っていた。

 そう、ひりひりと伝わってきた。

「最高。最高じゃん、お前。いーよ、じゃ廊下出な」

「……」

 髪のシュシュを解くステファニー。ローファーが、廊下に散らばる割れた窓ガラスの欠片を踏み砕く。

 口を開くこともなく、小股で、だが足を止めることなく堂々と、百合子はその背中に続く。

「なっ、おい――百合子!? お前、何言ってんだよ!? 洒落になんねえんだぞ!!」

「なんくるないの……心配しないで、カズキ」

 歩いて、出て行く。教室を。

 振り返って、垂れた前髪の奥で。

 いつかの日と同じ、カズキを助けるために勢いに任せて海に飛び込むような彼女の瞳。煌めく。煌めく。ここには存在し得ない夏の陽――いつでも彼女を守っている、空と海とをそこに宿しながら。

「わたし、負けないよ」

 霜柱さえ薄く立つ廊下。スナック菓子の袋、軽く蹴って。

 小柄な百合子が、薄暗い中に立つ。

 クリーム色のマフラー、しゅるりと――解いて。

 汚れた蛍光灯がちらつく天井に、放り投げる。高々と。広がって、まるで春風に舞い上がる羽衣のように――

 それが――合図になった。

「っ!!」

 タイマンが――始まる。こうなってしまえば、制止は不可能である。坂道を転がり始めた岩を、もはや誰も止められないように。

 踵を潰したローファーで、リノリウムを蹴るステファニー。金髪が靡く、靡く。

 カズキと同じくらいには身長があるステファニーの脚は、比例して長い。身体を捻りながら、槍のように鋭く直線軌道で左の蹴りを繰り出す。短いスカートがめくれかけて、扇情的に丸みを帯びていた太腿に筋肉の凹凸が一瞬で浮き上がる。

「百合子!」

 彼女の痩せて皮膚の薄い腹部に靴裏が深くめり込んだ光景を、カズキは想像した。ふわりと落ちてきたマフラーを、思わず片手の内に握り締めて。片手で折れそうな細腕で、何ができるというのだろうか――

「……」

 しかし。

 しかし、謝花百合子は立っていた。ふらりと――流れる潮の如くして、ステファニーの力強い蹴りを躱し。

「ハッ――」

 距離が、詰まる。ステファニーは外れた蹴りの脚をそのまま踏み込みに用いて、固めた右拳を――

 思い切り、振るう――そう見越し、百合子は左腕を顔の脇に立てて衝撃に備える。だが、ステファニーの右は百合子の肘に軽く触れただけで。

「……?」

 自らの腕が遮蔽してステファニーの顔が窺えない。百合子は構えた手を下ろす。その瞬間を狙って――

「らァっ!」

 渾身の左拳が、ストレートで百合子の頬に突き刺さった。

 鈍い音がした。

「百合子っ」

 痛みが頬に走り、目元にじわりと涙が浮かぶ。短い黒髪が流れる。

 続け様に一発、二発。フックが、身体をくの字に折った百合子の顔面で炸裂する。

 視界がちかちかした。本気で顔を殴られた経験など、子供のいない村で祖父母に可愛がられて育った百合子にはなかった。

 田中ステファニーの戦闘スタイルは、軽手で翻弄しながら持ち前の腕力でストレートを叩き込むストリートボクシング。シンプルであるが故に、長い格闘の歴史の中で洗練され無駄を削ぎ落としながら発展した技術であることをまざまざと証明していた。

 息を切らしながら、それでも残酷に笑ってみせる。彼女は教室の暴君だ。そう在らねばならないのだ。いずれは『酔狂隊』を、鬼百合をまとめ上げる――そのために。

「スタイル維持にはボクササイズ。これ、世界の常識っしょ?」

 乱打。だがそれは怒りに任せた闇雲なものでは決してない。百合子はそれを腕で受けようと試みるが、フックがすり抜けて、ストレートが貫いて、何発もが既に赤らんだ百合子の頬を正確に打つ。まるでサンドバッグだった。鼻血が唇に、そして床に垂れた。

「百合子! もうやめろって! お前、喧嘩なんかしたことないだろ!?」

「……ずっと、見てたから」

 ハイビスカスの花、鮮やかに咲いている。頭が血に塗れているようにさえ、錯覚してしまう。

 痩せて背も低い百合子は、手の甲で鼻血を拭って――

「ゴチャゴチャさあ、喋ってんじゃねーし!」

 間髪入れず打たれたステファニーのボディブローを――

「……わたし、頑張ってるカズキのこと。ずっと、見てたから……」

 今度の打撃の結果は、破裂するような音。骨をしたたか叩く音ではなく。

 肘を支点に、時計の針のように縦に回された左腕によって、「突き」のバリエーションたる下からの拳が、弾かれた音だった。

「なっ、お前それ……!」

 その動き。カズキは眼鏡の奥の目を見開いた。流れるようなイメージ、攻防一体の型。

 ヘーゼルの瞳が、煌めいていた。

「……はっ」

 田中ステファニーの右半身はガラ空きである。そうなるように、拳を外に弾かれた。そこに鋭く迫る。薄い唇を引き結んだ小柄な少女の、水平にぴんと伸びた平手――ただ一点に体重を乗せた、貫手。ローファーの踏み込みと共に。

 研ぎ澄まされた指の先が、胸元抉らんと、突き込まれる――!!

「か……!?」

 肺の空気がごっそり奪われる。ステファニーは、汚い廊下に膝をつきそうになった。鳩尾への突きはそれほどの衝撃だった。反撃を予想していなかったというのもあったが、それにしても――

「それ……って……」

「そう……沖縄手(ウチナーディー)。琉球空手……カズキのお稽古、見て……わたしも、覚えたの」

 目を細めて、百合子はカズキを振り返る。教室のドアに手をついて、マフラーを強く握り込みながら、格闘の状況を傍観する藤宮カズキを。

 ダッフルコートの前を開け放つ。セーラー服。カズキより僅かに地黒の肌をした百合子にはやたらと似合う、色が濃く地味で、スカート丈も長い――冬用セーラー服。昔のまま髪を飾っているハイビスカスだけが、色彩を添えて。

「てン……めェ……やってくれんじゃん!?」

 喉を灼いて逆流する胃液を、無理に飲み直して。

 ステファニーは拳をさらに固め、振るう。振るう。だが、もう百合子は殴られるばかりでなかった。

 苛烈なパンチの暴風の中で、彼女は瞼を閉じない。

「……はっ、はっ。はっ、はっ……」

 右・左。右・左。子供同士が歌に合わせて手遊びでもするかのように、百合子はリズム良く体重移動と腕の回転で拳を受け流し、弾く。

 焦れる。『酔狂隊』の使徒が、歯を食い縛りながら打ち込んでいた。こんな座敷童のような、小柄なはずの転校生を相手に。殴打の手応えは既に失われた。だからこそ、焦れていた。

 田中ステファニーは妥協しない。全身で自分の「オシャレ」を表現する彼女がネイルアートにだけは手を出さないのは、拳を握るためなのだ。ジムに通い、彼女ほどストイックに鍛えている喧嘩師は鬼百合においても稀かもしれないほど。喧嘩というものに対して、ステファニーは彼女なりに真剣に向き合ってきた。暴君にだって、暴君たる矜持がある。それが今、揺らぎかけていた。

「……いーやさーさ」

 ぬるりと――ステファニーが手を止めた瞬間を見逃さず、百合子は突きを放つ。

「ナメんなっ……っつの!!」

 そう、何度もは食らわない。防がれる……だが、カウンターとしての横薙ぎの拳は空を切った。

「……」

 視界の右下だ。紅が奔ったのは。

 身体を屈めて、懐に潜り込んでいた。ヘーゼルの瞳が、三白眼を見上げる。

「……覚えた。田中さんの、ボクシング」

 地の底から浮き上がってくるような左の拳。ステファニーは顎を引き、手を出す。出してしまう。それが、触れるだけだとわかっているのに――視線と平行に向かってくるものを、人は本能的に避けようと動いてしまうから。

 トン、と肌と肌が触れて。次の瞬間――

「っ……!」

 百合子の右の拳が、アッパーカットの形を成してステファニーの顎を襲った。

「なっ」

 なっ、んで。そう、ステファニーは言いかけた。百合子の腕力は弱い方だったが、顎に貰えば十分に脳が揺さぶられる。

 ジャブやフックを釣り餌とするその技は、ステファニーのものだ。ステファニーが百合子を殴るために、つい数分前に用いた手。

 百合子の脚運びも、もはやボクサーであった。突きや上向きの正拳を主体とする琉球空手のそれから、スタイルを切り替えている。即興で――たった今、初めて見たばかりのボクシングに。

 上体の泳いだステファニーの顔面に、ジャブ。からのフック。そしてストレート。

 ――私のだけじゃねえ……

 ――田中の戦い方も視て、今、身につけたっていうのかよ……!?

 ヘーゼルの瞳。

 双眸が、じっと視ている。田中ステファニーとの格闘の全てを、俯瞰的に捉えている。

「メチャクチャ、やってくれちゃってさあ!! 笑えないんですけど!!」

 だが――田中ステファニーの強みは、そもそもの腕力である。百合子のコピーしたボクシングは、あくまで百合子自身のフィジカルに基づいてその威力を成す。一撃の重さまでは、模倣しきれない。

 そこを隙と見て、ステファニーは捻じ伏せにかかる。殴られながら。攻め立てる拳の連撃、連撃。戦い方がシンプルであるが故に――純粋なボクシングのリングとして肉体の勝負になれば、百合子に勝ち目はないだろう。実際、小柄な方の影が壁際に追い詰められる。

 だが、百合子とてそれだけには留まらない。流れるような脚捌き。攻防一体の型から繰り出される、迎撃の突き。脇からの蹴りで牽制し回避線を絞ってからの、正拳。

 殴り合う。殴り合う。疲労が蓄積するほどに、回避やガードは難しくなる。倒されるより前に倒す。タイプの違う格闘者同士は、結局そこへ帰着する。

「こん、の……!!」

「負けない……」

 二輪。相削り合うことしか知らぬ炎天の華――

 ――湘南には、昔から鬼百合があって……あーしさ、ずっと憧れてたんだよね。

 殴る。ただ殴る。謝花百合子。何を考えているのかわからない、この転校生を。

 ――鬼ヤバ強くて激クソカッコいい女が引くくらいいる、このガッコ。湘南最強は、やっぱ鬼百合じゃん?

 百合子も、殴る。ステファニーを。彼女が積み上げてきたボクシングのスタイルを、ただ視ただけで器用に真似て。

 平突きか、フックか。その指先の形にステファニーが気を取られると、横から回し蹴りが攻めてくる。

 ――水土世代とか言ってっけど……あの人らが卒業したら、誰がアタマ張るワケ?

 吼える。そして、受け流させずにただ膂力を以て百合子の顔面に拳を食らわせる。くの字の腹部にボディブロー。

 ――テキサス? 桜森<サクラモリ>?

 ――無理っしょ。器じゃないっしょ。

 こみ上げる胃液を抑えて、百合子は細腕を突き出す。掌底で、ステファニーの胸を打つ。突き飛ばす。ふたりの間に距離ができる。

「てか……あーししか、いなくねぇ……? 鬼百合、ガチで背負えんのさあ……!!」

 それは、悲鳴のようにさえ響いた。

 背筋を真っ直ぐに伸ばすことさえ、難しかった。腕の感覚は既に無く、唇は血の味がした。それでも、田中ステファニーは睨んだ。拳を握った。

 誰も彼もに嫌われながら、彼女は彼女なりに――鬼百合女学院を、愛していたから。

「ナメんじゃねーっつーの!! あーしが、『酔狂隊』のコーケーシャなんだよおおおっ!!」

 踵を潰したローファーが脱げて、ルーズソックスがずり落ちて、それでもステファニーは駆けた。たった数メートルの距離を詰めて――

 最後の一打を、謝花百合子の顔面へと叩き込む。

「ああああああああああっ!!」

 ステファニーの姿が見えているのか否か。

 ふらりと、百合子は立っていた。

 左手を、コートのポケットへ無造作に突っ込んで。

 その姿勢は――鬼百合に通う者、どころか。湘南の女子高生なら、誰でも知っている。

 水恭寺沙羅の、喧嘩――

 果たして、決着は刹那。

「……祈って」

 十字の形に、手刀の二打が。

 閃いた甲が拳を撃墜して――翻り、迫ってきていた田中ステファニーの額に――衝撃。

「っ、あ――」

 スローモーションのように、目を見開いたままで崩れ落ちる。身体の制御が、もう効かなかった。

 ――え?

 ――いや、嘘。ありえないっしょ。あーしが……

 ――負けた……?

 片膝が、落ちて。視界が九十度横を向く。

「……」

「……は」

 対卍――完了。

 謝花百合子は、田中ステファニーを打倒した。

「はは……いや、おい、嘘だろ……勝った……? 田中に……?」

 息つく暇もなく。

 インファイトを繰り広げる幼馴染とクラスメイトを、カズキはただ黙って見ていた。

 止めることもできず、否、それよりも――

 一打ごとに成長するかのような、小柄な彼女に――目を奪われて。

 南洋の花。教室の入り口にいたカズキを振り返って微笑む彼女。謝花百合子。

 どう考えても喧嘩なんかに慣れていないだろうに、鼻血を出しながら、頬を赤く腫らしながら――倒して、しまった。

「ふっ……ざけんなよ……」

 冷たい床に手をついて、ステファニーは立ち上がった。

 胸の谷間に指先を突っ込む。そこから引き抜いたプラスチックの細い箱のようなものを回転させると――ぎらりと、刃が現れた。

「――」

「まだ負けてなんかねーーーんですけどぉ!?」

 ナイフを片手で握り、突進する。

 その視線の先で、振り返る、黒髪の少女――

「百合子!!」

 叫ぶより早く、足を踏み出していた。百合子のマフラー、投げ捨てて。

 ふたりの間に、今こそ、割り込んで。

 カズキは脱いだトレンチコートを、ばさりと、振り上げる。その繊維の抵抗が刃物を持っていって、直線廊下の彼方へと飛ばし。

 裂けた生地の断片が、廊下に舞う。

「……なあ。それは、ダメだろ。田中」

 ひどく冷たい声で、カズキは、見下すように言った。

「私は、それはさすがに許さないぞ」

 はらはらと舞い散る糸屑の中で。

 疲弊しきった百合子は、何が起きたのかも飲み込めず、目をぱちくりさせた。

 すらりとした身長。赤い眼鏡。癖っ毛。

 そして――セーラー服。

「ふざけるなよ、お前」

 泳いだステファニーの上体に、回し蹴りを叩き込む。

 既に気力も体力も尽き果てていた身体は、いとも簡単に転がった。

「カズ……キ……?」

 百合子の目の前に、ひとりの少女がいた。

 静かに荒い息をして、冷たい怒気の中に立っていた。

 ……その名は、『酔狂隊』第七使徒。

 藤宮和姫<フジミヤ・カズキ>――水恭寺沙羅や乙丸外連には、ヒメと愛称で呼ばれていた。



「ああ――来たかい」

 その日の、夕暮れ。冬の陽は落ちるのが早くて、さほど待つこともなく時は訪れた。

「……」

 艶めかしい唇を切り、顔にいくつも痣を作って、気まずそうに田中ステファニーは立っていた。腰の後ろで、もじもじと手を組んで。教室の暴君さえも、「彼女」の前ではそうならざるを得ない。

 ましてや――あれほどの醜態を晒したことが、知れ渡った後では。

 ロングスカートの中で脚を組み、テトラポッドに腰掛けて。黄昏色の光の中で規則的な波を見つめる背の高い彼女は、さながら、渚の女神――

「……ステ。あんた、『酔狂隊』辞めな」

 要らぬ雑談を挟むこともなく、彼女はそう切り出した。

 潮風に、パーマのかかった短い栗色のポニーテールが揺れていた。

「……」

 歩道の端で、ガードレールを挟んで彼女を見つめるステファニーには、返す言葉もない。

 シュシュで括った毛の先を、静かに弄り続けていた。

「何もね、あんたが嫌いで言ってんじゃないよ。あんたの野心は、必ずしも悪いもんじゃないって思ってたし? ……でも、あたいでももう守ってやれそうにないんだ。外連やスズは、あんたを見つけたらただじゃおかないだろうね」

「……沙羅、さん」

「ずっとあんたを庇ってたのは、ヒメだったのさ。追い出したりしたら争いの種になるって。でも、そのヒメをあんたは本気で怒らせちまった」

 ヒメ――藤宮和姫。

 田中ステファニーは、彼女のことが嫌いだった。中学からの知り合いだか何だか知らないが、水恭寺沙羅たちオリジナルメンバーにやたらと気に入られていて――実際に喧嘩をしてみれば、それなりに必死で鍛えているステファニーより強力で。なのに本気で鬼百合の頂点を狙わないどころか、なるべく抗争に関わらないようにとただただ怠惰に過ごしている。第六使徒の序列さえステファニーにあっさりと譲って、いつもクラスの傍観者を気取っていたあのノーメイク女が――心の底から、気に入らなかった。

「あたいらだって不良で、そりゃあ悪い事ばっかやってるのは認めるよ。あたいらなりに正しいと思ったことをやってるつもりだけど、それを正しくないって思う奴もいる。だから、あんたのやったこと、やってたことを、あたいらが責められるのかったら――そいつはあたいの知ったことじゃないのさ」

 鬼百合最強の女が――

 田中ステファニーが、彼女こそ現状の王として相応しいと認めた彼女が――

 あまりに弱々しく、笑ったから。

「ただね? だからこそ――曲げちゃいけないスジってのは――正しい正しくないより先に、カッコいいかどうかなんじゃないかって、あたいは思うんだ」

「……」

 異論を唱えることなど、できなかった。

 否定すれば、それは――ステファニー自身の夢を、否定することになるから。

 ――あーあ。

 ――あーしさぁ、どこで間違ったんかな。

 田中ステファニーは無言で水玉柄のスカーフを解く。セーラー服をセーラー服たらしめる襟を飾る、要石としてのそれを――

 しゅるりと、解く。諦念のような、しかしそれにしては澄み切った感情を込めた息を、鼻から吐いて。

 ガードレールに、大切なスカーフ、そっと掛けた。

「沙羅さぁん」

「なんだい」

「強くてカッコいい、鬼百合。作ってくださいね、マジ」

 どこかやりきったように穏やかな顔をした、自らの使徒。道を間違えてしまったけれど――もしかしたら、誰よりも「鬼百合」を想い続けていたかもしれない彼女。

 その想いも、水恭寺沙羅は背負っていかなければならないのだ。

「……ああ。任せな」

 ステファニーは小さく頭を下げて、躊躇いもせずに踵を返す。

 唇を舐め、小さな溜息交じりに頷いた。

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