第一話『第七使徒 ――――』3

『……ねえ。カズキのお家は、どんなところ……?』

『んー?』

 今帰仁村は静かな場所であった。観光のタネと言えば美しいビーチと世界遺産の城跡くらいのもので、町中には個人商店以上の施設などほとんど存在せず、ただ美しい空と海と緑があるだけの村。そこが、謝花百合子の生まれ育った場所であった。

 両親はおらず、明るく面倒見のいい祖母と寡黙だが優しい祖父に育てられた。母は百合子が物心つく前にニライカナイへ行った。父のことはよく知らないが、母と百合子を置いてどこかへ去ったらしい。父は米兵とのハーフだったそうであるから、村に居づらかったのかもしれないと今では思う。

 島どころか村から出たこともなかった百合子にとって、湘南からやってきた藤宮カズキは宇宙人のようなものだった。九歳の夏、百合子の家である民宿に同年代の子供が何人かと引率の大人がひとり、泊まりに来た。百合子にとっては大事件であった。

 子供たちの中で、ひとりカズキだけが百合子と同い年だった。他の子たちは数年分年上だったのだ。初めは祖母の後ろにもじもじと隠れていた百合子だったが、きっと友達を作らせてやりたかったのであろう祖母に背中を押されるようにして、ぶっきらぼうな喋り方をする癖っ毛の「彼女」にそっと近付いていったのだった。

『おれんちは湘南の逗子』

『どういう……ところ……?』

『どういうって……そーだなー……とりあえず、ここより人は多いし、建物も多い……海もあるけど、ここの海とは全然違うわ』

『どう違うの……?』

『めっちゃ汚ねーの! あははっ』

 町外れの方へ少し歩けば、見えてくるのは空き地なのか畑なのかよくわからない草原と立ち並ぶビニールハウスだけだ。車などほとんど通らない車道の真ん中を、カズキは拾った木の枝を振り回しながら歩いていた。薄桃色のワンピースを着た百合子はその後ろにおずおずと。夕暮れの陽がふたりの長い影を道路の上に重ね合わせていた。

 最初こそ引っ込み思案の百合子はがさつそうなカズキに怯えていたし、カズキの方も普段は活発な男児たちとばかり遊んでいたので無口で控え目な百合子の相手をするのに退屈した。トランプで負けた罰ゲームとして思い切りデコピンをしたら泣かれて引率の師範にぶん殴られたので、まだ小学三年生だったカズキはへそを曲げて百合子を鬱陶しく感じていた。

 三日目だった。せっかく沖縄来たんだし海行きてーよ、と唇を尖らせたカズキに、じゃあひとりで行ってこいと師範が笑い、百合子は祖母からその案内の役目を任じられて、ふたりは会話もなく海への道を歩いた。

『おーい、来ねーの?』

『……』

『置いてくからなー……』

 二メートルほどの高さがあるごつごつした岩に手をつき、カズキが少しずつ降りていく。きらきらと光る魚の群れを間近に見ようとして。百合子は黙って首を振り、ワンピースの膝を抱いて平たい岩の上にしゃがみ込んでいた。夏の陽はじりじりと地上の何もかもを熱して、汗が頬を腕を滴る。この頃はまだ裸眼であったカズキの視線の先は、ただ煌めく水面に注がれた。

 木登りや壁登りに慣れているカズキには、怖いことなど何もなかった。子供は誰しも最強の冒険者であり、大抵はそれを疑いもしないのだった。

 ……別にこんなつもりじゃなかった。カズキが望んだのは道場の仲間たちとの楽しい時間であって、海そのものなんてどうでもよかった。こんな、生まれてこの方笑ったことがないようなのとふたりで――

『うわっ……!?』

 波に濡れた岩の表面が、サンダルの底を滑らせた。ぐらり、小さな身体が前に傾く。麦藁帽子が頭から転げ落ちる。

 視界が瞬間エメラルドグリーンに染まる。しかし、その奥には硬い岩の水底があるのだ。この岩場においてはきっと、カズキの身体を水が受け止めることさえ許さぬ浅さに。

 踏ん張ることなどできるわけがない。くしゃくしゃの髪が、その先が、水面に触れる――

『危な……っ』

 百合子はくりくりとしたヘーゼルの目を見開いて、小さな手を伸ばして、届かないとわかると、それから岩肌を蹴った。何を考える暇もなかった。

 非力な腕が、自ら落ちながら、それでもカズキのTシャツの後襟を掴んだ。掴んで、くっと後方に引く。幼い百合子の細腕、いつもなら、同い年の子供の身体を腕だけで支えることなどできるはずがないのに。今だけは、咄嗟にそれが可能になった。

 カズキは頭を打つ前に引き上げられ、力のかけどころもないまま全身の筋肉が宙を泳ぎ、岩の裾、窪みの水溜まりに尻餅をつく。入れ替わるように、百合子の白いワンピースの影がふわりと広がって――水の中へ、落ちていく。

 もちろん、頭を打ったりはしない。しないけれど――

 波紋、広がって。

 膝にも届かないほどの深さの澄んだライトブルー、揺れて。水の中、すぐに立ち上がるけれど、服もサンダルも、髪もそこに挿した花も、すっかり夏の海に濡れて。

『大丈夫か?』

『……平気。なんくる、ない』

 長く細い前髪の先から、まだ幼く丸みを帯びたような指の先から、雫を滴らせながら。ゆるゆると頭を振って。

 ただ、沖縄の海にはいつも寄り添い昇る太陽だけが、遥か高みからふたりを見ていて。

 じりじりと、気まずいような沈黙がただ夏の日中に熱されていた。

『その……えっと……』

『……?』

『……悪い。サンキュ、助かった』

 ビーチサンダルをそこに残して、裸足になったカズキは短パンのまま、改めて水に足を踏み込む。湘南の海とは、まるで違っていた。波で巻き上がる汚れた砂の濁りがない。だから、足首を包む海水もさらさらとして感じられた。

『……うん』

 こくんとひとつ頷いた百合子の左の手首を、カズキは取る。着水の時に、そちらの手を水底についていた。

 薬指の関節に、砂で切ったと思しき小さな傷が開いて。鮮血が、海水と混じって玉の形を失いながら滲んでいた。

『怪我……』

『……なんくるない、から』

 引っ込めようとした手を、幼い夏のカズキが口元に引き寄せたのは。

 南の島を抱く大気と海が、少女たちに魔法をかけたからなのか。

 癖っ毛の少女は、波音だけが連続する静けさの汀で、濡れた小麦色の指に口をつける。

『こういう傷からバイ菌入るといけねーって、美笛姉ちゃんがさ』

 抵抗する素振りもないがヘーゼルの瞳を小さく見開いた百合子に言い訳めかして呟いたカズキは、傷口から吸った血を、海水と一緒に吐き捨てようと唇を細めて。

『けっほ』

 噎せた拍子に、飲み込んでしまい。

『……』

『……』

 顔を見合わせ、カズキは噛み合わせた歯を見せて腕白そうに、百合子は目を細めて優しく微かに、それぞれ笑った。

 それから――

 百合子がおどおどと教えてくれる何もない村の遊び場はどこも南の島の自然そのままで、カズキは目を輝かせながら背の高い草の中を駆けては透き通ったエメラルド色の海に飛び込んだ。走るのはカズキの方が早かったけれど、水に潜るのは百合子の方がずっと上手かった。

 都会の娯楽を何も知らない代わりにこの島の美しいものをたくさん知っている謝花百合子は、カズキにとって地元の友達とはまるで違う不思議な世界の住人だったのだ。そして、それと同じくらいに、強く手を引いて遊びに連れ出してくれる友達など身近にいなかった百合子にとって、藤宮カズキは遠い国の王子さまだった。

 子供の身体は夏の一日を馬鹿馬鹿しいほどに長く感じる。一日経ち、二日経ち、気付けば狭くて急な民宿の階段でカズキとすれ違う度になんだか肌の裏側がくすぐったいような無垢なままの快感を覚えるようになっていた。

 道場代わりに貸していた古い蔵に、百合子は祖母と一緒に薬缶いっぱいのさんぴん茶を差し入れたりしながら、道着姿のカズキをそっと見守っていた。稽古が終わるとまた迎えに来て、Tシャツと短パンに着替えたカズキと手を繋いで海の方へ遊びに行くのだった。ビーチの岩陰に隠れて、観光客のカップルが交わすキスの真似事をしては声を殺して笑い合った。

『わたし……大人になったら、カズキと結婚したい……』

『んー? しょーがねーなー……』

 意味なんて、何も知らないままで。

 ただ、目の前にいる子が特別で、カズキは百合子の短い髪を通して汐風を嗅ぎながら薄い瞼を撫でたりしたのだった。

『……かなさんどー。すきだよ。カズキ……』

 社会というものがない、全校生徒がたった四人きりの小学校にいた百合子の中には、そう面と向かって口にすることへの恥じらいも育っていなくて。

 百合子は大きなハイビスカスのヘアピンを落とさないように、額をそっとカズキの汗で濡れたTシャツの胸にすりすりと押し付けていた。

 今年の夏はいつもと違うから、もしかしたら終わらないのではないかと、幼子たちは本気で信じようとした。

 それでも、夏が終わるより早く、その日はあまりに呆気なく来てしまって。

『今度、湘南にも遊びに来いよ』

『うん……行く。絶対行く』

『約束だから。守れよな』

『……うん』

 カズキが湘南に帰ってしまった後、百合子はしばらく祖母に泣きついて過ごした。家の中ががらんと静まり返ってしまって、手を繋いで歩いたはずの海へ続く道は西日のような夏の残りに照らされていた。夢だったのかとも感じるようなたった十日間を思い出し続ける幼い百合子の胸の波音は、きっと初恋のそれだった。

 次の年の夏が来て、カズキはまた民宿に泊まりに来た。その次の夏も、その次の夏も。小学生の成長は驚くほどに早くて、一年ごとに互いのシルエットはまるで別人だったけれど、再会すれば去年の別れが昨日のことだったかのように蘇って、また同じように手を繋いで十日間を始めるのだった。

 そのまた次の夏には、藤宮カズキはもう来なかった。



「……」

「お、起きたか」

 むくり、と百合子が顔を上げる。見覚えのない風景。目の前には誰の姿もない机がいくつか並んでいて、そのさらに前方に黒板。やつれたような教師が自ら書いた字を消している。床には食べ物や化粧品のゴミ、空き缶、煙草の吸殻などが散乱していて見るに堪えない。そうだ。鞄を床に置くのが嫌で、百合子はそれを胸に抱いたまま授業を聞き始めたのだった。

 ……頭を掻いているうちに、徐々に意識がはっきりする。ここは鬼百合女学院。転校してきて早々、最初の授業で爆睡してしまったらしい。

 隣、窓際の席で、藤宮カズキが頬杖をついていた。相変わらずくたびれた男物のトレンチコートを羽織ったままで、小さくにやにやと笑っている。カズキ。あの夏を最後に見失ったはずのカズキが、手の届く距離にいる。あの頃とは違って眼鏡をかけスカートをはいているけれど、波打った髪も歯を閉じる笑い方も確かに昔のままだった。

 窓は冬の冷気を受けて白く曇り、人気のない閑散とした運動場は眼下にぼやけて見える。

「……寝ちゃった」

「ま、教室にいるだけマシだよ」

 真面目に授業に出る生徒など、鬼百合にはほとんどいない。朝のホームルームで「出席した」という記録だけ残して、大抵はそれぞれの勢力やグループの溜まり場へ行って一日を過ごすのだ。『繚乱』なら音楽室、『月下美人會』なら体育倉庫といった具合に。ちなみに『魔女離帝』はあまりにも大所帯すぎる故に特定の拠点に集まりはしない。

 だから、この教室内において授業というものが大胆に形骸化していることについてはいつも通りだったが、――田中ステファニーが教室にいないことがカズキには気になった。踊り場で会ったきり、彼女は教室へ戻って来なかった。

 ――あいつ、『酔狂隊』のチャペルにはほとんど顔出してないはずなのにな……

 いつもの「授業中」なら、ステファニーはクラスの女王たる彼女にとって最も居心地の良い場所である教室の後方で取り巻きとだらだら喋り続けているのに。

 屋上かどこかで煙草でも吸っているのか、それとも帰ったのか。まあ、どちらでもいい。彼女が今ここにいないということが、カズキにとっては好都合だ。

 カズキは、通学鞄とは別に机の脇に掛けていたビニール袋を取った。

「ほら」

 昼食のパンやペットボトルと一緒に入っていたのは、袋入りのコーヒーマシュマロだった。一生ある種類のものしか食せないとしたら何を選ぶかという雑談では、カズキは家系ラーメンかコーヒーマシュマロかで真剣に悩む。幾粒かを手に出して、百合子に渡す。

「お昼休み……?」

「まだだよ。……この学校じゃ、いつが授業中でいつが休み時間かなんて区別ないようなもんだけどな」

 ふにふにと指先で弄んで、口に放り込む。

 百合子も小さな口にマシュマロひとつを入れて、うっとりと頬に手を当てる。

「昔も、こうやって……一緒に、食べたね……」

 厨房に立つ百合子の祖父から、祖母に内緒で黒糖の塊を幾つも、小さな手のひらに貰って。

 遮るものなく広がる天と地の間、さとうきび畑と荒地の境界上のような土地の隅にしゃがんで、真南を過ぎてなお燦々と輝く太陽に見守られながら、それらをカズキと分け合って口に入れた。

 舌の上で砂糖がほどけて上顎に優しく広がる甘さは、今も覚えている。

 マシュマロを噛むと歯と舌が穏やかな風味とやわらかさに包まれる。ずっとそうしていたかったけれど、その心地良さを名残惜しいまま飲み下して、カズキは、言葉を紡ぐ決心をした。

「……あのさ、百合子。まあ……何だ、話しておくことがあってな」

「……告白だ」

「違う」

 慌ててマシュマロを飲み込みマフラーの上から口元に両手を添える百合子に、カズキは首を振って苦笑する。

 立ち上がって、窓ガラスに触れた。薄っぺらいトレンチコートの袖口から伸びる、平均を超えた身長の割に小さな手で。しっとりと濡れた手のひらはそこの冷たさを痛いほどに伝えて、それでもカズキはそうしていた。手形の通りに結露が晴れ、その先には運動場が見下ろせる。鬼百合女学院高校の運動場。今は閑散としているが、そこに人影が満ちる時でさえ、正しく使う少女はひとりとしていない。そこは全ての校舎の窓から見下ろされる決闘場だった。

「あのな。今日一日で気が済んだら、お前、沖縄帰れ」

 自嘲するような、暗くきっと醜い微笑で振り返って。

 藤宮カズキは、言った。

「え……?」

 百合子のヘーゼルの瞳が、縮んだように見えた。それくらいに、小さな彼女は目を見開いて。

「どうしてもこっちに居たいなら、せめて他の学校……いや、神奈川はいずれにしろダメか……小田原の方か厚木の方に行くか、だな。とにかくもう、この学校に居ないでくれよ」

 これでいい。

 ――これで。

 ――いいんだよな……

「……なんで、そんなこと言うの……? わたし、カズキと一緒に」

「無理だって、だってお前これ……教室とか、田中たちとか……見たらわかるだろ? 普通の学校じゃねーんだって」

 頭を、くしゃりと掻いて。紅い眼鏡の位置を直して。

 だが、百合子はふるふると首を振りながら立ち上がった。薄い胸に手を当て、何度も何度も首を振る。

「わたしずっとカズキのこと探してた……! カズキと同じ学校に通って、お買い物に行ったり、たくさん、たくさんしたかった……カズキに、ずっと会いたかったの……」

「――あのなあ」

 カズキは、溜息をついて。

 苦々しく唇を噛み、自分の机に腰掛けると、脚を組む。視線、百合子の大きな瞳から逸らして。

 息を吸い込み、一気に言葉を放った。

「本当に、こんなこと言ったら悪いけどさ。私、この五年間、お前のこと思い出した日なんか一日もなかったよ」

 ――あー、くっそ……気分悪いよなあ……

 ――私、何言ってんだろうなあ……

「……嘘。だってさっき」

「そりゃ、覚えてはいたって。覚えてはいたけど、わざわざ思い出すことなんてなかった」

 ――ほら、百合子。

 ――頼むから、こんなクズのことなんかもう思い出すなって。

 ――「カズキ」はもう、綺麗な夏の想い出の中にしかいない。

「嫌……カズキ……?」

「わかってくれよ……今更出て来られても迷惑なんだよ」

 ――そういうことで、納得してくれよ。

 ――無理だって、私には……

 ――誰かを、

「どうしてそんな嘘つくの……!?」

「ねえ」

 しかし――唐突にして。

 張り詰め冷え切った二月の空気は、さらに異なった意味で刺すような剣呑に上書きされる。

 そう、ここは――鬼百合女学院なれば。

 喧嘩の予兆は、いつどこにでも発生するものだ。

「うっさいんですけど」

 ピアニッシモの煙を、舌打ちと一緒に吐き出して。

 突っかけた革靴でドアを蹴り開けた田中ステファニーが、左瞼をひくつかせながら、奥の席の謝花百合子を睨んでいた。

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