第一話『第七使徒 ――――』2
謝花百合子を職員室まで送り届けて、担任に預けると。
沙羅は二年の教室へは向かわず、その足で校舎を出て、グラウンドを脇に眺めつつ裏手へと回った。
元来、鬼百合女学院はカトリックの女子校であったという。その名残が敷地の外れ、鬱蒼とした森の奥にある。
古びた木造の礼拝堂。小ぢんまりとしてはいるが元は繊細に趣向を凝らして建てられたものであることがわかる。
ぎい、と飾りの彫り込まれた厚い扉を軋ませ、沙羅はうっすら埃の積もったフローリング張りの床へと足を踏み入れた。
最奥部のステンドグラスの下に、どっかりと無骨な石油ストーブが置かれて。
そこは祈る場所としての属性を決定的に損ないながらも、それでも、他に行く当てなどない少女たちを静かに迎え入れていた。
「でさー、四月には一年が入ってくるじゃん? どーすんのかなって。使徒の枠ないじゃんかー」
講壇の上に胡坐をかき、煙草を咥えながら頬杖をついて全体を見回している童顔の少女。
その名は『酔狂隊』第一使徒、乙丸外連<オトマル・ケレン>。
「興味ねえよ」
パイプオルガンの脇に立ち、手慰みにギターを鳴らすヴィジュアル系風の少女。
その名は『酔狂隊』第四使徒、硯屋銀子<スズリヤ・ギンコ>。
「ふむ……可愛い子がいるようなら是非勧誘すべきだと思うな、お姉さんは」
縦長のゴシック窓に背を預け、コンビニ弁当の天丼を頬張る白人らしき少女。
その名は『酔狂隊』第五使徒、ヘルミ・ランタライネン。
「大丈夫ッスよ。どーせ新入生のアタマ張んのぁオレッスから!」
長椅子の背に腰かけ、拳の関節を鳴らしながら脚をぶらつかせるツインテールの少女。
その名は『酔狂隊』第十二使徒、鷹山覇龍架<タカヤマ・ハルカ>。
四人が、扉の開く音を聞いて、一斉に沙羅へと視線を向ける。
「おはよう」
……礼拝堂は、今。
鬼百合二大勢力の片翼、水恭寺沙羅を頭とする鬼百合愚連十字軍『酔狂隊』の拠点として占有されていた。
「おはよっ、沙羅!」
両脚の間に置いていた灰皿に煙草の先を押し付けてぴょんと元気よく講壇から飛び降りた乙丸外連が、中央通路を駆け抜けて沙羅に抱きつく。
身長が一四〇センチ少々しかなく、小学生と言っても誰にも疑われないだろうが、脱色した短い髪をサイドからバックにかけて刈り込んだツーブロックヘアの彼女は歴とした鬼百合の不良であった。右耳に沙羅と揃いのピアスを着けている。沙羅の正十字に対して、外連のそれは逆十字。聖書に詳しい者であればそれが筆頭使徒ペトロを象徴するサインであるとわかるだろう。
「沙羅、ゆうべはごめんね! 本当は泊まりたかったんだけどさー」
「はいはい、気にしちゃいないよ。……あんたらだけかい。一年坊どもは?」
「んー、田中<タナカ>とかヒメはいつも通り教室の方にいるんじゃない?」
「恬<テン>さんはさっきまでいたんスけど、誰か捕まえて喧嘩してくるって出てったとこッス」
左右で長さの違うツインテールが特徴的な鷹山覇龍架は、今年の四月から鬼百合に入学する予定の中学三年生である。
沙羅や外連といった『酔狂隊』のオリジナルメンバーに可愛がられていた後輩であり、あの沙羅が直々に認めた唯一の舎妹(スール)でもあるとのことで、特例的に中学生でありながら『酔狂隊』使徒入りを認められこうしてセーラー服を纏って鬼百合に出入りしているのだった。
背は外連より少し高いほどだが、矯正器具の嵌まった歯を見せながらきんきんと高い声であまり知性の感じられない話し方をする彼女も、また違う意味で幼い印象を与える。鹿のように細い脚にいくつも絆創膏が覗いていることもあって。
「……あのバカ、誰か何か言わねーとそのうち死ぬぞ。興味ねえけど」
横からぼそりと差し込まれる、ハスキーな声。
自らの名前に合わせたのかセミロングの銀髪をアップスタイルに纏め、前髪を長く垂らして右目を隠した硯屋銀子。海外のモデルのようにも見える端正な顔立ちをしていたが、がりがりに痩せていて目つきが悪い。
セーラー服の胸元、スカーフの結び目にサングラスを引っ掛け、朱塗りのアコースティックギターであてもなくコードを爪弾きながら煩わしそうに目を細めている。
「乙丸、火」
「ん」
ギターをオルガンに立てかけた銀子へ、外連は山なりに百円ライターを投げる。
黒いタイツと合わせたセーラー服のスカートのポケットからゴロワーズの蒼い箱を抜き取って、受け取ったライターで火をつけた。
外連のライターを床に放り出して行儀悪くしゃがみ込んだ銀子を、ヘルミ・ランタライネンがにやにやと見つめていた。
煙を細く吐き出し、舌打ちをする。
「……おいデブ。何が言いてえんだ」
「いいや。銀子君がやけに恬君のことを気にしているようだからね。お姉さんは微笑ましく思ったまでだ」
「興味ねえっつってんだろ、殺すぞグリズリー」
割り箸を持ったまま白い手の甲を口元に当ててくつくつと笑うヘルミは、透明感のあるスカイブルー・ブロンドの髪を長く伸ばした長身の少女だった。沙羅よりも背の高い唯一の使徒で、外連とは実に三十センチ以上の差がある。そして、銀子が面罵するように、やや……と表現すれば嘘になってしまう程度には豊満な身体つきをしていた。その身長故に女性らしい身体のラインは崩れておらず、むしろ捉え方によっては西洋絵画の貴婦人のようにむちむちと肉感的な美しさとさえ受け止められ得るか。
しかしながら、体型より何より目を引くのはその雰囲気だ――ターコイズの瞳と雪の如く白い肌。顔のつくり自体は恐ろしいほどに整っていて、物憂げに羽ばたく睫毛を見ていると氷の異界に導かれそうな底の知れなさを帯びている。北方はフィンランドからこの湘南を訪れた、冬の人。儚さと強さを併せ持つようでありながら、その全てを微笑の中に隠す神秘的な女であった。
……正直。頭の沙羅を始めとする『酔狂隊』メンバーたちも、彼女についてはよく知らないことが多い。
「それにしても、沙羅君が後輩の居所を気に掛けるとは珍しいじゃないか。……何かあったと見えるな、お姉さんたちにも聞かせたまえよ」
「ああ、うん。そうさね……」
沙羅は顎に手を当てる。登校するなり『月下美人會』のふたり組に襲撃された方の件についてはどうでもいい。バカ巨乳の牧<マキ>も根暗の長谷堂<ハセドー>も沙羅たちの同期だが大した人物ではないし、そもそも鬼百合において挑戦される立場にある『酔狂隊』の面々にとっては校内で急に喧嘩を吹っ掛けられることなど日常茶飯事だ。
気にかかるとすれば――沙羅の後ろでマフラーを靡かせていた、あの少女。座敷童のような、おかっぱ頭の転校生。この真冬だというのにハイビスカスを髪に挿した、謝花百合子。
長椅子と長椅子の間の中央通路に立ち尽くす彼女を、礼拝堂の各所から、四人の不良がじっと見つめていた。
「……外連。スズ。ルミ。覇龍架」
水恭寺沙羅を中心とした『酔狂隊』は、昨日までの鬼百合においては間違いなく最強の集団であった。全校生徒三六五人の中からたった十二人の精鋭たる使徒を自ら選んだ沙羅だからこそ、その命題には自信を持って頷けた。
しかし。しかし――
あのストレンジャーには、何かがある。門を開けることもできなかった謝花百合子の細腕が、この学校に何かを巻き起こすかもしれない。沙羅の胸の中に、そんな根拠もない予感があった。
強力そうな外見をしていたわけではない。むしろ虫も殺せないほど繊細な手弱女と見えた。妹の綺羅<キラ>と同じように。だからきっと、そんなことを口にすれば外連たちは笑うのだろう。沙羅自身、どうしてそう思うのかわからない。予感としか言いようがないのだ。
沙羅は、傍らにいた乙丸外連の頭をそっと撫で、歩いていく。ヘルミは空になった天丼の容器を長椅子の端に置き、ごちそうさまでした、としっかり発語しながら品良く手を合わせた。銀子は首を曲げて関節を鳴らしながら立ち上がるとオルガンの鍵盤に指を伸ばす。眉間に皺を寄せたまま目を瞑り、前傾して、咥え煙草で奏でるクワイア。どこまでも憂いを帯びて荘厳な響きが、カーテンを開けるように一日を拓いていく。かつては沙羅と殴り合った銀子の長い睫毛に穏やかな光が降って滑るような、そんな冷える朝だった。講壇の脇を抜けて沙羅は振り返った。冬の朝の白い陽光に彩りを添えるステンドグラス。そこから斜めに差し込む光は、講壇の奥で忘れられたようなマリア像の足下、埃の床を照らしていた。
にやにやして頭の後ろで手を組む外連。ぽかんと何もわかっていなさげに口を開けている覇龍架。銀子やヘルミ、他の使徒たちも含め――それぞれの形で、全員が「彼女」こそ王であるということを当然の事実として認めていた。
「春が来るより早く、ちょいと面白いことになるかもね」
その名も高き『酔狂隊』頭、水恭寺沙羅。
暫定的に、鬼百合最強の女である。
「ね、マーリーさあ、そのバッグ先週発表んなったやつじゃね? クソ可愛いよね、マジで」
椅子をぎいぎいと傾け、揺らしつつ。
机の上に両足を乗せた金髪の少女は、マニキュアを塗った短めの爪を磨きながら、への字に固まっていた唇を開いた。
「えー見たいんですけど。ちょっと持ってきてみ?」
教室の中央、最後列。そこは玉座である。全てを見渡し、空間における何をも見逃さない。教育機関たる使命を失い果てた鬼百合女学院という学校においても、それは同じこと。そして、一年二組の教室でその位置を手中に収めていたのは田中ステファニーという少女であった。それだけの話だ。
胸元のスカーフを緩め、日焼けサロンで綺麗に焼いた胸の谷間が大きく露出するほどに着崩したセーラー服。やや下品な金のネックレスが、汚れた電灯の下で廃油の水面が如くぎらつく。
「えへへ、いいよね。プレゼントなんだけど――」
そばかすの目立つ茶髪のクラスメイトが、黒とピンクのハンドバッグをステファニーに手渡す。机の上に投げ出した靴の先を左右に振りながら、まるで検査をする税関職員のように、無表情で目を細めてバッグを回転させ眺めていたステファニーは――
唐突にジッパーを開け、中身を思い切り床にひっくり返した。まるでスローモーションのように見えた。化粧ポーチや筆箱が、ステファニーの机の脇に散らばる。リノリウムに叩きつけられて、何かが割れる音もした。
「え……?」
それだけ派手な音がしているのに、教室にいる三十人ほどの少女のうち、誰も後方を振り返ろうとはしない。全員が理解しているのだ。自ら田中ステファニーに関わっていくべきではないと。
「ちょ、ステちん……」
「これ、あーし貰っていいっしょ? サンキュ」
指先に鞄の紐を引っ掛けてくるくると回しながら、唇の端をぎいっと釣り上げる。
「な……ええ、ちょっと……」
そばかすの少女は、机を越えて腕を伸ばす。
瞬間――ダァン、とわざとらしく音を立てて、ステファニーの踵が机の板面に振り下ろされた。
「はぁ? 何? 『酔狂隊』に逆らうってワケ? ウケんだけど。いーよ、喧嘩しても」
ルーズソックスで踵を踏み潰したローファーの底を机の縁に押し当て、そのまま蹴り倒す。
衝撃音が、教室の中央から冷えた空気を震わせた。そばかすは咄嗟に強く目を瞑る。
「マーリー、なんか勘違いしちゃってる系? わかっとこっか、一回」
「ひっ……! ううん……あげる……あげるってば……」
「あげる? 『貰ってください』じゃね? 普通」
……藤宮カズキは。ヘッドホンを耳に当てたままで机に突っ伏し、コートを頭から被っていた。
耳障りのいいことだけを歌ってくれるアニメソングを流し込んで、脳に麻酔をかける。……ただ平穏に暮らしたいだけなのだ。確かに田中ステファニーのクラスでの振る舞いは目に余るが、だからといって、カズキは特別親しい訳でもないマーリー女史のためにここで立ち上がる人間でもなかった。
――買い被らないでくれよ、私を。
――私は、美笛姉ちゃんじゃねえんだからさ……
本気でステファニーと喧嘩をすれば、あるいは勝てる可能性はあるのかもしれないが、仮にそうなったとしてもカズキだって痛い思いをすることになるのだ。最悪、命を落とすかもしれない。
このクラスを名実共に支配しているのは田中ステファニーである。彼女は『酔狂隊』の第六使徒であり、金庫番の役割も担っていた。と言っても、彼女がクラスメイトたちから巻き上げた金品を上納しようとしても沙羅たちが受け取ろうとしないので、自ら帳簿をつけて資本金を管理しているというだけだったが。他の使徒は沙羅によって直々に選ばれ『酔狂隊』に引き込まれたのに対し、唯一ステファニーだけが自らを沙羅に売り込んでチームに加わった使徒であった。
彼女が、ただ身の保全だけのために沙羅に取り入ったのだとは思えない。恐らくは水恭寺・楽土世代、即ち一学年上の卒業後に『酔狂隊』の跡目を継いでこの学校を統一支配しようという腹積もりなのだろう。
……そんなことに何の意味があるのか。カズキは思う。どうせ、学校なんていつかは卒業するというのに。
カズキにしてみれば、それまでただ平穏に暮らしたいだけなのだ。
死んでしまったら、お終いなのだから。
「ってかさあ、なんか教室寒くね? あーしなんか羽織りたいんですけど」
奪い取ったハンドバッグを背後のロッカーに放り込み、ステファニーは椅子の上に片膝を立てた。
じろり、と派手なメイクに飾られた黒く大きな瞳が教室を見渡す。誰もが俊敏に目を逸らした。一年二組の少女たちとて、世間的には十分「不良」と呼ばれる者たちである。必ずしもただ虐げられる側の民というわけではない。中には『魔女離帝』や『月下美人會』のメンバーも交ざっている。だが、誰も正面切って田中ステファニーと構えようとはしない。彼女が、『酔狂隊』の第六使徒であるから。群雄割拠たる鬼百合においてさえ、「水恭寺沙羅と『酔狂隊』が背後にいる」ことの影響力はあまりにも大きい。彼女たちの首を狙う者たちが小競り合いを繰り返す一方で、特に下級生の間では湘南史上最強とも謳われる彼女とその軍団を純粋に畏怖の対象とする者も多くいた。
無論、それだけではない。ステファニー本人が強力な格闘者であることも、また周知の事実であった。
「ねーマーリー、服貸してくれるっしょ? 着てんの全部脱いでさ」
いかにも高慢に鼻を鳴らし、ステファニーは立てた膝の上に両手でスマートフォンを構えた。派手な爪がその裏側、カメラのレンズを強調するように小さい円を描く。嗜虐的な笑みの形に歪んだ紅い唇を割って、舌がちろりと覗く。
「え……やだ……なんで……」
泣きそうになりながら汚れた床に散らばった小物を拾い集めていたマーリーは、ジャージの上着の袖をぎゅっと掴む。
ただでさえ冷え切った冬の空気に、緊張が走った。クラスの誰もがステファニーの気紛れに戦々恐々としている。
「一回さあ、脱いでみ? ケーケンじゃん、ケーケン」
その時。
哀れな彼女にとっては救いであるように高く響いて、教室前方のドアがノックされた。
「あのう……失礼するね。みんな……ホームルーム、始めてもいいかな」
申し訳なさそうにぺこぺこと腰低く教室へ入ってきたのは、スーツに着られているような若い担任教師だった。
「はあ? 見りゃわかるっしょ。トリコミチューなんですけどー」
露骨に不機嫌な顔を見せ、大きく舌打ちをしたステファニーはつやつやと潤んだ唇にピアニッシモを咥えて金のジッポーで火をつけた。
倒れた机を顎で指して近くにいた少女に直させ、再び脚を前に投げ出したまま天井へ向かって煙を吐く。ニス塗りの玉座にふんぞり返り、この世の全てを見下すかのような尊大さで。
「うん、ごめんね……田中さん。そのままでいいから……先生、すぐ帰るから。用事だけ済ませたらね」
教師たちさえも、不良少女たちには頭が上がらない――出席簿を教壇に置いて、開いたままのドアへ手招きをした。
「ん……?」
目立たないよう最小限の動きで、癖っ毛の頭の上から被っていたコートを少し持ち上げ薬指で眼鏡を直し、カズキは目を擦った。
「えっと……転校生を、紹介します。謝花さん」
ぺこ、と微かに頭を下げ、小柄な彼女が教室へ小さく踏み込む。
空気が――変わった。
ダッフルコートに包まれた身体の後ろに、マフラー、長くなびかせて。
「あ?」
煙草を指の間に挟んだまま、田中ステファニーが片方の眉を上げる。
彼女の視線が逸れたことで辛くも難を逃れた鍬木茉莉里<クワキ・マリリ>を始めとしたクラスの少女たちの注意も、一斉にその華奢な影へと向いた。
「……ごめんね謝花さん。何かあっても、先生、守ってあげられないけど……転校の手続きなら、急ぐから。無理だと思ったらすぐ来て」
すれ違う瞬間、ステファニーから見えないように口元を隠しながら、担任は申し訳なさそうにそっと囁く。
しかし、おかっぱ頭にハイビスカスを挿した、南の島からの転校生は――
ゆるゆると二度、首を振って――
「……謝花、百合子。よろしく……」
真っ直ぐに立ち、小さく首を傾けるだけの会釈をして。
教室全体を順に見渡す中で、そっとコートを下ろして天然パーマの頭を露わにした藤宮カズキを見つけ。
「……本当に、いた……久しぶり、カズキ」
目を細め、その硬い表情筋を一瞬の間もなく緩めて、首を小さく傾けながら微笑む。ちらつく電灯の下で光る涙さえひと粒浮かべながら。
何か取り返しのつかないことが起きようとしていると、藤宮カズキは敏感に察した。
「カズキ……」
転校生を教室まで護送することだけが今朝の職掌とばかり職員室へさっさと逃げ帰った担任に倣い、とことこと己が机に近寄ってきた転校生の袖口を掴んだカズキは猛然と教室を飛び出した。注目は既にどうにもならないほど浴びてしまったけれど、せめて、田中ステファニーに捕まらないうちに。……厄介事に巻き込まれないための十戒その一は、厄介者に目を付けられないことだ。
一年の教室は新校舎の二階であった。階段の踊り場、ふたりだけがいる。氷のように冷えた窓は結露に濡れていて、緑豊かな校舎裏も滲んで映る。
すりすりとカズキの胸に頭を擦りつける百合子の後頭部に手を回す。さらさらとした黒髪。あの頃から、民宿の女将である祖母が彼女の前髪にハイビスカスを付けさせていた。
「カズキ。わたしのこと、覚えてる……?」
「そりゃ勿論……驚きはしたけどさ。百合子、だよな。沖縄の」
こくこくと頷く百合子。
「そう……そうだよ……ずっと会いたかった、カズキ……」
蘇ってくる。寄せては返す波音を伴って。
小学生の頃、藤宮カズキは夏休みの度に習い事の合宿で沖縄へ行っていた。
そこで毎年十日間だけ、稽古の前後に遊んでいたのだ。泊まる民宿の老夫婦の孫、同い年だという無口な娘と。
あの頃は携帯電話も持っていなくて、民宿の住所も屋号も覚えていなくて、カズキが習い事を辞めてからは連絡を取り合うこともできなかったけれど。
内地の忙しい日々の中で次々と出会う人たちの姿に上書きされそうになりながら、それでも、あんなに低く見える空の下に儚げにいた彼女の姿を、カズキは確かに覚えていた。
「懐かしいな……最後に行ったの、小六の時か。その後、色々あって辞めちゃったからさ」
「わたし、カズキのこと、ずっと男の子だと思ってたから……調べるの、大変だった」
「あー、はは……まあ、そうかも。あの頃、私スカート大嫌いだったんだよ」
腕を組み、苦笑して。
ん、と。カズキは「引っかからなければいけない」点に気付いた。
「……『調べるの』?」
「そう……たくさん、おじいとおばあのお手伝いして、お小遣い貯めたの……神奈川にいる『カズキ』ってことと、髪がくるくるなことしか知らなかったから……横浜の探偵事務所にお願いして……」
カズキの腕に、己が腕を絡めて。うっとりと頬を染め、ダッフルコートに包まれた細い身体をくねらせるように。
そっと、やわらかく囁く。
「……やっと、見つけたの」
直観する。
――この女。
――多分、深入りするとやばいやつだ……!
醒めた性格故かそれほど友人も多くないカズキではあるが、もちろん人に好かれて悪い気はしない。だがそれは、相手が普通の人間であればの話だ。
――だってそんな、もう五年も会ってないってのに。
――毎年の夏休みにちょっと会って遊んでただけの私のこと、人使って調べてまで会いに来るかよ、普通……!?
微熱じみた肌の温もりは厚着を通すと不器用にしか伝わってこないけれど、それでもカズキの胸元にかかる百合子の吐息は張り詰めた冬の朝を溶かさんばかり。
それに――百合子自身のこともさておき、それに加えて。
ここは普通の学校ではなく、天下に恐れられる鬼百合女学院である。春を待たずに訪れた転校生がいきなりカズキにべったりだなんて、そんな「目立つ」ことをすれば――誰が面白がってちょっかいをかけてくるか、わかったものではない。
カズキは平穏に暮らしたいのだ。ただそれだけなのだった――
――なんで私の周りって、こう……
――勘弁してくれよな……
「……あー、えっとな。百合子――」
しかし。
この学校の「特殊な」事情など話しつつやんわりとお引き取り願おうとしたカズキの目論見は、即座に潰えることとなる。
「あ、いたいた。テンコーセーちゃん」
階段の下から、踊り場を見上げて。褐色の指の間に、暗い廊下において白くちらつく細い煙草を挟んで。
シュシュを付けた緩巻きの長い金髪を、左手でくるくると弄りながら。
姿を見せた、クラスメイトの彼女によって。
「田中……」
カズキは苦い顔を向ける。
まあ、遅かれ早かれこうなると思ってはいた。そうなる前に百合子を沖縄に帰してやれるのがベストだっただろうが――
――私ら出てきて数分だろ!?
――行動、早えよ! 暇か!
「なんでそんなとこいんの? ってか、ユリぽよって呼んでいい? あ、あーし田中ステファニーね。スファるんでいーし」
胸と臍と太腿とをそれぞれに大きく露出したセーラー服。酒に焼けたような声はずけずけとふてぶてしく響くが、実際にそういった態度で言葉を発しているのだろう。
ルーズソックスを履いた脚で、気だるげに一段ずつ登ってくる。
「……ぬー?」
ぎゅっとカズキの腕を掴んだままで、怪しい相手を前にした猫のように警戒声らしきものを発する百合子。ウチナーグチで「何?」という語義ではあるが、しかし、たとえばカズキに対して彼女はそんな言い方を決してしない。それほどに、敵意の込められた言葉遣いだった。
それは即ち、魔県・神奈川風に言うところの「上等をくれる」行為。しかし、一年二組の女帝・田中ステファニーはそうと気付いた様子さえもなかった。身長も低く腕も脚も細く、座敷童のように物静かで地味な謝花百合子を、完全に格下であると決めてかかっているのだ。
「ユリぽよさあ、それ、コートの下セーラーっしょ?」
顎をくいと持ち上げ、視線としても実際に見下しながら、やけに細長い煙草であるピアニッシモを指に挟んでぶらつかせる。うねりながら立つ煙はまるで彼女の悪辣な奔放さを無音にして示しているかのようだ。
「そう、古い制服……この学校、指定の制服ないって聞いたから……」
「あー、まーね。でもセーラーはダメじゃね? 聞いてない系?」
踵を踏み潰したローファーの靴音が、近付く、近付く。
威圧的に目の前に立つステファニーの眇めるような視線を感じて、百合子は胸元を隠すようにマフラーに手を伸ばす。
「『酔狂隊』の特権だから。セーラーは」
廃油のように艶めいてぎらつく大きな唇を細め。
田中ステファニーは、白く濁る煙を百合子の顔に吹き付けた。
けほ、けほと口元にマフラーを当てて咳き込む百合子。
「百合子っ」
「……なんくるない。大丈夫」
百合子は首を振ってみせるが、カズキはむっとしたように眼鏡の奥の目を腹立たしげに細めた。
ステファニーにそんな視線を向けるのは、一年二組では藤宮カズキただひとりだろう――
「……田中、お前な」
「いいから……気にしないで、カズキ」
カズキのトレンチコートの袖口をつまんで、軽く引っ張りながら首を振る。
「……行こ」
紫煙をくゆらせる田中ステファニーを一瞥して、百合子はすれ違う。強く支配的なものである彼女と。それを否定するかの如く、マフラーに唇を埋めて、百合子は枝のような脚を彼女なりにきびきびと動かして階段を降りていく。カズキの手を引いて。
眼鏡の彼女は、それでもクラスメイトに文句のひとつも言おうとしたが――
「……」
そのまま、くたびれたコートの袖を振るって、ハイビスカスの少女と連れ立って去った。
後には、静寂だけが残される。響く音もない階段の踊り場に、冷え切って張り詰める朝と影ひとつ。
薄い瞼をひくつかせながらふたりを見送ったステファニーは舌打ちをして、火が付いたままの煙草をリノリウムの床にそのまま落とすと、踵を潰したローファーの底をドンと強く振り下ろして執拗に踏み躙り消した。
転校生とクラスメイトは既に角を曲がっていて、背中さえ、なびくマフラーの先さえ見えやしない。当たり前のようにステファニーの横を通り過ぎていった――それに、無性に腹が立つ。
なぜ怯えないのか。なぜ畏れないのか。なぜ――誰よりも学年の支配者たるに相応しい田中ステファニーに、平伏さないのか。
藤宮カズキもそうだ。いつも目立たないように目立たないように息を潜めて、それはいいけれど、決して彼女に従属しようとはしない。
君臨者であらねばならないのだ。田中ステファニーこそが『酔狂隊』第六使徒なのだと、そうあり続けることで証明しなければならないのだ。憤懣はもはや羞恥のようにさえ変じて、よく焼けた色の頬に熱を纏わせる。
マスカラを盛りに盛った睫毛が痙攣するように微動して、暗く輝いた。
「……ムカつくんですけど」
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