第二話『第一使徒 乙丸外連』5

「……わ」

 思わず息を呑む。冷たい風が長いマフラーを靡かせるが、寒さなどまるで気にならなかった。

 空の端には群青が塗られて、砂金のような一番星が見つけられた。そしてその下、広がるのは湘南の町並みだった。大都会の美しい夜景というわけではない、ただぽつぽつと人々の営みが灯る闇。その向こうに、いつでも少女たちを見守っている海がある。それだけの静かな光景だった。静かで、胸の奥にじわりと焼き付いた。

 ――和姫の、街。

 ――わたしの育ったところと……全然、違う。

 ――こんな海も、あるんだ……

「私も、こんな暗くなってから来るのは初めてかも。……雰囲気あるな、意外と」

 腕を組む代わりに、左手で右の肘を掴む和姫。

 背後には巨大な貯水タンクがふたつと、パラボラアンテナ。配管が這うのはドアを閉めた和姫より後ろの空間だけで、目の前は広く開けていた。面積としてはテニスコートより一回り大きいくらいだろうか。しかし、どうにも広々とした印象は受けない。縁には金網のフェンスが壁として聳え、少女たちを囲い込んでいた。

「あのね、謝花。……話が、あってさ」

 空は昏く、童女のような背丈の影法師さえ長く伸びていた。

 パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、首だけで振り返る。

 短い髪が、それでも流れる。斜めに。普段は色の無い髪に隠れている刈り上げのサイドが――紫がかって涙が出そうなオレンジの中に踊り出る。揺れる、揺れる逆十字。

「……告白?」

「お前さ、ヒメに会うために鬼百合に来たんだって言ったよね」

 小首を傾げる百合子を無視して、小柄な上級生はぶっきらぼうに訊ねた。

 こくん、と。乙丸外連の真意もわからないまま、頷いた。背後には腕を吊ったまま和姫が立っている。その目の前で、照れる様子もなく、謝花百合子は肯定した。

「そっか」

 ぽき、と。

 外連は、右手で左手の指を曲げて。関節で、小気味の良い音を鳴らして。

 こんな緊迫感の中だというのに、藤宮和姫は不意に気付いた。高い空がすぐそこに見えるのに四方を金網のフェンスに囲われたこの屋上は、どこか、鳥籠のようなのだ――

 赤いフレームの眼鏡の奥で、瞬きひとつ。何かが起きても、彼女は右手を使えない。だから、乙丸外連がついてきてくれたはずだった。

「じゃあさ。別に、どうしても『酔狂隊』入りたいってわけじゃないよね? ヒメの傍にいられりゃいいんならさ」

 風が、冷たい。肌を裂くように。

 その中に、乙丸外連が立っている。素足を晒して、震えることもなく。その姿は、さながら女神の騎士――何故だろう。あまりに小さい体躯は、微熱のようでさえある迫力を帯びていた。

「それは――」

「うちが」

 ローファーの爪先が、叩く。コンクリート。既に薄暗い中で、色を抜かれた外連の髪がぼうっと人魂のように浮かび上がって見える。

 顔は、能面のように感情を隠して。人懐っこく沙羅たちと戯れるあの乙丸外連と同一人物とは、とても思えなかった。

「うちが相手になってやるから。負けたら辞めてよ、『酔狂隊』」

「……え?」

 校舎内へ続くドアの付近に立っていた和姫は、足早にふたりの方へ近付く。片腕が封じられていようと、左手、せめて伸ばそうとして。

「……あの、外連さん? 何言って――」

 背後の和姫を――無言のまま手で制したのは、百合子だった。

 目を、離さない。

「……あー、イライラすんなあ……」

 頭を掻き毟り、ぎろりと睨みつける――童顔な彼女の、冷たく荒んだ目つき。歯を剥き出しにして喧嘩に乗り出す時の、好戦的な表情ですらない。それならば和姫も幾度となく目にしたことがある。だが、何だろう。この刺々しくも処刑人のように据わった殺気は。

「タイマンだってば。やりたいんでしょ? 初めての相手、うちじゃ不満かよ」

「……!」

 じりじりと震えながら沈みゆく夕陽を背に、乙丸外連は勢い良くパーカーのジッパーを引き上げた。その表情には一寸の迷いもなく、憂いの全てを刃のように鋭く練り上げて小さな全身に纏っているかのようだった。

 厚手のタイツを履いた脚に、ぞくりと鳥肌が立つのを感じた。

 外連は、本気だった。和姫にだってそれくらいはわかった。奇天烈なことを言っていた後輩に付き合ってやろうという雰囲気では、まるでない。彼女はひとりの不良少女として、鋼鉄の意志の下にそこにいる。

「おい、百合子……外連さんも! ちょっと、一旦落ち着――」

 しかし。

 しかし謝花百合子は、小さく首を振りながら口元に手を遣り――マフラー、解く。しゅるりと。夜風に泳ぐ、天の羽衣の如くして。

 ダッフルコートの留め具を外して。濃紺の大襟、見せて。そのまま、手に持ったマフラーを――

「……和姫は」

 高く高く、放る――

「そこで、見てて」

 それが――合図になった。

 先にコンクリートを蹴ったのは外連だった。姿勢低くして、黄昏の屋上を疾駆する。影が、雪崩れる。

 突っ込んでくるものだと、思った。殴りかかってくるか、腹に蹴りを入れてくるか。百合子は顔の前で腕を軽く交差させ、脚を前後に開いて衝撃に備える。腕の谷間から片目を覗かせる。

 だが、違う。どちらでもない。百合子に肉薄しながら――外連は、その手前で地に手のひらをついた。

「……!?」

 リズムが乱れる。躓いて転んだ? アドレナリンの湧き出した頭の中に疑問符が押し寄せる。相撲で言うならば立合い不成立。そう思い、込めた力が緩む。

 だが違う。違うのだ。外連の細腕の中を血流が駆け抜ける。筋肉が瞬時にバネと化して、斜めにかかった圧を、外連の全体重を跳ね返した。

 つまり――彼女はコンクリートに手をついたまま。逆立ちのまま。倒立前転の要領で、百合子の首筋に踵を叩き落とした。

「っ……!!」

 衝撃――全体重を落としたように見えて、外連は倒れ込んでこない。腹筋に力を込めて姿勢を制御する。身体を立て直す――ただし、逆さに。

 遅れて、短いスカートが重力に引かれてふわりと落ちる。外連の小振りな尻をぴたりと覆う黒のスパッツが露わになる。蹴りを入れた足を引いても、彼女はなお倒立したままでいた。細かく左右の手のひらにかける重心をずらし、バランスを取りながら。

「うちはチビだから、近付きゃワンパンだとでも思ったかよ。へーんだ」

 逆十字は、逆向きに垂れ下がってもなお逆十字のまま。

「ナメてんじゃねーぞ、なあ!!」

 百合子は返答の代わりに、目を細めてゆったりと肩を広げ、肺の中の空気を全て押し出すように細く呼吸する。幼い日の和姫から見て取った琉球空手の基本姿勢。流れるように攻防一体の型を繰り出すための待機状態。そうすることしかできなかった――逆立ちをした相手と、どう組み合うというのだろう。ヘーゼルの瞳が泳ぐ。

 右腕だけに力を込め、倒立した身体を斜めに跳ね上げる外連。百合子はその細い脚を見た。それが槍のように鎌のように振り回される。そう、思ってしまう。一撃目があったから。だが、それこそが罠なのである。違う。外連は――足を、コンクリートの地面に下ろしただけだ。ただの着地。その時にはもう、百合子は後ろに跳んでいた。

「こん……のおおッ!」

 重心を落としたまま斜めに踏み込んだ外連は、再び手をついて――だが今度は完全な倒立の形まではいかず、腕で下半身を支えながら腰を捻って掬い上げるように百合子の顎を蹴った。

「痛っ……」

 ローファーの靴底が骨を軋ませる。伸ばした手は冷たく空を切る。外連は一撃を入れては軽業師のように跳ねて体勢を崩すので、反撃を許さない。回り続ける車輪を掴めないように。

「なんでこんなっ……クソッ、おい百合子気を付けろ! こんな気合入った外連さん、見たことねえ……!!」

 生きている左手を伸ばして百合子のマフラーを掴み取った和姫は、叫ぶ。

 不良少女たちの喧嘩は、必ずしもフィジカルの強力な方が勝つわけではない。時にはそれ以上に勝負を左右するのが、気合である。ビッと気合の入った女が最後には格上を倒して栄光をもぎ取るなど、よくある話だ。

 ましてや外連は『酔狂隊』オリジナルメンバー、手練れ中の手練れである。身長一四二センチ、体重三七キロ――もう高校三年生になろうという年齢にしてはあまりに恵まれなかったその肉体を補って余り有る喧嘩の技巧があればこそ、彼女は群雄割拠たる鬼百合においてさえ恐れられる筆頭使徒たり得るのだ。

 長い息を吐きながら、両脚を前後にテンポよく動かす。まるでこのコンクリートの地面を己の武器として足の裏に馴染ませようとしているかの如く、軽く跳んで、交互。

 その乙丸外連の全身に、離れて見る者さえびりびりと痺れさせるような気合が満ち満ちている。細い眉がきりりと吊り上がって、常の彼女らしい溌剌はすっかり姿を消していた。

「普通に打ち合おうとするなよ! 外連さんのスタイルは『カポエイラ』だ!!」

 カポエイラ――

 ダンスとルーツを共にするともされる、ブラジル生まれの格闘技である。手技よりも足技を基調として、つむじ風の如く軽やかに舞い戦う――

「ベラベラ喋んないでよね、ヒメ!」

 肩幅より広めに手をつき、連続蹴り。くるりと回って脚で着地すると、次は側転の要領で蹴り上げる。小さな肢体をフルに駆動させ、外連は休むことなく攻め続けた。

「……!」

 百合子の手札は、藤宮和姫の琉球空手と田中ステファニーのボクシング、それに水恭寺沙羅の右手闘法だけだ。いずれにしても、直立してのインファイトを前提とするスタイル。敵もまた目の前で拳を構えているという想定で型が編まれているのだ。対して、外連の遣うカポエイラの特徴はその三次元的な動きにある。

 ――惑わされちゃダメ……

 そう頭ではわかっているが、密室へ投げ込まれたスーパーボールの如く目の前を飛び回っては上下左右に視線を振り回してくる外連の体躯に、どうしても翻弄されてしまう。謝花百合子と乙丸外連の間に存在する、絶対的な差――それは、実戦経験だ。百合子は、鬼百合に来るまで人と殴り合いの喧嘩なんてまるでしたことがなかった。ステファニーと和姫、この数日で経験した二度のタイマンが百合子の喧嘩歴の全てなのだ。対して、外連は小学生の頃から沙羅とタッグを組んで喧嘩ばかりしてきた生粋の不良少女である。己の身体的特性を熟知した上で、カポエイラという闘法を選び取ったのだった。

 ――百合子は、確かに私が習ってた琉球空手の型を完璧に再現できてる……

 ――でも、そもそも身体の方が喧嘩に対応しきれてねえ……全力で駆動できてるのなんて、いいとこ七〇パーセントくらいだろ?

 ――それに対して! 外連さんは、肉体の制御が完璧なんだ!

 ――確かに身体は小さいけど、その小さい身体を百パーセント活かされたら……!!

 真冬だというのに、和姫の頬を汗が伝う。百合子のマフラーを握る左手に力が入った。

 この真冬、砂利ばったコンクリートに全体重をかけて手のひらを押し付けるのはどれだけ苦痛だろう。それは外連の覚悟だ。……和姫は聞いたことがある、「乙丸外連が第一使徒なのは水恭寺沙羅の女だからだ」と誰かが陰口叩くのを。だが、それは著しく偽であった――強い。紛れもなく、乙丸外連は『酔狂隊』の筆頭だった。ステファニーや和姫を倒した百合子が、彼女にはたった一撃すら打ち込めていないのだから。

 蹴りをあえて受けてでも、まずは近付いて――打つ。手首か足首。そう狙いをつけて、百合子は顔の前に拳を構え、地を蹴る。突っ込むのではなく、摺り足で。前に出る!

 一発目の右回し蹴りは上体を引いて躱したが、その脚が下りた瞬間に同じ軌道で続いた左を、腕で受けた。それを払いながら、百合子は拳を引く。今、乙丸外連は直立している――

「もらった……」

 右の正拳は躱される。だが本命はそちらではない。流れた上体のポジションを活かし、そのまま緩急つけて腰を捻る。あえて脱力した腕を振り、遠心力を乗せた肘で打つ――鞭身(ムチミ)、琉球空手の型のひとつ!

「遅いんだよ!」

 だが――百合子の腕に、打撃の反作用はなく。

 前髪の先で、化学繊維の漆黒が翻る。右から左へ――外連のスパッツが。バレリーナのように前後に開脚して、廻る廻る、腕一本を軸として!

 ――外連さんがフィジカル弱いとか、とんでもねえよ……

 ――圧倒的なバランス感覚! いくら軽いったって、片手で全身支える筋力!

 ――どう考えても超人じゃねーか、この人やっぱり……!

「やっ……!」

 外連の右足が百合子の肘を爪先で蹴り飛ばしたかと思うと、振り子のようにそのまま帰ってくる踵が脇腹に突き刺さる。

 肺の中の空気が、ごっそりと持っていかれる。外連の蹴りはその体重の軽さ故に一発一発の威力が控えめであるはずだが、力ずくで無防備にされたそこへ落とされた今の直撃は効いた。

 百合子の左肩が無意識に落ちる。攻撃された箇所を庇うように。外連は隙を窺うように腕をぶらつかせながら、重心を落として常に斜め左右にステップを踏み続ける。ジンガと呼ばれるこの動きがカポエイラの基本姿勢である。

「……け、れん、せんぱい……強い……」

「当ったり前じゃんか……うちは! 沙羅の第一使徒なんだから……さ!」

 落日に生まれ始めた闇の中で、乙丸外連が踊る。指先に走る緊張……違う。フェイントだ。百合子は息を整えた。その瞬間を狙って――またしても倒立した外連が、肘を曲げ重心を落としながら、脚を大きく開いて回り抉るように蹴り込んでくる。その大振りに怯まず足首を捕まえようと手を伸ばす百合子だったが、指の先をするりと抜けていったローファーの踵が逆回転で戻ってきて百合子の手の甲をしたたか打った。奥歯を食いしばって再び狙いをつける頃には、外連は百合子の腕のリーチの外にすっくと立って再びジンガを舞っていた。

 ――百合子の、ってか私たちのスタイルは基本、受け流しからのカウンター突きを狙う。

 ――ヒット&アウェイで攻め立てる外連さんとは、決定的に相性が悪いんだよな……!

 陽が落ち、いよいよ本格的に厳しくなる冷気が身を震わせ、体力を奪っていく。このままではジリ貧だ。荒い息は影の中で真っ白に曇っている。

 なんとか構えた徒手を拳に握る。出ては引っ込む小鹿のように細い脚が次の瞬間どこにあるか、それだけを意識する――攻防の主導権は、完全に外連が掌握していた。

「受け流せないなら……撃ち落とす……!」

 スタイルを切り替える――前髪の奥にヘーゼルの瞳。軽快に足踏みをして、対角線を意識させるように動くジンガのリズムを乗っ取る。ボクシングの動き。故に細腕、拳に握った。

 曲線の動きで巻き取るような琉球空手から、貫通の属性を帯びて直線で打ち抜くボクシングへ。カポエイラの変則性に惑わされず、ただ集中して左フックからの右ストレートという型を頭の中に浮かべる。その像を現実空間へと照射し、重なり合う相手の動きの軌跡の予定図を上書きするようなイメージで――己が肉体に、命令を下す。腕を蹴られようが踏まれようが無視して、確実に外連の身体のどこかに拳を当てることだけを意識する、そうすれば、体格で劣る外連はバランスを崩すだろう。

 だが。

 ただ眼差しを一瞥しただけで、外連は百合子の狙いを読んだのか。あるいは、動物的な直感がそれを理解させたのか。

「さァせっかよ!!」

 外連は、動いた。その身軽さをフルに活かして。跳び上がりながら上体を反らす――しなやかな太腿が、鞭のように振るわれて。地に手をついていれば、その脚は百合子の拳と衝突していただろう。だが、直線距離で射掛かった外連の脚は、花の少女を追い越して突風のように鋭く吹き上がる。

 百合子の頭、ちょうどハイビスカスの咲く辺りを目掛け、蹴り抜く――!!

 ドカッと鈍い音が炸裂する。そのまま、日に焼けた細い身体は重心を乱されて横に倒れた。細腕、斜めに投げ出して。

 決まった――攻撃こそ最大の防御、とはよく言ったものだ。相手が次の一撃を確実に当てに来る覚悟を決めたのならば、動くことを許さなければいいだけの話。

「百合子!」

 一瞬、意識を刈り取ったか。だが、地に足付けた外連は笑うことなく、舌先で唇を舐める――まだだ。まだ、この女を仕留めきれてはいない。そう、確信できた。

 案の定。叫んだ藤宮和姫が駆け寄るまでもなく、百合子は手をついて立ち上がった。ふらりと。

 半ば宵闇に支配される群青の中、黒い前髪は汗で額に貼りついている。それでも、謝花百合子は右手を突き出す。瞬いた一番星を掴もうとするかの如く。

 前を開けたダッフルコートの内側、濃紺のセーラー服。慎ましやかな胸の前で、純白のスカーフが堂々たりて結ばれていた。

「……わたし、負けない」

 ヘーゼルの瞳――煌めく、煌めく。漆黒に塗り潰されゆく空の下で。

 赤みの差す頬に押し付けられた斜めの靴跡を拭って、百合子は小さな拳を握る。セーラー服の袖を捲れば、腕はとうに痣だらけだろうに。

 唯一の傍観者たる和姫には、外連の圧倒的優勢と見えているのだろうか。それは違う。確かに直接の攻撃を食らってはいないものの、決して屈しない百合子の拳気がじわじわと外連を消耗させている。外連もまた、手を軽く曲げた膝に置いて白い息を何度も吐く。筋肉の芯だけ熱を帯びて外側は冷え切った細い脚に、もはや感覚はない。軽業師のように跳ね回る外連の闘法は、当然、体力を使うのだ。何発もクリーンヒットを入れているはずなのに、凍えるような逆境の中で、炎天のハイビスカスはまだ咲いている。本当に勝てるのだろうか。和姫のように腕を折られなくとも、外連は心を折られそうだった――

 ――強いなあ。

 ――ほんとに、強いよ……

「……上等っ!」

 それでもなお、外連は笑ってみせる。だって、乙丸外連は『酔狂隊』の筆頭使徒なのだ。水恭寺沙羅の最も傍に立つ、鬼百合女学院の不良少女なのだ。

 拳を、手のひらに打ちつける。独学で身につけたカポエイラを遣う中で、自然と皮膚の硬くなった手のひらだ。ずっと、沙羅と背中合わせで強敵を打ち倒してきた。その積み重ねが手のひらの厚みになって、今、外連を奮い立たせている。

 ――こいつを、ここで倒して。

 ――うちが、今の『酔狂隊』を守る……!!



 水恭寺沙羅という女と最初に会った時のことは、よく覚えている。

 きっかけは、本当に些細なことだった。だが、子供たちにとってはこの上なく大切なことだったのだ。その頃はまだ相対的に「体格の良い女子」だった外連が仕切っていた二年B組が、ドッジボールの大規模化のために昼休みのグラウンドの独占に乗り出した。A組は当然これに反発。そこで、両組の代表者が「決闘」することになったのだ。人目につかない校舎裏、プールの金網には散った桜の花びらが引っ掛かっていた。

 沙羅は――喧嘩が、強かった。

 胸倉を掴みに掛かる外連の額を左の手のひらで押さえ、腰の回転を乗せた右の拳で頬を殴りつける。これが七歳八歳の膂力だろうか。……この頃の沙羅は、まだ喧嘩に左手を用いていた。両手が宙を切る。尻餅をついたところで、薙ぎ払うように顔を蹴られた。上体跳ねて、外連の視界に青空が広がる。草の匂いが濃くあった。

 何度立ち上がっても殴り飛ばされて転がる乙丸外連を、B組の児童たちは二階の教室の窓から見下ろしていた。沙羅の応援は誰もいない。

「くっっ……そお!!」

 拳で土を叩く。肘にも膝にも無数の擦り傷が出来て、腫れ上がった頬はあどけない顔を無残にしている。

 勝てない。心のどこかで、そう思わされていた。負けるわけにはいかないのに。

 だって、外連は、B組の番長なのだから。

「あんた、友達いないのかい」

「いるよ……いっぱい……今だって、そこから見てんだろ……」

 口の中を切ったようだ。鉄の味の混じる唾を吐いて、親指で校舎の窓を指す。

 腕組みをした沙羅は、じっと外連を見下ろしながら溜息をつく。

「あんな奴ら、あんたを好きに使ってるだけじゃないか。あんたがボコられてたって、誰も助けに来やしない」

「うっさいなあ……!」

 どこかから流れ出る血でTシャツを汚しながら、外連は小さなスニーカーで土を蹴った。沙羅はそのあまりに力の入っていないタックルを体幹で受け止める。まだ黒かったふたりの髪が、吐息の温度さえわかる距離で交わった。

「アイドルのゲームも一輪車も買ってもらった……いい匂いのペンもシール帳も、必死に集めた……」

 乙丸家は、経済的に困窮してはいなかった。母は出て行ったが、ホストクラブで働く父は十分すぎるほどの食費を外連に渡してくれていた。ゲーム機を揃えジュースや菓子をたくさん用意した鎌倉の海沿いのマンションに「友達」を招いて、外連は首から提げた鍵で誰もいない部屋のドアを何度も何度も開けた。

 今だけだとわかっていた。彼女たちの母親が事情に気付き「あんな子の家になんて行っちゃ駄目」と叱るまでの間だけ。誰しも、目先の楽しさに惹かれて外連の家へついて来るのだ。親に逆らってまで外連との友情を選んでくれる子など、いるわけがない。毎年、同じことの繰り返し。

 それでもいいから、外連は友達が欲しかった。

「でも無理なんだってば……喧嘩くらいしかできないうちに、ほんとの友達なんて――逆立ちしたってできないんだい!!」

 外連は、飛びかかった。

 頬を殴りつける。何度も、何度も。反対に、腹に膝が突き込まれた。間合いが、開く。顔が見える。長い睫毛。乳歯が唇を切っても、沙羅の瞳は凛々しくて。

「そうかい? あたいは、あんたとはなんだか仲良くなれそうな気がしてんだけどね」

 強く、ジーンズを履いた長い脚が踏み込んだ。土の欠片が跳ね上がるほど。腰を捻る。決め打ちは常に直進の指向性だった。

 その頃はまだストレートの黒髪をひと括りにしていたポニーテールが、弧を描いて流れる。体重を乗せた拳が、迫る。外連の目前に。

 幼い沙羅の、皮膚はやわらかいがしっかりと握られた拳を鼻っ柱にしたたか受けながら、外連は思ったのだった。

 身体、遅れて来る痛みを追い越して、足払いを掛けられたかのように仰向けに倒れ込みつつ。

 ――あ。わかった。

 ――うちは、多分。

 ――いつか、こいつのことを好きになる……

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