第三話『第四使徒 硯屋銀子』8

『不良の皆さん、おっっっはよーーーございます!! 中坊の皆さんにおかれては!! 本日は鬼百合女学院オープンキャンパスへ足をお運び頂きましてありがとーーーございます!! 鬼百合レイディオチャンネル「ノンストップマジョルカ」、オープンキャンパス出張編!! お相手を務めますのはこの私、ご存知、皆様のお耳のマブダチにしてイスタンブールの迦陵頻伽!! 栄えある「魔女離帝」親衛隊所属、アスヤ・蓬莱・パシャ<―・ホーライ・―>!! アスヤ・蓬莱・パシャでございます!! 幸いにも晴天に恵まれましたこの日、どなた様も今日この一日、ノンストップでお付き合いくださいませ!! なお!! 本日は放送部部長・小野憩美<オノ・ヤスミ>さんの全面協力の下、鬼百合女学院新校舎は放送室より!! 生放送でお届けいたしております!! 小野さんに大きな拍手!! ありがとーございます!! ありがとーございます!! 本日も『ノンストップマジョルカ』、楽しい企画コーナー盛りだくさんでございますのでね!! メールも随時!! お待ち申し上げております!! お昼には鬼百合の広報番長、チャンネル登録者数八万人!! バーチャルヤンキー正宗皇乃<マサムネ・オーノ>さんをゲストにお迎えして――』

『オラァ、パシャ! あたしにも喋らせろい!』

『おおっと乱入者!! ここで放送室に乱入者であります!! しかしこのアスヤ・蓬莱・パシャ、報道の魂だけは鋼より硬い女!! 倒れる時はマイクを握り締めて前のめりに、しかし倒れてなるものか!! 自由を愛しそしてラジオを愛するアスヤ・蓬莱・パシャを非戦闘員と侮るなかれ、オスマン神拳の継承者なのでありましたッ!! なお!! なおなお!! 本日も「ノンストップマジョルカ」は我らがメサイア、「あなたのためのガンダーラ」でお馴染み、この世の全てに寄り添う楽土コンツェルンの提供でお送りいたします!! 右手にスポンサーへの想い、左手にリスナーの皆様への想いを込めまして、アスヤ・蓬莱・パシャ、今、勝負の時!! 顔面をカッパドキアにされる覚悟はよろしいか!! 行くぞーッ!! ケバブラーーーーーッシュ!!』

 オープンキャンパス当日、早朝――

 ある者は模擬店や出し物の準備を進めながら、ある者は心許す仲間と雑談に花を咲かせながら。

 鬼百合に集結した不良少女たちが、敷地のあちこちで、スピーカーに向かって声を揃えた。

「「「「「「「「「「うるせえーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」」」」」」」」」」

 ちなみにアスヤ・蓬莱・パシャは右利きであった。

 とにもかくにも。

 鬼百合に憧れる不良女子中学生たちをも迎え入れ、年に一度の乱痴気騒ぎが幕を開けた。



「お、いたいた。おーい、百合子?」

 相変わらずモッズコートの内側で吊ったままの右腕を庇いながら、左手を口元に当てて彼女を呼ぶ。

「……ん。あ、和姫……」

 振り返った短い髪にいつものハイビスカスはなく。

 代わりに、それが黒衣の胸ポケットへ色を添える。

「……お前、何飲んでんの」

「タピオカミルクティー……新校舎の横のところで……田中さんが、屋台……出してたから……」

「あ、そ……身体冷やすなよ……」

 恐るべき人混みの中で。

 藤宮和姫は、衣装への着替えを済ませてストローを咥えた謝花百合子と合流した。

 有志の不良少女が出店している屋台で温かい飲食物を手にした少女たちが、冬の寒さなどどこへやらと犇めき合っている。屋外故に人の熱気で暑いほどとまでは言えないが、校舎内はその限りでもないのだろうか。グラウンドの中央にはステージが設けられているが、そこでパフォーマンスが始まるのは十時頃から。今こうして外で屯している不良少女たちは、特に当てもなくぶらつきハレの雰囲気を味わっているだけという者がほとんどであった。

 そもそも傾奇な外見をしたがりがちな不良少女たちだが、今日はさらにステージ衣装や宣伝用の仮装に身を包んだ姿も数多く、まさしく文化祭めいて行き交う影が入り乱れ。鉄板で何かが焼けるみずみずしい音、焼き菓子の甘ったるい香り、方々から漂って。

 何もかも、百合子にとっては目が回りそうなほど新鮮だった。

「すごい人……内地の学校って、こんななんだ……」

「まあ、今日はな……中学生が来てんのもあるけど、普段だとうちの学校の奴らって溜まり場にいるからあんまり目に付かないだろ? それが、みんな出歩いてるからな。普段は学校来てない奴らも集まるくらいの祭りだし」

 周りを見渡して。

 和姫は、白い息を吐く――その群衆というのも、ただの群衆ではない。

 ――あれは八幡<ハチマン>中の盾岡蒼磨<タテオカ・ソーマ>、そっちにはフラテとルニテのオリファント姉妹。

 ――特に詳しいわけでもない私だって知ってるくらい、不良中学生の世界で有名な連中だもんなあ……

 ホストが魔県・神奈川にその名を轟かせる鬼百合女学院を跋扈する不良少女たちであるなら、ゲストもゲストだ。錚々たる顔ぶれが集まっていながら小競り合いもほとんどなく、溌剌として祭りらしく浮ついた雰囲気さえ生じているというのは、半ば奇跡に近くもある。日常と地続きでありながら特別な味の空気。チープであるが故の瞬間的な高揚と連帯。

 当然、諸費用を一手に担っているのは理事長の楽土ラクシュミであった。オープンキャンパスの開催に際して出資者たる彼女が全校生徒に言い渡すルールはただひとつ、「この日一日は喧嘩御法度」。鬼百合女学院においては異例と言えるそんな勅令に、しかし逆らおうとする者はほぼいない。叛逆と抵抗を作法とする不良少女たちであっても、規格外の巨獣たる『魔女離帝』に真っ向から喧嘩を売ることの意味くらいは理解するものだし――何より、メインターゲットこそ中学生たちであったとしても、この祭りを純粋に楽しもうという在校生も少なくなかった。不良であると同時に、少女であるが故。

 そう――彼女たちにだって、そんな日くらいある。

 かの名高き『酔狂隊』の使徒まで、セーラー服から着替える日なのだから――

「……どう。和姫」

「畜生!! 似合うなお前!!」

 タピオカミルクティーのカップを持ったまま、両手を広げてみせる。表情筋、いつもよりはほんの少し緩ませて。

 百合子が身に纏っているのは――和姫が渋々家から持ってきて手渡した、兄の中学時代の制服だった。

 金のボタンが輝く黒の詰襟に、同色のスラックス。首にはすっかり馴染んだマフラー。女子の中でも背の高い方ではない百合子だが、和姫の兄が中一の頃に着ていたものはサイズもぴったりだった。陽はまだ低く、白みを帯びた午前の光が彼女の黒髪にやわらかい照り返しを齎している。決して中性的な顔立ちでない百合子はスラックスを穿き詰襟のボタンを留めたところで急にハンサム顔になるはずもなかったが、どことなく、「男子にしては長髪で物静かそうな中学生」といった雰囲気を醸し出しており。

 服に着られている感は拭い切れずとも、全体としては――意外にも、よく似合っていた。

 くるりと回る幼馴染を、和姫はじっと見る。あの頃、天と海に挟まれた何もない浜辺で、少年の装いをしていたのは和姫の方だったけれど。

 小首を傾げる仕草もヘーゼルの瞳も、何も変わってはいなくて。

 そう――沖縄へ行くのは夏休みだけだったから、冬の彼女を知ったのは今年が初めてなのだ。

 ――ナシっちゃナシだが……アリっちゃアリ……か……?

 ――ただまあ、欲を言えばやっぱりもうちょいシュッと……

 ――いや違う違う違う、私はそういう目で男装を見てんじゃねえって!

 どちらからともなくグラウンドを離れ、校舎の裏手を目指しながら。森の中に、礼拝堂はある。運営本部でミスターコンへの出場登録を済ませた百合子も、指定された更衣室で彼女が学ランに着替えるのを待っていた和姫も、人の波に揉まれながら祭りを味わい尽くしたいというタイプではない。時間が来るまでは静かな礼拝堂で休んでいようと決めていたのだ。

 はぐれないよう、一歩先を行っていた和姫が自然に左手を伸ばす。その指先に、百合子はカップを持ち換えわざわざ空けた右手の指先を引っ掛け、絡めて。「繋ぐ」と呼ぶにはぎこちなさすぎるくらいに、手と手、触れ合わせて。ふたりは、隣同士に。

 冷たい風に、和姫のモッズコートの裾がはためく。

 ――確実に言えるところとしては……

「胸回りのサイズ感、マジで丁度よかったな」

「……バカに……されてる……?」

 ちゅ、とミルクティーひと滴、飛ばして。

 口から離したストローの先端を、百合子は突き付けてくる。

「見てて、和姫……わたし、絶対優勝するから……」

 マフラーの上の頬を赤らめたのは、寒さ故か、漲る闘志故か、あるいは。

 ただ、いずれにしても――和姫はらしくもない悪戯っぽさで僅かに身を屈め、啄むようにストローを咥えて百合子のタピオカを勝手に吸った。ひと粒、ふた粒ほど喉へ飛び込んで、小さく噎せる。

 百合子が目を丸くする。それがまた可笑しく、噎せながら笑う。

「……ま、程々にな」

 更衣室では、運営スタッフとして『魔女離帝』親衛隊がミスターコン参加者のメイクアップを手伝っているという。特売のシャンプーとリンスを使ったきりでぼさぼさのボブに、霧吹きで水でもかけられたのだろう。こんなに寒い中で可哀想に、和姫が左手で触れて軽く撫でた百合子の頭は小雨に降られたようにしっとりと濡れていた。

「……和姫、ずるい」

「ん? 何がだよ」

 両手でプラスチックのカップを包むように持ち、マフラーに埋めた唇でもそもそと何か言っているようだったが――今の和姫には、それは伝わらない。

 百合子の秋波に全く気付かないほど彼女は愚かではなかったけれど、それでも、誰かを自分の特別にして自分が誰かの特別になるということへの準備ができていないのだった。大切へと変わり始めたものが指の隙間から滑り落ちていく経験なんて、二度でも多すぎるくらいなのだから。

「……ずるいし、やな」

 意地悪。彼女を、そう形容して。

 くるり、と。

 着慣れない学ランの胸元ボタンに、少しだけ身を締め付けられながら――百合子は、アスファルトを躙って踵を返し、後ろ向きに歩く。

 一歩、二歩。片腕を吊る藤宮和姫の前で、ひどく現実的な色をした瞳から視線を逸らさずに。ミルクティーの水面が傾いで、底に沈む黒いタピオカの群れは不安定に左右へ転がる。

「わたし、ね……和姫に、もっと……」

 和姫だけを視界に入れつつ、百合子の背中は――立ち尽くして道沿いの屋台をひとつひとつじっと見ていた誰かの肩に、当たって。

「あっ、ごめんなさい」

 ……時が、止まったようだった。

 少しだけ目を見開いて。冬の澄んだ空気の中で冷えゆく銀色の眼鏡フレームを、一瞬だけ指先で押さえて。

 ぺこり、と。百合子の背中にぶつかった少女は、頭を下げる。

「飲み物……こぼれてませんか?」

「……うん。大丈夫……」

 振り返った百合子が小さく首を振ってみせると、銀縁眼鏡の彼女はほっとしたように微笑みを浮かべ、やわらかく張り出した発育の良い胸に手を当てる。痩せているが女性的に丸みを帯びたシルエット。まるで――淹れたての緑茶のような、そんな少女。見ているとどこかほっとさせるのに、芯にしっかりとした熱量がある――熱量。それは鬼百合女学院に集う少女たちの内なる灯火。ひとを突き動かすもの。その温和な身も心も、不良少女にはあらざれど。

 彼女はセーラー服を身に纏わない。『酔狂隊』の特権とされるそれを。そうしたところで誰も文句などつけないのだろうが、彼女は姉と揃いの制服ではなく、レースの飾る白いブラウスの上に紺色のブレザーを選んで着る。今は忘らるる鬼百合女学院の指定制服。

「すいません、ほら百合子、ちゃんと前向け……って……水恭寺」

 和姫は、彼女の名前を呼んだ。同じ姓持つ「沙羅さん」とは自ずから区別されて。

 目を僅かに丸くしたのは、図書室の外にいる彼女を見たのがうんと久しぶりだったからだ。

 眼鏡のレンズ越しに瞬きが映る。櫛歯のように長く揃う睫毛が上下して、笑みの形を作る。

「おはようございます、藤宮さん。それから」

 切り揃えた栗色の髪を、耳へ掻き上げて。

 純白、桜色のリップの間で光る。少しだけ大きめな前歯も愛らしい、清楚で繊細で飾り気のない微笑み。陽だまりの香。

「謝花さん、ですね。沖縄から転校していらした……初めまして、姉がお世話になってます。わたし、水恭寺綺羅です」

 両手を身体の前に揃えて、丁寧に頭を下げるその少女――綺羅、水恭寺綺羅。

 余所見をしていて彼女とぶつかったなど、心臓の止まりそうな話だろう。……もし百合子が『酔狂隊』の使徒でなく、もう少し鬼百合内部の力関係に敏感であったなら。水恭寺沙羅という伝説があまりにも超然とした響きを帯び過ぎたが故に、もはや誰にも手出しされ得なくなった庇護対象。静謐なる図書室の主。

 不良少女の王、水恭寺沙羅――その妹。

「……」

 ぺこ、と百合子も頭を下げる。上目遣いに、彼女の顔をじろじろと見ながら。

 ――似てる……?

 ――そう……かな……

「いや、お前も自己紹介くらいしろよ」

「あ……うん……えっと……謝花、百合子……」

「ふふ、大丈夫ですよ。よく知ってます。お姉ちゃんも外連ちゃんも、謝花さんの話、よくしてますから」

 彼女のことを嫌いになるのは難しいだろう――そう思わせる笑顔の、代表のようなものだった。会話の主導権を我先に握ろうとするわけではなく、ただ百合子が口下手であることをたちまち察したから代わりに会話を先導しようと、胸の前で手を合わせ、挨拶をした穏やかさよりも少し弾んだ声が言葉をすらすら紡ぐ。和姫に肘でどつかれて初めてぼそぼそと喋り出した百合子とは、少なくとも対人コミュニケーションに関しては雲泥の差であって。

 百合子は水恭寺綺羅の前で、言い知れぬ小さな不安の中にいた。

 正面切って敵対してくるなら、謝花百合子は立ち向かえる。どれほど強力な敵であっても、彼女は和姫と自分のために容赦しないことができる。そういう星の下に咲いた、一輪の花である。しかし、綺羅は――

「沙羅せんぱいとか……鷹山さんが……わたしと水恭寺さん、似てるって……」

「ええっ、そうですか? そんな……わたし、謝花さんみたいに可愛くないですし! あっ、でも今日のその学ランはとっても凛々しくて格好良いですよ!」

 世界で最も穏やかな形で、自己完結した少女だ。

 水恭寺綺羅の世界で、あらゆる対象は同心円状に広がる凪の中に在る。それなりに面識のある和姫も今まさしく初対面の百合子も等しく「お友達」であるように、きっと、どれほどの悪意を差し向けられても彼女は微笑んでいるのだろう。

「藤宮さんはどう思います? 似てますか、わたしたち」

 それが、どこか怖い。百合子は寒気を覚えてそっと首を縮め、鼻の上までマフラーにすっぽりと隠した上で、学ランの長い袖をきゅっと掴んだ。

 ぶつけ合う拳を通して誰かとわかり合う――この鬼百合でそれを学び始めた百合子にとって、水恭寺綺羅は初めての困難であった。理解できないのに、彼女をどう理解すればよいのかわからない。『酔狂隊』は元々、彼女を守るものとして組織されたというけれど。

「んー……そうだな。大人しそうなところっていうか……まあ、雰囲気? は、若干、近い……のか?」

 ――何、だろ……

 ――何なんだろ、この人……

 ――いい子、なんだろうけど……

 ふんふん、と瞬きをしながら頷く綺羅。その肌は黒子やニキビのひとつもなく白く、沖縄の高い陽の下でサトウキビに囲まれて育った百合子とはやはり似ても似つかない。

「よくわかんねーよ。百合子は百合子だし、水恭寺は水恭寺っていう風にしか、私には思えないって」

 はぐらかして、和姫はからりと笑う。そうしながら彼女は何の気もなく、好きに動かせる左手を百合子の頭に乗せた。

「あ……」

「ほら、行こうぜ。チャペル」

 モッズコートのポケットにずっと入っていた手のひらはゆっくりとその体温を伝えて、それが、百合子にとっては何よりも確かだった。

 百合子は小さく口を開けて、その顔を見上げる。いつも眠たげで気難しげな顔をしていて、癖っ毛は好き放題にくしゃくしゃで、レンズの厚い赤眼鏡を掛けている男装フェチのひねくれたオタクになっていたし、何なら女だったことすら初めて知ったのだけれど。

 だけれど割と、あの頃の夏のまま。

 幼い百合子の恋した和姫がいて、導いてくれる。

 セーラー服と学ランと――百合子の見た夢の中では着ているものは逆だったはずなのだが、それでもやはり、夢見た通りにふたり並んで。

 毎日、島の海の夏の続きを描いている。

 青春を燃やして生きる不良少女たちが跋扈する、この、湘南の学校で。

「じゃあ水恭寺、またな」

「はい! 楽しい一日にしましょうね。……謝花さんも、また今度ゆっくりお話できたら嬉しいです。図書室へ、いつでも遊びに来てください」

 微笑む水恭寺綺羅も、きっと。

 誰かを、あるいは誰もを、想っている少女だから。

「……ん。よろしくね……水恭寺さん」

「ふふ。こちらこそよろしくお願いします、謝花さん。……どうでしょう。この学校は、気に入って頂けましたか?」

 わたしが代表みたいに聞くのもなんだか変ですけど、と。

 微笑した水恭寺綺羅は、銀縁眼鏡の奥で白い瞼を上下させて、そのまますれ違っていきかけた百合子を呼び止めるように問うた。

「……うん。和姫が、どうしてここにいたのか……わたしにも、わかり始めてる……気が、する」

 それには、百合子は小さく、しかしはっきりと頷くことができた。

 もはや、水恭寺綺羅に対して抱いた薄い恐怖はすっかり消えていた。

「そうですか。それは、とても嬉しいです」

 もしかしたら、こんな優しくて穏やかな少女となら、いつか親友になるかもしれない。

 そう、信じてみたかったけれど。

「わたしも、この学校が大好きなんです。お姉ちゃんがいて、皆さんがいて……とても、とても素敵なところ」

 うっとりと、まるで恋する乙女のように綺羅は呟く。すれ違う誰もが彼女の影を守っている水恭寺沙羅という存在感に畏怖し、まかり間違っても袖すり合わぬよう遠巻きに流れて行く。人混みに抱かれることもまた祭りの醍醐味かもしれないのに。

 水恭寺綺羅。この少女の傍でのみ、鬼百合を支配する絶対の法則は捻じ曲がる。

 ……もしも、もしも。

 もしも、鬼百合という土地そのものが彼女を守る形でできているのなら。

 その全ては、いつか――百合子と和姫の敵になるのだろうか。

 あるいは。

 藤宮和姫さえも――

「誰も喧嘩なんてしなくなれば、もっと素敵なところになるんですけどね」

 そう冗談めかして言って、綺羅は困ったようにくすりと微笑み。

 百合子の唇は小さく開いたきりで、それには頷きを返すことも、もうゆっくりと歩き始めていた和姫に言葉を求めることもできなかった。



「たこ焼き屋じゃないんスね」

 朝――鬼百合女学院の門が入学を志望する中学生たちに開放される、その前。

 蒸し器のプラグを発電機に繋ぎながら、鷹山覇龍架は言った。左右で長さの違うツインテール揺らして。チョコレートの箱のようないつものセーラー服の上に、今日は明るいオレンジのエプロンを掛けさせられている。彼女は本来オープンキャンパスにおいてちやほやされる側となる中学三年生であるはずだが、『酔狂隊』の一員として数えられ毎日この学校へ通ってきているのだから今更というものだろう。

 そして今日、校門から校舎へと続く目抜き通りの屋台でそんな彼女を売り子としてこき使おうというのは、姉貴分の沙羅やその相棒の外連ではなく。

「ククッ、甘いで覇龍架。そら僕はたこ焼きも自信あんねんけど、この寒さやん? ジブンやったら何食いたなる?」

 抱え上げた段ボールを机に乗せる、燃え立つように紅く長い髪をオールバックにした狐目の女――鳳凰の刺繍が入った灰色のセーラー服の上にてらてらしたスカジャンを羽織り、短いスカートの下にだぼっとしたジャージを穿いた彼女こそは、『酔狂隊』第八使徒・桜森恬。

 喧嘩っ早い同士で息が合うのか、意外や意外、『酔狂隊』の先輩後輩コンビの中でもなかなかに相性の良いふたり組であるのだった。

「えっと……そりゃ、あったけーもん……ッスかね?」

「せやろ? みんな身体あっためたいに決まっとるやろ? それ考えて店出さな。ジブンも見たかわからへんけど、田中おるやろ、あのアホ向こうでタピオカ屋やってん。どこのどいつがこの極寒で冷ったい茶ぁ飲むっちゅーんやろな……あんなんがついこの間まで『酔狂隊(うち)』の金庫番やったんやで、どないなっとんねんホンマ」

「恬さん実はあの人のこと結構好きッスよね? めっちゃ気にしてるじゃないッスか」

 ごちごち。

 覇龍架の脳天に恬の拳骨が落ちた。

「痛ってェ……」

「けどな、たこ焼き言うんはなんぼ熱々のをはふはふ言うて食うてもポコンと飲み込んだら終わりやん? 喉元過ぎればやないけど、よう身体あったまらへんねんな。せやから――コレや」

 鮫の歯を見せてにやりと笑いながら、恬は足下のクーラーボックスを開けてみせる。そこに冷蔵されていたのは――

「おお、豚まんッスね!」

「いくで覇龍架ァ! 荒稼ぎや!」

 寒風に片目を閉じて笑いながら、蒸し器に手のひらを乗せる恬。

 覇龍架は想像する。この寒さだ――湯気を立てる饅頭を両手で持って、かふ、とかぶりつくのは確かに最高だろう。その姿を目にした者もまた買い求めずにはいられなくなるのではないだろうか。想像しただけでさえ、涎を零しそうになった。

「最高じゃないッスか恬さん! 普通にすげえ! これマジでバカ売れッスよ!!」

「ククッ、当たり前やろ阿呆ゥ――僕を誰やと思うとんねん、天下御免の恬ちゃんやで」

 今にも飛び跳ねそうな覇龍架の前で気取ってみせるが、その口元は自信に満ちて歪み。

 喧嘩狂いの彼女もまた、珍しく穏やかにして愉快な日を過ごす――

 はず、だった。

「よっこらせっとー。おらー、荷物はみ出てんじゃねーかよー」

「あァ!? コラ、テメーどこの……」

 右隣の屋台へやってきて調理台へ荷物をどさどさと置いた少女が恬の段ボールを足で押しのけると、覇龍架はすぐに目を剥いた。反応速度はまるで番犬である。だが、キャップを被ったその相手の顔を見るなり、継ぐ二の句を押し留めた。

 つまらなさそうな顔で大きな土鍋を持ち上げ、黒雑じりの長い金髪を掻いた後で誰にともなく舌打ちをする。人差し指と中指の二本、喉に添えて。チューニングするように。彼女のアイデンティティは身体の他のどこでもなく、そこにある。喉ひとつで、彼女はどこまでも自由だった。王女にも奴隷にもなれた。地底へも宇宙へも行けた。ただ、今、彼女はつまらなさそうな顔をしながらそこにいて、ポケットに片手を入れたままタッパーに詰めた赤い煮込み具材を大鍋へ流し込んでいる。ここで。この学校で、きっと彼女を一目見るために訪れる数多くのファンのためではなく、たったひとりのためだけに。

 そして――その姿を認め、恬の左隣の屋台で材料を確認していた地味な少女が嬉しそうに声を上げる。

「あっ、ミンスちゃ! 場所、私んとこと近かね! 嬉しかっ」

「だなー。……んー? ソニアー、お前フランクフルトじゃなかったっけかー?」

「ミスターば出るんがテキサス隊長に決まったけん、候補やった羊崎先輩も屋台係になったとよ。忙しいお人やもん、楽なフランクフルト屋さん譲っちゃったばい」

「お人好しだなーお前はよー。そんでモツ鍋かー」

「ミンスちゃはチゲ? 寒かけんね」

 恬の屋台を挟んで、スタッフジャンパーを着たふたりが会話する。

 まるで、挟まれる誰かのことなど視界にも入らないと言わんばかりに――

 ――おいおいおいおい……!

 ――こいつら、ユ・ミンスと女原ソニア!

 ――鬼百合で今一番ホットな話題、『繚乱』崩しの遊撃班じゃねーか……!

 覇龍架は目を見開き、小声で囁きかけながら恬の袖を引く。

「恬さん、左右の屋台……!!」

「わーっとるっちゅーねん」

 舌打ち混じりに段ボールの側面に貼られたテープを引き剥がし、恬は左右を見比べながらぼそぼそと返した。その表情は、屋台の屋根が落とす朝の影に隠されている。

 桜森恬。ちろり、と歯の隙間に覗く舌先は髪に似た真紅。啖呵切りにかけては、鬼百合でも最強の部類に数えられる――舌に心の寄り添うその名は、伊達ではないようで。

「おう、コラ、待たんかいジブンら」

 こき、と首に手を当て、捻って。

 風に撓る枝葉のように、緋色が流れる。

 虎縞柄のカチューシャが押さえつけるオールバックから、紅い毛が数本アンテナのようにぴょこんと前へ垂れ下がっている。その細く長い前髪の一本すら、彼女の忿怒を乗せた呼気でふわふわと舞い上がる。ひっ、と覇龍架が息を呑む間もなく。

「なーーーんで両隣とも汁物やねん!! ふざけとんかワレ!!」

 ――え? そこスか?

 気炎を吐く恬の隣で、覇龍架には口を挟むことなどできるわけもなかった。

 それは、勿論、この寒風吹き荒ぶ日に鍋の屋台は飛ぶように売れるに決まっているけれど――

「あんだー? テメー……誰かと思えば、おつむてんてんの桜森じゃねーかよー。あたしとソニアの間に挟まってんじゃねーよー」

「知るかボケぇ、番号振ったんジブンとこの上の連中やろが」

 磨れて潰れたアスファルトの上、歩み寄ってくるティンバーランド。生ゴムの厚い底がじゃりと挑発的に音を立てる。恬のローファーは砂埃にくすみ、クラリーノの側面には皺が痕になって残っている。

 睨み上げる背の低いユ・ミンスに、恬は細い目をさらに細めて応じる。さらに、ぎろりと後ろを振り返って反対側の隣人へも。

「ほんで女原、ジブン……僕とキャラ被っとんねん!! 方言女子ばっか仰山おってもうるさなるやろアホタレ!! どっか行けホルスタイン!!」

「あー? テメーのどこがソニアと被ってんだー? ブチ殺すぞ糸目クソブスがよー、強キャラぶってんじゃねーぞー?」

「ククッ――なんやコラ×××助、僕と喧嘩してくれるんかいな? ええ? つまらんことガタガタ抜かすなや小娘ェ、一生×××食うとけボケ」

 ミンスはソニアへの罵倒に対して、常の如く気の抜けた声でやり返す。嬉々として、恬はぎいっと好戦的に歯を剥き出しにした。実際、誰でもいいのだった――仕掛けてきてくれさえすれば。ユ・ミンスはその役目を十二分に果たしてくれるだろう。そういう、ある意味での信頼を寄せて。

 恬とミンスの、どちらが先に胸倉を掴むか。空気、張り詰める、張り詰める。祭りの朝の喧騒が遠ざかる。ふたりの間に数歩の距離もなく、プリン金髪に擦り込まれた香水がつんと薫る。恬は蝋燭の火のように舌をちらつかせ、唇を舐めた。すきりと冷え渡る、そこで桜森恬は生きている。腕に、脚に、血潮を感じる。殴り蹴ることでのみ、恬も誰かと繋がることができた。

 覇龍架は僅かに目を見開く――顔にかかったツインテールの片方を振り払う。構えるというのだろうか、恬は。ここで、『魔女離帝』と――それが何を意味するか、理解しているのだろうか。『月下美人會』などと小競り合いになるのとは訳が違う。『酔狂隊』第八使徒の振るうたった一発の拳で、鬼百合を揺るがす大抗争がたちまち勃発するかもしれないというのに。……ジャージの脚にしがみついてでも彼女を止めるべきだろうか。そう、迷う覇龍架は、調理台に縫い止められたかのようにそこを動けなかった。沙羅に使徒の末席を貰ったけれど、彼女はまだ中学生で。誰かに突っ掛かっていっては転がされるばかりの三下で。

 鷹山覇龍架は拳をきつく握ったまま、笑う桜森恬の視界の外で、矯正器具の嵌まった歯を小さく浮かせていることしかできなかった。

 慌てて屋台の裏を走って回り込んできたソニアが、ふたりの間に割って入る。普段はシュシュで緩く結わえている髪を、今日は調理のためかきゅっと束ねて。

 モノクルきらりと輝く様も、どこか非難がましく。

「ああもう、ミンスちゃ! 桜森さんも……お祭りやけん、喧嘩禁止ばい! マハラジャに怒られっとよ!」

「あー? なんだー、あたしはおめーのよー」

「せからしか!!」

 ミンスがそっぽを向いて唾を吐き捨てたのは、恬に対する苛立ちを晴らせないからだろう。ソニアと揃いの黒いスタッフジャンパーには『魔女離帝』のエンブレムが燦然として在る。意識的に感情を消したような棒読み口調といい、ユ・ミンスはそれを器用にこなせる人間のようである――芝居とは己を黙殺し続けることであるから、彼女は声優なのであって、組織の一員として最低限は社会的に振る舞える人間なのだ。

 桜森恬は、違う。

 結ばれかけていたユ・ミンスの像が解けていってしまう。高鳴りつつあった鼓動を抑える術を、恬は知らない。どちらかが止まるまで誰かと痛みを与え合うことの他には。

 祭りの支度で右へ左へ少女たちが行き交う雑踏の中にいて、桜森恬は、墓場にでも立ち尽くしているような心持ちでいた。覇龍架を駆り出して楽しく準備していた自分の屋台さえ、すっかり褪せたように見えてしまって。

 狐のような目をさらに細め、恬は腰まで伸びた長い赤髪を指で一本にまとめ整えながら、鼻から長い息を吐く。

 ソニアに宥められぶつくさ言いながら自分の屋台へ戻っていくミンスに背を向け、しかし、居場所などありはしなかった。大人しく豚まんに戻るべきだとわかってはいても、その前にクールダウンがどうしても必要だった。緩めそこねた拳を自ら頬に当てると、こんなに冷え切った日だとわかるのに。

「煙草吸ってくるわ。覇龍架ァ、支度よろしゅう」

「……あ、ウス!」

 硬直から我に返った覇龍架の肩をぽんと叩き、耳元に口を寄せて囁く。

「釣り銭、目ぇ離したらあかんで。……隣に女原おるさかいな」

 棒立ちの中学生に、ひらひらと手を振り。

 真紅の風はスカジャンを翻し、誰と袖擦り合わせることもなく、飛び石を渡るように爪先立ちで、祝祭の目抜き通りを脱出したのだった。



「銀子君、寒くはないか」

「ああ……」

 厚手のブランケットに包まり、いつもにも増して青白い顔をしながら、硯屋銀子はストーブの火に当たっていた。両手で持ったマグカップで少しずつ啜っているのは、コーヒーではなく白湯のようである。

「そうか。……何か食べられそうなら、お姉さんが用意しよう。薬を飲むといい」

「無理……今は……」

 悪態をつく気力も湧かず、ただ舌先で湯を舐める。今朝から固形物は何も口にしていない。ヘルミは休んでいるよう再三諭したのだが学校へ行くと言って聞かないので、着替えを手伝い、ここまでなんとか連れては来たものの――

「……クソが……なんつーザマだ」

 小さく溜息をつく銀子は、後ろ髪を普段のようにアップスタイルに纏めることさえせず肩甲骨の辺りまで垂らしたままでいた。その髪を、ステンドグラスを通して色を持った午前の光が照らしている。いつものように礼拝堂の隅で、しかし今日は背中を丸めて。彼女のギターはケースに納められ、講壇のさらに奥で不信心にもマリア像の脚に立て掛けられていた。

「誰しも平等に受ける痛みだ。気にするほどのこともないよ」

「クッソが……ああ、クソ……ガキなんざ産まねえのによ……要らねえんだよ……」

 片手を額に当てて、肘を組んだ脚の膝へ。傾いた肩から滑り落ちかけた毛布を、掛け直してやった。これほど傍にいて、ヘルミにできるのはそれくらいだった。

 顔を隠すようにした彼女がする舌打ちは、恐らくは自分自身へ向けてだ。『繚乱』からの依頼を請けておきながら思うように動かせない肉体に、苛立って仕方がないのだろう。硯屋銀子は、そういう少女だ。ヘルミ・ランタライネンは知っていた。荒々しく刺々しく振る舞ってみせる銀子が、その実、どれほど周囲に気を配っているか。

 そんなことを、硯屋銀子という彼女は、死んでも認めないだろうけれど。

「まあまあ、滅多なことを――当たり散らしたくなるのもわかるが、落ち着きたまえ」

「……っクソ……」

 銀子はヘビースモーカーで、苛々するとすぐにゴロワーズを咥えようとする。だが今日ばかりはヘルミも彼女のためのライターを持ってきていない。仕方なく、鬱陶しげに前髪を掻き上げては指を陶器のマグカップに添えて温めた。

 ほっそりとした首筋に、萎れたような銀色の髪が触れている。ヘルミは不意に初めて会った日の彼女を思い出した。日本の少年院に相当する矯正施設で二年を過ごした後、逃げるようにフィンランドを飛び立ったヘルミにとって――適当に選んだ飛行機が日本行きであったことも、成田から当てもなく電車を乗り継いで降りたのが川崎駅であったことも、その駅前で自分と同じように何もかも失ったばかりの少女が誰にも顧みられぬまま歌っていたことも、全ては偶然であって、今になって振り返れば出来過ぎと笑ってしまうような奇跡だったのだ。彼女が必死に書き殴って喉を嗄らし叫んだ歌詞を、その時は一単語も理解できなかったのだけれど――穢れなき妖精の森を追われて痩せ細ったヘルミ・ランタライネンは、色の無い街の真ん中で路上に膝を折って、気付けば静かに泣いていた。それから三曲続けて歌った銀子がついに無視しきれなくなり「……How are you?」と声をかけるまで、ずっと。

「……ぃな」

 そんなことを思い出していたら。

 舌打ちをしてからマグカップの白湯をひと口飲んだ銀子が、その後に消え入るような声でぼそぼそと続けた言葉を、聞き取り損ねて。

「む」

 痛んだブロンドから、故郷の旗の蒼へと染めた長い髪――耳に掛けて、首を傾げる。

「すまない銀子君、何と言ったかな? お姉さん、少し……物思いに耽っていた」

 あの夜から考えれば、ヘルミは驚異的な速度で日本語を修得したものだ。コンビニ飯続きでも、文句のひとつも言わなかった。ヘルミの言葉からたどたどしさが消えたのがいつ頃のことだったか、銀子はもう思い出せなかった。どこで知ったのやら、買ってきてやった教本通りの丁寧な構文はいつの間にか妙に大人びて余裕に満ちた口調へアレンジされていて。

 そういうものだ。大抵のことは、共に過ごす時間が重なるにつれて少しずつ変わっていく。銀子の料理の腕前も、ヘルミの身体の肉付きも、交わす言葉も。

 だから、こんな体調の日くらい――セーラー服の裾を捲って、湯の熱を移した指で腹筋の薄く浮く白い腹を直に触りながら、どこか嫌そうに本音を繰り返す。

「……チッ……悪いな、っつったんだよ……メシのひとつも持って帰れなくてよ……」

「――なんと」

 ぱちくり、と瞬きをして。

 まずは耳を疑って、正気を疑って、最後に目を疑った。

 ――これは、これは。

 ――ここまで弱気になるとは相当辛いのだな、さては。

「……馬鹿だな、君は」

 驚きは、所詮、一瞬のもの。

 彼女の本質がいつもの彼女であることを、ヘルミの蒼い瞳は見抜いているから。

 素っ気ない顔で、硯屋銀子という少女は、いつも他人のことばかり考えているのだ。どれほど自分が苦しかろうと。

「君に無理をさせるくらいなら、お姉さんは三食コンビニの天丼で構わないとも」

「……普段の、テメエ、じゃねえかよ……」

 小さく笑うことすら、脂汗を浮かべずには行えなくて。

 代わりとばかりに、ヘルミの方が銀子に微笑みかけ、黙ったままで背中を摩る。

 ――ああ、銀子君。

 ――君のそんな素晴らしいところを、お姉さんはよく知っているが。

 ――それでも、君の夏模様が見えないよ。

 空色をしたヘルミの『夏のお嬢さん<スクリームクイーンズ>』は目の前の少女の本質的な指向性を理解する洞察力である。それは大抵、裏を返せば願望の所在。銀子にはそれがない――日頃の彼女は「興味ねえ」と低く掠れた声で嘯くけれど、本当にそうであるはずがないのに。周囲の少女たちを、硯屋銀子は本当によく見ているのに。その視線のいずれかに「特別」の意味を乗せていたとしても、何ら不自然ではないはずなのに。

 それでも、ヘルミの瞳に銀子の夏模様が映ったことがないのなら。思いやりに満ちているはずの彼女が、しかし空洞であるというのなら。

 ――過去のどこか、私と知り合う以前の君が。

 ――何か大切なものを、置き忘れてきてしまったのか。

 ヘルミが銀子に悟られないよう音を殺して溜息をついたのと、重い木の扉がぎいと押し開けられたのとが、ちょうど同時で。

 百合子と和姫が礼拝堂へ着いた時、クッションのあるオルガン用の椅子はストーブの前に移動していて、そこに銀子が浅く腰掛けていた。傍らにはヘルミが彼女を見下ろしながら腕を組み静かに立っている。普段のふたりらしくない雰囲気を敏感に察した後輩たちなのだった。

「銀子さん?」

「……大丈夫?」

 何かあったのかと、慌てた様子で駆けてくる。赤絨毯は埃を舞い立たせて、銀子は目を瞑った。自らを抱き締めるように両腕を交差させて腰に回す。

「平気だから……放っといてくれ」

「でも……顔色、すごく悪い……」

「百合子君、君も女の子だろう。……心配することはないから、そっとしておいてやるといい」

 ヘルミの声音は優しく、咎める調子ではなかったけれど――百合子は、そこでようやく気付いて口に両手を当て、縮こまって目を伏せた。

「あ……ごめ……無神経……」

 百合子も、楽な体質ではないけれど。

 酔太子拳の継承者である銀子は、二重人格のようなものであるためホルモンバランスに乱れが出がちなのか――端的に言って、月経に伴う体調の落ち込みが激しいのだ。

「銀子さん、何か手伝えることあります? 欲しいものとかあれば買ってくるんで」

「いいって……マジで……」

 普段のつんけんした態度は親しみの裏返しであって、後輩たちに構われることを本心から鬱陶しく思っているのではないと、ヘルミはよくわかっていたが――今日ばかりは、受け答えも苦痛なようで。

 どうにかやんわりと伝えようかと、椅子の背凭れに手を置いたヘルミが模索していると。

「謝花……悪りいけどよ、頼むわ……お前、出んだろ……ミスター……」

 彼女の責任感がそうさせるのか、ブランケットの両端を引き寄せて自らの肩にしっかりと巻きつけながら、銀子は眼球を動かし前髪の隙間から百合子を見て自ら口を開いた。

 学ランに着られているように見える、地黒で無表情で小柄な少女。転校生、という肩書はもう外しても良い頃だろう。ミスター鬼百合を競うにはなかなか上出来ではないか。銀子だって身長は平均以下なのに、意外とそのことを誰も気にしていないのだから。

「あたしの代わりに、あいつら……『繚乱』の宣伝……してきてくれや……」

 自分の体調よりも、彼女が気にしていたのは――引き受けた役目を投げ出すこと。

 そういうところが、硯屋銀子の不良少女らしさだった。

「……任せて」

 こくりと頷いた学ラン姿の百合子は、小さく拳までも固めて。

 表情はいつも通りに薄いながらも、ヘーゼルの瞳にはちらつく炎があって。

 ――マジでなんでこいつ先輩に敬語使わないんだ……?

 和姫は、全然関係ないことばかり気にしていたのだった。



 オープンキャンパスの喧騒を遠く聞く喫煙所は、世界から切り離されたかのように物寂しいところであった。裏庭の隅に、囲いも何もなく、銀のスタンド灰皿が墓碑めいてぽつんと立っている。それもそのはずで、こんなものが鬼百合に設えられるのは今日だけであるからだ。普段は敷地内のどこであろうと、不良少女なれば誰しも他人など憚らずに煙草を吸うものだった。祭りの騒々しさを遠く聞くそこには、ひとりだけ先客がいた。拗ねた子供のようにつまらない心持ちで歩いてきた少女の視界には入ってこなかったけれど。恬は古びた校舎の外壁に背を預けて立ち、睨むような視線を冷たそうな土へと投げ落としていたのだ。

 冬の空は、雪でも降らせるつもりであるのか少しずつ雲に翳り出した。白。面白いことなど何もない色。見上げるほどの価値もそこにはなく、恬はスカートの下に穿いたジャージのポケットをまさぐり、ラッキーストライクの箱を取り出す。

 とんとんと尻を叩き一本を抜いて咥えるまでの数秒間に鼻から息を吸うと、乾いた寒さがつんと沁みた。ビビッド・レッドの前髪を持ち上げる虎縞のカチューシャのせいで額もまた風に晒されるけれど、桜森恬はそこを隠そうとはせず。

 俯き加減のまま、静かに煙草を吸っていた。何もかもが今だけはどうでもよかった。いつからか決定的にずれてしまった桜森恬を弾き出したまま、世界は回り続けているのだから。苦く濃い煙が冷え切った頬をからかうように昇り、半ば閉ざした瞼の間に沁みる。

 未舗装の地面に、籐のバスケットが置いてあるのが見えた。載っているものに掛けられたナプキンが少しずれていて、つやつやとした果物が見えた。林檎、洋梨、イチジク、それにマスカット。一緒に暮らしている祖母を思い出した。もう誰も使わないアップライトピアノに、毎日、果物がこんな風に盛って置かれていた。恬が蜜柑やバナナをそこから勝手に取って食べると、いつの間にか買い足されている。大阪育ちの恬に負けず劣らず口の達者な祖母が生活態度やら何やらについてあれこれと叱りつけてくると、当然癇に障ることもあったが、恬は祖母に対して暴力を振るったことは一度もなかった。喧嘩がセーラー服を着て歩いているようなこの桜森恬が、である。

 幼い頃から、祖母にだけはよく懐いていた。むしろ、彼女くらいしか恬の味方がいなかったから、恬は湘南へやって来ることになったのであったが。

 そんな回想はともかく、果物のバスケットばかりに注意を向け、持ち主の存在を意識せずにいられたのは――その瞬間までだった。

「余は」

 サンセットカラーをした箱が指先で踊っている。ラークのトロピカル・アイス・メンソールを吸っていた女は、ぱっちりとした目を二度、瞬かせた。長い睫毛、剣戟のように交差し踊って。あまりにも典型的なブルーベース・ウィンタータイプの、ぱきりとした顔立ち。こと容貌の整い具合に関して語れば、少女ばかり集いし鬼百合女学院においても明確に彼女を打倒し得る者がどれほどいるだろう。恐らくは、指を折るまでもなく。

 彼女が口を開いたことで、恬は顔を上げた。明らかに自分に対して話しかけてきた女の方を向く。向かざるを得ない。覚えのある声だったから、そこでようやく、はっとして。

「今日、探して声を掛けるとしたら――貴様だと見繕っていたのである。偶然というのも、馬鹿にできぬものであるな」

 さほど長くない黒髪を、円錐状に螺旋描く縦ロールにして。針金でも編み込んでいるのか、重力に逆らいながら立体としてそのツインテールは在った。丁度、側頭部からチョココロネでも吊るしたように、顎ほどまでの長さのドリル。分け目に従って自然に流した前髪にはヘアピンがふたつ、いらすとやのメロンとスイカ。

 カメリアピンクのロングTシャツに濃いデニムのオーバーオールを合わせた可愛らしい格好をしていながら、ただ目つきと態度だけが果てしなく尊大な不良少女。否、その絶対的な自信は身に着けるアイテムにもごく一部現れていた――「本日の主役」と勘亭流で書かれた、ぺらぺらの化学繊維の襷を斜めに掛けて。天からの賜り物としか思えないあらゆる美的素質を妨げるそれは何かの冗談かと思いきや、そのまま大真面目な顔をして煙草を燻らせている。今日がオープンキャンパスだからではない。普段の彼女も、この襷を背後に靡かせ歩くのだ。毎日、自分こそが主役であると主張するために。

 そう、彼女――鬼百合女学院がどれほど特異な環境であろうと、こんな人間の名前が知れ渡らないはずがないのである。

「何やねん、随分また馴れ馴れしいやんか? 生徒会長<プレジデンテ>」

「いかにも大統領<プレジデンテ>であるぞ、桜森。……貴様は余を知っており、余も貴様を知っているのである。親友<マブダチ>同士の如きであろ?」

 ――卦ッ体な言葉遣いに、卦ッ体な髪形。

 ――ほんで卦ッ体な自意識、三冠王の一匹狼。

 ――生徒会長、糺四季奈<タダス・シキナ>……

 ――ちょいとサボりに来ただけやのに、なんちゅー厄ネタ踏んどんねん僕!

 煙草の灰を落とす声の甲高い彼女もまた、ある意味で名高き不良少女。

 鬼百合において極めて稀な、いずれの勢力<チーム>にも属さぬ『生徒会長<プレジデンテ>』であるのだった。

 無論――この学校に生徒会なる秩序立った組織体系など存在せず、全て、全てこの少女ひとりの自称である。何なら、鬼百合女学院の生徒会長<プレジデンテ>どころか、自身を「シキナリア」という独立国家の大統領<プレジデンテ>であるとさえ思い込んでいる。

 言うなれば、喧嘩中毒故に狂人と呼ばれる桜森恬を軽く凌駕し得る――数少ない「本物」であった。

「ほんで? 僕を探してたっちゅーことは、さてはジブン、僕の屋台の豚まん楽しみでしゃーないんか? 蒸かしとるとこやさかい、焦らんとゆっくり来ぃや。なんぼ機嫌取られたかて、友達割引せえへんで」

「案ずるな、余はヴィーガンである」

 桜森恬の、妖狐の目は――

 四季奈の美貌より何より、四肢の筋肉と骨をまず見て、測っていた。間近に向かい合うのが初めてであれば、誰に対しても彼女はそうした。

 身長は平均やや上くらいだろうが、比して腕がすらりと長い点は特徴的と言えた。脚は細めだが同様に長く、インファイト一辺倒の恬にとっては組みにくい相手となるだろう。

 そんなことを、決して今から喧嘩をする相手に限らず、誰と向かい合ってもまず想定するのが恬という少女なのだった。

 彼女にとって、人間関係の根底には闘争本能がある。喧嘩の相手として相応しいか否か、自らの力量で倒せるか否か。彼女が他人を見る物差しは、その悉くが自分と対象との格闘状況を前提としたものなのだ。

 それは勿論異常なことで、しかし彼女の中ではごく当たり前のことなのだった。「闘争における打倒能力がある」、即ち「強い」というのは――誰の主観によっても否定し得ない、最も堅い事実なのだから。

 ただ強ければ、人は相手の中で「強いもの」という像を伴って鮮烈に記憶されるのだから。

 不躾な視線にも、美少女は慣れ切っているのか。煙草をぴんと指で弾き、むしろ己を見せつけるようにしなを作ってみせる。くるりとターンして、厚手のデニムに包まれた小ぶりな尻を少し突き出しつつ振り返ってみたりと。恬がそういう視点で己を見ているわけではないことに気付いているやらいないやら。

「つまらなさそうな顔であるな、桜森」

「そら、おもんないわなァ――僕みたいなんは、喧嘩ん中でしか生きられへんさかい」

「喧嘩御法度のオープンキャンパス、であるか。……いかにも。余も、余を差し置いて女王気取りの楽土めが気に食わんのであるが」

 ポージングに飽きたか、糺四季奈は屈んで足下に置いてあったバスケットに手を伸ばした。ふわりと掛けられていたナプキンを捲り、指先を突っ込む。四季にみのるもの、即ち彼女の名こそが表すはフルーツ。頭の両脇のツインドリルをふわふわと揺らしながら、立ち上がった彼女がぶら下げていたのは――油絵から引き抜いてきたかのようにつやつやと草色に輝く、ひと房のシャインマスカットだった。恬は葡萄の品種になど詳しくないが、大きく粒の揃ったそれはスーパーに並ぶようなものとはまるで異なる上等品であることを確信させた。

 んあ、と口元に手を添えながら、上向き加減に口を開いて――齧る。実のひとつを、ではない。飢えて喰らいつく獣の如く、美しい顔を凶悪に歪め、実が五、六粒ほど口に入るよう房の下端に齧りつくと、種も皮も茎も一緒くたにぐちゃぐちゃと咀嚼する。

 唇の端から溢れ滴る透明の果汁は、さながら天使の流すという血。

「……」

「十三時、再びここで待つのである。……桜森。擾乱に怯える水恭寺や楽土に、余と貴様とで不良の何たるかを再教育してやろうではないか」

 んべ、と。

 粉微塵になるまで噛み砕かれたマスカットの茎や種を乗せたまま、四季奈は真っ赤な舌を突き出して。

 潔癖というわけでこそなくとも、誰にとっても気持ちのいい光景ではないはずが――不思議と、恬は年上らしくもないそんな彼女から目が離せなかった。

「祝いの支度をしてな。シキナリアの地に、民に、正しき自然の秩序が取り戻されるのであるぞ」

 ――何を、言うとんの。

 ――ほんまに今日暴れるつもりなんか、このタコ女?

 祭りの支度に浮かれる青春たちの声は、今、あまりに遠かった。

 水恭寺沙羅に幾度となく挑んでは捻じ伏せられ、恬は最終的に、彼女の前に膝をついて盃を賜ることを選んだ。つい先程だって楽土ラクシュミの影を感じて『魔女離帝』の下っ端を張り倒すのを諦め、粛々と暢気な縁日ごっこに戻ろうとした。

 誰彼構わず喧嘩を吹っ掛ける狂人などとは、あまりに白々しい。火薬樽だらけのこの箱庭で全面戦争の引鉄となろうとせず、けちな喧嘩ばかり探して歩いて、何が不良少女か。桜森恬という女はもはや、飼い馴らされた犬でしかないではないか――

 面白おかしな言葉遣いと溜息が出るほど整った顔で、そう詰られているように感じた。

「……阿呆かいな、ジブン。僕『酔狂隊』やで?」

「いかにも。だが使徒の中には、銀貨で救世主を売り渡すユダがおるものであるな」

 片目を閉じて、糺四季奈は笑う。銀河のように黒々としながら青白く光るアイシャドウが、きりりとした目元で閃く。

「貴様は、余に身を任せればそれでよいのである」

 唇を噛む恬の指の間で、吸いさしのラッキーストライクは灰となり、先端から崩れて風に飛び散ってゆく。

 その手の内に、冷たい果汁に濡れてべたつく狼の手が、豊穣な実の半分以上も残ったマスカットを押し付け、握らせた。

「――吐き気もしないほど退屈だったのであろう?」

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