第三話『第四使徒 硯屋銀子』9

 パティにくどさは不要である。主役の旨味を支える土台でなくてはならない。絆が牛肉と混ぜて合挽肉にするパートナーとして選んだのは鯨肉であった。高級品の輸入ナガスクジラ。手のひら大のパティに火を入れながら、絆はその横でステーキに取り掛かる。薄切りではあるが紛れもなくシャトーブリアン。先端医療器具めいた熟成ボックスからピンセットで摘まみ取ったその肉を、ナノマテリアルコーティングを施された墨色のプレートでさっと炙ってレアで仕上げる。

 肉の熱せられる音と煙に包まれる今日こそよく似合いそうなものなのに、絆は普段のカウガール・スタイルではなかった。奇術師を思わせるワインレッドの燕尾服、胸元にはクロスタイ。テンガロンハットに代えてコートと同色のシルクハットを。髪も普段のふたつ結びのお下げではなく、うなじで一本に結っていた。紫や浅葱、群青に黄昏色、宇宙のようにグラデーションとして繋がって、入り乱れて。

 調理台の前、二メートル四方に満たないくらいのスペースで彼女はてきぱきと動き回りながら、早くも着込んだミスターコンテスト用のステージ衣装に爆ぜる肉汁のひと粒さえ飛ばすことなく仕事を進める。目を輝かせる客の少女を前にして、しかし常の通りに表情を一切変えず。白い指先で銀のナイフが翻り、やわらかいバンズにぱっくりと切れ目をつくる。

 バンズはラクシュミの太鼓判がついた窯焼きナンだが、生地に米粉を練り込んでもっちりと肉の脂を受け止めるようにしてある。蒸しパンじみた舌触りも優しく、そのままでもつい食べ進めたくなる逸品だ。心が無いようだと時に部下たちに噂される親衛隊の長が、しかし血の通う手のひらで捏ねた生地。彼女が理事長室に作り付けられた窯でナンを焼き上げる時、愛しいマハラジャはいつもチャイを飲みながら微笑んでその背中を見つめていた。スパイスの香りにふたり包まれながら。

 白い皿に乗せたナンのバンズに、焼き上げたパティと新鮮な空輸イタリアトマトに淡路島の最高級オニオン、余熱が入らないうちに手早くライムのマーマレードを薄く絡めたシャトーブリアン、フライドガーリック。仕上げにカレーソースをひと掬い。カレーとは言っても、肉の味を塗り潰してしまうほど主張の激しい一般的なカレーではない。グレービーをベースに絆がミックスした六十四種類のスパイスと赤ワインで深みのある牛の味を引き出した、むしろスープに近いもの。とろみのあるそれを小さな柄杓で回し掛けると、屋台の黄色く強い照明を受けて水面のようにきらきらと輝いた。

 照り輝くようなそのハンバーガーを前に、絆は剣を抜く。何の比喩でもない。調理台の足下にはペガサスの彫刻が大きく施された傘立てのような白金のオブジェがあり、そこから切っ先鋭いサーベルを一本、引き抜いたのだった。

「……」

 無論、飾りではなく触れれば肉を裂く真剣。それを胸の前で立て刃毀れを確認する笑わない燕尾服姿は、さながら騎士が如くして。

 ひゅんひゅんと風を斬るように手元で軽く振り回し、串の代わりにとハンバーガーを突き刺す。釘の一本より細い刃は長すぎて、手を離すと実る麦の穂のように撓りさえする。なんとか直立を保っているのも絆が正確にハンバーガーの重心を射留めたからに過ぎない。あからさまに常識を逸脱した用途であって、しかしサーベルはまるでそこに在るためだけに創り出されたかのような自然の精緻さで突き立っていた。

「……お待たせ致しました。テキサスバ」

「絆、その名前はおよしなさいな。引っ掛かりましてよ、余所の権利に」

 次のパティを熱している鉄板を挟んで客にサーブしようとした絆にくすくす笑いながら声を掛けたのは、ワイングラスを傾けていたラクシュミだった。屋台の奥、調理台の後ろのスペースに持ち込ませたウッドテーブルにはパティとステーキの皿、隣には口紅に似た黄金のシガーケース。今日ばかりは特攻服を上から羽織ることなく、瑠璃色のパーティードレスルックを艶やかに晒していた。試食という雰囲気に留まるつもりはまるでなく、明らかにひとつ上の立場からこの祝祭の日の昼餐を優雅に楽しんでいる。既にヒンドゥーの信仰から遠ざかったラクシュミは牛肉をむしろ好んで食し、逆に野菜の類を嫌うからトマトやオニオンはそこに盛り付けられていないのであった。調理や客の応対を手伝う素振りは一切見せようとしないが、それは絆の望みでもあった。

 絆・ザ・テキサスの調理による名称未定バーガー、実に八千円。オープンキャンパスの屋台や模擬店で供されているフードメニューの中ではずば抜けて高額であるが、それでも想定通りの売れ行きであった。『魔女離帝』の構成員たちであればマハラジャが毎日舌鼓を打っているというかの親衛隊長の手料理に想像を膨らませぬ者など皆無であるし、何より彼女たちは金銭感覚が三日で麻痺するほどの給金をマハラジャその人から受け取っているのだ。

「やだ~っ、すごい美味し!! しかも超映える~!!」

「たまんねえぜ絆さん!! ごっそさんッス!!」

「……あの。すみませんが、サーベルはご返却願います」

 裏を返せば――最初から、一見の中学生たちなど相手にしていない。かの楽土ラクシュミが小銭稼ぎのために絆に屋台を開かせるはずもなく――オープンキャンパス運営側の行いとしていかがなものかという話ではあるが、彼女たちの目的は最初から、『魔女離帝』のメンバーに「入学希望者たちに見せつけるよう」美食を味わわせることであった。それは、春に収穫するための種蒔き。金で人を集め、力で支配する――彼女たちの王道をまさしく体現するが如く。

「絆」

 ラクシュミはシャトーブリアンを切る。チョコレート色の指先を見つめるは翡翠の瞳。肉をひと切れカレーソースに擦りつけて口へ運ぶと、純白の美しい歯が覗く。味わいながら、ナイフを置いた右手でウェーブがかった前髪を掻き上げ、次から次へとハンバーガーを仕上げていく従者を振り返った。

 従者と、その向こう――高級バーガーの屋台に並ぶ長蛇の列は『魔女離帝』構成員ばかりだが、目抜き通りを行き交う不良少女たちも今日だけは勢力の垣根を越えてオープンキャンパスを満喫している。曇りゆく冬の空をものともせず、笑顔を浮かべ歩いている。そんな鬼百合女学院の景色を、鷹揚に眺める。ドレスに皺を寄せてまで脚を組み、ハイヒールの先をぶらぶらと揺らして。顕現せしは王道楽土。ラクシュミが夢想し、自らの手で切り拓いた三千世界の彼方の地平。

「盛況ですわね、今年も」

「はい」

 満足気な瞬きの度に黒々とした睫毛が舞い踊る。ゴールドのアイシャドウは、エキゾチックな麗しさと獅子のような強さとは容易に兼ね備え得るのだと証明する。楽土ラクシュミは資本の帝王であって、遍く全てを所有していた。若くして全てを所有し、その上でさらに王道を往き続ける少女であった。

 ラクシュミが見据えるその先には何があるか、絆はよく知っている。

 肉を焼き、バンズに挟み、剣を刺す――本当に腕が二本きりであるのか疑わしいほどの速度で次々と調理を進めながら、絆・ザ・テキサスはちらりと瞬間だけ振り返る。グラスの中のワインを波立たせる、最愛のマハラジャを。

「結構ですわ、ええ結構ですわ……動員好調、楽土は王道」

 冷え切ったアスファルトの上を右へ左へ行き交う不良少女たちの足取りは軽い。そうせしめているのは、誰であるか。誰の存在であるか。

 落書きだらけのサウスブロンクスで絆を見つけてくれた目はそこを上滑りして、その向こうに楽土ラクシュミは水恭寺沙羅を見ている。テーブルに両肘をつくと豊かに発達した乳房が歪み潰れ、ドレスの胸元が波打つ。女神の名を持つ彼女は、自らが創り上げた光景をうっとりと眺めつつ、独り言ちるように呟いた。そのどこかにいるはずの宿敵へ向けて。

「……沙羅。沙羅、貴女もどこかで見ているでしょう? 楽しんでいるでしょう? ……もし貴女が鬼百合の王だったとして、こんな祭りが開けまして?」

 絆が捏ねて焼き上げた牛と鯨の合挽パティを、大きく切って、頬張って。

 上等なワインで、喉の奥へ飲み下す。巨いなるものの王。君臨する不良少女。

 ラクシュミの陶酔を絆は背中で感じた。絆の冷え切った胸の奥に篝火が灯る。嬉しい――それはラクシュミの指に触れられた日、初めて知った感情だった。

「わたくしの、嗚呼、わたくしの鬼百合女学院……!」

 翡翠の目を細め、まるで肉体の快感に悶えるかのように座ったままで腰をくねらせる。ルージュの唇の隙間から漏れる熱い吐息は澄んだ空気の中で白く曇り、純金とルビーを互い違いに連ねた首飾りがしゃらしゃらと音を立てた。

 宙へ伸ばされる手に、足に、普段であればすぐさま跪いて唇をつける絆なのだけれど、今ばかりは二メートルの距離を保ったまま肉を焼いてはバンズに挟み続けていた。

 ――マイレディ、ラクシュミ。

 ――私の、マハラジャ……

 クロスタイは首輪。メイクアップルームへ当たり前のこととしてかつかつと入ってきたラクシュミが、絆の白い首筋を愉しむように摩りながら結んでくれたもの。サーベルを振るい、直上から刺し落とす。皿に。

「お~っほっほっほ! あ、お~~~っほっほっほっほ!! 見ておいでなさい『酔狂隊』! 春は……『魔女離帝』による完全支配は近くってよ~~~っ!」

 ラクシュミの不敵な笑い声は高らかに響き。

 屋台の前に群がり、ハンバーガーにかぶりつき、『魔女離帝』の少女たちもまた拳を突き上げる。

 絆だけが黙々と料理を続けながら、しかしその口元を僅かに綻ばせていた。

 涙黒子のように、目元には蒼い星のタトゥーが輝く。ラクシュミが自らの手で刻み込んでくれた所有者の印。それだけでふたりの永遠は約束されていたし、絆はそれ以上を求めなかった。絆・ザ・テキサスは楽土ラクシュミの剣であり盾でありシャクティ。遥か彼方を仰ぐ覇王のために身を尽くすものであって、自分だけを見てほしいなどと烏滸がましいことを考えたりはしない。

 ……少なくとも、今はそう思っていた。



 そんな絆の屋台を液晶画面に収める。ひび割れささくれ立った指先が、ナイフを振るう彼女の顔に向けてスマートフォンのカメラをズームさせる。

 刃が牛肉の筋に当たって引っ掛かったらしく、無感動な彼女の瞳がやや不快そうな色に染まった。鼻腔が微かに膨らみ、瞼の片方がひくついて、白い手の甲に力が入る。ワインレッドの燕尾服に身を包んだ彼女の、見下すような視線。声を発さないはずのコアントロー・ワンダーでさえ、思わずひっと息を呑んでぞくぞくと身を震わせた。金メッシュを入れた明るい茶色の前髪に隠れる目を見開き、紫に塗った唇をにたりと不気味な笑みの形に引き開ける。

 そのまま、何度も撮影ボタンを押した。改造でシャッター音を消したカメラアプリ。

 通りの反対側で、焼きそばの屋台と雑煮の屋台の間に立つ大きな桜の太枝に登り、息を殺して彼女はスマートフォンを構えていた。丈の短い浴衣姿。ふわふわとボリューミーに盛った髪型と合わせて、夜の街を想起させる装いの少女だった。

「-・ ・- --・ -- ・・- -・ ・- --・ -- ・・-」

 片手で連写を続けながら、もう片手で数取り器を打つ。誰に伝えるでもない独り言すら打鍵で紡ぐ、それがコアントローの癖だった。葉の落ちた高い枝の上にしゃがんでいる彼女は恐ろしいほどに目立つはずだが、目抜き通りを行き交う少女たちが彼女に視線を向ける様子はない。派手な格好でいながらにして完全に気配を断っている。この少女にはそれができた。当然のスキルとして持っていた。諜報活動にも携わる親衛隊を志望したのは、何も絆・ザ・テキサスにひと目惚れしたからというだけではない――コアントロー・ワンダーという適材の、そこが適所であるはずだった。しかし、彼女は特攻隊遊撃班に振り分けられた。それには意味があるはずで、しかし小峰ファルコーニ遊我はどれほど問い詰められてもにやにや笑ってのらりくらりと躱すのだった。

 何十回と画面が点滅する。店先に立ちサーベルを振るってハンバーガーを刺し貫く絆をコアントローは盗撮し続けている。それは役得というものであった。何も、自らの欲望によって彼女は気配を殺し木に登ったのではない。全てとある作戦に伴う指示によるものだった。

 カメラアプリの画面が不意に切り替わる。着信。着信音やバイブレータを設定しないことなど隠密たる彼女にとっては当然のことだ。そのまま、スマートフォンを耳に当てた。

『ロー、アタシだ。マハラジャに動きはねえか?』

 誰かに吹き込まれたボイスを基にした合成音声――栞・エボシラインだった。AIであるはずの彼女が、しかし――あるいはそれ故にか、前置きもなく切り出した。

 コアントローはスマートフォンのマイク部に数取り器を近付け、符号を打つ。

「・- --・-・ -- ・・- ・-・ --・-・ ・-・・ ・-・-・ --・-・ ---・ ・--・ ---- ・・-」

『「異常無し、監視続行」か。……なあ、アタシのセンサーの感度でギリだぜ。電話越しだと尚更聞き取りにくくてしょうがねえよ、それやめろ』

 刺々した声音すら、機械は構成してみせて。

 彼女たち『魔女離帝』の大いなるマハラジャ・楽土ラクシュミは、相変わらず絆の屋台の奥の椅子に腰掛けてゆったりと葉巻を吸っていた。

『まあいい。こっちはようやくお出ましだぜ。予定通り海の方へ誘導する。万が一にも接触がねえようにしっかり見とけよ。……もしマハラジャがどっか行こうとしたら尾行して、校門の方へ向かうようなら身体張ってでも食い止めろ』

「・-・-- -・-・・ -・-・- ---・- ・・-- -・ ・-・-・ ・-・ -・・・」

『テキサスはミスターコンまで屋台だろ。とにかく最優先はマハラジャだ、もしマハラジャがひとりで移動したらテメエもテキサスから離れていい。何かあったらアタシに連絡しろ。アタシは別命も受けてっからこの後は持ち場離れんだけどよ、サポートが要るならすぐ呼べや。最悪、祭りの間なら出し物に紛れて飛行アタッチメントも使えるしな』

「--・ -- ・・- ・-・・ ・-」

 電話が切られる。実に合理的な指示だった――発生し得る事態をパターンに分類し、それぞれの場合に何をすべきかを理解させる。彼女という装置自体がきっとそういうプロセスで動いているからだろう。それを、コアントローは羨ましく思った。

 スマートフォンのカメラ越しに、絆・ザ・テキサスを見つめる。色鮮やかなグラデーションの髪が、不意のズームに耐えかねてぼやける。いつだってこうして陰から見ているのだから、彼女にとって楽土ラクシュミという女があまりに大いなるものであることなど、コアントローが知らぬはずもない。

 それでも、もしコアントロー・ワンダーの痛み続ける頭が栞のようであったなら、直截に想いを伝えられたのだろうか。影を踏んで、恋する気配を包み隠さず、もっと綺麗な指先で彼女の細い肩に触れて。

 たとえかなわぬものだとしても、大切にしたい瞬間には、きっと自分の口で。



 ビニール袋の内側が、呼気で白く曇っている。寝不足の明け方のように瞼がつんとして、熟れたバナナの甘さと粉薬を思い出す苦さが鼻腔の奥で混ざり合う。曇天の下、視界に被さる灰色の前髪が虹色に煌めいて見える。

 杏寿は袋を取り落とした。からん、と塗装を剥がした空き缶がその中で転がっていた。旧校舎屋上の貯水タンクの陰で、伸びるパイプに腰を下ろし、腕も脚もだらりと投げ出して彼女は空を見る。曇っているはずの冬空では緑の太陽が南中し幾重にも虹がかかっていた。身体が軽く、タンクの梯子を登って頂上を蹴ればそのままふわふわと浮かび上がっていける気がした。

 確かに、吸い込んだ有機溶剤は杏寿の脳に刹那的な悦楽を連れてくる。

 だが――意識の霞み消えるその寸前に思い出すのは、いつもあの春の日だ。

『……テメー、この辺の中学じゃねェだろ? 俺ァ「ダスティミラー」の星野杏寿……だったんだぜ』

『そう、確かに僕はきみを知らない。でも――あたしが、きみと友達に……そんなような何かになりたいんだ』

 身も心も穢れきり、砕けゆくことを自覚しながら鬼百合女学院へ流れ着いた杏寿の、濁った視界で――「彼女」は驚くほどに無垢なまま手を伸ばしていた。

 その瞬間は手に取るように思い出せる。階段の踊り場、誰かに割られた窓ガラスから散り残った桜が見えて。誰かが単車のエンジンをふかす音が遠くファンファーレのように飛び込んで。

 瓶の底に沈んで揺らぐミニチュアのようだった杏寿の季節が鮮烈に塗り替わる、あんな体験なんて――どれだけ身体を毀しても、二度とできそうになかった。

 だから今日も、トリップはほんの一瞬だった。雲のぎっしり詰まったつまらない空とは違う、心地良いほど澄み切った純白のセーターがちらつけば、杏寿の魂はすぐに遊離をやめる。

 彼女の傍で、上手に深く吸い込めるわけもないのだったし。

「硯屋はやっぱり無理そうだって。代わりに『酔狂隊』の転校生……謝花さん。彼女が、ステージでうちの宣伝をしてくれるらしいよ」

 スマートフォンで話していた相手は、ヘルミ・ランタライネンだろうか。塗依はそれをコートの内ポケットに仕舞って、うっすらと力なく微笑んだ。硯屋銀子がダウンしたとの連絡は既に受けていた。……体調のことはどうにもならないし、『繚乱』としては善意に頼っている立場である。ホルモンバランスと肉体の関係について同じように悩みを抱えている塗依としても、「お大事に」の他に告げられる言葉などなかった。

 それでいいのだ。そもそも、全ては『繚乱』だけの問題なのだから。

 かたちあるものはいつか滅びる。家庭科室に運び込まれた黒い革張りのソファも、ブラックライトに縁取られる冷たくすべすべしたテーブルも、シャンデリアの煌めきを反射する美しいボトルの山脈も、何もかもどこかへ消えてしまっても――塗依たちが『繚乱』であったことは、先輩たちの想いを受け継いで誇り高く少女たちの華であり続けたという事実は、永遠に喪われないのだから。

 それならそれで仕方のないことだと、夢雨塗依は思っていた。思おうと、していた。

 強くも格好良くもなれない自分なんかに率いられてしまったのが、何よりの不幸だったかもしれないけれど――せめて最後の時まで、『繚乱』が誰もの幸福に満ちているようにと。

「……ん……? ああ……」

 杏寿は顎まで引き下げていた黒マスクを戻し、口元を隠す。コンクリートの上にはビニール袋に入った缶が転がったまま。屋上はふたりきりの世界だった。日頃は容貌を売り物にしているふたりが、顔にガーゼや絆創膏をたっぷり貼りつけて、静かなままの冬の日にいた。謹慎処分を受けた不良のように、乱痴気騒ぎの少女たちをフェンス越しに見下ろしたりして。

 そう、今日はオープンキャンパス。『繚乱』の面々が初々しい中学生たちを魅了するはずだった日。惨めな手負いの姿を晒しては宣伝も逆効果だからと、朝からふたりは隠れるようにここでゆったりと時間を垂れ流していた。家に籠ったままでもよかったはずだが、どうにもそんな気にはなれずにいたところ早朝の校門前でふたり顔を合わせ、苦笑し合った。

 ただジャケットを羽織るのではあまりに寒すぎて。今日の塗依は、セーターの上に丈の長い薄桃色のチェスターコートを着ていた。その姿は、春を心待ちにしながら少女から大人へ変わっていく長い影のようで――確かに、『繚乱』を閉めている今日、彼女はホストでいる必要もないのだけれど。

 杏寿ひとりが柄シャツに墨色のスーツで、だらりと伸ばした腕にも脚にも力を入れないまま、傍らに来た塗依の顔をぼんやりと見上げていた。茫洋として荒野が如き銀河の星ひとつ、ひかる、ひかる不定形のように。

「……『懐炉振り足りず学習塾煌々』」

 句を詠む。唇から零れ落ちるに任せて。それは、星野杏寿にとっては夢日記のようなものだった。シンナーを吸い、狂った蜃気楼の溶けゆく瀬戸際でここではないどこかに想いを馳せながら、しかしそれは確かに杏寿の心を映した鏡であるのだ。陽のすっかり落ちた冷たい風の街で、誰かが必死に頑張っている灯りを見上げながら、自分はどれだけつまらない悩みを抱いていることか――今日であれば、そんな。

 ――いつか、もし俺が意外と長生きしたら。

 ――くだらねェことばっか考えてたって思い出すんだろーなァ……

「きっひひ」

 それが妙に可笑しくて、星野杏寿は唇の端を吊り上げる。黒いマスクの内側で。誰にも見せることなく。紫の布でつくられた髪ゴムの人形が、首を括りながら揺れている。

 美しいまま散ることは、ひとつの憧れだったけれど。

 もう、とっくに醜いか――

「杏寿。どうかした?」

 くっきりとした二重瞼が二度続けて瞬きをした。心配そうに。真ん中分けの長い前髪、今は引き結んでおらず、眉間に寄った浅い皺がよく見える。

 腕を組んで、夢雨塗依は立っている。『繚乱』の頭。誰が何と言おうと、本人さえ辟易しようと、塗依こそが『繚乱』なのだ。

 見えない涙をこそ拭う王子様の性なのか、いつでも自嘲するように笑ってみせる杏寿の心からの笑顔とそうでないものとを彼女はすぐに見分けてしまう。故に少女たちの花園の長なのであって、故に星野杏寿は彼女と共に往くことを決めたのだ。

 敵わねえな、と。

「……きひ。つまんねえ話だァな――」

 頭を、掻いて。『繚乱』の中では長めの髪、乱して。

 片膝を立て、そこに肘を置き、フェンスの向こうを見遣る。グラウンドには特設ステージ、その外縁に立ち並ぶ屋台。今日ばかりは争いもせず、ぞろぞろと列を成しては崩して行き交う不良少女たち。ずっと向こうに湘南の海がある。十七歳の少女たちには広すぎる世界。

「俺らなんざァ居なくったって、なァんか普通に回ってやがんな……ってよ」

 眼下の鬼百合女学院は、冬めく日の最中にあっても賑やかだ。屋上からではひとつひとつの表情まで窺うことはできないけれど、笑顔の占める割合は決して少なくないだろう。日頃の殺伐とした鬼百合と比べれば尚のこと。

 その光景が誰かの不断の努力によって現出していることを想像できないほど杏寿は子供ではない。楽土ラクシュミがどれだけの金を動かしていることか――自腹を切って学校法人としての鬼百合の経営を担っているというだけに留まらず、恐らくは彼女が政治家や警察やマスコミを抱き込むことでこの学校の聖域性は保たれているのだろう。そして、鬼百合に集った不良少女たちがその土地を愛しているが故、今日は敷かれた喧嘩御法度の掟を渋々であれ守っている。それは貴いことで、決して、当たり前の光景とは思わない。

 けれど――オープンキャンパスの華と持て囃された『繚乱』のメンバーを欠いても、ハレの行進が損なわれることはなかったということだ。乱痴気騒ぎも、ひとときの凪も、あるいは人目につかない校舎の陰で闘争が起きていたとしても、全ては『繚乱』を弾き出したままで上手く回り、オープンキャンパスは成功裏に終わるのだろう。そういうことになるのだろう。

 寂しいわけでも、妬ましいわけでもない。それでも――

 なんだか小雨続きの少女が、あまりに不憫でならなくて。

 星野杏寿は、そんなことを口にした。

「……そう、だね」

 ただ、時間だけがあった。あるいは、それもなかったのかもしれない。喉の痛みが残ったままの杏寿にとっては時間の感覚さえ定かでなかった。そんなものは彼女には要らなかった。体内で時を刻む拍はあまりに無機質で、磨り減ってゆく自分と向き合うことなど彼女は好まなかった。星野杏寿は昔からそういう少女で、何もかもから背けようとした目の奥の網膜に夢雨塗依という弱々しいひかりが焼き付いたのだった。それだけのことだった。

 塗依は、ただリップだけでささやかに彩った唇を、困ったように緩めて。

 それはきっと、不器用すぎる彼女にとっての、おどけたふりであったのだろう。

 こんなひと言を、わざとらしいほど唐突に、親友へと投げかけてみせた。

「杏寿、お……踊らない?」

 万が一に備えてコートのポケットには香水のようなブランデーの小瓶を忍ばせているが、だからといって王子様には委ねてしまわず。「あたし」のままで、夢雨塗依は顎に片手を当てた。結び合わない前髪の細い房、凍えるような風で白い額を行き来して、長い睫毛を弄んで。

 微笑みながら胸の奥で見守ってくれている「僕」ほど格好良くは出来なくとも、お姫様を救う王子様のように。

「はァ?」

「ほら、フォークダンスとか? ねえ、あたしたちは夜の不良少女だから……お祭り休んじゃう代わりに、今だけ、こっそり勝手に夜を先取りしてもいいんじゃないかな」

 それでも精一杯の煌めく夜を、そこに投影しようとして、潤む瞳のふたつがあった。

 もう一方で冷えた己の頬に触れて些細な不安をごまかしながら、言った塗依の小さく伸ばした指先――杏寿に握られることもなく、ただ乾いた空気だけを撫で続けた。

 ――みんなで輪になって、ってか? 笑えらァ。

 ――テメーが俺なんぞと手ェ繋いでどうするってんだ……

 無限に回り続けるよう祈っていたミラーボールが、いつか傾いて落ちて割れて。その後にもしも、ふたりきりの夜が許されるなら。

 そんな夜、星野杏寿は――涙する彼女の手を取ってぎこちなく踊るよりは、窓の下でセレナーデを奏でたいと願うはずだ。

 宵闇のひかりであった彼女が、せめて安らかな夢の中で、流星を追い越し煌めく水となって望むままの地へ巡れるよう。

「阿呆か、テメーはよ……」

 杏寿はかぶりを振る。苦笑交じりに。そうしなければ泣いてしまうかもしれないとぼんやり思った。そんなことは久し振りだった。

 見上げれば代わり映えのしない一面の灰色で、しかし折しも傷口のような雲の裂け目が生まれると、そこから縦に小さく伸びた色の無い冬の太陽光が漏れ出した。どうやら昼時であるらしい。夜に咲き夜に散る華たちにとっては依然としてアウェーのまま、見渡す全てが静謐としていた。貯水タンクに背中を押し付けて杏寿は片目を閉じ、手のひらを額に翳す。

 絶好のタイミングに安堵した。雫がひとつばかり浮かんだとしても、今なら輝きのせいにできたから。

「眩しくって、まともに立ってられやしねェや」

 自らの永遠を願ったことなど一度もなかった。

 ただ、もしもそうすることで夢雨塗依と『繚乱』の名を永遠にできるというのなら、きっと次の瞬間にでも星野杏寿はここから飛び降りただろう。

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