第三話『第四使徒 硯屋銀子』10

「あー、もー、沙羅のばかーっ! 間に合わなかったらどうするのさー!」

 デデデデデと小刻みに振動する原付の上で、乙丸外連は水恭寺沙羅の腰に細い腕を回している。自らの甲を握る手のひらの皮膚はそこに硬く感じられる。地に手を付けて喧嘩をする彼女だから、それは不良少女としての勲章でもあった。沙羅と背中合わせで世の中の理不尽な不自由さに抗ってきたことの勲章。

 沙羅が駆る――と表現するにはスピードがあまりに庶民的なその黒い原付は、水恭寺の住職である父のものであった。キーは不用心にも本堂の玄関に置いてある。両親との関係が決定的に断絶したが故にひとりで離れに暮らす沙羅が、それを持ち出す際にわざわざ声など掛けるわけがなかった。

 いつものように沙羅の部屋に泊まった外連は、いつものように台所を借りて朝食の支度をし、いつものように沙羅が起きてくるのを待っていたのだけれど――いつも以上に、起きてこなかった。仕方なく、一緒に待ってくれていた綺羅を学校へ送り出し、沙羅の布団を引き剥がしにかかったのだ。それがもう、何時間前のことになるだろう。

 確かに、確かに昨夜遅くまで海外ドラマを観ていたけれど。何なら沙羅と一緒に観たくてBDを借りてきたのも、ポテトチップスをつまみに熱燗の猪口を傾ける沙羅の脚の間に潜り込んで冷える身体を寄り添わせたのも外連だったから、その責任の一端がないとは言わないけれど。

 それにしても、それにしても水恭寺沙羅は頑強に抵抗した。冬の朝へ引き摺り出されてなるものかと、喧嘩であれば封じる左手まで動員して布団を身体に巻き付けた。無意識のまま。外連も外連で本気になり、足の裏をぺたりと卓袱台に乗せて膝を曲げ、全体重をかけて沙羅の長身を畳に転がそうとした。

 その攻防の結果が、この時間である。端的に言って昼前だった――楽土ラクシュミの仕切りだからとオープンキャンパスをボイコットするつもりなどは、毛頭なかったのに。

 海風は冷たく、パーマの茶髪を靡かせる。唇をへの字にして俯くように、外連はヘルメットの額を沙羅の背中にぐりと軽く押し付ける。自らもライダーである外連は事故の恐ろしさをよく知っていて、いかに不良少女であってもメットを装着せずにバイクを走らせることは決してなかったが、こうしてたまに原付を転がす時の沙羅は髪形の崩れを嫌い、どれだけきつく言われても笑い返しながら、腰に手を当てる外連の小さな頭にひとつきりしかないメットをかぶせてしまうのだ。

 ――沙羅はいつもそう。何でもそう。

 ――うちがどれだけ言ったって、聞きやしないんだもん。

「ふわぁ……何だい、あたいなんか置いて先に行きゃあよかったじゃないか。ダンスの大会あるんだろ?」

 ――ほら。

 ――こういう意地悪言う。

 ぷく、と外連は頬の片側を膨らませる。ヘルメットの中で。

 こんな時、養老案ならちくりと気の利いた返し方をするのだろうけれど。外連はそんな風に器用にはできない――沙羅のからだに触れながら、伝えたいこと。伝わっていてほしいこと。薄い胸に溢れ返ってしまうから。

「……だって。屋台とか、ふたりで回りたいじゃんか」

 逆十字のピアス、頬に触れると氷の如く冷たくて。細い腕が強く、さらに強く沙羅のからだを締め付ける。

 外気に晒される半纏を通して体温が伝わることはなく、しかしそうすることで外連は沙羅を確かめた。音を掻っ切ってと叙述するには遅すぎる原付は、しかし冬の向かい風を潜り抜ける中でふたつの身体をひとつの塊にしてくれた。

 寄せては返す波と平行に湾岸道を走る。結局、ついに布団を這い出た沙羅はそのままシャワーを浴びて化粧を始め、外連は母屋の台所で頬を膨らませながら焼き魚と玉子焼きを冷蔵庫に仕舞ってきた。ぐちぐちと言いたい文句はいくらでもあったけれど、オープンキャンパスでやりたかったことをいくつ投げ捨ててでも沙羅と一緒に行きたいと思ってしまった時点で、乙丸外連という少女に勝ちの目などひとつもありはしないのだ。

「……へえ」

「何! ムカつく!」

 ぷりぷりと怒りながら、背の高い幼馴染のしゃんとした背中に頭突きをした。沙羅はくつくつと声を漏らす。進路を向いたままの顔を後ろから窺うことはできないけれど、切れ長の目を細めているはずだ。彼女はいつもそうやって笑うから。

 支配的な鈍色の雲は平たく一面として天を塞いでいるわけではない。それは石英の原鉱に似て濁り、ひび割れ、凹凸の遠近感を失わせながら視界の端を埋める。だが部分部分に、その向こうに太陽が隠れていることを想起させるような輝ける純白もまた見えるのだ。

 じきに冬は終わる。新しい季節が来る。代車のエストレヤは返してしまって、沙羅が似合うと言ってくれた緑色の愛車、限界までローダウンしたニンジャが戻ってくる。鬼百合で過ごす最後の一年が始まれば、案もそのうち帰国するはずだ。

 そしてどんな未来でも、水恭寺沙羅という女は必ずそこにいる。救世主になんてなれないまま、彼女はきっと未来の中に生きている。悲しいことがたくさんあって、きっとこれからも待ち受けているこんな世界で、それでも力一杯に抗いながら。そして、ただ望みさえすれば、そのすぐ傍らに外連もい続けることができる。そう、今は信じられた。謝花百合子とのタイマンで背中を押してもらったから。

 乙丸外連という少女にとって、何かが変わっていくことを考えながらこんなに胸の高鳴る季節の境目は初めてだった。

「……外連」

「どったのー?」

「いや、ね……どうでもいいんだけどさ」

「なんだよう。気になるじゃんか」

 ハンドルから片手を離すと、沙羅は風に翻る髪を耳に掻き上げる。

 それは本当に些細な変化で、だからこそ、気付けるとしたらきっと水恭寺沙羅だけなのだ。

「あんた、腕の力、強くなったんじゃないかい?」

 虹色に昼を反射するシールドの下で。

 見開いた大きな瞳は、プラネタリウムのようだった。

 緑のセーラー服を纏う乙丸外連は、もはやピーターパンではなかったから。

「……そっか」

 頬が帯びる微熱も、彼女の背中へ伝わらないだろうから少し安心して。

 しかし内に秘めた高鳴りに気付かれてしまいたいという衝動にも駆られつつ、抑えられないにやつきを隠して上半身を強く押し付ける。外連をやわらかく受け止めてくれる半纏の背中、肩甲骨の下辺りに。ちょうどそこにタトゥーの大天使の翼が潜んでいることを筆頭使徒は知っている。

「そうかも」



 スカジャンのポケットに両手を突っ込んで全速力で駆け、喧騒の裏手に回る。再び。光には影が付き物であって、どこもかしこも篝火に照らされる祝祭の日にはかき消されがちであったとしても、ただ目に見えないというだけで影は確かに在り続けるのだった。

 恬は暗い波の下を泳ぎ続ける緋色の鮫だった。そう思って、今日まで生きてきた。酸素の薄い水槽にも似た、誰かの手のひらの中に広がるこの学校で。

 そこに痛打を与えようという、たったひとりの生徒会長。完全に境界の向こう側へ行ってしまった、誰にも伝わらない物語の主役。今、まさに爆ぜて、己の想念の種を鬼百合中へ播き散らそうとしている果実。

 糺四季奈の姿に、不良少女は何を思ったか。隣のユ・ミンスを目当てにやって来たアニメファンたちの長蛇の列が自分の屋台の前にすっかり溢れ返って大混乱が起きていたことにさえ、上の空でいた恬はろくに気付いていなかったほど――正直、あてられてはいた。その存在感に。

 桜森恬の知り得ないどこかの時点において、彼女は水恭寺沙羅か楽土ラクシュミ、もしかするとその両者に敗残したのだろう。彼女たちの学年が「水土世代」と称えられるのはふたりが覇を競っているからこそであって、糺四季奈はそんな構図への介入者として高く目されているわけではないらしい。

 だが、果たして歴史など恬にとっては些事であって。……事実、それでも四季奈を当代鬼百合最強の五本槍に数える向きは主流であったのだが、それさえどうでもよいのであって。

 恬の手にべたつくマスカットを握らせたあの瞬間、彼女は確かに何かを帯びていた。展開の扇動者にして先導者たる資格。恬の細い目を見開かせた、燃え熾る何か。

 いずれにしても、恬は調理台に置いていたキッチンタイマー代わりのデジタル時計を幾度も幾度も凝視し。

 待ち合わせの時刻が迫れば、てんてこ舞いの覇龍架に店番を押し付け、しびれを切らしたように駆け出していたのだった。

 西方の虎牙たる歯の隙間から、白い息を弾ませて。

 飲食物を手に憩っていた少女たちを何事かと振り返らせながらピロティを突っ切り、つむじ風と化して非常階段の脇に乾いた砂埃を舞い上げ残す。退屈が吹き飛ぶ気配に期待して高鳴る恬の鼓動を、もはや誰も鎮められなかった。

 疾走に耐えかねてセーラー服のスカートが派手に翻るが、その下にジャージを穿いている以上、問題など何もありはしなかった。いつも真紅の前髪をカチューシャで持ち上げて露出させた額をチャームポイントと言って憚らない彼女ではあるが、その視界は普段の二割増しで明るいような気がしていた。

 角を曲がれば――いた。いてくれた。

 ローファーがアスファルトで立てた摩擦音を聞いて、ドリル状のツインテールをふわふわと揺らしながら、吸いさしのトロピカル・アイス・メンソールを灰皿に押し付ける。指、白雪の色をして。声のひとつも発さぬ代わりに唇を小さく開いて見せ、頬に添わせた手をひらりと振る。長い睫毛、瞬いて。

「支度は済んだのであるな? 桜森」

 オーバーオールの肩紐をぴんと弾いて掛け直し、尊大に腕を組む。微笑みは揺蕩う紫煙の中。

 決して大柄でない糺四季奈は、しかし美しいままで覇気に満ちていた。

 囲いも何もない、ただ灰皿が立つだけの喫煙所。それでもそこは、彼女の領土として不可視の線に区切られているようでさえあった。シキナリア。彼女の統治すると語る、幻の国。そこは果たして、恬の楽園でもあるのだろうか。

「貴様は来ると思っていたのである。うむうむ、いかにも。喧嘩に取り憑かれた者であればこそ、許せぬのであるよなあ?」

 神の子でも帝王でもなく、民の中の第一人者たる大統領<プレジデンテ>にして生徒会長<プレジデンテ>。誰にも理解されず、誰をも理解せず。そう在るための朋輩として糺四季奈が桜森恬を選定したのは、ある意味では必然であったのか。

 誰もが喧嘩の手を止める今日この日に、鬼百合の頂点<テッペン>簒奪に乗り出す第三世界が、産声を上げるのであろうか。否、否、そうなるに決まっていた。ふたりの勢力が掲げる号さえ、糺四季奈は既に考えてある。『ブロッサムセレモニー』、その名の意味するところは桜の実の式典。楽土ラクシュミが居丈高に取り仕切るこの弛緩し果てたイベントの日に着火してやるには丁度良い、本物の観兵式と洒落込もうではないか。

 四季奈の頭の中で、万色に日々は拡張してゆく。

 にんまりと笑顔を浮かべ、手を差し出す。共に征くに値する者へ。

「なあ、ジブン――」

「うむ?」

 恬は、腕をそっと伸ばした。四季奈の陶器人形のような細い手とすれ違って、スカジャンの袖口から顔を出す指先が、触れる。くるくると渦まいて静止した四季奈の髪に。

 恋人にそうするように、指先に絡みつけて。擦り合わせて、撫でて。ふたりを隔てるもの、なにもなくして。

 甘く、燃える少女は囁いた。

「僕の初恋の相手、知っとる?」

「……は」

 くっきりとした二重瞼が、ぱちり、と瞬きすれば。

 曇天が、あっという間に傾いでいた。

 螺旋の髪が、強く引かれ――見開いた四季奈の目に、食い縛られた鮫の歯が斜めに映る。側頭に痛みを覚えたのはその後だった。過剰なスプレーにも耐えてくれた毛根が、純然たる暴力の前にはぷつぷつと悲鳴を上げる。

 ドスの利いた低い声が、耳朶に滑り込んできた。

「勝手に何や知った気ンなっとんちゃうぞボケ」

「――!」

 声を上げる時間さえなく。何が起きたのかもわからぬままに。

 四季奈の美しい顔面が、銀の灰皿の頂――自らの捨てた煙草の散らばる網目へ、叩きつけられた。

 ばかん、とけたたましい音が轟いたのは一瞬の後だったように感じた。眼球を刺激から守るため反射として溢れた涙で滲む視界に、舞い上がった灰と吸殻の残骸。

 ふたりの間の足下でフルーツを満載していたバスケットを、恬のローファーの爪先が蹴飛ばす。林檎や洋梨は方々へ転がり散る。潰れて果汁を漏らすものも。

「か、」

「ククッ」

 ぐい、と今度は前髪が引かれ、頭が持ち上げられる。重心を取り戻すためスタンド灰皿の側面に触れようと泳いだ腕の真ん中、ちょうど肘の辺りを、跳ね上げられたジャージの膝が可動しない側に押し曲げた。

「うっ、あ」

「ちなみにな」

 ぱっ、と桜森恬は髪を掴んだ手を離す。バランスを崩した四季奈の鳩尾、スカジャンのサテンの尾を引いて、昇り龍のアッパーが突き刺さる。

 ビビッド・レッドが踊る。くの字に身体を折った四季奈の顎に、恬は歯を食い縛りながら右の拳を一発、二発。デニム生地を叩いた拳の関節は擦過に赤く腫れていて、しかし痛みなど遥か遠く、そのまま美少女の顔へ捻じ込んでやる。

「JFK時代のジェフや」

 最後に、ジャージに包まれた細い脚を振り上げてローファーの靴裏を胸元へ。横蹴りの要領でありつつ膝を屈伸させ、刹那の溜めで勢い付けながら突き飛ばすように蹴る。

 ドリルの黒髪は歪んで、弾んで、四季奈は漏らす息もなくクリーム色した校舎の外壁へ背中を打ちつける。

「さくらっ、もり……!?」

「ま、っちゅーわけや――恋バナもしたことあらへん女と誰が組む思うとんねん。勝手に同類みたいなツラすなやスッタコ」

 衝撃で灰皿から零れ落ちた吸殻を足先で蹴り除け蹴り除け、恬は細い首に手を遣ってこきと鳴らす。

 全開のジッパーの間には刺繍の入った灰色のセーラー服の襟とスカーフ。スカジャンの袖を捲ると、程良く筋肉のついた腕が姿を見せた。大きなライフルのタトゥー、両腕に一挺ずつ。右腕の銃身には蛇が、左腕の銃身には茨が、それぞれ絡みついて。旧約と新約、それぞれの罪のモティーフ。

 重心を落としやや背中を丸めながら、恬は冷えた自らの頬を両手でぱしんと叩く。

 ――さあ、やってもうたで……

 ――『魔女離帝』の楽土が敷きよったルール!

 ――最初に破ったんはこの僕や!

 ぞくぞくっ、と背筋が満腔の快感に反るのを感じた。

 ずっと、恋焦がれていたのだ。代わり映えしない景色を爆破してくれるような喧嘩に。

 糺四季奈がマスカットを茎ごと齧った時、桜森恬はまるでひと目惚れのように直感した。真正の狂気の中にある志は無制限に高く、それを毛の先ほども疑わない彼女とのタイマンは――命を躍動させてくれるかもしれないと。だから、今か今かと待ち侘びた。

 毛細血管の全てが微熱を帯びていくようで、高く鳴く北風も心地良い。

 長く細く、白い息をした。

 この攻撃は、第八使徒・桜森恬が本物になるためのイニシエーションだった。冬の世界の全てが、彼女にしか聴こえない音で賛美している気がした。

「糺、ジブン言うとったな。楽土の喧嘩御法度が気に食わへんねんやろ? ほな――」

 片膝立てて尻餅をついた四季奈のすぐ脇にあったプラスチックの雨樋に、恬は蹴り込む形で足を押しつける。大きな音を立てて、美しい愚者の身体に壁際から抜け出ることを許さないために。

 曇り空でなければ、逆光で恬の顔は黒く塗り潰されていただろうけれど――今は、細い目も好戦的に笑む口元も四季奈からよく見える。

「勝手に従わんかったらええだけやん。それが僕ら流やんか」

 ――立ちいや、糺。

 ――もうちょい楽しませてえな?

「……は」

 よろめきながら。

 掛けた襷を、握り――四季奈は立つ。すらりとした脚はいかにもひ弱な美少女でしかないのに、それでも、背後の壁に手のひらを添えながら立ち上がる。

「何故であるか、桜森。余と貴様は――愛してるの響きだけで強くなれる、そんな隣同士のさくらんぼのはずであろうが」

「きっしょいわ! 黙れボケダラぁ、殺すでェ!?」

 がつん、と。

 振り抜かれた恬の拳が、視線を上げようとした四季奈の顔面を捉える。そのまま、同じ軌道でもう一撃。再度よろめいた四季奈は、顔の目より下をほっそりとして肌きめの細やかな手で覆う。指の隙間から、ぼた、ぼたと鼻血が滴り落ちて校舎に沿った排水溝を汚す。

 それでも。

 深い二重瞼は瞬きを繰り返すだけで、押し黙ったまま、決して恬から視線を逸らそうとしない。その黒々とした瞳を何に喩えられるだろう。日食のように無垢な光輝を裏に孕む尊大な黒。

 ――何やねん。

 ――何やねん、その目ェは……?

「往生せえや、ええ!? カワイ子ちゃんが……」

 至近距離での大声は威圧よりむしろ違和感を捨て去る自身の鼓舞。沸騰するように躍る血流の中で、牙を剥いた恬は――地を這って唸りながら低く迫る白い腕に気付かなかった。

「やれやれ……革命前夜なのであるぞ? シキナリアの旗印となる余の良い顔を、貴様なあ」

 横薙ぎに払われた銃のタトゥーの腕を掻い潜り、大股の踏み込みで肉薄していた四季奈のアッパーが、溜息と共に恬の顎を鋭く突き上げる。

「ぢっ」

 あわや舌を噛むところだった――尖らせた中指の関節から、骨に響く衝撃。鮫に準えられる歯は砕けそうなほどの勢いでがちりと噛み合わされ、細い目を見開く。痩せた身体の回転を認識する。だが遅い。あまりに、遅すぎる。螺旋描く黒髪、目の端で跳ねる。もはやそれは発条に見えた。糺四季奈の前身の筋肉がまさに今そう変転したのと同じく。

 上段蹴りをこめかみでしたたかに受けると、瞬間、意識が飛びそうになった。衝撃で眼球が前へ零れ落ちるのではないかとも。恬は追撃に備えながら、咄嗟に後ろへ跳んだ。重心を落とすと左側にバランスを崩し、地に指先をついて支えながら、脚を下ろした四季奈を見る。呼吸、整える。

「しかしまあ、ふむ……互いの実力を己が目で測っておこうというのも、道理と言えば道理であるな」

 きりりと描かれた眉を微かに歪め、腰に手を当てる。垂れ流したままの鼻血が唇にまで到達していても、ぞっとするほど美しい。「本日の主役」と印字された安っぽい襷が、しかし力強くはためいている。存在そのものが、この鬼百合女学院において「無所属」であることの意味だった。

 血で歯さえ赤黒く染めながら微笑む彼女の姿からは、狂気の色香が立っていた。事ここに及んでもなお、糺四季奈は桜森恬との共闘を当然の未来として視ている。強がりでも何でもなく、心底から平然と――彼女は恬に対して一切の敵意を持たないまま殴られ、殴ったのだ。

 顔を庇った際に覗いた四季奈の瞳に恬が動物的直感で怯んだ理由は、今なら推測できた。恐らく、恬の精神が掴んでしまったのは、燦然たる暗がり。歪曲し捻れ果てた一直線。真冬の果実。それが糺四季奈という少女、齟齬に満ちた太陽。

 ――ホンマか、ジブン……

 ――こないな意味で「話通じひん奴」居るんかい!

 全身これ異物感――目の前の上級生は、誰にも与しない美しき狼。恬は『酔狂隊』に籍こそ置いているものの、理解者を持たないという点に関しては確かに四季奈と共通しているのかもしれなかった。しかし、恬の否定を彼女が受け容れないのと同様に、彼女の肯定を恬が受け容れることもない。突如として出現し蛇行するように狂った軌道を辿る糺四季奈という星とは、今、今ここで、衝突するだけの関係だ。上等も上等、恐怖も不安もあるわけがなかった。ただ殴ればいいのだから。ただ蹴ればいいのだから。実体としての像を持って目の前にいてくれる相手であってくれればよかった。

 恬は虎縞のカチューシャを一度外し、オールバックを作り直す。喧嘩に恋して、喧嘩に焦がれた不良少女だ。ただ自由な桜森恬でいるために、大阪から湘南へやって来た。蹴られた頭はずきずき痛むけれど出血はなく、まだまだ格闘が楽しめることを悦んだ。

 どちらかに踏まれたようで潰れたイチジクが、地面に擦り付けられて臓物のような内側を晒している。

 飛び散った果肉を蹴散らし、靴底をアスファルトに強く擦りながら、四季奈は指先を恬に向けてくいくいと招いた。

「許す。存分に許す。余の胸を貸してやるのであるぞ、桜森っ!」

 かくして楽土ラクシュミの命は破られ、オープンキャンパス当日の鬼百合女学院において、初の喧嘩が勃発する。

 記念すべきその対戦カードは――糺四季奈対桜森恬。

「あとな――余の初恋の話なのだが」

「や、全ッ然興味あらへん」

 先に地を蹴ったのは紅蓮の少女だった。

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