第三話『第四使徒 硯屋銀子』11

「ほら、先に行ってな。あたいも駐輪場にこいつ置いたら行くよ」

「ん、ありがと。……絶対来てよね! うち優勝するから!」

「はいはい」

 ぴょんと飛び降りてメットを脱ぐなり駆け出すも、すぐに振り返ってその場で足踏みした外連に、沙羅は苦笑を返しながら手をひらひらさせて追い遣る。オープンキャンパスのこの日、ツートンカラーに勝手に塗り替えられた上グラフィティ風の落書きだらけにされた重い鉄の校門は開け放たれていて、誰でも自由に出入りできるハレの風情を象徴しているようでもあった。尤も――その敷地へ足を踏み入れるのは在校生か、あるいは中学不良界で名を立てている幼き不良少女ばかりなのだったけれど。

 どいたどいたあ、と屯する少女たちを蹴散らさんばかりの勢いで駆けていくパーカーにワンショルダーポーチの小さな背中。シートの下にヘルメットを仕舞った沙羅は、寒風の中で半纏の襟を引き合わせながら少しだけ笑った。

 グラウンドのメインステージで開かれるダンスバトル大会は午後一発目の催しだと、校内スピーカーを震わせ続けるアスヤ・蓬莱・パシャのラジオが叫んでいた。嘘のように行き交い、あるいは誰かと語らいながら温かい飲み物を啜ったりする少女たちの頭上で。

 ――ラクシュミの奴。

 ――小峰が勝手に動いて『繚乱』やったこと、どう思ってんだろうね……?

 親衛隊所属のアスヤが広報を一手に担っているように、オープンキャンパスは全面的に『魔女離帝』主導で行われている祭りだ。そして、わざわざ喧嘩御法度の触書を出すほどまで、その最高責任者たる楽土ラクシュミはあらゆる不良少女を受け容れる楽園としての鬼百合女学院を象徴するようなこのイベントの成功に向けて力を入れている。そんなラクシュミが、オープンキャンパスの華となるはずだった『繚乱』の連中を除け者にするような遊我の独断専行を黙って許すとはとても思えなかった。

 そんなことを考え考え、沙羅は祭りの喧騒を遠く聞きながら原付を押し、敷地の縁をなぞるようなルートで駐輪場へ向かっていたのだったが。

『お疲れさんです。「酔狂隊」の水恭寺先輩』

 ひゅう、と冬の風が鳴く。リュックサックにパーカーの少女が、桜の木の脇に立っていた。白、冬の枯れた色の中では空から降りてきたような。深く被ったフードの奥に覗く髪は運動部の少年のようなベリーショートで、しかし確かに少女――正確を期するなら、少女型の機体。

『アタシは「魔女離帝」の一年で、栞・エボシラインって者です。お忙しいとこ悪いんですが、うちの上の人間が話あるってんで、ちょっと来てもらってもいいですかね』

 腕を組んでいた彼女は、合成の皮膚とは思えないほど艶やかで透き通るような肌色の瞼を開き、予め吹き込まれた声を発する。AIはあくまで指示を忠実に守る。それが、己の根本原理として組み込まれた模範的不良少女のアルゴリズムと矛盾を起こさぬ限り。

 細部まで精巧に作り込まれた彼女の無機的な肉体は、近寄られてもなお自然の造形物と容易には判別できない。しかし確かに生命は無く、ただ「不良少女」の概念を表す擬人像としてそこにいた。

「……へえ、ラクシュミんとこも案内ロボット使ってんのかい? 最近話題さね、色んな会社なんかで――」

『関係ないでしょう、アタシのことは。こっちも野暮用ありましてね、早くアンタを送り届けないといけないんす』

「嫌だって言ったら?」

『言わせやしないですよ――うちのマハラジャ絡みの大事な話だって。聞く耳持たれなかったらそう伝えろとのことですから』



「おおっと!?」

 この期に及んで悠長にスマートフォンを弄り始めた糺四季奈の顎を、桜森恬のフックが掠める。咄嗟に上体を反らして躱す反射神経は、さすがに鬼百合で生き抜いてきた強者のそれか。

「ククッ……何をこの流れで携帯ポチポチしとんねんワレ、ナメとんかい」

「作法のわからぬ女であるなあ……ボス戦には専用BGMが付き物であろう?」

 四季奈のスニーカーの底がアスファルトを擦る。襷をひらひらと靡かせながら後ろへ跳んで、膝の屈伸で衝撃を飲み込みながらふわりと着地した。顔の前に持ち上げた手のひらの中で、フルーツ牛乳の瓶を模したソフトケースに嵌め込まれたスマートフォンのスピーカーは音楽を奏で始める。知らないメロディーのはずだが、身体を動かしたくなる四つ打ちに乗るぴこぴこみょんみょんとしたポップな電子音が織り成すキャッチーな主旋律の組み合わせはどこか懐かしくもあるようで。音量を上げ、四季奈はオーバーオールの腹ポケットにスマートフォンを仕舞った。

「これは『トロピカルディスコ』と名付けた余のテーマでな、なんと余が自ら作曲してシンセを弾いたのである! うむうむ、いかにも神曲であるよなあ! じっくり清聴してもらいたいのも山々なのであるが」

 ぴっ、と。

 人差し指、中指、薬指。三指を立てた手、突き出して微笑む。長い睫毛、瞬かせて。鼻血の跡を恥じるでもなく。

「三周するまで貴様が降参しなかったら……特別に余の舎妹(スール)にしてやってもよいのであるぞ」

「……罰ゲームやん」

 恬は唇を舐めつつ、眼球だけを動かして背後をそっと確認する。校舎裏、学校の敷地の端であって、点在する桜の木の先はブロック塀とその上に高く伸びるフェンス。十メートル足らずの空間の中央に灰皿が立ち、先程の恬の暴挙によって吸殻がその下に散らばっている。

 桜森恬という不良少女は、決まった格闘スタイルを持っているわけではなかった。言ってみれば我流・喧嘩殺法。己の四肢に加えてその場にあるものを何でも駆使し、ただ目の前の相手を打ち伏せる。決して凶器(ドーグ)だけに頼るつもりはなくとも、掴み取れる物の少ない開けた環境では攻め手のバリエーションも限られるというものだ。

 だが、それがどうしたというのだろう?

 恬は勝つために戦うのではない。戦うために戦う少女だった。

「――っ」

 螺旋描く髪、発条として跳ねて。

 重心を落とした糺四季奈が弾丸のように踏み込んでくる。叩きつけるような靴音は震脚。掌底――に備えて恬が身を引きつつ腹の前で手首を交差させ受けの構えを取ると、生徒会長の不敵に笑う歯が見えた。

 違う。空を滑って、手のひらは恬の肩を掴む。スカジャンの肩に掌底を当て、そのまま指でしっかりと肩を掴むのだ。

 左手で腿を掬い取りながら、小柄な四季奈の体重はそれでも恬を押し倒す。タックル――上体傾いで、紅い髪が宙に踊る。取られた脚は、しっかと把握されて。ジャージ越し、太腿の裏に感じる体温が妙に気色悪い。

「ジブン、総合かいな……!」

「いかにも間違ってはおらぬが……んん、パンクラチオンと呼んでほしいものである」

 倒れ込むのは避けられないとしても。受け身さえ取れないまま恬は背中をアスファルトに打ち付けて肺が空になって、それでも――仰いだ曇天を背景に、マウントポジションは許さない。辛うじて首を起こし後頭部への衝撃を避けられたのが幸いした。絶息の中でも身体を捻り、抜け出す――振り上げた右脚を四季奈は押さえていたけれど、それでも振り払って、重心を自身の胴に乗せられることは避けた。転がり出でてジャージの膝を立てる。細く呼吸を整える。

 パンクラチオン。目潰しと噛みつきのみを禁じた古代ギリシアの荒々しい格闘技は現代の総合格闘技の中にその面影を残すばかりだが、なるほど納得する部分もある――鬼百合の不良少女は立ち技を主体に据える者が多く、上半身への打撃を想定して構えていたからというのは一因であるにしても、喧嘩に慣れているはずの恬が体格で劣る四季奈のタックル一発でフォールを奪われた。しかしレスリング専門というわけでもないと数十秒前の殴り合いで思い知っている。生徒会長・糺四季奈、ふざけた態度以上に厄介な相手であることは間違いなかった。この瞬間の時点で、獣としての桜森恬はそう嗅ぎ取っていた。

「獲らせへんでぇ……っ!」

 立ち上がるその一瞬、上半身を守るための膝に胸を押し当てるようにして前のめりで。拳は前に整えたまま、まずは拳闘士のニュートラルポジションたる直立を目指し膝を伸ばす。服がどこか破れたような音がしたものの、今はどうでもよかった。同時、立ち上がりながら前傾して飛び出した四季奈の方が早い。再び低い重心で突進してくる。両腕フリーに構えて、彼女のためのビートの中で。

「舐めッ……」

 恬は、素早く左脚を横に差し出した。しっかりと立ててもいないうちに、鋭く首を振ることで肩にかかる炎髪を払い除けながら。

「ンなや、ボケぇ!!」

 重心を開いた足へ移し、タックルをまともに受けることだけは避ける。オーバーオールを成すデニム地の感触、それから肩の骨がずしりと腹に食い込むが、押し倒されはしない。距離がゼロになると、そのまま捻じるように膝を持ち上げて腹部を突き上げる。二度、三度。恬のスカジャンの内側、セーラー服の灰色を掴む四季奈の手を振りほどくように。だが、深く刺さりはしない。肉薄してはいても、至近からの膝に威力を持たせられるほど恬はしっかりと足腰を立て直せていないから。

「貴様の突きも、蹴りも」

 四つ打ちベースの軽快な電子音。『トロピカルディスコ』――テクノかハウスかフューチャーベースか、恬はその辺りのジャンル区分に詳しくなかったが。いずれにしても糺四季奈のテーマソングが、ふたりの身体に挟まれて響き続けている。諧謔的でミニマルな音の反復は、桜森恬の奮闘を嘲笑うように。

「もう一発たりとも通さぬのである」

 歯噛みして、恬は突き飛ばすように距離を取る。そのまま拳を固めて、左のジャブから右フック。

 だが――

「余の! 絶対防御(オートガード)は! 既に公布されたのであるからなァ~~~!!」

 届かない。

 繰り出した恬の左手、右手。ばちん、と肉が肉を叩く音が鋭くして、両手に火傷のような瞬間性の痛みを覚えたのは直後。

 桜森恬は、藤宮和姫の琉球空手を知っている。自然体で構え、相手の突きを受け流す型を知っている。ひとときの恋人だった彼女に荒廃した保健室でその秘密を聞き、全てを決定的に断絶させた後には己の拳で相対したから知っている。だが、これは似て非なる防御の構え。

 絡め取り受け流す柔の守りではなく、まるで数秒先の未来を視ているかの如く鋭く手足を突き出し最短距離で弾く剛の守り。

 上体を軽く落としたままの四季奈は、リズム刻むようにスニーカーの爪先、鳴らしながら。

 ぴっと指先尖らせた両手で、親指同士を突き合わせ、Sの一字を描いていた。シキナリアのSとでも言うのだろうか。

 ――防がれた……?

 ――ちゃうちゃう、弾かれたんや!

「舐めっ……くさんなや、ボケが!」

 両腕を走る血液が、沸騰したのかと感じた。爪が手のひらに食い込んで痛むほどに強く握り込む。

 尋常ならざる反射神経――で説明のつく話なのだろうか、果たして。いずれにしても四季奈の顔面を打つはずだった拳はそっと弾かれて空を叩き、恬はまるで降伏を示すように両肩を開かされた体勢で一瞬硬直した。それはいい。胃が反転しそうなほどに恬が腹を立てたのは、その露骨な隙を作らせたはずの四季奈がガラ空きの顔面へ追撃をしてこなかったことだ。

 喧嘩において手を抜かれることを、彼女は何よりも許せなかった。桜森恬は、そういう生き物だ。

 身を翻し、スカジャンの背に金の龍を舞わせながら、怒りを乗せて真っ直ぐに蹴り込む。二度三度と、得体の知れぬ怪物をレイピアで刺し貫かんと奮える騎士が如くして水平に脚を乱れ放つ。スカート、狂ったようにはためくのに、四季奈のオーバーオールに恬の靴裏が汚れをつけることはない。

「いちびっとんちゃうで阿呆ゥ……死ねっ、コラ、糞ッダラぁ!」

 苛立ちながら鮫の歯、食い縛り。体重の掛かった蹴り、繰り返し見舞う。弾むように流れ続ける四季奈のテーマが鬱陶しくて、焦れながらそれを捻じ伏せようと筋肉に力を込めるのだ。

 確かに頭には血が上っていて、それは恬の落ち度であったが、それにしても――糺四季奈のガード性能は、明らかに常軌を逸していた。一撃たりとも通らない。拳より重い蹴りであれば両手首を交差させて固め、掌底でローファーの側面を擦るようにして的確に弾き逸らしてくる。

 弾く。弾く。弾く。四季奈の体幹部分に、もはや恬の先端が届くことはなく。十六歳の女性として平均的な体格の恬より、四季奈はさらに小柄であるはずなのに。その細腕は最小の動きで恬を迎え撃つ。リズミカルな自作のダンスミュージックに合わせて、しかしダンスよりむしろリズムゲームのように。曲が何周したのか、もう双方とも認識していなかった。ただ繰り返しの音楽は続いていて、四季奈の白い肌に流れた鼻血はすっかり乾き、しかし恬はあれから一度も有効打撃を与えられていなかった。

「ほらほらどうした桜森っ! へばるな情けない、そんなものであるか!?」

「じゃかしいわ! こん……のお!」

 軽く頭を振って長い髪を背後へ遣る恬は唾を吐いて、楽しげに口元を歪める四季奈と目を合わせない。体躯、流れる。呼吸の継ぎ目とあえてタイミングをずらして。

 蹴りかかると見せかけ、引いた長い脚を――高々と振り上げる。小さな手でのガードを許さないように。重力を従えて下方へ「落ちる」衝撃を弾き上げるのは至難の業であるはずだ。

 そう、恬は思った。故に渾身の、踵落とし。

「貴様さては余をバカ者だと思っておるのであるな?」

 一瞬の「溜め」を、狼の目は見落とさなかった。死神の鎌が如く振り下ろされた左の足先は空振り、地面を打った。それは一瞬の交差だった。思考を置き去りに、ふたりは本能だけで動いていた。重心を落とした体勢のままで四季奈は大きく横へ跳んだのだった。ボルトでアスファルトに固定された、石碑めく灰皿。その角にスニーカーのゴム底を押し付け、膝をごく僅かに曲げる。四季奈の意識が大地と平行になるその一瞬、種も仕掛けもないその銀の柱はカタパルトになっていた。

 引き絞られる全身の筋肉が弓であり矢であった。軽いからこそ、灰皿を蹴った糺四季奈の影は爆発的な速度で桜森恬に飛び掛かる。目を見開いた恬に辛うじて可能だった対処は、脚を小さく前後に開くくらいが精々だった。四季奈は肩から恬の胸元へ当たっていく。視界で躍動するカメリアピンク。黒髪の乱れる額で顎を打ち据えながら、糺四季奈は手を伸ばして二の腕を掴み、フライングタックルからそのまま押し倒す体勢に入った。襷が泳ぐ。突如として前方から圧し掛かってきた全体重を、恬の上半身は受け止めきれない。

「んな――」

 バランスを崩しながらも肩を揺すって抵抗を見せるが、四季奈は指を強固に離そうとしなかった。受け身が取れない――頭部を喉に押し付けられているから、顎を引くことすら。姿勢を完全にロックされ、そのまま、ふたりはひとつになりながら倒れ込んでいく。

 擦り合わされる腹部から音楽が聞こえる。四季奈の熱い吐息が首にかかると恬の肌は反射的に鳥肌を立てるが、細い指は倒れる寸前で恬の二の腕を解放すると首をなぞって上へ向かい、紅色の頭部を慈しむように掻き抱いていた。

「っく」

 痺れるほどの衝撃、点ではなく面に。その瞬間にはもう四季奈は腕を発条にして弾むように横へ転がり離れ、既に体勢を立て直して恬に指を突き付けていた。

「流石になあ、貴様……あんな隙を見せたら余だってやり返すのであるぞ! まったくもう!」

 背中の痛みが、単なる打撲であることを祈りながら。

 虎縞カチューシャから零れて枝垂る前髪を乱雑に掻き上げ、睨む。

 ――いやいや、何やねん。ホンマかジブン。

 ――僕の肩、固めとった手ェ離したんは……

 マウントポジションで顔面を殴打するどころか。

 恬に体重を預けて共に身体を傾けながら、四季奈の手のひらが恬の後頭部に触れていたのは。

 ――頭打たんように、っちゅーことかいな……!!

「大っ……概にせえよ、ボケェ……!!」

 桜森恬は、跳ね起きながら吼えた。

 全身の痛みを置き去りに駆動する。乾燥した素手、幾度も払い除けられて真っ赤に腫れ始めているけれど。

「だらあああっ」

 シンセサイザーは鳴り続ける。アスファルトの上、怒りに任せて削り取るように恬の振るう腕を、四季奈は顔の前で弾く、弾く。片膝立てた下半身でリズムまで取りながら。斜め上へ弾く迎撃は多少なりとも恬の体幹を揺さぶるので、その度に四季奈は少しずつ姿勢を回復していく。酸素を吐き尽くした恬が喘ぐように仰け反って手を止めた時には、目の前の彼女は既に腰に手を当て尊大に直立していた。

「もう終わりであるか桜森ぃ……余は、余はな、もっとこの幸せを噛み締めていたいのである。書いた曲……人に聞かせたのなんて初めてだし……」

 陶酔するように目を細める。狂気を司る月の女神を思わせるほどに美しい彼女がそうしていると、姿はもはや独唱の歌姫だった。

 恬が息を整えて立ち上がる暇さえも、当然の権利とばかりに許して。

「もう……モブなんかじゃない……桜森! 貴様のおかげでなっ!」

 くしゃり、と。掴んだ襷を引き上げて、誇らしげに文字を見せつける。

 毎日、我こそが主役であると謳い上げる狂気で正気な装身具。

「さあ続けるのであろう!? 余の力と技と! 良すぎる顔に惚れるがよいのである!」

 ――ああ……クッソ、ようわかったわ。

 ――僕自身意味わかれへんし、言うたら若干怖いねんけど!

 ――糺(コイツ)、僕のことホンマにめっちゃ好きやんな!?

 糺四季奈の喧嘩、その特徴は動きの中の無駄の多さ。追撃できる瞬間にそうせず、代わりに叱咤激励を投げつけてくる。ただ喧嘩フリークの恬に自分を楽しんでほしい一心で、余計に痛めつける必要など欠片もないと言わんばかり。

 それは――恬をタイマン相手として軽んじているのではなく。

 タイマン相手と見做してさえいないという、ただそれだけなのだ。

 遥か年下の子供に付き合っているかのような――圧倒的な、実力差? 違う、それは正確ではない。ただ実力差があるだけならば、恬の中に湧き上がり続けるのは闘志であるはず。四季奈の前で感じるのは、高く聳える石の壁を蹴り続けているかのような虚無感だ。

 乱打する。桜森恬は乱打する。怒りという炎も盛りを過ぎてしまったと自覚しながら、それでも折れるわけにはいかないから惰性で。揺れる、揺れる糺四季奈の螺旋の髪が。赤と黒、相剋して渦まきながら決定的には絡み合わない。ジャージの脚や銃のタトゥーは残像となって八十センチ四方を駆け巡るが、その全てを四季奈の手は妨げる。

 回帰する人工的なときめきを意識して配置された電子音は、汗を顎から滴らせる恬には耳障りでしかない。だがしかし、水面で遊ぶ陽光となって翻り踊るように恬の突きや蹴りを無力化し続ける四季奈は、そんな刹那の触れ合いをこそ恬との真なる交感であると感じているのだろう。

 桜森恬と糺四季奈は。

 表と裏の光と影に、もしかしたらなれるかもしれなかった――ただ噛み合わないだけの他人だった。

 ――何やねん。

 ――何やねん、この喧嘩。

 ――僕が欲しかったんは、こんなんとちゃうねん。

 感極まって、四季奈は目の端に涙さえ浮かべている。微熱の雫、長い睫毛が瞬くと宙に踊り跳ねて、冬の日中に煌めいている。

 どれほど藻掻いても一発のパンチさえ入れられないほど強い相手など、他にいくらでもいる。水恭寺沙羅? 楽土ラクシュミ? 彼女たちへの挑戦は、勝ち目など欠片も感じられなくとも楽しかった。恬の命を震わせた。大の字に倒れて仰いだ空の蒼さが泣けるほど心地良かったのを今でも思い出せる。

 だが、生徒会長<プレジデンテ>・糺四季奈とのこの喧嘩は、違う。彼女は、彼女の絶対防御(オートガード)とやらは確かに強力である。勝てるかと問われたら、勝てないだろう。体力を削ぎ落とされ続けた数分後、膝をつくのはきっと恬の方だろう。

 だが――まるで脳のリソースを全てそれだけに割いているかのように恬のあらゆる攻撃を弾き続ける彼女を前に、腕を、脚を振るい続けるこの時間を。

 楽しんでいるのはきっと、勝手にディスコの魔法にかかった四季奈だけだった。

 恬の毎日を、軽く吹き飛ばしてくれるような予感がしていたのに。

「……おもんないわ」



「ちょいと、どこまで連れてく気だい? とっとと戻ってツレが踊るのを見ないといけないんだけどね」

『まあ、そう焦らないでくださいよ』

 栞・エボシラインという人選は完璧だった。機械なればこそ、彼女は臆することなく当代鬼百合最強・水恭寺沙羅をどこまででも連れ回すことができる。

 国道を歩く。海に面した通りは夏であれば賑わいを見せるものだが、行く道に立ち並ぶサーフショップやダイビングショップはシャッターを下ろし、テラスの小洒落たカフェもレストランも閑古鳥である。一本でも路地に入れば潮の香りはたちまち遠ざかって、個人経営の食堂やどこかぼんやりした白灯のドラッグストアが遠慮がちに姿を見せる長閑な町になる。今日は、今日ばかりは、特に穏やかな冬の町並みだった。闊歩する不良少女たちが揃って鬼百合女学院に吸い込まれているオープンキャンパスの二月。

「こんなに歩くんならわざわざ原チャ置きに行く前に言っておくれよ」

 せめて外連に連絡のひとつも入れておきたかったが、引き摺りそうに長いスカートのポケットは生憎と空虚。ばたばたとした出掛けだったせいで、どうやら沙羅は寝ぼけたまま自分のスマートフォンを外連のワンショルダーポーチに放り込んでしまったらしい。半纏ひとつ羽織っただけの沙羅は、肩を竦めて白い息を吐きながら便所サンダルを黒い氷の如きアスファルトにぺたぺたと鳴らす。

 角を曲がる。車とさえそう頻繁にはすれ違わない住宅街。塀伝いに抜けて、抜けて、二車線の通りへ。

 横断歩道を渡る。薄手のパーカーを袖捲りして短パンからシリコンの細脚を覗かせる、カレンダー機能を失くしてしまったような機械の少女のリュックサックをぼんやり見ながら。

『……』

「寒いとかって感覚ないのかい? 余計なお世話だろうけどさ、二月にその薄着ってのは見ただけでおっかないよ。せっかくリアルに作ってもらってんだから、もうちょい細かいとこも工夫できないもんかね」

『ほら、ここですよ。この上です』

 長々と歩かされ暇を持て余した沙羅の雑談には一切耳を貸さず、その代わりに足を止める。

「ここってあんた……駐車場じゃないか」

 大きくもなければ小さくもないありふれたスーパーマーケット、その建物から僅かに離れた二階建ての駐車場。店の敷地に回り込むため、ちょうど公道からは民家に囲まれて死角となっている。スロープを指差して、栞は背負ったリュックサックからきゅるきゅると微かな音を立てながら頷いた。

『いや、間違いないですね。……それじゃあ、アタシはここで失礼します』

「はいよ、ご苦労さん。ラクシュミの奴によろしく言っときな」

『そいつは受諾しかねます。マハラジャと直で話すような立場じゃないんで』

「……ああそうかい。頭の固い女さね」

 苦笑する沙羅に浅く会釈して、栞・エボシラインは踵を返す。その動作ひとつの無駄のなさ、まさしく機械的で。今一度フードを深々と被り直し、アスファルトを蹴りつけた彼女は飛んでいく。あくまで人の歩くシルエットの高度に保って、ちょうどローラーシューズか何かで滑っている姿として見えるように、それでもやはり靴の裏に噴射するガスと火花をちらつかせながら鋼鉄の彼女は飛んでいく。次なる役目が待ち受ける鬼百合女学院へ。「ロボット」の語源を考えさせるようなスケジューリングは、まさに彼女が苦痛を覚える身でないからこそ可能なことか。

 リュックサックの背中を、見送って。白い息ひとつ吐き、パーマのかかった明るい茶色の小さなポニーテール、結い直して。

 沙羅はスカートのポケットに両手を突っ込んだまま、短いスロープを登り切る。エキスパンドメタルの床面はぎしりとサンダルのゴム底に食い込む。バスケットボールのコートを二面ぴたりと付けたくらいの面積に、車は数台。最悪の想定では、得物を手にした何十人が待ち構えている可能性まであったけれど。

 身を潜めようとするでもなく、彼女はひとり、そこにいた。

「やっぱりあんたかい」

 彼女らしくもなく、物憂げな表情で。

 雪のような肌、ダウンジャケットに包んで。黒縁眼鏡の奥の瞳、足下に投げて。

 誰のものかも定かでない青い軽乗用車のドアに、背中を預けて――巨身の少女はそこにいた。

 特攻隊長、小峰ファルコーニ遊我。『魔女離帝』の魔女こと絆・ザ・テキサスと双璧を成す、『魔女離帝』の魔人。

「……チャオ。雪でも降りそうねえ」

 肘を白いダウン越しに、冷え切った車のルーフに置いて。その大きな手を、ひらりと。

 本当に話をするだけであれば、何も鬼百合からここまで離れる必要はない――喧嘩御法度のオープンキャンパス真っ最中である、鬼百合から。

 つまりは、そういうことだった。

「こんなとこまで呼びつけんじゃないよ」

「スクーザ、スクーザ。ま、こっちもこの寒い中待ってたんだから、おあいこってことにしてよ」

 笑ってみせながら、弄ぶ。アメリカンスピリットの黒い箱。

 一本を咥えて、片手で覆いを作りながらジッポーで点火した。かちん、と蓋の金属音も寒々しく空へ。煙を細く吐く唇は真紅。実にイタリアの血がよく現れている高い鼻を軽く掻いて、何を語り始めようともしない。

 沙羅は屈伸や伸脚をして寒さに縮み上がる身体を軽くほぐし、間もなく始めざるを得なくなるであろう「運動」に備えていたが――いつまで経っても悠々と煙草を吸い続ける遊我が何をしようともしないので、首を回しながら欠伸ひとつして、尋ねる。

「小峰、一体あんた何企んでんだい」

 ぱちくりと瞬きして、遊我は唇を歪める。

「んー? べっつに、なーんにも企んでなんかないわよん」

 一七〇センチの水恭寺沙羅は、女性にしては長身である。だが、それでも遊我と対峙してはまるで大人と子供だ。二メートル近い彼女から自分がどう見えているかは、ちょうど普段の自分から外連がどう見えているかに置き換えればよい話。それはもう、笑ってしまうような体格差と言えた。

 だが――泰然としてみせる遊我に、沙羅は気圧されることなど微塵もなく詰め寄る。

「あたいを学校から引き離してる間に綺羅やうちの連中に何かしようって肚なら、あんた、生かしちゃ帰さないけどね」

 鬼百合広しといえども、個人としての制圧力では比肩する者無き巨人――そう謳われる小峰ファルコーニ遊我を前にして凄んでみせるのは、彼女が水恭寺沙羅であるが故。

 それだけだった。彼女の顔と名前は、そういう意味を帯びていた。『酔狂隊』の水恭寺沙羅。

 半纏や便所サンダルといった気の抜けるアイテムに惑わされること勿れ、より皮膚に近く在るスカートの長いセーラー服と厚手のメイクは古式ゆかしいスケバンの自己定義。使徒のひとりも連れないまま、ただ立っているだけで彼女が放つ迫力――それが、鬼百合最強の証明そのものだった。

「ガッハッハ、そりゃあナイナイ。……実際悪くない手ではあったかもしれんけど、特攻隊の連中もみーんな祭りの運営に駆り出されてっからさ。可愛い直属のガキんちょ何人かだけであんたらに突撃させるほど馬鹿じゃないってば」

「そう、そこさね。あたいが気になってんのは――あんた、『酔狂隊(うち)』と構えようってのかい? ラクシュミが今すぐ戦争起こそうとしてるって風には、あたいにゃどうにも思えないんだけどね」

「あん? そりゃあ、あの子がんなこと考えてるわけないでしょうよ。ただ――マハラジャの言うことちゃんと聞くのがザっちんで、全然聞かないのがあたし。右と左で風神雷神、表裏いた方が無敵ってもんじゃない?」

 亡骸のような灰に置き換わった遊我の煙草の先を、冷たい風が奪い去って砕く。

「でも、意味のない喧嘩なんてあるもんかい。聞きたいのはあんたのことなんだよ、小峰。ラクシュミの奴も望んでないってわかってんなら、一体全体――」

「……ま、そうねえ。マハラジャの件で話がある、なんつって呼び出したのあたしの方だし。そんじゃあ、話をしましょうか」

 燃え残る煙草を指先で弾く。それは放物線を描いて、菱形の金属網を潜り、駐車場の一階部へ流星のように落ちていく。

「『魔女離帝』と『酔狂隊』はギリギリの均衡状態にある……って思われてるけど、ぶっちゃけどっちも今すぐの大抗争には乗り気じゃない。そうでしょ? あたしらの代の二強ったらやっぱりあんたとマハラジャで、お互いの強さをよーく知ってるからこそそう簡単には動けない、動かない。ってか――最高のタイミングで最高の喧嘩をして気持ち良くケリをつけたいって、そんな風に思ってる。それまでマハラジャの――楽土の視線の先は、ずっとあんたなわけよね。水恭寺」

 黒縁眼鏡、押し上げて。後頭部でお団子に結い纏められたブロンド、開花を待つ蕾のように窮屈そうなまま。

 ダウンのポケットに両手を突っ込んだ遊我は、雪のような頬に朱を乗せ、白い息を漏らしながら小さく笑った。

「そんなん、あんまりにもザっちんが可哀想じゃないの」

 しかし――瞳だけは、笑っていない。

 涙を湛えることなどない、『魔女離帝』の魔人の瞳。残酷げに光を消して、しかしそれは享楽のためなどでは決してなく。

「あたしはねえ――誰よりも楽土の隣が似合うのは、やっぱずっと支えてきたザっちんだと思ってるわけ。そうなってほしい、っていうか……そうなるべき、って感じかしらねん。あの子は楽土がのらりくらりしてんのも気付かないで、『酔狂隊』を早く始末して鬼百合を完全な楽土帝国にしなきゃっていっつも本気で暗躍してんのよ。根が陰険なくせしてさ、馬鹿みたいに真っ直ぐ、全力疾走で。ただ、ザっちんにとってマハラジャは命そのものだから。……そりゃ報われてほしいって思うでしょ、普通」

 飄々とした彼女は、本人たちの前では決してそんなことを言わなかったけれど。

 ずっと傍観してきたのだ。他人より少し高い視座から。

 絆・ザ・テキサスをからかったりしながら、己の瞳に映るそんな光景の美しさなど誰にも知らしめることなく。

「あのふたりが『魔女離帝』として一緒にいられる高校生活なんて、泣いても笑ってもあと一年きりしかないんだから。それなら、『酔狂隊』との揉め事なんかとっとと終わらせるに限るじゃない? ぶっちゃけねえ水恭寺、お邪魔虫には退場してほしいのよ」

 気合の入った化粧の頬を、冷や汗が伝う。

 だからこそ、狙い目は今日だったのだ――竜虎たる二大勢力の冷戦を不可逆的に終わらせるには、いずれ彼女らの後継となる少女たちにしっかりと印象を焼き付ける必要がある。具体的には、オープンキャンパスの日に水恭寺沙羅の首級を掲げ、『酔狂隊』滅亡せりと声明することで。……あるいは、遊我が沙羅とのタイマンで敗北した場合には、「『喧嘩御法度の日に』水恭寺沙羅が小峰ファルコーニ遊我を倒した」とのニュースが駆け巡るようになっているのだろう。たとえ後から「誤報」だったと判明するにしても、先にオープンキャンパスの調和を乱したのが沙羅という情報が一瞬でも流れれば、それは『魔女離帝』の面々がその場で『酔狂隊』使徒たちに対して宣戦する口実となる。釈明のために沙羅が学校の敷地へ帰りつくより早く、鬼百合は大抗争時代に巻き戻っているはずだ。

「大好きだからさ。あたし、マハラジャとザっちんが。『「必要」じゃないけど「欲しい」』って声かけてくれた瞬間から、あたしの青春は、あのふたりを幸せにするためのものにしようって決めてたの」

 いずれにしても、今日――『酔狂隊』と『魔女離帝』との間の甘美な膠着は終わりを告げる。

 そのために、自ら憎まれ役を買って出たのだ――楽土ラクシュミの法に背き、彼女の丹精込めた祭りを食い物にしてまで。楽土ラクシュミが心の奥底で思い描き待ち望んでいる、宿敵との世界で最も美しい決着を踏み躙ってまで。

「推した女たちには恵まれて生きてほしいっていう、あたしはそれだけの女よん。そのためにちょっとばっか役に立つ腕力があんなら、そりゃああんた、使い倒すでしょうが」

 小峰ファルコーニ遊我は、楽土ラクシュミと絆・ザ・テキサスの蜜月を力ずくで創造しようとした。

 愛すべき人間関係は、地球より重い。

 そう信じた不良少女がいたという、ただそれだけのことだったのだ。

「……そうかい。あたいを墜とそうって話はわかった――で? 『繚乱』を襲ったのはなんでだい、関係ないじゃないか」

「ガッハッハ、決まってんじゃないの。アレもアレで邪魔だったからよ。中坊にはわかりやすい構図で見せつけてやんなきゃね――強い『魔女離帝』か弱い『酔狂隊』の二択、さあキミたちはどっちにつく、ってさ。『繚乱』のイケメン連中はオープンキャンパスでやたら目立つんで、引っ込んでてもらったってだけ」

「――そんな」

 沙羅は。

 別に、夢雨塗依や星野杏寿と特別仲が良かったわけではない。

 だが、彼女たちが恥を忍んで礼拝堂に来た、あの朝の傷だらけの姿を見てしまっている。商売道具の顔をあんなにされて、仲間のほとんどを病院送りにされて、それでも『繚乱』の名前を守るために硯屋銀子に頭を下げてミスターコンに出てもらおうとした、彼女たちの生き様を知ってしまっている。

「あんた、そんな理由であいつらをやったのかい……?」

 知ってしまっているから。

 負けてやるわけには、いかなくなった。

 なるほど確かに遊我の想念は伝わったし、自分を貫くために喧嘩をするのが不良少女だとは沙羅も認めるところだけれど――そのために無関係の少女たちの感情を踏みつけて心を痛めない小峰ファルコーニ遊我のことは殴れると、沙羅は判断したのだった。

「ま、そーいうワケだから。こっちだって覚悟背負って来てるしね。……本気で殺しにいくわよん、水恭寺」

 巨影、冬の街に揺らめくと。

 銃に見立てて親指と人差し指を立てた右手を、高々と掲げ――ゆっくりと下ろす。沙羅の眉間を撃ち抜くように。

 遊我がスタイルとするプロレスにおいて、それはあらゆる遊びを排し命を懸ける真剣勝負の合図。

 シュートサイン――

「……結局、あたいにゃ何だかよくわかんないよ」

 水恭寺沙羅を――

 恐るべきものと捉えている不良少女は、少なくないのだろう。鬼百合の内外に。

 暫定的なものとはいえ、最強という称号はあまりにくっきりとして重い。そう眼差しを向けられるようになってから、少女たちの想像力の世界で沙羅は人格を失い、舞台装置になっていった。綺羅や仲間たちに手を出した者へ情け容赦なく暴力の雨を降らせる、それこそ栞・エボシラインよりもよほど機械仕掛けめいた断罪の女。

 そんな風聞を一笑に付しながら、しかしひとつの事実として――水恭寺沙羅は、己がどこまで強者であろうと、戦うと決めた相手に躊躇することはなかった。

 それが彼女の不良少女としての生き方であり、他者の不良少女としての生き方へ示す敬意であった。

「あたいら馬鹿で、頭使うのは案任せだったからさ。あんたを倒して戦争も起こさせない、そんないいアイディアあるわけじゃないんだけど」

 半纏の紐、解くと。

 正十字を吊るす玉鎖のピアス、揺れて。沙羅の胸元で、大きなスカーフが蝶として羽化する。

「まあ、殴り合ううちに……何か浮かぶのに期待しようかね」

 沙羅は首を捻って鳴らしつつ、左手を長いスカートのポケットに無造作に突っ込む。

 秘蹟の右手、一本。それが水恭寺沙羅の喧嘩だった。

 数多くの不自由を打ち破ってきた、神の子の輝ける拳だった。

「ヴァ・ベーネ、ヴァ・ベーネ! ガッハッハ――ったくう。いいじゃないのよ、上等じゃないのよ」

 白いダウンジャケット、ばさりと脱ぎ捨てて。鼠色のセーターと厚手のジーンズは女性らしく均整の取れた巨躯のシルエットを描き出す。……「均整の取れた巨躯」とは矛盾を孕む表現のようだが、端的に事実でしかあり得なかった。プロポーションは写真の縮尺だけ間違われたグラビアモデルのような、しかし同時に美しく引き締まる筋肉の鎧を纏って。

 そして、両手でそっと黒縁眼鏡を外し、セーターの胸元に引っ掛けると――遊我は長い脚を鋭く振り上げ、今しがたまで寄り掛かっていた軽乗用車のサイドミラーをモカシンの甲で蹴り上げた。

 軽々と圧し折られたミラーが、青い雫に似た塊としてどこまでも高く舞い上がり、曇天を穿つ。

「あたしは小峰ファルコーニ遊我。『魔女離帝』の特攻隊長よん」

「あたいは水恭寺沙羅。ただの不良さ」

 やがて、それが降ってきて。重力加速度の随に、フロントガラスを突き破る。けたたましい破砕音。示し合わせずともそれが合図になった。

 暴風のような上段回し蹴りを、沙羅は右腕で受け止めた。

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