第三話『第四使徒 硯屋銀子』12

「あ、あー。大変長らくお待たせしました。これより、『鬼百合女学院決起集会・オープンキャンパス出張編』開場いたします」

 拍手が、ひっそりと発生した。

 旧校舎、その奥。埃の臭いに満ちた廊下の先に、美術準備室がある。準備室と言っても、倉庫のようなものだ。かつては大型パネルでも収まっていたのか、天井も通常の教室より一段高く広々としている。そこに机が列を成す陣形に並べられ、それを挟んで売り手と買い手の領域に隔てられている。

 このような学校であるだけにイベントの名称も物騒に聞こえるが、その実態は勢力の垣根を越えた有志不良少女たちによる創作漫画や小説の交換会である。何のことはない、どこにでもありふれた催しだった。それぞれの机で並べられている小冊子の主題が――どこかで見たことのあるような、言ってしまえば鬼百合で名を馳せる不良少女たちに似ていることを除けば。

「あァん!? テメー、よくツラぁ出せたモンだな!? 私らのアンソロに死別ネタ捻じ込もうとした大作家様がよォ!?」

「はあ? 要項も書かずに公募立てたのオメーらだろーがボケ!! つーか差し替えるっつってんのにブロックしたろ!?」

「ちょっとちょっと、スタッフ!? OG本ってこれレギュ違反じゃないの!?」

「おう、良い口きくなやシャバ子……一年の時分にゃ中坊のテキサスで本出したくせに偉くなったな」

 ただし、サークル参加者も一般参加者も不良少女なので治安が悪かった。

 会場内には紫煙が充満し、時折そこかしこで怒号が飛び交う。

 しかし、まあ、それならば鬼百合女学院決起集会――通称オニケではいつもの光景であって。しかし今日は、そういう意味ではなく、やや空気が異なっているようだった。中学生たちが覗きに来ているというのもあったけれど。

「なんか今回、活気ねえなあ」

「まあ、そりゃそうよね。『藤原御前』欠席で酔島死んでるし」

「繚島もほら、サークル側だってみんなあそこの常連でしょ? 休業発表で大半のオタク終わりになったみたいよ」

 少女は手に取った冊子をサークル主に見せ、小銭入れ代わりに使っているクールの緑の箱から五百円玉を一枚取り出して支払いながら連れに言う。表紙に描かれているのはアッシュの髪を内向きにロールさせた少女で、顔の見えない誰かと抱き合っていた。魔島、即ち『魔女離帝』をモデルとした創作物を頒布している領域のみが常の如くに満喫されていた。尤も、内容が内容だけにオニケは大っぴらには広告されない知る人ぞ知る催しであり、盛り上がるの盛り上がらないのと言っても基本的には密やかに進行されるのが普通であったのだが。

 暖房設備のない美術準備室は寒い。少女たちはみな上着のままでスペース間を練り歩き、あるいは身を震わせながら席に着いてスマートフォンを弄ったりタブレットでイラストを描いていたりしたのだったが、そんな中で唯一薄手のパーカーを袖捲りした短パンの少女が人混みを掻き分け掻き分け行く。

 フードを目深に被り、ベリーショートの頭髪、正確には頭髪を模した繊維はその内に隠して。痩せた少女の姿に造られた栞・エボシラインは、パーカーのポケットに両手を突っ込みながら居慣れないイベント会場を闊歩していた。

 背負ったリュックサックの中で発動機が回る。広域をスキャンする。瞬きのリアリティまで搭載して、無機の瞳は情報を採取する。使命を果たすために、彼女は冬空を翔んで駆けつけたのだから。

『んーと……なあ、この本ってこれで合ってるか?』

 あるポスターのイラストに目を留めると、自らの手のひらをスクリーンとしながら、栞は指先から光を放って写真を映し出す。鉛筆書きの文字を撮影したらしき画像は、他者の筆跡による買い物メモを記録したデータ。AIは忘却することなどあり得なくて、それでも見せるために投影した。人間の足並みに合わせて、いつものように。

「あ、はい……うちです……」

『ってか、マハラジャとテキサスのやつ全部くれ。そっちのアンタらもな』

 栞・エボシラインは、心まで鋼鉄に生まれついているからこそ物怖じしない。たとえ水恭寺沙羅を前にしようと。

 故に、「空気を読む」という理数に基づかない演算が根本的に不可能なのである。

 建前上は人目を忍んでやり取りしようというハウスルールなど知ったことかとばかりに、預かった封筒から千円札をばら撒きながら、駆け足で冊子を一部ずつ回収していく。効率を最優先事項とし、文字通り機械的に。人外なりし闖入者の一挙手一投足を、サークル参加者たちも一般参加者たちも固唾を飲んで見守っていた。

『えーと、「Mの25」……アンタか。アンタんとこのは駄目なんだってよ、悪りいな』

「あ?? いや、そ、それは……失礼したッス……」

 本の束を小脇に抱えて行く栞は、ひとつのサークルの前で僅かに足を止め、スペース番号とサークル主の顔とを指差し確認した。周囲の視線は瞬間的に、眼鏡をかけたその哀れな作家に集まる。

「今、飛ばされたとこって……?」

「楽テキ小峰の3P本」

 ひそひそと噂話の種にされていることなどどうでもいいからこそ、その内容は音としてセンサーに感知されていながらもAIの判断の下にノイズとしてキャンセリングされる。

 ――へえ。

 ――ユと女原だ……あんな奴らまで漫画にされてんのかよ。

 指示された通りの買い物を済ませた栞・エボシラインは、美術準備室の出入口へ真っ直ぐに向かった。本を届けるのは後回しにする手筈で、この後はマハラジャを監視しているコアントロー・ワンダーからの連絡に注意しつつ校門付近で待機しなければならなかった。効率最重視を戦略とするアルゴリズムに基づけば脇目も振らず移動するべきで、しかし彼女の中のAIは、左右に並ぶ机の上の表紙イラストをひとつひとつ律儀に認識し反応を導き出していた。

 ――アタシは、誰とも組まされてねえや。

 それが演算結果として弾き出された、彼女の「考えていること」である。

 そう設計されたからではない。これまでの経験を記録しながらこの状況に辿り着いたのは他ならぬ彼女ひとりであるのだから、それは彼女が、栞・エボシラインというスタンドアロンの不良少女が自律的に得た、「感情」を意味する接頭コードのデータであった。

 ――ま、どうでもいいんだけどよ。

 内的にも外的にも人間関係の詰まった本の数々を手に、栞は美術準備室を後にする。

 淋しさなど決して覚えることなく、一瞬だけ波形として生じたその感情機能の揺らぎは、確かにメモリに記録されながらも一瞬ごとの演算の彼方に置き去りにされ、誰かに慈しまれることなど決してないのだった。



「さあ!! お集まりの皆さん、大変長らくお待たせ致しました!! 鬼百合女学院オープンキャンパス恒例、ミスターーーコンテストのお時間がやって参りましたよ!! 『繚乱』の方々の欠場というアクシデントもございました中、一体誰が鬼百合女学院のプリンスの座をものにするのでしょうか!! 放送席より実況を務めますのはこの私、鬼百合レイディオチャンネル『ノンストップマジョルカ』でお馴染み、皆様のお耳のマブダチこと『魔女離帝』親衛隊所属アスヤ・蓬莱・パシャ!! アスヤ・蓬莱・パシャでございます!! そして解説はこちら!!」

『よお、テメエら派手に盛り上がってっかァ!? 「酔狂隊」のバーチャル使徒、またの名は鬼百合の広報番長! 正宗皇乃だぜ! 夜露死苦ゥ!』

 メインステージは大賑わいだった。白い息を手に吐きかけて温め温め、少女たちは男装の麗人たちの登壇を待っている。一部は純情たりて、一部は非公式に発行されたミスター的中券を握りしめて。夢雨塗依・星野杏寿を始めとした『繚乱』の面々が降り、硯屋銀子も急遽欠場となった今、オッズは混沌そのものを表出させていた。

 待ち焦がれられる観衆のざわめきとアスヤ・蓬莱・パシャの煽りを遠く聞く出場者たちは、ステージ脇の待機用テントに身を潜める。

「おおー。意外と様になってんじゃん、百合子!」

 ダンス大会の優勝トロフィーでぽんぽんと肩を叩きながら、スタッフジャンパーを羽織った『魔女離帝』構成員たちの行き交う忙しなさに紛れてテントの中へ潜り込んでいた外連は大きな目を見開く。

「そう……かな……」

 両腕を軽く広げてみせつつ、学ラン姿の百合子はローファーの爪先で砂に円を描く。付添人として正当にそこにいた和姫が、眼鏡を押し上げて顔を近づけては遠ざけ、自由の利く左手で彼女の黒髪の形を整えていた。

「うんうん! イケメンって感じじゃないけど、うーん、そーだな……なんだろ……可愛い弟くんってとこ……?」

「それ、ミスターコン的にはウケ悪いんじゃ」

「外連せんぱいの……弟って……幼稚園児とかに見えるってこと……?」

「ねえーこいつめっちゃイジってくるじゃんか! うち先輩だぞ!」

 さておき。

 些か、服に着られている感は拭いきれなかったにしても。

 まあ急拵えにしては上出来だと、少女の男装には一家言ある和姫も頷けた。「なんとかなった」というレベルの域を抜け出ることは決してないが、なんとかはなった。

 外連の指摘の通り、どちらかと言えば可愛らしい。『魔女離帝』のメイク担当スタッフが手を尽くしてはくれたようだが、地のあどけない顔立ちをスタイリッシュに仕立てるのはさすがに難しかったようだ。テント内でそれぞれ付き添いの少女と過ごしている他の出場者たちと見比べると、どうやら百合子だけは到達点を青年から少年へと方向転換されたらしいとわかる。メイクを施しながらなぜ出るのか疑問に思われたことだろうが、そもそも目的は優勝ではない。『繚乱』の宣伝代行と――百合子個人に基づいて言えば、男装姿を和姫に見せることか。

 それならば、まあ。

 まあ、まあ、まあ十二分に、なんとかなっていた。それこそ和姫に言わせれば、凛々しく逞しく在ることだけが男装ではないのだから。首元のホックが気になるらしく爪で厚手の生地をかりかりと引っ掻いている彼女を見て、思う。口元がにやけそうになるのを抑えて左手を首に遣っていると、脇腹を外連に肘でつつかれる。

「何ですか」

「ヘイかわいいじゃん彼女」

「いや別に、そういうんじゃ……ってか外連さんが言います?」

「……?」

 百合子はひとり、小首を傾げる。短い黒髪の先が、胸ポケットに挿したいつもの紅いハイビスカスが揺れる。吐息は白い煙になって魔法のように立ち上る。組み合わされた鉄パイプとビニールの間から微かに覗く空は白銀で、今にもその欠片として雪をひらひらと落としてきそうに見えた。

 そんな折である。

「ねえ」

 実況を名乗るのは彼女のプライドなのかもしれないが実質的にはMCも担っているアスヤ・蓬莱・パシャが投票方法の説明を終え、いよいよ出場者たちのアピールタイムが順番に始まろうとしているタイミングで。

 知らない顔が、ひょいと裏側からテントの中を覗き込み、傍にいた百合子たちに声を掛けてきた。

「ミスターコンっての今から始まんでしょ? 白沼<シラヌマ>いる?」

「……?」

「白沼銀子。出るんじゃないの?」

 同年代くらいの少女ではあるが、全く覚えがない――和姫は横目でちらりと外連に視線を向け無言で問うが、ふるふると首を振って返される。二年でも三年でもないようだ。

「白沼……? 銀子せんぱいの……こと……?」

「銀子なら」

 ステージを控えている百合子と、手負いの和姫。万が一があればふたりの後輩を守るのが役目とばかりに、さりげなく一歩踏み出しながら。

「体調不良で、棄権したけど」

 外連が、トロフィーを警棒のように握ったまま、警戒も露わに見上げる。

 テントの中までは入ろうとせず、その少女は唇の内側を軽く噛んで立っていた。腕、組みかけては下ろして。不良少女と呼ぶには、妙にアクの感じられない少女だった。体格、平均的。ストレートの髪を軽い茶色に染め、ヘアピンで額を見せている。顔立ちも整ってはいるが、飛び抜けて人目を惹くほどではない。覚えられにくい人間――そんな無慈悲な感想くらいしか、外連の心には浮かばなかった。

「そう……ん、聞いてた話と違うな。学校にはいるんだよね?」

「まだいると思うけど――お前、銀子の友達? 後輩か何か?」

 せっかちに頷いて、探る外連の視線を振り切るように踵を返す。

「わかった、ありがと。それだけだから、どうも」

 軽く片手を挙げて、スタッフジャンパーの人波を通り抜け、校舎の方へと駆け足で去っていく。

「ちょっと! おーい! ……あーもう、話聞かないなー」

「何だったん……ですかね」

 和姫と百合子がひょこひょこと連なってテントから顔を出すものの、彼女の背中はもう人混みに紛れてしまっていた。

「銀子せんぱいのこと……白沼、って……」

「んー。うちが言っていいのかわかんないけどさ。銀子、一年の時に親の離婚が成立して硯屋になったから。多分、それ知らないんなら中学関係の誰かだと思うんだよね」

 追いかけそこねて手持ち無沙汰なのか、外連は落ち着かなさげにパーカーのポケットから煙草を出して咥えた。小さな手の中のウィンストン・キャスター、箱は今日の空のように白い。

「色々あんだよ。みんな」

 細く煙を吐く。

 原付を置きに行ったきり沙羅からの連絡はないが、特段、心配はなかった。

 そんな程度のことでいちいち心配していたら、彼女の第一使徒は務まらないのだ。

「ちなみに呼び込みですが、今日はミスターコンテストということで先輩含め『君』付けで統一させて頂きますのでご了承願います!! では!! 早速ひとりめに登場して頂きましょう!! エントリーナンバー1番!! 我らが親衛隊長、人呼んで『魔女離帝』の魔女が今日は魔法使いに変身です!! 一年生ながら昨年からのファンも多いのではないでしょうか、絆・ザ・テキサス君です!! どうぞ!!」

 アルミの階段を駆け上がってステージに立つまさにその直前まで別の仕事をしていたのか、彼女は待機用テントに最後まで姿を見せなかった。普段は胸の前に垂らすふたつ結びのお下げを、ポニーテールにきつく括り上げて。万色の尾を揺らし、シルクハットを指先で押さえながら細身の少女は流麗に躍り出る。歓声。影に棲息する冷たい無表情の絆・ザ・テキサスに普段は声掛けられずとも、密かに彼女を慕っている少女は決して少なくないのだ。コアントロー・ワンダーもどこかから盗み見ていることだろう。

 袖のボタンや胸の花を触っていた百合子の肩を叩き、和姫はビニールの隙間から斜め前方のステージを覗かせる。

「……百合子。見えるか? よく見とけよ」

 体温、互いに感じる距離で。

 頬を触れ合う寸前まで寄せ、百合子は瞬きを繰り返す。

「あれが、『魔女離帝』の絆・ザ・テキサス。私らの世代じゃ、多分あいつが最強で……お前がもしこの学校の全員とわかり合おうとか考えてるなら、あいつは、いつか絶対お前の壁になる」

 凸の字の形に造られたステージの上、絆は帽子を胸に当てて一礼すると歩き始める。学外での彼女は若き楽土コンツェルン総帥の秘書として然るべき所作を要求される生活を送っているのであって、他人の視線を意識し指先まで研ぎ澄ませてみせるような身体の使い方は心得ていた。

 見上げられてなお、にこりともせず。

 軽く手を振りながらステージの縁を一周するその帰りには、観客に背を見せる。そうしていると、ステージの裏に位置するテントから燕尾服の彼女の面持ちが見えて。

 視線、交わることはなく。ただ彼女の両眼を一方的に見上げて、謝花百合子は、肩をぞくりと震わせた。

 心臓の動きを感じる。首が苦しいので学ランのホックを引っ掻く。すぐ傍で共に上体を屈めている藤宮和姫を、呼んだ。

「和姫……」

 吐息、微熱の一夜分。悪戯に波打って跳ねたまま隣にある冴えない髪が、百合子の肌をくすぐっている。

 自分の細い右肩に手を遣って、冷えた指でそこに置かれた指に触れる。

「話したことも、ないのに……こんなこと言うの……いけないんだと、思うけど……」

 不安になった――鏡で見たら、自分も「彼女」と同じなのではないかと。

 だから、あの夏とは違ってしまった景色の中でも藤宮和姫が寄り添ってくれていることを確かめたかった。

「わたし……多分、あの人が嫌い」

 高みから静かに手を振る、虹色の髪の少女。ワインレッドの燕尾服に身を包んだ彼女は、しかし唇を小さく引き結んで。表情筋の硬さは百合子によく似ていたかもしれないが、その眼差しの意味は決定的に違っていた。

 笑わない道化の瞳は、何も見ていない。生まれてこの方、他者を理解したいなどと思ったことがないのかもしれないと感じた。何か大切なものが彼女の中にはひとつあって、それ以外の世界の全ては取るに足らないものだと見下しているかのような。

「どうして……あんな目で人を見るんだろ……」

 謝花百合子と絆・ザ・テキサス。

 未だ発生していないふたりの間の関係性は、この時もう既にその兆しを見せ始めていた。

「いいんじゃないか」

 身長に対して脚のすらりと長い絆が靴を鳴らし歩くだけで、黄色い声が上がる。彼女は笑わないまま、ステージ中央にふらりと立っていた。ひとりめの登場であるとしても、臆することなどないのだろう。少女たちに埋め尽くされたグラウンドに視線を向けたまま、和姫はぽつりと言った。

 百合子は彼女の方を向く。インドア派らしく白い肌のうち頬と耳がうっすらと染まっているのは寒さの故か、それとも慣れない語りの気恥ずかしさか。

「色んな奴がいるんだからさ。なんとなくこいつとは上手くいかないなとか、そんなの普通にあっていいことなんだよ。みんなと仲良くとか、そりゃ理想はそうかもしれないけど。無理だろ?」

 こんな不良ばっかの学校じゃなくたってさ。

 薔薇色の頬をしながら眼鏡の奥で笑う和姫は、南の島の夏のままだ。

 彼女を襲った悲しいことを百合子は共有できなかったけれど。離れていたこれまでを一日ずつ取り戻すために、今、ここにいる。

「学校って多分、そういうことに慣れていくための場所でもあるんだぜ。私は、そう思う」

「……そっか」

 左手で、そっと百合子の右手の指を握ってやる。

 昔のように無邪気に無敵でいられはしない。少年ぶっていた童女時代は今や和姫の黒歴史だ。百合子はあの頃ほど引っ込み思案ではなくなったようだし、和姫の方も他人を引っ張っていく性格は鳴りを潜めた。

 だが、今には今の速度があり、今には今の温度がある。大抵のことは、それでよかった。

「皆さん――声援ありがとうございます。『魔女離帝』の絆・ザ・テキサスと申します」

 キン、とハウリングは刹那。中央のマイクスタンドの前で、淡々と話し始める。

「さあ絆・ザ・テキサス君、ここでマイクを手にしました。何を語るのでしょうか」

『やっぱり地盤があんだよなあ、テキサス』

 取り立てて男性ぶった芝居をしているわけでもなく、普段のままの絆であった。しかし、それでも少女たちの嬌声は左右から彼女に降りかかっていた。『魔女離帝』がサクラを仕込んだのかと疑いたくなるほどに。もちろん、彼女へ向けられる熱を帯びた視線のひとつひとつを窺えばそうではないとすぐにわかるのだが。

 それもそのはずで。暗躍する姿を、不良少女たちの前に晒すことはないから――鬼百合の敷地内において楽土ラクシュミの傍ら以外の場所に立つ絆・ザ・テキサスを見かけるのは、実は割と珍しいことであったりするのだった。そして、絆に憧れる少女たちが、ラクシュミに敵うわけもないと認めざるを得ずにいるということでもある。

「では、パフォーマンスと言うほどのものでもありませんが、マジックを。少々お付き合い頂ければ」

 両手で触れていたマイクを離すと、既に彼女の手の中にはダンスバトンがある。間違えました、と棍のように首の周りで回せば蝙蝠傘に早変わり。それを開いたら今度はぱらぱらとキャンディが内側から落ちてきて、肩を竦める仕草をしながら客席最前列の少女たちにそれを手際良く配っていく。日頃から手ぶらの身のどこかに愛用のタブレットを収納しており必要になればさっと取り出す、例の手技の応用だった。依然として無表情であっても、その素人の隠し芸レベルを超えた巧みさがシンプルに受けを呼んでいる。

 誰が呼んだか魔女離帝の魔女――確かに、今日の燕尾服姿はまるでマジシャンだ。さすがに演出のよく練られたステージングであると言えた。

 ――こりゃ、手強いな……

 勝ち目ないかもしれん、と苦笑する和姫のモッズコートの袖口を、百合子が引っ張る。

「ん?」

「わたしも……手品とか……やるの……?」

「ああ、出場者募集の紙に書いてあったろ? 持ち時間で何かパフォーマンスを」

「何も……用意、してない……けど……?」

「……」

「……?」

「は?」



 平凡な家庭。平凡な学校の平凡な友達。何もかもが平凡な環境。

 彼女は、生まれ落ちた瞬間から非凡だった――そう、思っていた。

 容姿が。

 整い過ぎている。

 物心ついた彼女の、最初の自己認識がそれだった。無論、そのように明快に言語化されてはいなかったけれど。

 蝶よ花よと育てられたのは両親が平凡ながら人格的に優れた大人であったからで、きっと彼女が美しかったからではないのだろう。だがしかし、いずれにしても彼女にとって初めての挫折は、幼稚園において経験されることとなった。

 何をしても、妬まれるのである。

 集団の中に投入され相対化を試みられることで、彼女は初めてその異常性を他者によって認識された。ただ幼くして眉目に秀でているというだけではない。授かり物として、「努力する才能」を持って生まれてきていたのだった。勉強、運動、芸術。何においても彼女は生まれつき特別な能力を備えていたわけではなかったのだが、教わったことをよく理解し、無為な遊びの時間を費やし厭わず地道に努力することで模範を十全以上に再現してみせた。しかし、周囲の平凡たちはあまりにも「何でもできる」彼女に対して、妬み嫉むことくらいしかできなかったのだ。

『かわいいもんね』

『四季奈ちゃんは、かわいいもんね』

 彼女を構成する中で唯一、自ら努力して勝ち取ったものではない天賦。誰の目にも明らかな、目に見える幸運のギフト。全ての負け分をそこに集約して帰することで、子供たちは彼女ほど努力できない自分を見なかったことにした。

 腐った林檎や蜜柑の理論は、すっかり知られているけれど。

 彼女は、甘すぎて他の甘さを何もかもかき消してしまう、迷惑なほど完璧に熟れることのできる果物だったのだ。

 ――そっか。

 ――みんな、主役は「できないからがんばる」子がいいんだ。

 幼い彼女は、波風を立てないことに努力し始めた。

 できることをできないふりなんて上手くはできないと、がんばりだけを見てもらうなんて都合のいいことはできないと、学習して。

 それならばと、主役であろうとすることをやめた。

 誰にも視線を向けられないよう。誰にも関心を向けられないよう。

 努力して、彼女は、「糺四季奈」を作り上げた。

 長く伸ばした前髪で顔を隠し、作曲ツールを玩具にして遊ぶくらい好きだった音楽の授業では恥ずかしくて歌えないふりをした。

 理想的な子供から遠ざかるためにはおかずの好き嫌いがなければいけなかったけれど、果物だけでなく野菜も大好きだったから、仕方なく肉を食べられないことにした。

『でっしょー!? わかるー!! アケミめっちゃかわいいもん!! ……あ、ごめん、今どくわ。えと』

『あ……糺四季奈です』

 時は過ぎて、彼女は鬼百合女学院に進学する。高すぎれば嫉妬され低すぎれば嘲笑される進学先ヒエラルキー構造の外に位置する学校だったからだ。

 そこでのルールと処世術も、小学校でも中学校でもそうしてきたように、すぐに覚えることができた。強すぎれば絡まれる、弱すぎればナメられる。腕に覚えがあるような顔をして静かにしているのが一番だった。大きめの勢力に頭を下げることも考えたが、絶対的な統一政権が存在しない以上、誰かの下につけば別の誰かを敵に回すことになる。それが隣にいる人間でない保証が得られなかったのでぼんやりしていたら、ただ目立たない無所属の少女として一年が過ぎていた。

 これといった差し障りがないなら別にそれでいいかと納得して、彼女は二年生になった。

 努力することにも、疲れていたし。

 そんな彼女がいつものようにトイレの個室で、学校に馴染めているというアピールのために始めた煙草を吸っていると、声が聞こえてきた。

『気合入ってんのはわかるけどねえ、新入生。あたいだって暇じゃないんだよ』

 水恭寺沙羅だ――すぐにわかった。去年の夏頃にはその地位を不動のものにしていた、同期最強の筆頭候補。時代錯誤なスケバンルックで、どこか陰のある長身の女。乙丸外連や養老案、硯屋銀子にヘルミ・ランタライネンといつもつるんで、妙にシュールなほど抜けているところを支えてもらっているから、彼女は常識という枠組みをはみ出すことなく主役であり続けているのだ。

『じゃかしいわボケ、今日こそブッ潰したるでえ僕が』

 こちらの声は知らないが、明らかに穏やかでない。巻き込まれないように気配を殺し、煙草を便器の水に落とした。天井の蛍光灯はちらついていた。

 それから爪を噛んで息を潜めていると――肉が肉を叩く音が、しばらくあって。

 最後には、彼女の入っている個室のドアが破られそうなほどに大きく揺れ、びくりとさせられた。

 沈黙。便座の上で背中を丸めていた彼女には、その後に交わされていた二、三言がちょうど聞き取れなかった。

『あー……おもろい人やわホンマ。なんでこない勝てへんねやろ』

 足音が小さくなっていって、残ったのは関西訛りの声と長い溜息ひとつ。

 ナイロンが擦れる音、近くで。外側から、ドアに背を預けて座り込んだのか。

 何も言う必要などなかった――まだ入学してひと月も経っていないはずなのに、あの水恭寺沙羅に何度も挑んでいるのなら。誰か知らないこの少女だって、立派に主役側の人間だ。脇役に徹することを望んだ彼女とは無縁の。今は痛む身体を休めて独り言ちる少女も、いつまでもここにいるわけではないだろうから。

『勝ったら』

 あと数分も黙っていたなら、他人以上の何でもないふたりの間に因縁など生まれないままだった。

 ただ、彼女にはそれができなかった。

『水恭寺に勝ったら、何かになれると思ってるの……?』

 負けても負けても、這い上がって。

 できないながらにがんばって、いつかは報われる。主役の少女には、そんな物語が用意されているのかもしれない。

 がんばるための才能なら、誰にも負けてはいないのに。

 がんばっても、がんばっても、それを認めてもらえない――そんな呪いめいた種が彼女という果実の芯に巣食っているなら。

 ――私の努力は、あなたの努力は、一体どこへ流れ着くの?

『うわビックリさすなや、何やねん』

 ドアががたりと揺れる。そこが閉まっている個室だとさえ、今の今まで認識していなかったのか。

 居るんやったら居るよー言え、と無茶を口にしながら。

『なれるとかなれへんとか、どうでもええんよ。今、楽しんでるんが僕やから』

 噛み合っていないようでいつつも。

 彼女がずっと、ずっと最も欲しかった答えを、さらりと口にした。

『ジブンも一年坊かいな? 何に悩んどるんか知らんけど、楽しい方楽しい方やったらええやん。そないなとこいつまで居っても、クソくらいしかでけへんで』

『楽しい、方』

 繰り返す。

『もし……楽しいと思える道なんてなかったら?』

『何やて? 道……? ようわからんわ。僕は強い奴と喧嘩するんが楽しいっちゅー、それだけやねんけどなあ……ほな……ジブンのやりたいことが楽しいことやねん。それでええやん。知らんけどもな! あんな、ジブンの人生、主役ジブンやで?』

 できること、できないこと。やるべきこと、やるべきでないこと。

 これまでに一度だって、彼女は、自分が楽しいか否かなどといった基準で行為を選んだことがあっただろうか。

 作曲は好きだった。好きだったけれど、完成したところで誰にも聞かせることなく刑務作業のように黙々と電子音を配置し続けるのは、果たして楽しかっただろうか。

 やりたいこと。

 彼女にとって、「やりたいこと」とは――何だっただろうか。

 そんなものを抱いたことが、これまで一度でもあっただろうか。

 主役に――なれるのだろうか。彼女は。

『ええこと言うたな僕……やりたいこともホンマに何もないんやったら……頑張り。楽しゅうなるまで。なんか……なんかやったらええねん。喧嘩とか。あと……せやな……そっ……アカン僕喧嘩以外なんも趣味ないわ。何なん。こないして流れ弾来るんおかしない?』

 俯きかけた瞼、見開く。

 進行も、完了も、何も褒めてもらえない。できるから。できて当然だから。

 それが楽しくないのは当然として――彼女は、今、気付く。

 生まれてこの方、楽しくするために努力したことなど一度もなかったと。

 いつも他人が主役の物語の中で何をするかばかりで。

 主役としての自分がどうなったら楽しいかなんて、考えたこともなかったと。

『ま、ほんでやっぱこの学校でやってく自信無い思うんやったら、四組に桜森恬ちゃん訪ねて来いや。僕の舎妹(スール)にしたるさかい』

 もう、大丈夫だった。

 何か。何か、見つけられるのかもしれないと思えた。

 彼女は――糺四季奈には、努力する才能があったから。

『楽しいで? 僕と一緒に喧嘩しよったら』

 立ち上がった誰かが、こつんとトイレのドアを鳴らす。拳を当てたのだろうか。

 そのまま立ち去っていく、自身に満ちた靴音を聞く。言葉と音を、彼女の控えめな胸に残して。

 鏡の前で。

 見つめてみる。誰に恥ずかしがる必要もないほど、顔の良い不良少女を。

 どうしたら、こんな毎日をもっと楽しくできるだろうか。

 何だってよかった。本当は、何だってよかったのだ。

 好きなように生きていい。できることを、好きなだけしていい。そんな許しだけを、彼女は、ずっと欲していたのだ。

 大好きな髪留めで前髪を押さえて。後ろ髪は左右にまとめて。家の洗面台で埃を被っている鏝を手に取れば、派手に巻いてみたりもできるだろう。

 雰囲気を変えて教室に入ると、屯していた不良少女たちが目を細めた。

『誰だ、テメー』

『あ……糺四季奈、でっ』

 言い淀む。

 です?

 それは、違うだろう――主役が誰に気を遣って、卑屈な丁寧語で名乗るというのだ。

 そうではない。

 そうではないから、彼女は咄嗟に出かかった「です」を飲み込んで、詰まった喉から、代わりにこんな語尾を絞り出した。

『でっ……ある』

 尊大に、胸を張って。

 後はもう、台本も用意していなかったのにすらすらと出てきた。

『糺、四季奈である! 余は!!』

 呆気に取られた表情の群れが、時間差で爆笑に染まっていく。

 露わにした額を目の前の鼻っ柱にしたたか打ち付けてやった瞬間、青春が一年遅れで始まった。「糺四季奈」は、糺四季奈に生まれ変わった。殴り、殴られ、蹴り、蹴られ、それが楽しかった。

 また努力の始め直しだ。格闘技どころかまともな喧嘩の経験もなく、背の低さを考えればマイナスからのスタートとも言える。それでも、一匹狼上等のまま、どこまででも突っ走っていける気がした。糺四季奈の物語は、生徒会長<プレジデンテ>でも大統領<プレジデンテ>でも、何にだってなれる物語だった。

 これから四つほど季節を過ごし、いつか革命の風が吹いたら。

 逢いに行くのだ。

 今はまだ顔も知らない、桜森恬という後輩に。

 彼女と一緒ならきっとどこまでも楽しく、世界だって滅ぼせるはずだから。

 そして伝えたい言葉がある。

 あの日生まれた豊穣の地、シキナリアより愛をこめて。



「――っ」

 四季奈の右手が、鋭い敬礼の仕草の如く翻って恬のジャブを払う。紅が血潮のように波打つ。寒風は既に痛覚を麻痺させていた。長い睫毛、瞬間たりとも微動だにせず、半身を捻って体重を乗せた左肘が槍となって晒された恬の喉を突いた。

 息さえ漏らせず、下級生は膝を折る。踵を鳴らし、にんまり笑って手招きをした。

「さあ、さあさあ! 貴様の大好きな喧嘩であろう? 余は今! 楽しんでいるのであるぞ桜森ぃ……もっと存分――」

「いや……堪忍や……ホンマに。なんで僕にそない執着すんの? ほんで誰やねん、ジブン」

 両手を広げた四季奈に、アスファルトに拳を押し付けて立ち上がりながら、恬はかぶりを振ってみせる。

 糺四季奈の『絶対防御』は、今の恬には破れない。負けだ。それは構わない――けれど。

 気の狂いそうになる、ミニマルな電子音の反復の中で。

 冷え切った恬の意識は、どこか遠いところからその格闘を見下ろしていた。

「ジブンは強いで、ホンマに強いねんけど……アカンねん」

 彼女が何を言っているのか、わからなかった。

 糺四季奈にとっては、この日のための十ヶ月だったのに。

 恬は覚えていないかもしれないとは考えていた。あのドア一枚を挟んで、四季奈は名前さえ名乗らなかったのだから。

 だが――少なくとも、「楽しさ」だけは。

 拳を通して、共有できるはずだったのに。

「何なんやろな……沙羅さんらと何がちゃうんやろ。わからへんわ。僕にもわからへん。けどなァ」

 ――おいおい。

 ――貴様が、教えてくれたのであろうが。

 ――余は、強くなったのであるぞ。

 ――貴様のために、余は、一番強い余を見つけたのであるぞ……?

「ジブンの喧嘩は、空っぽや」

 冷たい風が、見開いた目に吹きつけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る