第三話『第四使徒 硯屋銀子』13
バスケットボールのバウンドが。
まるで時計の秒針音が如く、一定のリズムで聞こえていた。男装の誰かがステージパフォーマンスとして選んだ特技のドリブル。姿は見えずとも、呼応する熱の歓声でその出来栄えは伝わってきた。
「百合子、なんかないのか? 特技とか」
「え……えと……ん……」
大惨事を防ぐ手立てが何かないものかと頭を掻く和姫の前で、百合子は焦っているのやらいないのやら微かに目を丸くしながらも、基本的にはいつも通りのぽやんとした顔で口元に手を当てていた。首元覆うマフラー、漏れる白い息と重なり合って靡く。応援団めいた学ランの威厳は宙に浮いている。
「……タイマン……?」
「お前よくそれ言ったな、この学校でよ」
ギプスで固定した右腕を軽く上げてみせる和姫。鬼百合はこんなもんじゃないからな、とばかりに。
しかし、成り行きで共に額を突き合わせる外連は、百合子のそんな一言を笑うでもなく静かに睫毛を上下させていた。左右非対称な脇髪を捻じって刈り上げを覗かせながら、考え込むように。
「いや……それ、いけるかもしんない。いいじゃんか、百合子!」
「え、ステージで喧嘩でもさせるんですか……?」
「そうじゃなくてさ――ヒメ! まず放送席の小野にメールして、百合子の出番なるべく遅らせてもらって!」
降って湧いた勝算は輝かしく見え、外連は腰に手を当ててきびきびと指示を出す。シルエットがどれだけ小さくとも、やはりひとつ先輩なのだ。
テントの外ではストリートバスケを趣味とする六人目の男装少女が喝采に応える。出番を終えた燕尾服姿の絆・ザ・テキサスは、肩にいつものポンチョを薄い毛布のように引っ掛けて、誰に寄り添われるでもなくパイプ椅子の背中に軽く腰を乗せつつ立ち紙コップに口をつけていた。両手で持たれながら湯気を立たせるそれの中身は、近くの屋台の甘酒だろうか。ステージを終えた彼女がまだ残っているのを見るに、全てのパフォーマンスが終わった後にも再び全員で登壇という段取りだったか。
しかし乙丸外連は、周囲の視線が集まるのも気にしていられずに、きんきんした声を弾ませる。階段を跳ね落ちてゆく発条の玩具のように、全身全霊で今に向き合っていた。沙羅が隣にいなくとも、この刺すような寒さをきっとどこかで共有しているはずだから。
「で、百合子! いい、今からうちが簡単なダンスの振りやってみせるから――見て、一発で覚えな! できるでしょ、お前うちのスタイルとかすぐ真似できたしさ」
ヘーゼルの瞳、瞬けば。
全く経験のないヒップホップダンスを、確かに再現できるのかもしれない。琉球空手やボクシングやカポエイラ、不完全ながら水恭寺沙羅の「秘蹟の右手」までをも己が技としてきたように。
「ああ、その手があったか! 特技が無いなら、百合子の『目』で今からマスターすりゃいい!」
和姫は利き手でない左手一本で、素早くスマートフォンを操作する。一般的にオタクは文字を打つのが速い。
「いけるよね、百合子」
「……うん。頑張る」
頷き合う、外連と百合子。
知り合って間もない、先輩と後輩。拳を交えて、彼女たちもすっかり打ち解けていた。
不良少女に、不可能はないのかもしれなかった。
「では続いてこちら!! 皆さんお待ちかねのことでしょう!! 鬼百合で今、最もセンセーショナルな女!! 転校初日に『酔狂隊』入りを果たした、今年最後の都市伝説!! ミスターコンテストでもダークホースとなるのでしょうか!! エントリーナンバー七番、沖縄出身の第六使徒・謝花百合子君!! どうぞ!!」
普通にあった。
無理もない――『繚乱』が挙って出場する例年のミスターコンとは事情が違う。テントの内側を見回しても、男装姿は十人前後だった。和姫と外連が慌てている間にその過半数がステージを済ませてしまったのだから、遠からず百合子の出番が訪れるのは当然のこと。
『あたしもちらっとバーチャル鬼百合からツラ拝んだっきりで別にまだ絡んじゃねえんだけどよ、あの沙羅さんが……え? マジで言ってる? 誰も彼も無理な注文ばっかり何なのです?』
「どうかしましたか、解説の皇乃さん!?」
『あっ、いや、いや何でも……そうだパシャぁ、オメーよぉ、その……えと……あの……どういうのが好みのタイプだ? ほら、ミスターコン、色々出てきてるからよ……』
噂の謝花百合子を見物しようと目を凝らす準備をしていた客席がざわざわと露骨に怪しみ始める。基底現実を介して唐突に時間稼ぎを頼まれたバーチャル使徒の正宗皇乃は、まあ頑張った方であると言えた。
「私ですか!! 私は物静かな人が好きです!! それでは改めて――出てこいや!!」
誰も悪くない。誰も悪くないが、強いて言うなら何もかもの間が悪い。
そんな絶望的な状況下で、それでも一歩を踏み出す少女がいる。
――ああ、そうだ。
藤宮和姫は、思う。和姫と外連の顔を順番に一瞥して、しゅるりとマフラーを解く彼女のことを。
――いざって時のクソ度胸じゃ、誰もこいつに敵わないよな。
「……なんくるないよ」
意を決してビニールカーテンを潜り抜ける学ラン姿はまるで影法師。このように成長した百合子と過ごした時間はまだ半月程度で、横であたふたしている外連とさほど変わらない。だが和姫には、百合子がどうにか切り抜けて帰ってくることがわかっていた。幾つもの夏の南の海で、無敵だと信じていたように。
「ああ。もう何でもいいよ、何かやってこい」
「うん……任せて」
どれだけ恥をかくことになろうとも、約束は守る――『繚乱』の宣伝代行という使命を果たすべく、彼女はステージへの階段を登っていく。小さな歩幅で。男装を和姫に見せるという個人的な目的はもう済んでしまっているのに、それでも。
そんな百合子の心意気はとても不良少女らしく、春への移ろいの兆しと共に鬼百合女学院が「和姫のいる学校」から「ふたりのいる学校」へと変わり始めていることを実感させた。
「……似合ってる。格好良いぞ、百合子」
――あれが……
謝花、百合子。絆・ザ・テキサスは甘酒の紙コップを両手で包んだまま、口の中でその名前を噛み締める。
楽土ラクシュミの右腕、親衛隊長。笑わない道化師。『魔女離帝』の魔女。如何様に呼ばれようと彼女は彼女であって彼女でしかなく、今は学ラン姿の謝花百合子へと向けられる銀河のような瞳の群れのひとつに過ぎなかった。
ポンチョの飾り紐、冷たい風に揺れる。揺れる。薄い唇を引き結び、虹色に染め分けた髪の少女はただ見つめる。タブレットに蓄積させた彼女についての情報は一旦忘れ、極力ニュートラルな視点で謝花百合子という存在を吟味する。不良少女が時にデータを超越することを、絆・ザ・テキサスはよく知っていた。
裏切らないのは、肌である。相対するだけで存在を削り取るような強者のオーラに触れれば肌はちりちりと痛む。逃れられない格闘の状況において、自分がたったひとりきりであることを突き付けられる。拾った警棒を握りしめ血走った目を見開いた大柄な薬物中毒者に廃屋の壁際まで追い詰められたあの日、襤褸をまとった名も無き童女は何歳くらいだったのだろうか。サウスブロンクスの路上で生きるとはそういうことだった。そういうことの中で生き残りながら彼女は運命に手を差し伸べられ、絆・ザ・テキサスとなったのだった。
学ランの胸に紅い花を挿した、黒髪の少女。謝花百合子。春を待たず来た転校生、鬼百合は噂で持ち切りになった。鷹山覇龍架奪還のため乙丸外連とふたりで乗り込んでいった夜の埠頭の倉庫で起きた乱闘を隠し撮った映像も見たが、なるほど幾つものスタイルを魔法のように入れ換え組み合わせながらの喧嘩は目を引いた。
その名の示す通り、花ではあるのだろう――だが、肝心の力量は如何ほどか。果たして本当に愛しきマハラジャにとっての脅威となり得るのか、絆は自ら見極める機会を窺っていたのだ。
寒さに身を竦めながらステージの中央へと歩いていく彼女は、自分自身をどう演出しようとも思っていないようだった。ミスターコンテストであることなど一切意識していないかのように、ただ学ランを身に纏っただけの小柄な少女に過ぎなかった。
「……えと」
キィン、と高いハウリング。聴覚的苦痛に観客の少女たちが渋く顔を顰める中、彼女自身は驚いたように瞼を閉じただけで。
小首を傾げ。普段よりは気持ち整えられた短い黒髪、流れ。
「……謝花、百合子」
名前を、口にした。
特に何を提げるでもなく、マイクスタンドの前に棒立ちで。
好奇の目に取り囲まれながら、平然として名乗ったのだった。
「……は、ああ」
絆・ザ・テキサスは、嘆息する。指からコップが滑り落ち、少しばかり残っていた甘酒が地の砂へ染み込む。テントの端から斜めに見えるのは、学ランの背中だけだ。だが、それで十分だった。それだけで、絆の中で百合子という人間の辻褄が合った。
謝花百合子の帯びる静けさは、覇気や胆力に由来するものではない。彼女はどこまでも、この海辺の街の学校では異物だった。
彼女はただ、他人の悪意を知らないのだ――無知で、それ故に無垢なのだ。屍肉を喰う虫のように蠢く群衆から嘲笑や罵倒が投げかけられることなど想像できないのだ。美しい空と海の間で、南風のように暖かくやわらかな人間関係の中で、祝福されて生きてきたのだ。
この学校で初めて知ったであろう喧嘩とは、彼女にとって、自分が生きるべく他人を蹴落とす手段ではなく共に生きるべく他人を理解する手段なのだ。
寒気がして、反射的に褐色の手のひらが帯びる体温を想った。楽土ラクシュミという存在だけに満たされた気高き荒野のような心が汚染されないよう、絆はそうすることで砦を築いた。
「……?」
次のひと言を待ち焦がれられていることにすら気付かないのか。百合子は、自分なりに観客の期待に応えようとするかのように、硬い表情筋を精一杯に微笑の形にしながら両手を小さく振った。
「ああ……そうですか……これは……」
決して、誰に聞かせるでもなく。
「癇に、障りますね」
絆はぐしゃりと紙コップを踏み潰し、シルクハットに手を遣って目元を鍔で隠し、白く霞む息に交えて小さく呟く。
この瞬間、言葉など、視線など、一度として交わさないうちに。
謝花百合子と絆・ザ・テキサス、宿命の力学はふたつの人生を決定的に断絶させた。
彼女たちが手と手を取り合えた出会い方など、きっと、可能世界のどこにも存在しなかったのだ。
「あ……わたし、『繚乱』の……宣伝……」
思い出したように、百合子が瞬きをする。
その、一度、二度の間に。
綺麗に揃っていた全ての集中を根こそぎ掻っ攫った女がいた。
かつん、かつんと。
静寂の中、靴音がステージへの階段で。制止することは誰にもできなかった。ただ固唾を飲んで、硬直していることしかできなかった。振り返った百合子だけではない。観客もスタッフも、放送席のアスヤ・蓬莱・パシャも正宗皇乃も、待機用テントの藤宮和姫も乙丸外連も、そして絆・ザ・テキサスも。女は指先で裾を僅かに摘まみ上げながら、ごく当たり前のように、アルミの階段を麗しく登った。
かつん。
現れる。嗚呼、現れる。その姿が、君臨する。
ステージ中央、百合子との距離は五メートル。仰ぎ見る視線を独り占めにしながら、小さく息を吸い込んだ。
「ご機嫌よう」
そして、手に提げていた二本の長い何かのうちの一本を、腕を軽く振ることでするりと滑らせるように投げる。
音もなく、それはベニヤ張りのステージに斜めに突き立った。
サーベル。細身の刀身が、まだ微かに震えている。
自らの手元に残ったのも、全く同じもの。あらゆる思考は置き去りにされていたので、それが絆・ザ・テキサスのハンバーガー屋台で串として使われていたものだと誰も気付けない。気付けない。その柄を握り直すと、舐めるが如く顔の前でゆっくりと引く。
燃えるような真紅のハイヒールに、大きく張り出す胸元を強調したパーティードレス。剣を構えるはチョコレート色の肌を露わにする腕。
そして波打つ黒髪の下、目元を覆う黄金のベネチアンマスクから、翡翠の双眸が覗いていた。
「……誰」
百合子は、小さく後ずさりしながら問うた。目の前のサーベルを掴もうとしないまま、ただ、全く予期していなかった展開に翻弄されてる。ステージの上で、彼女はもはや主役でなくなっていた。
そう――彼女にだけは、わかり得ない。変装とも呼べないような変装であっても、そもそも素顔すら知らないのだから。
だが、謝花百合子を除いたその場の誰もが、凍りついた時が動き出しさえすればたちまちのうちに理解した。あまりに美しく乱入した仮面の女が何者であるのか。中学生たちの世界にも、彼女の伝説はけたたましく轟いていたから。こんなことをするのは、こんなことをできるのは、彼女以外にあり得ない。
「初めましてですわね。わたくしは、マスクド鬼百合」
白い息は、ヨガの呼吸法が編み上げるリズム。
心技体、その全てにおいて帝王たる不良少女。『魔女離帝』という資本の殿堂、愛のように不滅なりし王道楽土の主。神の子・水恭寺沙羅と渡り合う、唯一の究極者。
「貴女の力、試させて頂戴な――謝花百合子さん?」
当然、従者である絆など真っ先に気付いた。何やら悪戯を施した童女のような表情でワインと葉巻を悠々と愉しみ続ける彼女を屋台の裏に残してきてしまったことがずっと気に掛かっていたくらいなのだから、真っ先に気付いたに決まっている。
気付いたが、悪い夢のようなこの状況では、呆気に取られながら呼ぶくらいが精々であった。
「……マハラジャ?」
その名は記されるまでもないだろう。
「何故であるか」
殴る。
「何故であるか、桜森」
叩き、殴る。
「何故、余は貴様の『喧嘩』になれぬのであるか、桜森」
蹴り、叩き、殴る。
「余はっ……余はなあ!!」
体幹を崩され力なくアスファルトに転がった桜森恬に飛びかかり、糺四季奈は馬乗りになりながらセーラー服の胸倉を掴み上げた。カチューシャは既にスタンド灰皿の根本に転がっていて、揺さぶられた首が前後すると長い髪の赤色は焔のように躍った。
四季奈は長い睫毛で大粒の涙を砕いてはふわりと飛び散らせながら、親に駄々をこねる子供のように恬の顔を覗き込みつつ白い拳で顔面を殴り続けた。頬も目元も痣だらけにして、鼻からも口からも血を流した恬は、それでも両腕の全力で四季奈の肩を拒んだ。もはや突き転がせるほどの力などそこには籠っていなかったが、四季奈も四季奈で動転していたため身体の重心のコントロールを喪失して仰け反る。主役の襷が肩から滑り落ちる。瞬間、恬は四季奈の下から這い出ると一度横に倒れ込み、地に肘をつきながらなんとか立ち上がった。
どこかの弾みでスマートフォンはオーバーオールのポケットから転げ落ちて、ミニマルな構成の電子音は再生を止めていた。校舎裏の喫煙所にふたりの他の人影はなく、祭りの喧騒から切り取られたそこはまるで墓所で、そうだとするなら埋葬されかかっているのはきっと四季奈という少女が美しく実らせてきた想いの果実だった。
「貴様が……余を変えてくれたのである……なあ桜森、覚えておらぬのであるか……?」
ぐし、と手の甲で頬を擦る。熱い雫を溢れさせたのが何なのか、恐らく彼女自身にも明確に理解できなかった。豊かな情緒を、子供のようにしか操れないのが彼女だった。糺四季奈は混乱の中にいた。ただ寒空の下で頬をかっとさせ、息を荒げながら桜森恬に当たり散らし、その昂りが閾値に到達すると今度は悲しみらしきものが急に吐瀉物が如く喉元へせり上がってきたのだ。
そしてそれはきっと、ありふれた初恋の終わりに過ぎなかった。
「貴様と共に戦える余にっ……貴様と」
涙交じりに縋ろうとする四季奈に、憐憫を誘われたりはせず。
「知らんねん!!」
血の混じった唾を足下に吐き捨て。
乱れた頭を掻き毟り、叩きつけるように恬は、吼えた。
狐目は睥睨する。鬼のように強いはずで、それでいながら小鹿のように弱々しげに見える、美しい少女。
「僕見て変わるんはええ、心でも×××でも勝手に動かしたらええよ! せやかてそないなァ、ジブンが僕に感動したさかい僕と気ィ合うはずやとか何とか、知・ら・んっちゅーとんねんボケダラァ!! 堪忍せえよ、ええ!? なんで僕の知らんうちに勝手に距離詰めてきよった奴に何でも知ったツラされなあかんねん!! 変な呪いか! ホンマにジブンそのうち僕の子ォ孕んだとか言い出さへんやろなァ!?」
息を切らして、涎まで口の端から垂らして。
それでも桜森恬は、顔を髪と同色に染めるほど窒息してまで目の前の誰かを拒絶した。
状況は完全に転倒していた。啖呵を切る恬の肉体は顔から何から無残なほどに手傷を負わされていて、彼女の低い罵声が響く度に恐慌の中で身を竦める四季奈は、鼻血の痕を涙の線がさらに汚したきりで他には痣のひとつもない綺麗な顔を歪めていたのだった。
この喧嘩は、泥仕合ですらない。ふたりは触れ合い、傷つけ合いながら、ただすれ違い続けているだけだった。
「黙る……ので、ある」
「ええ!? 知るかボケェ!! 僕のどこ見たんか知らんけどなあ、ほななんで手ェ抜いた喧嘩しくさったんや!!」
よろめき、半ば倒れ込むように。恬は、擦り傷で血だらけの左腕をぶんと振った。ただ力任せなそれだけの攻撃が、奇しくも絶対防御<オートガード>の隙をついたというのか――四季奈の頬を、ぱちんと打つ。それ以上の力がもはや恬の肉体には残っていなかった。
メロンとスイカのヘアピンが、弾け飛ぶ。前髪、崩れてももう瞳を隠さないほどに短いけれど。
何かが、その金属音と一緒に砕けてしまったから。
奥歯を、噛んだ。
「うるっさいんだよこのブス!!」
一匹狼。
彼女はそう呼ばれてきた。
平均に満たない体格を補うため組み技を中心とした総合格闘技を身につけると、彼女は名のある不良少女を次々と薙ぎ倒した。目標を持って努力すれば、それくらいのことは簡単にできた。誰に秋波を送られようと、いずれの勢力にも属さなかった。この十ヶ月、たったひとりの生徒会長<プレジデンテ>であり続けた。しかし、自分を一匹狼だと思ったことは一度もなかった。
糺四季奈の心はずっと、桜森恬の舎妹だったのだ。
「なんで黙って言うこと聞かないんだよ!! てめえみたいな――てめえみたいな喧嘩バカと一緒に主役になりたいって思ったから、私だって強くなったんだよ!! なんでわからないんだよ、なんで楽しくないんだよ、なんでてめえは私のことを全部わかってて、私はてめえのことを全然わかんねえんだよっ!!」
歯を食い縛って。鬱血するほど握り締めた拳、ふるふると震わせて。
四季奈の足下で、アスファルトは砂利を浮かせた。
「っは」
鳩尾に靴裏が食い込む。一撃で酸素が体内から消滅する。壁際によろめいた恬の顎へ、四季奈の拳が振り抜かれた。一発、二発と。さらに鼻っ柱への一発を貰うと、視界が真っ白になったまま身体が吹っ飛んだのがわかった。
背中を雨樋パイプに押し付けられた恬の顔面を、四季奈はなおも遮二無二殴り続けた。もはや止めることはできなかった。今ならまだ希望に縋れるが、腕の筋肉に込める力を緩めたら何もかもの破滅がついに訪れてしまうからだった。
「ずっと――ずっと――私は――『余』は!!」
駄目押しの前蹴りが、槍となって胸元へ抉り込まれる。荒い呼吸は、いつか聞いたようなリズムだった。
「きっ、貴様が――」
派手な破砕音がして、塩化ビニルの雨樋が砕け散った。バランスを崩した恬は側頭を校舎の壁に打ち、そこへ爪を立てて持ち直そうとしていた。紅い髪はところどころ血糊に固まり、ぼさぼさに絡まり合って、蹲りかけているその姿は四季奈の身長でも見下ろすことができて、ひどく惨めに見えていた。
「うっ、ううっ……!!」
刹那、躊躇しながらも、左手で恬の胸倉を掴み上げた。スカーフを結んだ、刺繍入りセーラー服の襟元。捲られたスカジャンの袖から覗く、だらりと垂れ下がった傷だらけの両腕の中で、銃に巻き付く蛇と茨のタトゥーだけは螺旋のままだった。四季奈の髪とお揃いで、並んで天を衝くはずの腕だった。
糺四季奈は見なかったふりをして、右の拳を振り上げた。
その手首を背後から掴まれなければ、きっと彼女は――
「おいおい何やってんだよー、お姉さんよー。忙しいんだから勘弁してくれよなー」
薄いサングラスを掛け、キャップを被り、『魔女離帝』のスタッフジャンパーを羽織った、目付きの悪いプリン金髪の不良少女が。
大きな目に涙を溜める四季奈の手を捻り上げていて。
「桜森さん!! ……糺先輩、何ばしよっとですか! 今日は喧嘩御法度やけん、こがん……!」
ピアスを無数に光らせ、モノクルを嵌め、『魔女離帝』のスタッフジャンパーを羽織った、おどおどして胸の大きい不良少女が。
満身創痍で目を閉じかけた恬の肩を支えていて。
「ユ……女原……」
恬は、力なく、しかし確かに唇を引き開けて鮫の歯を覗かせた。
「ジブンら……ええ仕事……しよるやん」
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