第三話『第四使徒 硯屋銀子』14

「ほな……」

 血の混じった唾や痰というよりは、ほぼ血そのもののような粘性の塊を吐き捨て。

 口元をゆっくりと手の甲で拭う。肩を、心配そうな『魔女離帝』の女原ソニアに支えられながら。

 歯を食い縛って恬に追い縋ろうとする四季奈のことは、ユ・ミンスが押さえていた。

 状況は膠着した。ミンスとソニアは、喧嘩を止めるために来たのだ。オープンキャンパスを仕切る『魔女離帝』に身を置く者として、その責務を果たすべく。しかし、本人たちが最もよく理解していることだが、ふたりに糺四季奈を正面から制圧するだけの力量はない。故に後ろから四季奈の手を取り、かつ同時に恬を保護することで格闘を中断させた。この膠着は人為的なもので、しかし支配的な位置にいるミンスとソニアさえここからどうすればいいのかわかっていないことなど明らかであった。

 だらりと垂らした腕を力なく振り、恬はたまたま傍に落ちていた虎縞柄のカチューシャを拾い上げる。指先に引っ掛けて。そのまたすぐ傍には四季奈のバスケットが転がっていて、果物は臓物が如くアスファルトに溢れ出しその幾つかは誰かに踏み潰されていた。

 吐かれる息は全て白く。流れる血と絡み合いながらも異として依然紅いその前髪を掻き上げ、カチューシャで留める。

 切った額から流れた血を、目元だけ拭い。赤黒く腫れた唇の端を、それでも釣り上げてみせる。

「後……よろしゅう」

 力を、振り絞って。

 恬は肩を貸してくれていたソニアの腕の下を潜り、地を蹴った。

「な」

「え」

「はあ!?」

 翻る。焔の色彩が。

 スカジャンの光沢を、曇り空の下に残し。恬は、一度として振り返らなかった。

「お、おーーい!? 待つのである桜森! まだ話は……待、桜森、おい、待てコラ!!」

「阿呆ゥ誰が待つかい!!」

「ぐううっ……貴様!! また、また次も喧嘩、付き合うから! 楽しみにしておくのであるぞ!!」

「じゃァしいわ誰がやるかっちゅーねん!! 死ね!!」

 ただ歯噛みする四季奈に罵倒だけを残して、脱兎の如く――満身創痍であるから疾走とはいかずとも、ずきずきと痛む脚でアスファルトを踏みしめながら校舎の角を曲がってピロティへ転がり込み、その身を隠す。桜森恬、精神的には優位に立ちながらも、それは紛れもない敗走であった。

 心躍る時と同じように心臓を暴れさせながら、それでも苦痛に喘いで。

 精一杯、格好つけたけれど――みっともなく上体を泳がせて、彼女は走っていた。きっと彼女は、糺四季奈という暴力から逃げていたのではなかった。追いつかれるはずなどもうなかったのに、ただそうすることで何かを痛めつけたかったのかもしれなかった。

 死地となった喫煙所からは十分に距離を取った、新校舎と体育館を繋ぐ空中渡り廊下の下。常に陰となる校舎通用口のドアに背中を押し付け、そのままずるずるとしゃがみこんでコンクリートに片膝立てて座り込む。鮫の歯の間から、溺れるように白い息。ステージイベントの観覧に向かわずその周辺で屯していた不良少女たちが、血だらけで駆けてきた恬を見て何事かと目を丸くする。

「……何やったん、気色悪……チッ……ああクソ、おもんないねん……」

 苛立たしげにスカジャンを脱ぐ。刺繍を入れた灰色のセーラー服だけ、冬の中で露わに。その内側で静かに流れる残り汗はひやりと不快で、レリーフを刻みつけるように生きる瞬間の証ではなくなっていた。恬にとって喧嘩の意味は、そうして飛び散る雫の中にこそあったのだ。それだけが桜森恬という存在を永遠に残してくれるような気がして、勝ち負けなんてどうでもよかった。

 あれだけ強い相手と喧嘩ができるのは、恬にとって愉しみ以外の何物でもないはずだった。それなのにこの、胸の奥で渦まく吐き気のようなストレスは何なのだろう。断じて、勝てなかったことが悔しいのではない。

 とっくに乾いた口からなおも唾を吐き捨て、歯軋りをする。糺四季奈の泣き顔が、瞼の裏から離れなかった。

 思い出す。困ったような、しかしそれも少し楽しいような微笑を浮かべながら、手首の内側の時計を見ていた藤宮和姫に、恬は何をしたのだったか。あらゆる想いを踏み躙って闘争という快楽を求め続けた、その罰が糺四季奈という姿で目の前に現れたのか。

「ッ……!」

 凍りつくような鋼鉄のドアを、恬は拳の甲で叩いた。

 桜森恬。

 彼女の物語に、未だ、曙光は射さないままである。

 早い話が――また、いつかの機会に。



「……あのやろー、逃げやがってー。……まーよー、喧嘩さえやめてくれりゃどーでもいーんだけどよー」

 ぱっ、と。ミンスは掴んでいた四季奈の手首を離す。

 どこから情報を嗅ぎつけたものやら声優としての彼女を目当てにしたアニメファンがキムチチゲの屋台に列を成し、慌てて運営本部に応援を要請して『魔女離帝』親衛隊のスタッフに列誘導を頼んだりとてんやわんやであったものの。

 少し休憩を取ってみれば、ふたりの間の屋台に桜森恬の姿はなく。狂気なりしかのトラブルメーカーが何か起こしてはいないかと、店番を押し付けられた鷹山覇龍架を問い詰め、ミンスとソニアは喫煙所へ到ったのだ。

「もう、よかとやないのミンスちゃ。屋台戻らんと……待っとー人多かよ」

「あー? ちくしょー、オフまでオタクの相手なんかやってられっかよー」

 その言葉は。

 決して、目の前に独り残されている四季奈を軽んじたものではなかった。ユ・ミンスと女原ソニアにとって、責務はそこまでだったのだ。オープンキャンパスの秩序を保つという、『魔女離帝』構成員としての責務。それだけのことだ。糺四季奈が桜森恬に向けていた地球より重い感情など、彼女たちの人生には無縁のもので。だから御法度の喧嘩を仲裁して、それが済んだら帰るというのはあまりにも当然のことでしかないのだった。客がどんな思いでこれからその弁当を食べるのかいちいち気にするコンビニ店員がいないのと同じ。

 だが、彼女たちは忘れてはいけなかった。

「はあ? 何を帰ろうとしているのであるか、貴様ら」

 目の前の少女は――糺四季奈は、そんな理屈が通用する相手ではないということを。

「貴様らの横槍で、桜森をスカウトする計画が台無しである。……シキナリアの民には寛容な大統領<プレジデンテ>であろうと日々努めている余であるが……憂さくらい晴らさせてもらっても良かろうなあ?」

 それは、失恋に似た何らかの喪失体験をきっかけとした癇癪でしかなかった。

 鬼百合で五本の指に入る喧嘩強者が起こす、暴風雨のような癇癪である。

「んー?」

 両手を恬の血で汚したままの四季奈をそこに捨て置いてとっとと引き揚げようと既に踵を返していたミンスの手首を、鋭く掴んだ。先程とまるで逆の構図。

 意図的な平坦さを保ちながら舐め腐ったようなその口調で、何を告げることも許さなかった。

「う、お」

 重力を見失う。

 手に腕に肩に、異常な痛みは遅れて訪れた。

「ミンスちゃ?」

 隣を歩く、少しだけ背の低いミンスの影が。

 音もなく消えたことに、ソニアが気付いたのは。

 被ったキャップをふわりと落としながら、その痩せた身体が、天地を逆さにして校舎の壁へ叩きつけられた時だった。

「ひっ――ひええええええええええっ!? ミンスちゃ!!」

 空中で仰向けにさせられ、そのまま頭を下に腹側から壁に激突したミンスは、商売道具である声を漏らすこともなくただ落ち、雨樋の根本で顎を打った。

 揺れている。

 ツインドリルが揺れている。

 メロンとスイカで留めた前髪、その下で長い睫毛が遊ぶ。虚ろなひかり、そこにある。

 投げた。何の技術もそこには介在せず、糺四季奈はユ・ミンスの身体を壁に向かって腕一本で投げ飛ばした。それだけだった。

「き……」

「ソ、ニア。こいつは、ヤバい、って――」

「きさん、何ばしよっとね!!」

 肺が潰れそうな中でも声を絞り出し、ミンスは壁に沿うようにうつ伏せに倒れたままソニアの方へ這おうとした。四季奈はミンスの落としたキャップを蹴る。キャラクターの缶バッジがアスファルトで軽く弾むような音を立てた。

 頬をかっと紅潮させたソニアの脚が、丸めた背中から怒気を放ちつつ静かに立つ四季奈の首辺りを狙った。やはりどこかバレエを彷彿とさせる、膝から爪先までを一直線に伸ばして腿の付け根から振り上げるハイキック。大人しいはずの彼女は沸騰していた。親友のミンスが背後から理不尽な暴力に晒されたことに。

 四季奈は、左の肘で蹴りを受けた。肉が肉をしたたか打つ音が校舎裏に響き渡った。絶対防御<オートガード>の展開はなく、ただソニアのスニーカーの甲を腕の最も堅い部分で受けるという、シンプルな肉体動作の一ステップをわざわざ踏んだ。だがそれを意識させる間もなく――尤も、ミンスとソニアは彼女の「弾く」ガード戦法を目にしてはいなかったのだが――四季奈の脚が地を鳴らす。

「……!」

 カメリアピンクのシャツの袖が、油滴のようにかたちを変えながら空を滑った。

 大きく踏み込み、歯を食い縛って――ソニアの顔面に、四季奈は大振りから拳を叩き込んだ。

「ああッ!」

 今の四季奈は、そんなものでは彼女を許さなかった。そのまま右手でソニアの額を掴み、勢いを殺せないよう引き寄せながら、一発、二発、三発と左を鳩尾へ打ちつける。

「余と! 桜森の! 邪魔をするなあッ!!」

「げ、おおっ」

 腹を突き上げられながら身体をくの字に折ったソニアが、こみ上げた胃液と区別のつかない涎を唇の端から垂らす。瞼をひくつかせる彼女、自分より背の高いはずの彼女の赤く腫れた顔を、醜いものを見てしまったとばかりに見下しながら、四季奈はソニアの前髪を離すと同時に縺れた脚を払って突き転がした。

「ブスが、太い脚で余を蹴ったな? どういう了見であるか? ええ? 貴様」

 そのまま皮膚の薄い手首に足の裏を押し付け、逃がさないよう体重をかけてごりごりと踏み躙る。激痛に、ソニアは喉に引っ掛かった僅かな量の吐瀉物を零して金切り声を上げた。

「余はそういう根暗根性の染み付いた面構えが大嫌いである」

 身を捩った弾みで、眼窩に嵌めていたモノクルが外れた。ピアスから細く煌めく鎖で繋がったその薄いレンズを、四季奈は無造作に指で摘まみ上げる。涙を浮かべ充血したソニアの右目の瞳は、透き通るアメジストのような藤色をしていた。

 鎖がぴんと張る。四季奈の指先からソニアの耳朶へ。

「うむうむ、いかにも……こういうアクセ、しがちであるよなあ貴様みたいなのは……!」

 憎々しげに、美貌を歪めて。

 ソニアの絶叫をBGMにそのまま容赦なく鎖を引き、ピアスごと耳から引き千切った。

「余の方が似合うであろ? ……うわ変な色、何であるかこれ」

 前髪を掻き分け、嵌めてみせる。飛び散った血で先端の染まった鎖を左右に振らせながらぶら下げて。

 桜森恬に流させられた鼻血の痕を、その赤黒い斑を傷のように残してなお美しい顔を、誇らしげに見せつけ。

 糺四季奈は――信じた月日に裏切られた不良少女は、悪魔のように微笑した。

「い、痛っ……」

 女原ソニアが擦り剥いた手で押さえるのは、しかし裂けて血を流す耳ではなく。

「『色』が……あァ……頭……割れっ、と……!」

 倒れ、這って逃げるように藻掻きながら、繰り返し噎せて胃液を零しつつ手のひらの底を右目に押し当てる。紫の瞳。まるで自ら潰そうとでもするかのように。

 その姿――瞼をこじ開けて、ミンスは見た。

「ソ、ニア、てめー……やっぱまだ痛むんだな……『日々の形容詞<ワークライフバランス>』がよ」

 自分の骨格が、筋肉が、内臓がまともに機能しているのか、ユ・ミンスにはわかっていなかった。

 だが、そんなことは彼女の頭から消し飛んでいた。常に「メタルシルバー」を心掛けるようにとソニアに演技指導され、平坦に保っていた声音と共に。

「ゴミクソドリル……もう一ぺんでもそいつに触ったら……殺すぞ!!」

「やってみるがよいのである、整形顔」

 手をついて必死に立ち上がったミンスは、大股一歩からソバットを蹴り込んだ。

 盗み癖の彼女が逆に奪われたモノクル。ただの装身具では勿論なく、かといって視力矯正器具でもない。共感覚の瞳から流れ込む情報の洪水から脳を守るものだった。

 自分が投げ飛ばされた怒りよりもソニアを痛めつけられた怒りの方が万倍大きく、それらよりもさらに大きいのが、一秒でも早くモノクルを取り返さなければならないという焦り。

 だが。

 焦れば焦るほど。

 勝機は指の隙間から。

 情け容赦なく、零れ落ちていく。

「ぐ、」

 流れるような、四撃。

 蹴りを俊敏に躱されてから、腰の捻りの乗った低いボディブローが一発、二発、さらに顎への掌底で脳が揺らされ、体勢を崩して膝を落としたところ顔面へノーモーションからの膝蹴り。

 たった四撃で、ミンスの意識は半ばまで吹っ飛び、戦闘能力のほとんどを奪われていた。ディスコの夢から醒めても、依然として糺四季奈の全身全霊。

 恐ろしいのは、その膂力ではなかった。

 躊躇の無さだ――『魔女離帝』に所属するミンスとソニアへの攻撃は、楽土ラクシュミと大軍団を敵に回すということを意味する。そんな未来を見据えての躊躇が、糺四季奈にはひとつもない。これが大統領<プレジデンテ>。これが生徒会長<プレジデンテ>。

「うむうむ、いかにも! 余、絶・好・調……である! 貴様のためではないのだがな?」

 そのまま後頭部を打ちそうなほどの勢いで尻餅をついたミンスの喉に、波のように躍動した爪先が突き刺さった。

「ぐぶっ」

 暴力の前で、声帯の機能が持つ価値など塵芥となる。

「貴様ら『魔女離帝』の手の者であろ? 丁度良い、楽土をここに呼べ。桜森と一緒に乗り込むつもりであったが……最悪、余ひとりで革命は十二分に成るのである」

 ひどく咳き込むミンスを、腰に手を当て見下していた。

 本日の主役――襷が、空虚に風の中を泳ぐ。

 サングラスが飛んでいって露わになった目はそれでも四季奈を睨み上げ、喘ぐような息継ぎを繰り返しながら、ユ・ミンスは唾を吐き捨てる。

「マハラジャも……『魔女離帝』も、関係ねんだよ……この××××女。てめーだけは、」

 言い終えることなど許されなかった。直後、ミンスの長いプリン金髪が掴まれ、そのまま引き摺るようなアンダースローの軌道で灰皿の角へ打ち付けられる。力の抜けた四肢はアスファルトに投げ出され、頭は血の痕を弧状に残しながらずるりと重力に呼ばれて折れ曲がった。彼女と違って失神こそしていないものの、否、できていないと言うべきなのか、ソニアも頭を両手で押さえたまま苦痛に身を痙攣させ続けている。

 ちらりとふたりの様子を窺った糺四季奈はモノクルをオーバーオールの腹ポケットに仕舞い、襷のねじれを解して皺を伸ばすと、まずバスケットを拾い上げる。そして、その中に辛うじて残っていたプラムに皮ごと齧りつきながら、落ちたスマートフォンを探してゆったりとうろつき始めた。

 舌の上の甘酸っぱさは彼女にとって割れた初恋の飴という純情の味であって、断じて、辺りに漂う血の臭いには由来しなかった。

「はーあ。しかし……どうしたら桜森と仲良くなれるのかなあ……」



「な、な、な、なんとぉぉぉーーー!! 謝花百合子君のステージに、まさか、まさかの乱入者だぁーーー!! マスクド鬼百合と名乗る謎の女性が、今!! サーベルを手に乗り込んで参りました!! 前代未聞!! 鬼百合女学院オープンキャンパス恒例ミスターコンテストで、前代未聞の事態が発生しております!! さながらタイガー・ジェット・シン、サーベルを振るうインド人!!」

『いや、謎だっつってんのにインド人とか言うなよ』

 口元、涼しいまま。マスクド鬼百合は前髪を掻き上げる。少し広めのその額、すべすべとしたチョコレート色で。

「剣を取りなさいな」

 目の前に突き立った細い刀身。鈍色の空の下、ぎらぎらと鋭く輝いている。しばらく前までそれが刺し貫いていたハンバーガーのパティの脂で。

 百合子は、当然何もかもに動揺しながらも、目の前の彼女をよく観察していた。

 ――おっぱい……大きいな……

 寒空の下、仮面の少女は薄く上品なパーティードレス一枚で君臨している。特殊なヨガの呼吸法が彼女の褐色の肌の内を燃やしているのだと、対峙する百合子はまだ知らない。

「百合子……!」

 和姫の声は――

 沸き起こった大歓声に、飲み込まれた。

「いいぞ、やれやれェ!!」

「はい、あたし楽土に千円!」

 そう――誰しも。

 鬼百合の不良少女たちと、鬼百合を目指す不良少女たち。今日ここに集った彼女たちは皆、喧嘩御法度で祭りを楽しみつつ、誰かが「やらかす」ことを心の奥底では期待していたのだ。……皮肉にも、大統領を名乗る糺四季奈は、人目につかない喫煙所を桜森恬との待ち合わせに使ってしまったがために民意に応え損ねたわけである。

 女と女、燃え立つ華と華が繰り広げる拳の相剋。目くるめく青春の闘争。それこそが鬼百合で――鬼百合を今の在り方に保つために日々尽力している生徒兼理事長たる彼女が不良少女たちにパンのみならずサーカスをも自ら供しようというのは、筋の通った面白い話であった。

 ……彼女のことを仰ぎ見る対象としてしか知らない庶民たちにとっては。

「マハラジャ……? 一体、何を……」

 絆はひどく理解に苦しんでいた。マスクド鬼百合、もとい楽土ラクシュミは確かに。確かに、富と権力に物を言わせてサプライズに興じるタイプの少女ではあるのだけれど。

 主催者として、イベントを盛り上げるために一肌脱いだということだろうか。自ら提示した喧嘩御法度を引っ繰り返して。

 否。それもあるかもしれないが、決してそれだけではない。

 絆にはわかる。もしそうなら――その標的は自分、絆・ザ・テキサスのステージだったはずだからだ。どうせ、何から何まで茶番なのだ。本気の喧嘩をしようというわけではない。その前提であれば、勝負を挑まれるのは絆以外あり得ないのだ。

 何故なら、観衆が最も盛り上がるのは楽土ラクシュミ対絆・ザ・テキサスという対戦カードだから。

 全く以て、困った少女たちだった。不良は、関係性に聡い。本気のタイマンでは実現し得ない主従対決に、場が沸くことは請け合いだ。ラクシュミがそれに気付かないはずはなく、気付いた上で避けるはずもなかった。ラクシュミのことを誰よりもよく知る絆だからこそ、それは断言できた。

 だからこそ、彼女はただ大会を盛り上げるための余興として参戦したわけではない。今ここで謝花百合子と対峙することに、他の意味があるとすれば。

 ――彼女を見極めるため、ですか。

 キン、と金属音が走る。鍔迫り合い。刺突によって仕合うサーベルフェンシングでは自然発生しないはずの距離にふたりがいるのは、観客に気取られないようラクシュミが百合子へ囁きかけるためだ。

「これから五度、わたくしは突きを外しますわ」

 吐息、葡萄の酒気。それから遅れて、葉巻の薫香。

 知らない匂いだった。帝王の覇気を、百合子は初めて前にしていた。

 サーベルを、おっかなびっくり引き抜いて。その瞬間ラクシュミはハイヒールのまま強く踏み込み、剣先を疾走させてきたのだった。咄嗟に顔の前で構えた百合子の刀身が、ラクシュミのそれを滑らせた。歓声、再度。

「……!」

「その間に、『見て覚えなさいな』。……出来ますわよね?」

 五度外す。即ち、六突き目は本気で貫きに来るということ。奇しくも先程の外連と同じことを口にしながら――今度は、ダンスの振り付けなどとは話が違う。まさしく命懸けの剣舞。

 楽土ラクシュミが、百合子にとってはマスクド鬼百合以外の何者でもない彼女がなぜ「瞳」のことを知っているのか、考える余裕などはなかった。百合子の剣を弾いたラクシュミはふわり舞い上がるように後方へ跳び退り、唇を「いきますわよ」と動かした。

 褐色の腕は、濁流のように空を呑んだ。

 決して筋肉質でもない、女性的な麗しい手。疾く、疾く。百合子の右耳の微かに外を、左肩の微かに上を、音もなく針の如き剣先が突く。あと三。

「はあッ!」

 カツン、とヒールが舞台で音を立てる。突きが遅れている――タイミングを。ずらすために。ブラフとしての発声および震脚の一秒後、腰の押し出しに乗せた直線が。百合子の学ラン、剣を握る右の袖を引っ掛け、金のボタンを弾き飛ばした。

「百合……」

 格闘の状況とは違う。振るわれているのは、たったひと刺しで命を奪いかねない凶器そのものだ。和姫は歯軋りをして、なんとしてでも止めようとテントを飛び出しかけた。

「……」

 しかし。その腕を掴んだのは、外連だった。

「邪魔しない方がいいよ。ふたりとも、必死で集中してっから」

「いやっ、でも……」

「だーいじょうぶ」

 突き、横払い。瞼を見開いた百合子の髪は、ラクシュミの握るサーベルと反対方向へ流れる。この唐突な剣戟の意味など理解できないまま、身体が勝手に動く。肉体は、その瞳から得た情報への対応を始めていた――「剣術」という未知の領域を、開拓し始めていた。

「だって、ラクシュミだもん」

 ラクシュミは白く塗られたベニヤを蹴り、鳳凰が如く翔んだ。夜天の深い瑠璃色をしたドレスが広がり大輪の花と化す。空中で腕を引く。剣、稲妻として地を撃たんと。見守る誰もが息を呑む。猶予としての最後の突き、降り注ぐ。

 ヘーゼルの瞳、煌めいて。

 高い音は、鈴のよう。百合子の振るったサーベルが、何もせずとも逸れていく段取りであったはずのラクシュミの突きを払った。

 研ぎ澄ませた一閃。それはもはや素人の闇雲な動作ではなかった。百合子の細い輪郭を、汗の雫がひと粒伝う。

「……」

 たたん、と。均整の取れた美しい肉体が、ドレスの裾を気にしながら着地する。弾かれたサーベルの刀身、微細に震えるまま。

 波打つ黒髪を耳にかけて、ベネチアンマスクの中にある翡翠の瞳が百合子を見つめた。

「やりますわね」

「……ごめんなさい……でも、『わかった』から。五回目を外した後……一瞬だけ、引いて……また……突こうとしてるって……」

 百合子は学ランのホックをぷちんと外しながら、視線をおどおどと泳がせていた。

「狙いは……わたしの、喉……だと、思う」

「……上出来ですわ。ええ、上出来ですわ」

 ぴっ、と剣を振ったラクシュミは、仮面を外して放り捨てる。客席がざわついた。

「この楽土ラクシュミ。鬼百合女学院を代表して……謝花さん、貴女を歓迎致しましてよ! お~~~っほっほっほ!!」

「楽土……ラク……シュミ……?」

 記憶の中に引っ掛かる名前だ。つい先日、礼拝堂で『魔女離帝』の頭としてその名前を耳にしていた。

 ――らくらくさん……?

 はずなのだが、百合子は物の覚えが割と悪かった。

「マスクド鬼百合の正体は!! なんと!! なんと!! 我らが『魔女離帝』の偉大なるマハラジャ!! 楽土ラクシュミその人だあーーー!!」

『なんとっつーか全員気付いてたと思うけどな』

 五度の突きの間つい百合子と共に息を止めていた実況のアスヤ・蓬莱・パシャも、我に返ったようにマイクを握る。

「楽土……せんぱい。なんでわたし……」

 小首を傾げた百合子が言葉に詰まっている間に。

 サーベルをくるりと手元で回してステージに突き刺したラクシュミは、ウィンクひとつして、唇にそっと人差し指を当ててみせる。

「貴女、気に入りましたわ。『魔女離帝』に入りませんこと?」

 客席が一層激しくざわつく。それはそうだろう――『酔狂隊』の水恭寺沙羅と『魔女離帝』の楽土ラクシュミ、ふたりから直々にスカウトを受けた人間などこれまで皆無であったのだから。それも、やはり大して強そうにも見えないこの小柄な人形のような少女が。

 実際、直観できたのは向かい合うラクシュミ自身と――強いて言うならばテントの隅から傍観していた絆くらいのものだった。ラクシュミは六突き目のための剣気を念入りに押し殺していた。それを気取ったのは、百合子の天性に他ならず。

「……と、言いたいところですけれど」

 百合子の視界から。

 豪奢なドレスの星空が、消えて。

 背後から、声。ローファーの底が削れるほどに素早く振り向きながら跳び退る。百合子は、そっと顔の前でサーベルを構えて。田中ステファニーから学び取ったボクシングの基本、サークリングの足運びだった。弧を描くように、突如として背後に現れたラクシュミから視線を逸らさぬまま。その対処の早さは、すっかり格闘慣れしたプレイヤーのそれだ。

 だが――既に剣を手放していたラクシュミの方が、早い。レースの花弁を舞わせるように、鋭い回し蹴りが百合子のサーベルを弾き飛ばす。

「出たーーーっ!! マハラジャ楽土ラクシュミの十八番!! ヨガテレポート!!」

『いや、それはどうかと思うけどよ……縮地っつーか、瞬歩っつーか。漫画でよく見る移動術だな。テメーんとこの大将、バリバリ本気じゃねえか』

 ――脇腹にお見舞いして差し上げるつもりだったんですのよ!

 そう、本当は。

 百合子の反応速度は予想以上だった。だが、ラクシュミは超然として微笑む。楽土は常に王道に在る。

 踵、唸らせて。肩幅に脚を開いた百合子は、腕でラクシュミの拳を受ける。左右に一発ずつ。肘を破壊されないよう、骨を圧し折られないよう、正面からしっかりと筋肉で受ける。

「マハラジャの連打が入ったあああーー!! ガードします謝花百合子!! 防戦一方!! さあどう出る!! どう対処するのでしょうか謝花!! ここにいる皆さんは幸運です!! マハラジャの喧嘩は未知の世界!! 数多の不良少女を葬った帝王の拳、目に焼き付けて帰りましょう!!」

『しかし、ヒールであんだけ腰の入ったパンチ何発も……体幹どうなってんだ?』

 ――痛い……

 正宗皇乃の指摘の通り、ラクシュミは足の裏で踏ん張ることのできないハイヒールのまま、ただ上半身の回転力で拳を振るっていた。それでも、受け止めた百合子の腕さえびりびりと痺れる。女性の肉体から放たれていることが信じられないほど、一発一発が砲弾のような重さを伴っている。

 だが、まだ闘える。それが何よりも重要なことだった。百合子は軽く唇を舐める。もはや目の前の彼女はステージを侵す乱入者ではなかった。今は誰でもなく、誰でもいいけれど、拳を交わして理解し合える相手。不良少女の燃え立つ魂が帯びる仄かな温もりが、肌から肌へ伝わっていた。

 こういう瞬間に、彼女たちは命という樹の蜜が喉から身体の芯へ流れていくのを感じられるのだ。

 重心を落とし、懐へ。そのまま、アッパーを滑り込ませる――筋肉を締めず肩から振るように掬い上げる、琉球空手で言うところの「鞭身」。

 しかし――肉が肉を打つ音、高く響いたかと思うと。

 百合子の右拳は、ラクシュミの右の手のひらへ吸い込まれていた。キャッチボールをミットで受け取ったかの如く、至極当然の顔をして、ラクシュミは拳打のラッシュを休めたほんの刹那を狙った百合子のアッパーを読み切り、腕を斜めに差し出していたのだ。

「なんという……なんという攻防!! 沖縄の花、謝花選手の抉り取るような一撃を!! 防ぎましたマハラジャ!!」

 誰かが指笛を吹いている。

 放送席に設置されたプロジェクターから大モニターへ映し出され続けていたミスターコンの出場者一覧が、一瞬、白く翳った。ちらちらと微かな雪が舞い始めたことに、百合子とラクシュミの仕合に釘付けの少女たちは気付かなかった。

 ヨガの呼吸が、褐色の肌に秘された細胞の全てを輝かせていた。金色のアイシャドウに飾られた翡翠の瞳、そこに。世界経済を掌握し得るその頭脳を惜しみなく回し、楽土ラクシュミは喧嘩をする。

 優雅なれど猛烈な覇気。厳然とした力量差をひしひしと感じ、百合子はラクシュミの握力で自らの小さな拳が砕かれるような、そんな一瞬後の未来さえ幻視した。

「強くなるんですわよ、謝花さん。わたくしの楽土たる学園、この鬼百合の全てを食らって。そして」

 宇宙のようにドレスの袖と裾。百合子は咄嗟に、空いた左の手のひらを地に押し当てて体重をかけた。掴まれた右手を捨て、左手だけを支点に下半身を跳ね上げて蹴りつける。乙丸外連のカポエイラ。

「いつか、『魔女離帝』と『酔狂隊』が……わたくしと沙羅が、最後に決戦する日。あの女の最強の使徒として、わたくしたちの前に立ち塞がって頂戴な」

 すっと手を離しただけだった。ラクシュミがそうしただけで、片腕で身を支えていた百合子はバランスを崩す。蹴りは体重が乗り切らず不発。その分早く立ち上がろうとした百合子だったが、待ち受けているのは渾身の拳。ヨガの呼吸で練られた気がラクシュミの全身に漲る。

「マハラジャ……!」

 絆・ザ・テキサスが、待機用テントの支柱を握る手に力を込めた。

 帝王のヴァジュラ――

『全校連絡、全校連絡』

 教導と今後への期待を込めたその拳が、百合子の顔面で炸裂する寸前だった。

 やけに大きな音量でチャイムが鳴り、ラクシュミはぴたりと動きを止めて瞬きをした。

『音楽科主任の先生、音楽科主任の先生、至急五階へお越しください』

 無機質でやや不気味な合成音声が、流れる。

 鬼百合女学院敷地内、ありとあらゆるスピーカーから。どんな放送よりも優先されて。

 当然、何事かと不良少女たちは顔を見合わせる。入学してこの方、職員室の業務連絡など聞いたためしがないからだ。

「皆さん静粛に!!!!!」

 ざわめきを掻き消さんとして声を張ったのは、実況のアスヤ・蓬莱・パシャであった。

 彼女が、その意味を知らないはずはなく。

「『音楽科主任』なんて鬼百合にいません!! この放送は符丁!! 不審者制圧用、全域音響攻撃の警報です!!」

「誰も生徒手帳を読んでいないとよくわかりましたわ!! 今すぐ全力で耳を塞ぎなさいな!!」

 理事長たる楽土ラクシュミも、ステージの上から大声で群衆に呼び掛ける。

 不審者制圧? 音響攻撃? 誰もが異常な展開の連続に戸惑いながらも、緊張感は瞬間的に広がった。少なくともつい一瞬前まで百合子と喧嘩を繰り広げていたラクシュミが耳を押さえて蹲ったのを見上げて、からかわれているわけではないと感づき次々と倣う。

 バーチャルヤンキー・正宗皇乃だけを例外として、百合子も、和姫も外連も、絆も。今この場にいない少女たちの無事にまで思いを馳せる余裕はほとんどの人間にはなく、ただ訪れんとする爆音に備えていた。

 ……

 ……一秒が経ち、二秒が経ち、三秒が経ち。

 何も、発生していない。

 恐る恐る、幾人かの少女は耳孔に突っ込んだ指を外す。

『あ、あー』

 ひっと小さく悲鳴を上げて奥歯を噛むが――鼓膜を破壊する大音響などではない。ただ、先程の合成音声とは違い、生身の誰かが静かに喋っていた。

『大丈夫。あたしが鍵ぶっ壊して入ったから作動したみたいだけどさ、もう切った』

 次から次へと転がる事態に、何が起きているのか理解できている少女がどれだけいただろうか。その全貌はとても知らずとも、たとえば藤宮和姫は聞き覚えのある声にはっとして顔を上げていた。

 耳を傾ける少女たちのうちたったひとり以外を悉く置き去りにして、声の主はただ淡々と告げる。

『あたしは、大鳥居みか<オートリイ・―>。川崎からわざわざ来たんだ。わかってんよね――白沼銀子。新校舎? ってとこの屋上で、待ってるから。以上。ご清聴ありがとうございました』

 オープンキャンパスが――鬼百合女学院の長い長い一日が、いよいよクライマックスを迎えようとしていた。

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