第三話『第四使徒 硯屋銀子』7
「楽土のやり口じゃねえ。まず間違いなく小峰の独断だろうな。……そうだろ水恭寺」
「ああ。あたいもそう思ってたとこでね」
「うーん、それはそうだろうけどさー……小峰、小峰かあー。ラクシュミのやつ、なーんであんなのを幹部にしてんだろ」
夢雨塗依と目を合わせることなく、銀子は指先で弄んでいたゴロワーズの蒼い箱を開け、ヘルミの方へ黙って手のひらを差し出す。彼女がそこへ乗せてくれた百円ライターで一瞥もせずに火をつけて、紫煙を細く吐く。礼拝堂の寒い朝、ストーブの上の薬缶だけが変わらずにしゅんしゅんと音を立てていた。鬼百合という土地のはずれ、使徒と呼ばれる少女たちの寄る辺。森の奥の古い礼拝堂。
「で――」
そして、ぎろりと。三白眼の向く先は、当たり前のように神妙な顔をしてそこにいる――
「誰だ、お前」
「はあ!? 何忘れてくれてんですか、私のこのイケメンフェイスを散々ブン殴っといて!?」
バンダナ海賊巻きの少女であった。
昨夜、校門前の路上で何があったのか――当事者である『繚乱』のツートップが直々に語ったその回想に、彼女はとうとう登場しなかったが。
「硯屋先輩、あんたがラブホの前で散々ボッコボコにしてくれた東儀帯水<トーギ・タイスイ>ですよ!! 春から鬼百合入るんで今は『繚乱』見習いやってます!! どーーーぞお見知りおきを!! けっ!!」
「いや知らねえし……興味ねえ……」
「ああ、この前の君か……お姉さんが居合わせながら、可哀想なことをした。顔の腫れが引いたようで何よりだよ。よしよし、サルミアッキをあげよう」
「結構です!!」
「和姫、らぶほって何……?」
「嘘だろお前、世界一空気読めない人かよ」
星野杏寿が咳払いをした。
「きひひ――ま、そーいうわけでよォ……何にせよ、俺たちゃこのザマだァ……まだ見られるツラで居られてんのァ俺とヌリィと、店仕舞いしてたこのガキくらいでよ……後ァ病室がいっぺんで出張『繚乱』に早変わりってとこだァな! きひひひっ」
彼女が笑うと、髪を結んだゴムの先で首を括られている紫色の小さな布人形が揺れる。野蛮にして獰猛な獣の如く鋭い瞳も、しかし今ばかりは穏やかなる光を湛えていた。傷の手当てを終えた後にシンナーを吸ったばかりか、その焦点は合わないままであったが。
実際問題として。
自嘲するように笑うくらいしか、彼女たちにはできないだろう――小峰ファルコーニ遊我とその手勢を正当に非難するのは、なかなかに難しい。それはひとえに、ここが鬼百合女学院であるからだ。遊我は豪快なようでいながら実に狡猾と見えて、彼女は昨夜の襲撃に際し、努めて「正々堂々」としていた。不意討ち騙し討ちをするでもなく、客の少女たちを巻き込むでもなく、武器を使うでも数に物を言わせるでもなく、ただ僅かな直属の兵隊を引き連れて校門で待ち受け、およそ四倍近い軍勢に正面から喧嘩を売った。その上で大敗を喫した『繚乱』が、どんな根拠を以て小峰一派を糾弾できようか。
そんな不良少女の論理が存在するからこそ、『酔狂隊』の使徒たちは『繚乱』の屈辱に寄り添い同情することはできても、彼女たちのために憤ることまではできずにいた。
「そういうわけなんだ。だから恥を忍んで頼むんだよ、硯屋。あたしたちの代わりに――」
「つったってお前……『酔狂隊(うち)』から『魔女離帝』に手なんざ出せるかよ」
鬼百合女学院において無条件で悪と断じられる行為があるとすれば、それは卑怯卑劣の類であろう。そして、小峰ファルコーニ遊我は『繚乱』との喧嘩に際してそう捉えられかねない要素を徹底的に排していた。彼女たちは正々堂々、『繚乱』を叩き潰したのだ。「喧嘩を仕掛ける」こと自体は、勿論そうされた側の勢力に属する者が報復を行う理由にはなるとしても、第三者――ここでは銀子、ないし『酔狂隊』――が報復に手を貸すことを正当化する理由にはならない。最悪、『酔狂隊』と『魔女離帝』という二大勢力が正面衝突する事態にさえなりかねないのである。
故に銀子は、煙草を指先に挟んで舌打ちをし、気まずそうに頭を掻く。
しかし。しかし――
細い脚の間で手を組み合わせ、声のトーンを落として、夢雨塗依が口にしたのは――あまりにも予想を外れた言葉だった。
「――オープンキャンパスの男装ミスターコンに出て、『繚乱』の宣伝をしてくれないかな」
「は?」
二年生たちが額を突き合わせている間、少し離れて座った百合子と和姫は、小さな声で囁き合っていた。
「和姫、『魔女離帝』って……?」
「お前めちゃくちゃ自由だな……まあ、でも、その辺りの話はまだだったか」
左手でわしゃわしゃと頭を掻いた和姫は、長椅子の座面に鞄から出したノートを置く。
「鷹山、代わりに図描いてもらっていいか?」
「うッス!」
和姫はモノトーンの布ペンケースを開けると、同じく身の置き所を見つけられずに脚をぶらぶらさせていた覇龍架にボールペンを渡した。利き腕が使えないのは実に不便であったが、もはやそんなことを表情の端にさえ浮かべなかった。吐息さえも温かく感じられる距離にいて瞼をそっと上下させる彼女を責める気など、和姫はもうとっくに失っていた。
「まず、鬼百合には圧倒的に強い勢力<チーム>がふたつある。私ら『酔狂隊』と、『魔女離帝』。うちの頭はお前も知ってる通り水恭寺沙羅さんで、『魔女離帝』の頭は楽土ラクシュミ……さん。沙羅さん外連さんたちと同期の二年で、この学校の理事長でもある」
覇龍架が大きな丸をふたつ書く。
「『魔女離帝』……」
「『酔狂隊』は……まあ私らが言うのもアレだけど、少数精鋭だろ? で、『魔女離帝』はとにかく人数が多い。全校生徒の半分以上だしな……ってかお前、楽土って聞き覚えないか? 楽土コンツェルン」
「あ……島にいた頃……宮古に楽土リゾートってところがホテル造るって……聞いたかも……」
「そうそう。あの人、そこのグループ全体のトップだからな。未成年なのに。それくらい異常に金持ちで、『魔女離帝』のメンバーもほとんどは金で雇われてるんだよ」
「え……? 何がしたいの……?」
「まあ……色々、あってな。沙羅さんたちと」
その時の和姫の表情の意味を――
百合子が知ることになるのは、もう暫く後のことである。
寂しそうでもあり、申し訳なさそうでもあり、いずれにしても眼鏡越しにどこか遠くを見て、藤宮和姫は小さく首を振った。
「とりあえず、いいよ。その話は。……鷹山、余ったスペースに他にも丸を描いてくれ」
「了解ッス」
よく見ると『酔狂隊』の丸が『魔女離帝』の丸より微妙に大きくなっているノートのページの余白に、より小さな丸を幾つか。
「そこの人たちの『繚乱』とか、『月下美人會』とか、他にも色々あって……あと、すげー少ないけど、どこの勢力にも属さない奴もいないわけじゃない。沙羅さんの妹の水恭寺綺羅とか、二年で生徒会長<プレジデンテ>なんて呼ばれてる糺四季奈<タダス・シキナ>って人とか。『酔狂隊』辞めたから今の田中もそうだな」
覇龍架が小学生のような筆圧だけが強い下手な字で固有名詞を書き入れていく図を覗き込み、百合子はこくこくと頷いた。
「大体わかったか?」
「うん……いろんな人と……タイマンしてみたいな……もっと……知りたいから……」
小麦色の頬、表情筋は強張ったままだけれど――ほんの少し、緩ませて。
百合子は、マフラーが半ばまで隠した桜色の唇から白い歯を覗かせた。和姫が思い出していた、昔からの彼女の癖。微笑む時に、微かに首を傾げて。黒い短髪、流れる。頭を飾る真紅の花、揺れる。
「でも……和姫に、嫌なことする人は……わたし、絶対許さない」
――こいつ、こえーな……
――っていうか私が一番辛い思いしたの、直近だとお前に利き腕折られたことなんだけど……
「……楽じゃないぜ? 大体、こんな学校に通い続けてる奴は何かしら気合入ってんだよ。私はともかく田中とか外連さんとか、お前にも伝わってきただろ? そういう相手が、自分の全部を賭けて向かって来るのがタイマンなんだ」
藤宮和姫が。他の誰でもない、藤宮和姫が――そう語る。
幼い頃から道を示してくれていた大いなる光を喪って、拳を振るうことをやめた。それからは――彼女がいた鬼百合女学院で、傍観者として不良少女たちの生き様を見つめてきた。大切なものが何かを探すことさえ、百合子と再び巡り会うまでは忘れていて。
その彼女だからこそ、愚かしくも輝ける不良少女という者たちの在り方を、誰よりも客観的に理解していた。
「なんくるない、よ。わたし……負けない。和姫と、青春……するんだもん」
それでも。
謝花百合子は、そっと笑う。迷いなど微塵もなく。
「わたしにとってね……和姫の教えてくれたことが、全部だから」
彼女が和姫に連れられて初めてこの礼拝堂へやってきた日、鷹山覇龍架もまた使徒のひとりとして待ち受けていたのであり、姉貴分たる沙羅の背中越しにその姿を見た。無口で表情に乏しい、小柄で痩せっぽちの少女。頭にハイビスカスを咲かせて、ヘーゼルの瞳はどこを見ているのだか不明瞭で――いずれにしても、どこをとっても不良少女らしい箇所などなかった。かの歩く暴虐・田中ステファニーをタイマンで倒したとは、とても思えないほど。
だが今、理解できる。現状において鬼百合最強の呼び声高い水恭寺沙羅の舎妹であり、自他共に認める鬼百合マニアである覇龍架だからこそ。皮膚がひりひりとそれを告げてくる。矯正器具を嵌めた歯を食い縛りながら、雀躍しかける興奮を抑えて思う。
――間違いねー、この人は……
――百合子さんは、これからの鬼百合を動かす「女の中の女」たちのひとりになっていくんだろーぜ……!!
「わたしも、全部賭けて……タイマン、する」
決意を、聞いて。
藤宮和姫は、眼鏡の赤い縁に左手の親指でそっと触れ、小さく微笑んだ。
「そうか」
あの夏の眩しさはそのままそこにあって、この街もまた海辺であるからか、不意に蘇った汐の香りが目頭に沁みた。
「決してふざけてはいないよ――あたしたち『繚乱』は喧嘩の強さで売ってる勢力(チーム)じゃない。こうやってボロ負けしてる通りね……だから、新入生への一番のアピールチャンスはオープンキャンパスのミスターコンなんだ。まあ……簡単に言うと、来年に向けてのファン作り。他の勢力にとってはどうか知らないけど、うちにとっては大事な広告活動なんだよ」
「ただまァ――きひっ、ヌリィも俺もツラに何発か貰っちまってるしなァ? 仮にも鬼百合に来ようって女共が相手だぜ、ツラが良かろーが何だろーが、『喧嘩が弱え』って印象持たれちまったらネガキャンもいいとこだしよ」
スカウトと資金集め。来たる新年度に向けて存在感を発揮し、その双方の地盤作りを行わなければならないのはどの小勢力にとっても同じことだったが、お遊びのイベントに過ぎないミスターコンが最も重要なプロモーションの場になるというのが『繚乱』の抱える特殊な事情である。夜な夜な単車を走らせる傍ら新校舎の家庭科室を根城として男装ホストクラブを経営する彼女たちは、そもそも喧嘩をするための集団ではないからこそ。
しかし、当日を今週末に控えて、ステージに上がれそうな構成員がいない。そこで代打として白羽の矢が立ったのが、『酔狂隊』第四使徒・硯屋銀子であったのだ。
この二年間『繚乱』の粘り強いスカウトを断り続けてきた銀子だったが、実のところ、夢雨塗依とは知らぬ仲でもない。頼みの綱とされたのであっては、面倒ながら力になってやりたい気持ちが皆無というわけでもなかったのだが――
「んっ、んぷぷくくくっ、いーーーじゃん銀子!! やんなよ!! あっははははははは!!」
「こら、笑うんじゃないよ外連……ふふっ、どうなんだいスズ。面白い話じゃないか」
「ああ、実に……実に……くくっ、適材適所だと思うよ、お姉さんも……いや……くっくっくっく……」
「……テメエら全員ぶっ殺されてえか」
内容が内容だけに、その気持ちは秒速で目減りしていた。
だが、しかし。友達甲斐もなくひたすら面白がり続ける愛すべき同期たちを余所に、銀子の目の前で、塗依と杏寿は表情を崩していなかった。バンダナの少女、ホスト見習いの東儀帯水はむすっと唇をへの字に歪めて腕を組んでいる。……彼女にしてみれば、尊敬する先輩たちが銀子に頭を下げざるを得ないこの状況は気持ちの良いものではないのだろうが。
「別に俺らァ喧嘩するチームじゃねえからよ、人数なんざどうでもいいわな。だがよ――」
「『繚乱』をあたしたちの代で潰すのは、どうしても嫌なんだ。お世話になった先代があたしたちにくれた居場所だから」
塗依の秘めたる想いは、杏寿ひとりしか知らず。
杏寿の秘めたる想いは、きっと誰も知らない。
だが――『繚乱』を守りたいという願いは、共通して、彼女たちの中で小雨続きの恋心よりも重く絶対的だった。
「……」
眉間に皺を寄せ、溜息に乗せて煙を細く吐く。ゴロワーズの灰を空き缶に落として、じりじりと削れゆくそれを再び唇に挟んだ。
「第一、なんであたしなんだよ。背も別に高くねえし、人相悪いだろ? 水恭寺なんかの方がよっぽど向いてんだろうがよ」
「あたいかい? へえ、まあ褒め言葉として受け取るけどねえ。どう思う、外連」
「えー、銀子全然センスない! 沙羅はねー、いっつも目元強めのメイクしてるからわかりにくいけど自然に涙袋がくっきり出てるでしょ? ここがどうしても可愛くなっちゃうんだよね。沙羅、目おっきいからさ。夢雨みたいにブラウンの影で隠せなくはないけど……あと手! あんなに喧嘩ばっかのくせにさ、沙羅の指って関節がほんとにちっちゃくて、意味わかんないくらい細いんだよ! 手首も細いしさ」
「そんな難しい話はいいよ――何が似合うの似合わないのって、さっぱりでねえ。どう思うってのは、あんたが見たいかどうかってことさね」
「うちが……? もう、そんなのさあっ……見たいに決まってるじゃんか! 沙羅は何着たって最高にカッコいいし、最高に可愛いんだからね!」
「そうかい、そうかい。ただねえ、何を選んでもらうにしたって、隣にあんたが居ちゃあたいが『最高に可愛い』ってのは無理があるだろうよ」
「ええっ!? うちなんて全然だい、こんなチビだしどーせガキにしか」
「余所でやれ」
永遠に続きそうな沙羅と外連の睦み言にブチ切れた銀子が椅子の天板に踵を振り下ろして大きな音を立てた。
煙の流れ、乱れて。
「あたしたちとしては、もちろん水恭寺でも協力してくれるならありがたいけど――」
夢雨塗依が頬を掻くと、外連はむっとしたように指を突き付けた。
「何さ、何さ! 沙羅じゃ役不足だってのかよぅ!」
誤用である。
「きひ――俺らァ客商売だからよ、うちのガッコで誰がどの層に人気かなんつーのは結構リキ入れて調べてんだ」
「そういうわけ。データとして、硯屋はもう票田を持ってるんだ。バレンタインのチョコだって結構渡されたでしょ」
「まあ、銀子君は当日、それを回避するために実家に帰っていたわけだが」
「るせェよ。……つか、『繚乱』宣伝すんのが目的なら別に結果どうでもいいだろ」
ミスターの座を勝ち取ったところで、硯屋銀子が『酔狂隊』の人間であることに変わりはないのだし。
ただ、オープンキャンパスの場で『繚乱』の名前を出すことが目的なのであれば。
「それは、そうだけど……」
言葉に詰まる塗依を、杏寿は横目でちらりと見る。
引き攣るようないつもの笑いは、マスクの内側で歯の隙間から小さく漏れていってしまった。夢雨塗依が硯屋銀子におっかなびっくり向ける視線の意味を、星野杏寿はよく知っている。幾度も袖にされようと『繚乱』への勧誘を続けてきたことにしてもそうだ――あまりに健気ではないか。
そんな彼女に寄り添い立って支えることが、どんな薬剤で見える光明よりも心地の良い、杏寿にとっての愉しみなのだ。ホストとして働きながら誰に対しても秋波を送ってみせることのない杏寿へ、困ったように弱々しく笑いかけながら――誰より特別な「友達」と、塗依は呼び掛けるのだとしても。
恋心を玩具にしてきた彼女たちの末路がこれだとすれば、それは、笑えもしない滑稽芝居だ。
だが――痛むのは、杏寿ひとりであればいい。
この身がこの心がどれほど痛もうと、ビニール袋を咥えてラリってしまえば消え去るけれど。
塗依は、そんなことのできない不器用な少女だったから。
だから、自傷のように笑いながら口を開くのだ。今は地に降る夢の雨が、いつか天まで届くようにと。
「きひひっ――そう言やァよ、副賞出るぜェ? 楽土フーズのチルド高級食材が一年分、だったっけなァ……?」
「ほう、それは実に興味深いな」
――ま、一丁上がりか。
――ランタライネンを焚きつけりゃ、どうせ硯屋は動いてくれらァよ。
――ヌリィにとっちゃ、試合に勝って勝負に負けたってとこだろうさ。
星野杏寿は知っていた。銀子の口にした通り――『繚乱』を存続させるための宣伝は、本音であると同時に、建前だ。誰かを送り込む必要があるのは紛れもない事実だとして、送り込む候補者など誰でも構わないのだから。
今こうして硯屋銀子に頼んでいるのは――夢雨塗依の、無欲な彼女の、些細な、本当に些細な私欲。限りなく薄い血の縁を飛び越えて、人と人との縁を彼女と結べたら嬉しいという、抱き締めたいほどいじらしい私欲だ。
星野杏寿は「俺」ひとりきりで、彼女の中にはそれを叶えてやりたい杏寿しかいない。叶えてやりたくない杏寿など、いるわけがないのに――
――でもって。
――それを見せつけんのに一秒も迷わなかった俺ァ、手前勝手なクズかもな。
かくして。
ヘルミ・ランタライネンに腕を掴まれた硯屋銀子は、舌打ちをして、溜息をつき、肉付きのよい北欧の少女の脚を蹴り、塗依に対してはちらりと一瞥だけして――立ち上がるのだ。笑う水恭寺沙羅や乙丸外連にさえ、低い声で何やら恨み言を吐くのに。
ふん、と気に食わない様子でそっぽを向き小さく舌を出す東儀帯水の影に紛れて、杏寿は腕を伸ばし塗依の腰をそっと叩いた。塗依は力なく微笑んで、頷く。
ステンドグラスの外は依然として冬の朝であった。
硯屋銀子には、彼女の抱える物語がある。彼女ひとりこそが主役たり得る資格を持つ物語がある。
それが夢雨塗依や星野杏寿の物語とはさほど交わることなく続いてゆこうとするのを、ただ一瞬居合わせただけのふたりは、黙って見送った。
「ぇっぷし」
覇龍架が、首を大きく振ってくしゃみをする。ツインテール揺れて、唾の飛沫が飛ぶ。
「うわっ、汚いなあ。手で押さえろよ」
「へへへ……すんません」
和姫は眉を顰めたが――彼女にとってそれどころではない事態の、それは引鉄であったのだった。
覇龍架の唇を爆ぜさせた息で、ノートが通路に伸びる赤絨毯の上に落ちて。乾いたページ、弾みで、ぱらぱらと捲れて。
鬼百合の勢力図とは異なるページを天に向け、ぱたんと倒れる。
百合子の目の前で、露わになる――和姫ただひとりが席についていた、いつかの授業中。自宅では液晶タブレットを愛用しているセーラー服の彼女が手慰みに描き溜めたボールペンのイラストが。
それは何ページにも亘って、たとえば屋上の縁に立ち空を見て笑う勝ち気そうなパーマの少女だったり、不機嫌そうにギターを抱えて横断歩道の真ん中に佇む少女だったり。沙羅と銀子、次いで覇龍架を描いたものが多いが、外連やヘルミ、百合子には見覚えのない知的な眼鏡の少女も中にはいた。
似顔絵というよりは美少女アニメのような絵柄でデザインされてはいるものの、明らかに彼女たちだとわかるように特徴を上手く捉えつつ――ただし、髪形や服装に関しては、悉く、モデルの普段の装いとは異なって。
燕尾服やタキシード、学ランに軍服、和装も着流しや書生姿と取り揃え、エトセトラ。いずれにしても、そこに描かれた『酔狂隊』使徒たちはみな、男物の衣装を身に纏っていた。
「うっ、わあーーーーーーーっ!?!?!?」
かっと顔を紅潮させ、額に一瞬で汗の玉を浮かべた和姫が左腕を伸ばす。前の椅子に膝をぶつけながら、それどころではないと必死に。
「おっ、なんスかこれ!? オレッスか!? こっちは沙羅の姐御!?」
「見んじゃねーーーーーーーーーー!!」
焦りか、こういう時に限って左手の爪の先はノートを引っ掻くばかりで上手く掴めない。何故、今、藤宮和姫の右腕は動かないのか――あらん限りの声を張り上げるものだから、さらにわらわらと寄り集まってくる者たちまで。
「大丈夫かい」
「ヒメ、どしたの」
「来ないで!! 来ないでください!!」
死守――和姫の頭の中にはその二文字だけがあった。礼拝堂の長椅子が脚を床に螺子留めされているタイプのものでなかったら、それらをまとめて蹴散らしてでも全てを有耶無耶にしていただろう。
「っがあっ!」
彼女は今、十六年余りの人生において経験した誰とのタイマンよりも本気の闘争に臨んでいたかもしれなかった。半ば床に這い蹲り、モッズコートの裾を引き摺りながら、歯を食い縛ってノートを掴み引き寄せる。
ブツは手元に確保した――愛しい我が子であるかのように、否、実際には今すぐ過去に遡ってあらゆる時間軸のそれを焼き尽くしたいほどの憎しみの対象であるのだが、いずれにしても和姫はノートをひしと抱き締め、赤縁眼鏡の奥の目を野犬のように尖らせて周囲を見渡した。
「誰も!! 何も!! 見てないすね!?」
「ウス! 姐御とかオレがぐっはぁーーー!?」
「うるせーーーーーーーんだよ!!」
律儀に挙手した覇龍架の鳩尾に和姫が蹴りを入れた。
左右不均等なツインテールをスクリューのように振り乱しながら覇龍架の小さな身体が錐揉み回転し、絨毯に沿って長椅子の列の間を吹っ飛んでゆく。
「なんで……オレが……」
「あん? よく見てなかったけど、どうせあんたがヒメに余計なことしたんだろうさ」
姉貴分からの信頼度でさえもヒメこと和姫に完敗の覇龍架は、哀れにもばったりと俯せで倒れた。
「ゆ……百合子? お前は別に何も見なかった……よな?」
こんなに冷え切った礼拝堂で――冷や汗をだらだらと止め処なく垂れ流しながら、振り返る。
インターネットの文化圏と無縁の彼女なら。どこか鈍く、無知で、人とずれている彼女なら。というかそもそも、あの一瞬でノートの中身を目にしたとは限らないのだし。そう、一縷の望みを託して――
「和姫……男の人の服着た女の子……好きなの?」
無理だった。
「いやもう本当に勘弁してくれや。死ぬから。死んで詫びるから」
「死なないで……」
よりにもよって。
幼少期の和姫が好んで兄のお下がりの男児服に袖を通し少年的な口調を真似ていたという、その事実を知る鬼百合唯一の存在――百合子に。
男装少女の性癖を、完膚なきまでに知られてしまった――
七輪の中で燃え尽きた炭が如く椅子へ崩れ落ちる和姫。癖っ毛の打つ波も心なしか萎んでいるようだ。沙羅と外連は顔を見合わせて、何のことやらと肩を竦める。
「そうなんだ、ね……」
ちらり、と。百合子は依然として銀子やヘルミと話し込んでいる『繚乱』の三人を見遣って。
ノートを左腕でコートの内側に抱えたまま猫背で脚を投げ出し放心している和姫の傍らへ回り込み、小さな手をそっと拳に固めて元気付けるように顔を覗き込む。
「……大丈夫。なんくるないよ……全然、変じゃないと思う……わたし、嬉しい。和姫の好きなもの、また……ひとつ……」
ぱちくり。
瞬きをする。
和姫の、好きなもの。
好きな――少女の、姿?
「それ……わたしも、する。男の子の、格好……そうしたら、和姫……わたしのこと、もっともっと……好き……?」
ミスターコンテスト。その仕掛け人たちの与り知らぬところで、密やかに、彗星の如く現れたダークホースが参戦を決意していたりして。
「……あ? え? お前が?」
ダークホース? 否――冬だというのに健康的な地黒の肌はともかく、マフラーに包まったか細い首筋や毛細血管の透けそうなほど筋肉の感じられない四肢と客観的にはどこに適性があるというのか全く不明ではあったとしても、囁くように小さい声ながら決して揺るがぬ決意がなされてしまっていたりして。
百合子と和姫。絆とラクシュミ。遊我に『繚乱』、そして――ヘルミと銀子。
交錯し合ういくつもの想いを乗せ、オープンキャンパスの日がやってくる。
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