第三話『第四使徒 硯屋銀子』6

 時計の針を、少し――巻き戻そう。

 それは、海辺の町。湘南に夜の帳が下りて、日付の変わるちょうどその頃。

 鬼百合女学院の、堅牢なりし鉄の校門。その前で、白い息を夜空に吐く少女たちがいた。視線は重ならず、交わされる言葉も無い。集団としてではなく個の集合として、彼女たちはそこにいた。道路の向かいでテトラポッドを乗り越える、冷たい風に吹かれて。

「んー、まだ見えねーなー。そろそろいー時間だろーがよー」

 己が演じるゲームのキャラの缶バッジを付けたキャップの鍔、目元に翳す如く触って。宵闇に落ちた国道の先、眺めて。

 ユ・ミンスは、感情を意図的に抜いて間延びした声を出した。

 MA-1のポケットの中でハイライトの空き箱を握り潰しながら、ティンバーランドのゴム底でアスファルトを踏みしめ、前傾して暗闇の中にライトを探す。感情の表出は商売と割り切り、この世の全てを斜に見る女性声優。

「ミンスちゃ、車道出とーと危なかよ!」

「うるせーなーソニアはー、なんだお前ー、危ねーも何もねーだろーがよー」

 歩道の縁石に立ち、胸元に手を当てた少女は親友へ向けて細い声を懸命に張る。エメラルド色のインナーカラーを入れた髪が揺れると、耳を飾る異様な数のピアスが宵闇にぎらつく。女原ソニア。片眼鏡の少女。温和にして引っ込み思案な、無意識下の怪盗淑女。

 このふたりの間にのみコミュニケーションが存在している。それは当然のことで、それを誰も意識しないことすら当然で、何故ならば誰もミンスとソニアを分離して考えることなどし得ないからだ。彼女たちはタイマンを至上の作法とする鬼百合の美学に中指を立てるような、ふたりでひと組の喧嘩師であるのだから。そう在ることを道と定めた、外道上等の不良少女たち。それが『魔女離帝』特攻隊の尖兵、ユ・ミンスと女原ソニアだった。彼女たちが共有する執着をこそ、小峰ファルコーニ遊我は買ったのだ。

「これから殴り合いの喧嘩だっつってんのによー」

 ミンスは唾を吐き、頭の後ろで手を組む。滝のように真っ直ぐ、黒髪交じりの金髪、流れ落ちる。サングラスの乗せられたキャップの鍔の位置を神経質に直し、ハイライトに火を付ける。首を鳴らし、屈伸をして、ただ直線道の先へ目を凝らす――落ち着きなく。

「そいとこいとは別――」

「なんだよー、お前ー……そんなにあたしが心配かー?」

 踵を上げたミンスは、両腕を広げながらくるり、くるりと飛び跳ね、回って、軽やかなステップの二歩で近付くと、手を伸ばす。片手、寒空の下で林檎のように赤みの差した頬へ。そして片手はコートの内側、セーターを大きく張り出させるあまりにも豊かに発育した乳房へ。

 煙、からかうように渦をまく。

「あっ、ん……」

「気は小せーんだよなー、ソニアはよー。乳は無駄にでっけーのによー」

 わざとらしく、舌なめずりまでしてみせながら。

 ユ・ミンスは、身を捩る女原ソニアの表面積の一部を掌握した細い指に力を込めた。無論、サッカーボールのようなその丘のひとつを完全に覆うことなどできないままで。

「ひええっ、ミ、ミンスちゃ……! 何ばしよっとね……!」

 吐息、漏れてしまう。白く曇って。身体をくの字に折ると、シュシュで結わえた髪が枝垂る。絡み合う。ミンスの金髪と。ぎらつく彼女の髪の中に垣間見える黒と、エメラルドグリーンを内に孕んだソニアの黒との間には確かに僅かな差異があり、しかしふたりはそれを気にしたこともなかった。

 人と人とが「違っていること」など当たり前で、それは寄り添う上での障害になどなり得ないとミンスもソニアもとっくの昔に理解していた。

「なんだー? あたしに揉まれんのが嫌とは言わせねーぞ、このやろー。誰が育てたと思ってんだー」

「人前やけん、は……恥ずかしかよ……!」

 人前――公共の場であるというなら、それはそうなのだろうが。

 事実、ふたりの睦み合いを誰がまじまじと見ていただろうか。居合わせたのは「身内」とは呼べずとも顔見知りであるような相手ばかりで、しかもミンスとソニアになど全く関心を示していない。その、ただ隣り合っただけの他人という距離感が彼女たち遊撃班の特徴であった。

 視線、交わらない。それぞれに色の違う髪は同じ冷たい海辺の風に撫でられているというのに。

 校門前にて待機する少女たちは、ミンスとソニアのふたりを除いて、互いに見向きもしないのだ。

 たとえば。

 茶髪のあちこちに金色のメッシュを差し、丈の短い派手な柄の浴衣を着崩した上から角袖のコートを羽織り、スマートフォンをスクロールさせ続けている少女がいた。

 左手には交通量調査や何かで使うような数取り器を握りしめ、カッチ、カチ、カッチと長短の区別をつけてレバーを押し込みながら、視線はただ無限に続く画像フォルダにのみ注がれる。日本人らしいつくりではあるが不健康そうに青白い顔。目元、スモーキーなアイシャドウを厚く塗って。唇、カシスのような黒に近い紫のルージュを引いて。

 名前はコアントロー・ワンダー。露骨に偽名。その上、濁点の有無や姓名の区切り位置は推測の域を出なかったりする――彼女は自らの意思伝達行為において記号の類を省略するから。それは名乗った時でさえも。

 落書きの域を通り越して前衛芸術であるかのようにペンキで塗り分けられた鬼百合女学院の校門。気怠げに背を預けたまま、溜息をつく。視線、視線、スマートフォンの光る画面に落として。

「-・-- --・・- ・-・-・ ・-・ ・-・・・ ・-・-・ ・-・」

 それはミンスをちくりと刺すことを意図して発せられたのではなく、画像フォルダを眺めて悦に入りながら片手間に球体めいた金属を弄り、無意識にレバーを押し込んでいただけだったのだけれど――いずれにしても、没交渉は破られた。

 数取り器のレバーを押すその音が、彼女が意思を発するための唯一の手段であるということくらいは知っていたので――ミンスは、それを聞き咎める。少女コアントローが独り言を呟くように響かせたその無機質な音の連続を、嘲りと受け取って。

「あー? てめー、何か言ったかー? ……『言った』っつーかよー、口で言えってんだよー」

「いけんよ、ミンスちゃ!」

 煙草を吐き捨て、踏み消すこともしないままコアントローにずかずかと詰め寄ったミンスは額に額を押し当て、至近距離で睨みつける。ソニアの金切り声に近い制止、耳になど入らない。そのまま、ミンスはしな垂れかかるように口元を寄せる。コアントローの耳に。

「……一丁前に色ボケてんのはてめーの方だろー?」

 夜の中に浮かび上がるような朱のルージュ引いた唇、裂くようにそっと開いて囁く。吐息に混ぜ込んだ小さな声で、しかし背中を冷たい藁でなぞられたようにぞくりとする響きで。ミンスは声を操るプロフェッショナルである。どんなトーンの声が少女に生理的な嫌悪を齎すか知っているし、それを己の声帯で再現することなど児戯に等しい。

 逃れ得ない反射で、背筋が僅かに伸びて反る。産毛までもが逆立つ。コアントローは後ずさりしようとして、かん、と高い音を聞いた。草履風の畳表サンダル、そのエナメルの厚い踵が校門の嵌まった鋼鉄のレールに当たって立てた音。音。そこに、硬い質感がある。それより先には一歩も下がれはしないという、確かな壁に追い詰められる。

 瞬間だけ筋肉の硬直したコアントローの手から、ミンスはするりとスマートフォンを抜き取った。まるで、自分のものを取り返したかのような自然さで。

 ティンバーランドのゴム底がアスファルトを蹴り、ミンスの軽い身体を後方へ運ぶ。はっとしたコアントローの手をひらりと躱せる距離まで。そして、ミンスはスマートフォンの画面を指で弾いて開かれていた画像フォルダを上から下へ眺めた。

 そこに並ぶ全ての写真は――ひとりの少女を撮ったもの。被写体がカメラの存在を意識しているものはほとんどなく、後ろ姿や横顔ばかりだった。テンガロンハットと飾り紐付きのポンチョ。そんな特徴的なシルエットで鬼百合を闊歩する少女などひとりしかいない。絆・ザ・テキサス。鬼百合に知らぬ者無き彼女の姿、姿、無尽蔵に詰まった画像フォルダ。

「おーおー、相も変わらずテキサスの野郎の隠し撮りばっか溜め込んでよー。気色わりー」

「・-・・ -・--- ・---・」

 唇を引き結んだままかっと顔を赤くしたコアントローは袖を押さえる左手で数取り器を打ちながら右腕を伸ばすが、ミンスは彼女のスマートフォンをさらに高く上げる。コアントローのささくれ立ってぼろぼろの乾いた指先がミンスの冷たい手首を掠る。

 液晶画面のバックライトが、虫の飛ぶように尾を引いて残像になる。子供じみた悪意の軌跡。

「ミンスちゃ!」

 視線、視線、それでも交わらない。ミンスはくるりと片足を軸に振り返った。

「ほらよー、エボシー」

 そのまま、バスケットボールを送るように、手首のスナップだけでスマートフォンを投げる。

 銀色の放物線の先には、ひとりの少女――外見としては、確かに少女。

 パーカーのフードをすっぽりと深く被り、アイボリーのリュックサックを背負っていた。太めの眉に、吊り気味の大きな眼。背はそれほど高くないが、完璧なまでに均整の取れたアスリート体型だ。ハーフパンツから伸びた白く流線描く引き締まった素足からもわかるように。

 未だ春に至らない二月の半ばだというのに、そんな薄着で。しかし、彼女は寒さを覚えない。

 だから平然とポケットに両手を突っ込み、瞼を閉じて、待機状態に入っていた。

『……』

 起動は刹那。

 狙い澄ますことさえないまま直線軌道で鋭く右手を伸ばし、コアントローのスマートフォンを掴む。握り砕いてしまわぬよう、よく計算して加減して。彼女にはそれが容易だった。

 エボシラインシステム搭載、湘南式自律駆動戦術実践機関。個体名を与えられて、栞・エボシライン<シオリ・―>。不気味の谷を乗り越えた造形は完全に人間のそれ。熱を帯びて変色する特殊なシリコンの皮膚は、彼女が群雄割拠の鬼百合においてさえ唯一無二の「生命持たぬ不良少女」であることなど誰にも悟らせない。

 楽土ロボティクスが持てる限りのテクノロジーを詰め込んで産み落とした、喧嘩のための科学の子。鋼の拳の不良少女。

『……』

 二度三度瞬く。フッ化カルシウムのレンズを通して周囲の光量を探知し、AIは眼を暗視モードへと切り替える。

 そして、スマートフォンを持ったまま歩き出した。機械じみたぎこちなさは皆無であって、駆動音すらほとんど響かせない。背負った発動機が微かに唸るくらいか。生身の少女がそうするのと何も変わらない姿で、栞は歩く。ただ、人らしくない点があるとすれば、それは動きの中に迷いが無さすぎることだった。

 そのまま、数取り器を打つことすら忘れてまじまじとその一挙手一投足を見ていたコアントローの袖の先にスマートフォンを返す。びくりとした彼女はそれを取り落としかけて、慌てた和服の袖がひらひらと泳いだ。

「--・-- --・ ・-・・ -・ --・-・」

 彼女なりのコミュニケーション様式での礼には反応せず、今度は傍らでつまらなさそうに薄い瞼をひくつかせていたミンスに向き直る。威圧感さえ覚えさせるほどにきびきびと洗練された動きで。それを機械的と言い表してしまえば、あまりにも正鵠を射ているのだけれど。

 いずれにしても、次の瞬間には。

 すぱん、と小気味良い音を立てて。

 振り抜かれたチタンとシリコンの平手が、目にも止まらぬ速度でミンスの頬を打っていた。

『下らねえことしてんじゃねえよ、ガキ』

 傍で見ていたコアントローは思わず目を見開いて息を呑み、ソニアは小さく悲鳴を上げて口元を押さえた。

「……あんだー? おいてめー、人間様ナメてんのかー? 機械の分際でよー」

『ああ機械に生まれて良かったぜ、アタシのアルゴリズムはテメエの性根みてえに腐んねえからな』

 これが――栞・エボシラインの、人間社会に馴染めない最大の要因だった。

 彼女のAIは、どこまでも不良少女であろうとする。人間の上限より遥かに高い知性をセーブして、愚かさを代償として引き受けながら直線的であろうとする。そう造られているが故に。そしてそれは、不義を許容しないのだ。空気を読み忖度してなあなあで済ませるという世の渡り方を、心まで無機物である栞は知らない。古式ゆかしい不良少女の哲学を、機械として機械的に再現し続けているから。

『お前もお前だよ女原。自力で止める気もねえのに口だけ注意していい子ちゃんヅラすんじゃねえ』

「っ……!」

 逆上したミンスがパーカーの胸倉へ伸ばした手を鋭く払い除けた栞は、首だけを回してフードの内からぎろりとソニアを睨む。心なき工業製品の眼球で。

「わ、私……そげんつもりやなかとよ! ミンスちゃに……みんなと仲良くしとってほしかけん……」

「もういいっつーんだよー、ソニアー。こんな奴らに何言ってやる必要もねー」

 ミンスは下向きに突き出した親指で首を掻っ切るサインをした。じゃり、とティンバーランドのゴム底がアスファルトに擦れる。

 誰も無傷では片が付かないことになると判断したか、スマートフォンをコートの内側に仕舞ったコアントローが数取り器を握りしめた左手を胸に当てて静かに後ずさる。彼女も彼女で――助けられておきながら栞に賛同しているわけではないという露骨なサインを出す彼女も彼女で、なかなかに鬼百合女学院の不良少女コミュニティには馴染み難いであろう性格をしていた。

 当の栞・エボシラインはパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、白い歯を覗かせるミンスを見下ろしていた。その視線に体温はなく、まるで実験動物を観察する科学者のようとも言えた。彼女自身がそのように見つめられながらラボの中で目覚めた自我であるというのに。

「高くついたぜー、このクソ型ロボットがよー。あたしの感情は売り物だからなー」

 キャップの鍔に一瞬だけ触れた左手を拳に固める。深く朱い唇が歪む、歪む。

「ミンスちゃ!!」

『ほら、どうした? 納得できねえことがあんなら来いよ』

 次の瞬間にもミンスが栞を殴りつけるかと、ソニアが反射的にぎゅっと強く目を瞑った時。

「はいはーい、おっ待たせー。仲良くしてたかしらん、あたしの可愛い兵隊ちゃんたち? 内輪でおっ始めてたりしたらぶっ殺すわよん」

 からっとして響く、大きな声。重い鋼鉄の門を片手で軽々と引き開け、誰にとっても見上げるほど背の高いひとりの上級生がそこへ辿り着いていた。

 黒縁眼鏡の奥の瞳、にんまりとさせて。

 地面から二メートル近い位置で大きめの団子に結い上げられたブロンドは靡かない。

 あまりに大柄であるが故、メンズサイズのTシャツを着てなお形の良い臍が覗いている。脚の筋肉を浮き彫りにするぴたりとしたジーンズは丈が脹脛の半ばまでしか届いていない。山脈覆う雪のように白いダウンジャケットは、安物に見えるがそれだけが衣服として正規の形で彼女の身体を覆っていた。オーダーメイドか。

 四人全員が息を呑み、ぴたりと動きを止めて彼女をそっと見上げる。小峰ファルコーニ遊我。『魔女離帝』の実に半分たる特攻隊を統括する大幹部であって、深夜の校門前に招集された不良少女たちにとっては直属の上司。光と闇の顔を併せ持つ、底知れぬ巨人。

 王道楽土のマハラジャが放つそれとはまた異なるその威容、その威迫。どこから来たるものなのか。それは喧嘩の強さでもなければ、勿論のこと身体の大きさなどでもない。もっと、もっと深いところで彼女は異質であった。

「……そりゃーもー、何も問題ねーすよー。今ストレッチしてたんでー」

『……いつでも見せられますよ、アタシら四人のチームワークってモン』

「……いや、まあ、あんたらの仲くらいよーく知ってるわよ。ナメんなっつーの。軽いジョークじゃないのよぅ」

「--・・ ・・・ ・--・ ・・・- ---・- -・-・・ -・--・」

「私らは血の気引いたとですよ……」

 遊我はアメリカンスピリットの黒い箱を出し、ルージュを引いた唇に挟む。すかさず栞が掲げた指先にスパークを迸らせて点火した。

 煙が長めに吐かれる間、誰も何も言わなかった。濃厚な薫りが冬の夜空の下に漂う。長い睫毛を瞬かせて、金髪の彼女は仔犬のような四人組を見下ろしながら可笑しそうに笑った。

「ガッハッハ、なーにマジマジ見てんのよ。ビビりなさんな、取って食やしないっての。いつまでも慣れないわねえあんたら」

 燃え進む煙草を口の端に咥えたまま、腰に手を当てて長身の彼女は眼鏡の奥の目を細める。その視点はあまりにも高くて、やはり誰とも交わらない。小峰ファルコーニ遊我という少女は誰の前でも明るく豪快で、それは即ち、誰も彼女が胸の内で何を考えているのか理解できていないということでもあった。

「ま、いいわ。ちょうどイケメン君たちもお帰りみたいだし、仕事にかかるわよん」

 少女たちが振り返れば――一直線の国道の先、流星群のような光の粒が幾つか。鬼百合女学院へ帰るべく、少女を後ろに乗せて近付いてくる。海辺の街を一周した男装のバイカーチーム。待ち望まれていた今宵の標的。見据える、見据える。

「隊長ー、一個だけ質問いーすかー?」

 ミンスが軽く片手を挙げる。片手はMA-1のポケットに突っ込んだままで。特攻隊長を務める遊我を「隊長」とだけ呼ぶのはユ・ミンスただひとりだった。もうひとりの大幹部、親衛隊長の絆・ザ・テキサスを毛嫌いしているから。

「今日の『繚乱』潰しー、マハラジャの指示じゃねーんすよねー? 別に連中に上等張られたってわけでもねーのに、なんで喧嘩するんすかー?」

「ひえええええええ、ミンスちゃ!?」

 いつもの意図的に間延びさせた挑発的な口調で問いかけるミンスの肩を、片眼鏡を落としかけながら素っ頓狂な声を出したソニアが掴む。

「いやいや、いーのいーの。聞く権利はあるわよねえ――ただ、知る必要はない。あんたたちがはみ出し者だとしても、嫌われ者にはならなくてもいいのよん。あたしひとりで十分」

 ユ・ミンス。女原ソニア。コアントロー・ワンダー。栞・エボシライン。

 小峰ファルコーニ遊我が直々に選んで手駒とした、『魔女離帝』特攻隊の精鋭四人。仲間意識の欠片もなく、ただ寄せ集められた四人。

「うっすー」

 こうまで言われてしまえば、返す言葉などあろうはずもない。彼女たちはひとりの不良としての遊我を畏れ、同程度かそれ以上に――ボスとしての遊我を信頼していた。

「オッケー。そんじゃあ一丁、血祭りと行きましょか――『魔女離帝』きっての問題児集団、あたしら特攻隊遊撃班のお通りってね」



「随分――」

 塗依は、白い息を吐く。心配そうな顔をする後ろの客に、客たちに、ちらりと微笑んでみせて。

「僕たちは、人気者みたいだね」

 降りる。次々と、『繚乱』の少女たちが単車を降りる。客に喧嘩の巻き添えを食わせることなどあり得ない。あってはならない。故に、ホストたる男装の軍団は率先して拳を握り、首を鳴らして臨戦態勢をとった。だらりと腕を垂らす、瞳孔の開いた星野杏寿。他、短髪の凛々しき少女が十余名。

 対して、向かい合うのはたったの五人だ。小峰ファルコーニ遊我を長として、ユ・ミンス、女原ソニア、コアントロー・ワンダー、栞・エボシラインの五人。『魔女離帝』の中でも生粋の武闘派集団であり、同時にはぐれ者の流刑地とも呼ばれる特攻隊遊撃班。遊我の直属部隊であるが故に、その名を取って遊撃班。

 校門前にて、彼女たちは待ち構えていた。

「きひっ」

 黒マスク越しに、塗依は杏寿の引き笑いを聞いた。

「なんだァ? 出待ちかァ……? きひひっ、ウケるな」

 背中を丸めた前傾姿勢で、彼女は塗依の横に並び立つ。ツーサイドアップの髪が、その結び目のヘアゴムから首を吊られたフェルト人形が、揺れる。不安定に。

「小峰先輩!? なんで……」

 既に拳を構えた『繚乱』の男装少女たち以上に動揺しているのは、バイクを停めた車道の対岸に取り残された客の方であった。それも当然だろう――彼女たちのほとんどは『魔女離帝』の構成員である。『繚乱』は彼女たちにとって金を注ぎ込み愛を買う場でしかなく、自分たちが身を置く組織との対立があるなど寝耳に水もいいところだ。

「あん? 理由なんてどうでもいいのよ。あんたら『繚乱』が目障りだって話」

 麦畑のように黄金たる前髪を掻き上げた遊我は、薄く笑う。

「……僕らは、『魔女離帝』と構えるつもりはない。きみたちだって」

「あっそ。いや、だからそっちの都合はどうでもいいんだってば。ガッハッハ、夢雨あんたホストのくせにアタマ固いわねえ」

 夢雨塗依は唇を噛んだ。『魔女離帝』と全面抗争になれば『繚乱』などひとたまりもない。まともな喧嘩になり得ないということくらい双方が理解している。だからてっきり、武力をちらつかせて何かを要求してくる話かと思ったが――違う。小峰ファルコーニ遊我は、明らかに『繚乱』を叩くこと自体を目的として今ここにいる。

 パニックを煽るような自分の鼓動が煩わしい。日付も変わり、白いマジェスティの上で寒風に吹きつけられていた腕は上手く動くのだろうか。そもそも、今、この脚は震えていないだろうか。

 塗依は純白のジャケットを脱ぎ、車道に投げ捨てた。そして、隣を見る。

 マスクの上で目を細めた杏寿が、小さく頷いていた。何かを諦めるような顔をして。

「きっひひひ! 今夜ァ、指名の多い夜だァな!!」

 ――うん。これは、あたしも腹くくんなきゃだ。

 ――あたしは……硯屋みたいになれるかな。

 ――あんな風に、格好良く、大切なものを大切にできるかな。

 夢雨塗依はあまりに優しい。客の少女を前に自分を偽ることにさえ罪悪感を覚える彼女は、それでも守りたいと思えるものができたから――不良少女であるのだった。

「んじゃまあ、予定通り――ミンソニ、星野をマーク。夢雨は栞ひとりで十分だから、ローは後ろの『魔女離帝(うち)』の子らがしゃしゃり出ないように抑えといて」

「残りの十何人かはー」

「当然、あたしひとりで薙ぎ払うわよん」

 月光に艶めく唇に人差し指を当て。

 校門を背に、ゆらりと、遊我は体勢を低くする。呼吸する。クラウチングスタートの構えにも似て、それは速度の前兆たる静止。

 今にも激突が起きそうな空気の中で――それを丸ごと切り裂くように。

「誰か――ぬーくんにシャンパン!!」

 塗依のマジェスティの陰にしゃがんでいた客の少女が、金切り声を上げる。呼応して、祭りの始まる前のような浮足立った空気からひとりのホストが帰る。改造単車に括りつけたクーラーボックスから一本のボトルを取り出す。可愛らしいピンクのラベルが輝く、モエシャンのロゼ。何でもいい。塗依の体内で沸き立つアルコールでさえあれば。

「シャンパン頂きましたァァァ!!」

 その声が、ホストたちを我に返らせた。殺気立った高揚を、正しい流れへと軌道修正した。鬨の声、否――それは客を讃える歓声。寒空の下が、一瞬にして店へと変わる。『繚乱』のホームグラウンドに。

 頭上には星々。そう、今は深夜。『繚乱』の時間ではないか――!

 ――ああ、ありがたいや。

 ――そっか。前に喧嘩した時も、あの子の前だったっけ。

 ――『下人會』か何かが相手だったから、格好良く勝てたんだけどなあ。

 シャンデリアの代わりに、気を利かせた誰かが停まったバイクのヘッドライトを次々と灯した。近所迷惑など知ったことかとコールが響く。『魔女離帝』特攻隊の精鋭、そんな目前の驚異の光さえかき消すほどに、少女たちは騒ぐ。夜の続きを続けるために。

 リレーされてきたボトルの栓を弾き飛ばしたのは杏寿だった。

 そんな『繚乱』流の狂乱を、小峰ファルコーニ遊我はどんな目で見ているのだろうか。愛すべき弛緩に苛立っているのは、彼女よりむしろ周囲の兵隊たちかもしれない。

 ――目を逸らすなよ、小峰。

 ――これが、あたしと杏寿が守りたいものなんだよ。

 ――こんな夜を、『繚乱』を守るためになら、喧嘩だってするさ。

 手渡されたフルートグラスに、輝かしい酒が注がれていく。なみなみと、なみなみと。囃し立てられながら、塗依はグラスを掲げる。振り返って、塗依の愛車の陰で怯えている彼女に。声を張り上げてくれた彼女に。

 それから、迷うことなく口をつけ、一気に呷った。

 瞼の裏が赤くなる。夢雨塗依の意識が、泡のように遊離していく。入れ替わる。「あたし」が、「僕」と。もうひとりの夢雨塗依と。客の前では「僕」を演じている「あたし」であるから、その内なる変化に気付いているのは星野杏寿くらいであるはずだ。シャンパンを卸してくれた客の少女さえ、ただの「酔うと強くなる」酔拳程度にしか理解していないだろう。

 古代中国において、とある皇帝の息子が初めて発現させたものだという。酒に酔うことで人格が反転し、高貴な血筋が顔を覗かせる。と同時に、それを存続させる本能の為せる業か――腕力と反射神経が肉体の限界まで跳ね上がり、四方八方から襲い来る刺客すら魅了しながら華麗で苛烈な徒手空拳がばったばったと薙ぎ倒す。

 酩酊による王子様状態<プリンスモード>強制突入――酔太子拳<ツイタイズウチュエン>と人は呼ぶ。

 鬼百合女学院には、貴人の末裔たるその遺伝継承者がふたり。

 何を隠そう、そのひとりが――『繚乱』の頭、夢雨塗依なのだった。

「きひひひひっ、お出ましだァ!! 最ッッ高にキマったヌリィのなァ!!」

 ひっく――と、吃逆をひとつして。

 頬を微かに紅潮させた塗依は、片膝を上げて立つ。

 水引のように結んだ前髪、夜の汐風が吹き散らす。

「さあ――『僕』が相手になる! どこからでもかかっておいで、おイタが過ぎる子猫ちゃんたち!」



「よっとー」

 大股で一歩、踏み込みと見せかけて二歩の助走。構えのリズムを崩させながら、ティンバーランドがアスファルトを蹴って浮かび上がった。

 胸元を抉るようなユ・ミンスの跳び蹴りを、星野杏寿は突き出した右腕で受ける。イエーガーにバニラエッセンスを放り込んだような薫りをつんと立てるのは、流れた金髪が漂わせる香水で。

「きひっ……痛ッてえなァ。テコンドーかァ?」

「あー? だったら何かあんのかー?」

 右に傾きながら着地したミンスが体勢を立て直す前に、その鳩尾を革靴の爪先で蹴り上げる。

「が……!」

 ミンスは痩せた身体をくの字に折る。咳き込む、何度か。

「ミンスちゃ!」

 高い方の声は、左後方から聞こえた。回り込まれたか。

 だが、そちらを振り返ろうとして――

「ん……あァ……?」

 杏寿は、片側の視界が悪いことに気付いた。垂れ下がっているのは、髪だ。自分の、灰色の。頭頂の旋毛から伸びる髪は、首吊り人形のヘアゴムで括っているはずだったが。元より暗い夜道の上、視界が完全な影に落ちる。

「こいば探しとーとですか?」

 迷わず左手、髪を掻き上げるのに使ってしまう。故に腕を伸ばすのが一瞬遅れる。その先で、片眼鏡の女原ソニアが杏寿の布人形を握っている。

「テメ――」

「はあっ!」

 ソニアは両手を揃えて高く伸ばしながら、腿の関節を大きく動かして脚を振り上げる。ちょうど、振り返った杏寿の顎を蹴り飛ばすように。

 ――いつだ?

 ――頭に手なんか伸ばされてねェ……いつ盗みやがったァ!?

 それをモロに食らってしまうような星野杏寿ではない。瞬間、全力で首を反対に傾ける。本能的回避以外の何物でもない――だが、成功すればそれで十分なのだ。喧嘩とはそういうものなのだ。スニーカーは頬を掠っただけだった。『繚乱』構成員のうちで最も長い髪、揺れる。レンズ越しでない方の目が、見開かれる。

「パンツ丸見えだぜェ、ちょいブス巨乳!!」

 彼女が脚を下ろすまでのほんの刹那にさっと重心を落とし、軸足を掬い取るようなローキック。スクワットの要領で膝の発条を使いすぐさま伸び上がりながら杏寿は薄く笑うと、シュシュの先――エメラルド色の混じったソニアの髪を鷲掴みにし、躊躇なく斜めに引き上げる。彼女の上体が揺らぐ。小さな悲鳴。

「きっひひぃ! 相手悪りいなァ、『繚乱(うち)』で女殴んの躊躇しねェのァ俺だけだ!!」

「……てめー」

 仰け反らされた体勢のまま踏鞴を踏むソニアの髪を離し、その顔面にまずは一発入れようと拳を固めて引いた杏寿の腰に。

「あたしの一般の方が痛がってんだろーがよー。殺すぞー?」

 全体重を乗せて踏みつけるようなドロップキックが、横から直撃した。

「うおッ……」

 めきり、と嫌な感触があった。肋が逝ったか。杏寿は金属バットに真芯を捉えられたボールが如く身体が曲がるのを感じて、倒れ込みながら吹っ飛ぶ。ついでのように肩を擦った。支えを失ってそのまま尻餅をついたソニアに、ミンスが口をへの字に歪めて手を差し伸べる。

「ありがと、ミンスちゃ」

「おー。……あとおめーはめちゃくちゃカワイーからなー。あんなジャンキー野郎の言うこと気にすんじゃねーぞー」

「……うん。やっぱ、ミンスちゃばり優しかね」

 冷たい手を取って、ソニアは立ち上がる。セーターとガウチョパンツの砂を払って、キャスケットを被り直す。その頬を一度ぱしんと軽く挟んで薄く笑ってみせ、ミンスは軽く首と拳を鳴らした。

「おらー、終わりかー」

 立ち上がりかけた片膝のまま腰骨に手のひらを当て続けている杏寿を、見下して。

 ユ・ミンスは、んべっと舌を出した。

「……クソ生意気じゃねェか、ガキがよ……」

 拳を握る。……肩は軽傷。脇腹はずきずきと痛むがまだ立てる。余裕だ。隣で塗依が抱えてきた苦悩を想えば、こんなことさえ愛おしい。

「きっ、ひ。『カラメルがまだ焦げず外は春驟雨』ってかァ……」

 今は耐え忍ぶことしかできぬ身だとしても。

 負けるわけにはいくものか――

 片側だけの髪留め、紫色の首吊り人形がぶらぶらと小さな手足を投げ出している。それは彼女の辿るはずだった末路で、きっといつか辿る末路の暗示。何の意味も為さず緩やかに死んでいくだけだった星野杏寿の人生を、夢雨塗依は夢の色で塗ってくれた。

「ナメんじゃねェよ、『繚乱』を」

 ぬるりと立って、星野杏寿は片腕をぶらつかせながら前傾する。ただ、目を細めて見る。このふたり組を。ほんの数メートル横合いで、塗依はパーカーにハーフパンツの少女と対峙している。こんなことになるとは、ほんの数十分前まで思ってもみなかった。いつまでも、彼女とマシンを並べて夜を疾走していられると思っていた。

 ぎざぎざに溶けた歯が崩れそうなほどに強く噛み締めながら、杏寿はマスクの下で獰猛に笑う。

 たとえどれほど暗くとも光って照らす星にならなければならないのだ。

 迷ってばかりの航海者が、目の前にどこまでも広がる海を好きな色で塗れるように。

 かき消える時がいずれ来るとしても、今であっていいはずがないだろう――!!

 アスファルトを、蹴った。伸ばされた手を弾いてミンスの肩に掌底を当て、そのまま押しつける。彼女の背後、氷のように冷え切った鋼鉄の校門へ。がしゃんとけたたましく車輪が鳴る。

「が……ってーなー、こんにゃろー」

 杏寿が殴るために下半身に体重をかける間もなく、身を屈めて腋の下をすり抜けたミンスの後ろ回し蹴りが杏寿の背骨を襲う。ジャケットの背中を生ゴムの靴底が擦って、熱を帯びた痛みをもたらす。

「きひっ……いいねェ! いいぜェ!」

 一瞬、呼吸を整える。スラックスに包まれた脚を伸ばしてミンスを蹴り飛ばし、後頭部を門の格子に激突させ、振り向きざまソニアの喉笛に鋭く肘を突き込んだ――はずだった。だが、彼女はそこにいない。身を翻して、翻して、伸ばした指先の爪が杏寿の口元を裂いて細く血を迸らせる。

「入ったっちゃ!」

 軟体を自在にしならせ、バレリーナのように舞い戦うソニア。豊かに発育した乳房を重みとも感じていないらしく、軽々と脚を上げ、爪先立ちで跳んで。気付いた時には、灰色の髪が再び視界の端で音もなく踊っていた。もう片方のヘアゴムも――盗まれた。いつの間にか。だがそんなことはもはや気にもならない。髪を乱暴に掻き上げ、探す。女原ソニア、彼女の影を。……ぴんと伸ばして振り上げられる腕を動物的な直感だけを頼りに躱しながら。

 ――まずァ、ちょこまかウザってェ巨乳の方!

 だが。だが。そうはさせまいと。

「『杏寿! ちょっといいかい!?』」

「あァ!? ヌリィ!? どしたァ!!」

 咄嗟に耳へ滑り込んだ夢雨塗依の声に――振り返る。星野杏寿が星野杏寿であるが故に、標的を見定めた意識を中断して振り返らざるを得ない。

 それは確かに塗依の声だった。しかしそこにいたのは、口元を手のひらで隠し喉を中指で押し込む金髪のミンスで。

「あんたよー、騙されやすいなー」

 ソニアの振り上げた脚が、今度は綺麗に杏寿の顎を蹴り飛ばす。髪が流れて――晒した無防備な背中に、弧を描いたミンスの踵が綺麗に叩き込まれた。呼吸が止まる。黒マスクの内側で、思わず零した涎が流れ落ちる。嘔吐は、さすがに――堪えて。

「テメェらァ……大道芸人かァ!?」

 ぐらつく視界を、ひゅんと風が横切って。

「ぐ……がっ」

 横に跳んで杏寿の前方に回り、駄目押しで砂色の生ゴム底をぐりと鳩尾へ捻じ込んだミンスが唾を吐く。

「声優と泥棒だよー、ばーかー」

「ミンスちゃ!? 泥棒はひどかよ!?」

 シンナー中毒の杏寿は、筋肉も骨も年齢を遥かに飛び越えた速度で衰えゆくということを覚悟していた。そして、そうだとしても、大抵の不良少女には負けないつもりであった。

 だがそれは――普通の喧嘩であればの話。尤も、二対一であることなど気にはならない。鬼百合で不良少女を気取っていれば、そんな状況の一度や二度、誰だって経験していることだ。だからこのふたりが普通でないのは、それぞれの一芸を織り込んだ完璧なコンビネーションが故だった。パートナーがその一瞬を最も活かせるタイミングで杏寿に隙を作らせる。

 ――なァるほど。

 ――一年坊たァ思わない方がいいみてえだなァ?



『……アンタのこと知ってるぜ。「繚乱」の王子様』

 重心を落として支点とする。腰の回転を乗せて左右から連続で殴る。目にも止まらぬストローク。何万という格闘の場面を参照しながら、最も適切な動作を選択する。全て、全て、AIが彼女の肉ならざる身体を操作しているからこそ。関節に代えてクランクが、鉄腕を揮わせる。僅かな駆動音、発動機のみが立てて。

「ひっく……それは、嬉しいね。きみの心も、いつか僕に奪わせてほしいな」

 その全てを、ふらつきながら紙一重で受け流す。喧嘩の常識を悉く捨て去らなければ採用することのできないような、半ばまで前のめりに倒れ込んだりといった――酩酊者に特有の挙動。月と星の灯りだけを受ける宵闇の中で、恐ろしげなほどに整った顔に微笑を浮かべて。彼女は、夢雨塗依は華麗だった。誰かと誰かが殴り合う怒号を背景としながらも、まるで薔薇の咲き乱れているが如く。その姿、正しく『繚乱』の夜王。

 結んだ前髪、躍動させて。高鳴る鼓動さえもはや不安の齎すそれではなく、白と黒のベストを着込んだ彼女を麗しく踊らせる四つ打ちだった。

 栞・エボシラインは『魔女離帝』の保有するデータベースにアクセスすることで既に夢雨塗依のことを熟知していた。クラサメ・ヌリエ。十七歳。身長一六五センチ、体重五二キロ。岐阜県恵那市出身、現在は両親と共に平塚市内在住のひとりっ子。父は中国文学を研究する大学教授、母はピアノ教室の経営者。そして――アルコールを口にすると、こうなる。身体能力の向上も驚異的ながら――その神髄は、陶酔させることにある。流し目で、白い指の節で、吐息に乗せた酒気で、あるいは大きく身を翻して飛び散る汗さえフェロモンに変えて、彼女は、少女を魅了する。

 本来なら、そのはずなのだが。

『生憎だけどよ――アタシ、愛だの恋だのわかんねえんだ。身も心も鋼なもんでな!』

 王子様による魅了が通用しないだけではなかった。格闘術としての酔太子拳は、千鳥足での回避やガードを主体としながら隙を見て鋭い一撃を繰り出す「受け」の闘法である。しかしAIによる制御に隙はほとんどなく、生身の肉体であれば打ち合う毎に蓄積していくはずの疲労も存在しない。故に、栞・エボシラインは夢雨塗依の天敵と言えた。

 しかし、それでも――

『こっ、らあっ!!』

 左足を踏み鳴らし、そこに体重を乗せて右のアッパーを打つ。パーカーのフードを被ったまま、作り物の瞳でしかと塗依の顔面を見据えて。突き上げる拳は、しかし肉や骨を打たない。塗依はカオス理論的な動きで不意に脚を交差させ、それを躱していた。左手にはフルートグラスを持ったままで――今にも倒れそうに不安定な足運びで、それでも栞は彼女を殴り倒すことができずにいた。

 それは焦燥? 否、そうではない。栞・エボシラインは焦らない。誰かに吹き込まれた音声をどれだけ荒げようと、そのプロセッサは機械的に喧嘩を執行するだけだ。

 続けざまに、打つ。打つ。固めた拳の連撃、それからバスケットシューズの底が焼け焦げそうなほど急速にボディを捻ってからの肘、裏拳。機関銃のように栞は己の両腕を打撃武器として振るう。仲間ならざる同僚のミンスとソニアが足技を主体とするのと対照的に、彼女は基本的には拳にこそ己を込める。

 しかし、しかし。不可解なるステップを踏んで、夢雨塗依は微笑む。グラスの中、僅かに残ったローズピンクの水面が揺れて。

「ふふっ、お転婆な子猫ちゃんだね」

『ざっけんじゃねえ!!』

 リュックサックの中で発動機が廻る。それは栞にとっての心臓だ。強く強く発熱するが、しかし本人は背中にそれを感じない。異常な高温に達すればセンサーがそれを感知してAIに警告するが、基本的に人工疑似意識体としての彼女が背中の温度に対して考えることなどひとつもない。

 常に機械的な判断を下す彼女を、人は冷徹と呼ぶのかもしれない――それは、何よりの侮辱だった。栞・エボシラインに搭載された情緒のメカニズムは、そう捉える。不要であるはずの「感情」、正確にはそれを模したパラメータが搭載されたことには、無論、理由がある。

 楽土コンツェルン総帥・ラクシュミの意向は、絶対であったからだ。昨年の夏の彼女は、楽土ロボティクスのラボにてこれから目覚めるその少女を殺戮のための兵器とすることを望まなかった。あらゆる不良少女の在り方を受け容れる――鬼百合女学院をそういう土地たらしめんとして理事長の地位を簒奪した楽土ラクシュミは。

 湘南式自律駆動戦術実践機関が、何よりも「不良少女」であるようにと、そう願った。

 誰かに命じられて誰かを踏み躙るものではなく、彼女は、もっと自由に――

『っ――』

 両手の先は何にも触れていない。高感度のセンサーが、手厳しくそう伝えてくる。人間であれば冷や汗の雫でも頬を伝っていただろう。栞は、乱打の手を止める。疲労も焦りもありはしないが、彼女は最善手の再計算を選んだ。

 このままでは、千日手――にさえならない。この膠着は、王子様と成り代わった夢雨塗依がただの一度もカウンターを打ち込んでこないからこそ成立しているものだ。もしも彼女が手っ取り早い暴力を選んでいれば、もう既に栞は機能停止に追い込まれているかもしれない。そう演算させるだけの条件が、提示されている。

 栞というAIに内蔵された行動予測はゲーム理論を基にしている。つまり、喧嘩という状況において相手は栞を破壊する、ないし行動不能に陥らせるのを第一義として行動することを前提としている。「手を抜かれる」ことは想定されていない。いないし、栞という疑似人格は、とてもそれを許容できない――!

「さあ、どうしたんだい? まだまだ夜は長いよ。僕はいつまででも付き合うさ」

 片目を閉じ、軽く腕を広げてみせる塗依。どこか余裕さえ見せて、誘うような眼差し。

 奥歯を噛んで――屈辱の発散という自己完結的な意義しか持たないジェスチャーさえ、彼女にはインプットされていた――栞は口を開く。

『なあ、教えてくれや。テメエをひた隠しにして、誰に何のスジが通せるってんだ?』

 栞・エボシラインは、冷徹と呼ばれれば憤る。

 生まれたいと望んだ記憶はなくとも――不良少女であるために、彼女は造られたものであるから。そう在らなければ、混沌としてうねる自我という細波に飲み込まれてしまう。

 感情を燃やして生きなければ、不良少女になれないからだ。

 故に。故に。彼女は、それを選んだ。

 確かに果てしなく打突を続けることはできる。一晩中であっても。そして、夢雨塗依には一晩中それを受け流し続けることはできないだろう。だが、そういう決着を栞・エボシラインは望まなかった。言葉で刺激することで夢雨塗依の感情を引き出し、この刹那、正面から激突して打ち砕きたかった。機械である、否、機械に過ぎないはずの彼女が――そう、願望なるものを抱いた。

 栞・エボシラインは、不良少女だったからだ。

「……ひっく」

 攻撃の手が止まったことをこれ幸いと、拾い上げたボトルからグラスに酒を注ぎ足し、さっと口をつけて啜る。塗依は頬を紅潮させながら吃逆をした。

 ここで機械の少女に相対しているのは、彼女であって彼女でない。迷いの森にいる「あたし」の夢雨塗依を導く、光のような靄のような誰か。「僕」の夢雨塗依。

 物心つく前からずっと、「あたし」は彼女に寄り添われていた。彼女の血が、高貴の裔であったが故に。酔太子拳の可能性を受け継いで生まれた子であったが故に。

 彼女は王子様である。目の前の全ての少女をお姫様に仕立て上げ、実に平等に麗しい手を差し伸べる、そんな王子様である。男装し彼女を模倣すると決めた『繚乱』の少女たちだってその愛の対象だった。違ったのは、そう――強いて挙げるのならば、星野杏寿ただひとりか。

 王子様。それは、他者との関係性の中でしか生じ得ないアイデンティティである。しかし、生まれ落ちたその瞬間から、「僕」の塗依は王子様として在ることができた。

 その理由など、ただひとつに決まっている。

「僕は僕だ。夢雨塗依だよ。全ての女の子のためであり――『あたし』のための王子様だ」

 夢雨塗依にとって、「僕」は「あたし」を隠す殻などではなかった。「あたし」は「僕」に守られて、「僕」は「あたし」に王子様にしてもらった。

 半分同士が互いに補い合うことで、彼女という少女は完結していたのだ。

「そして――今の僕には、『あたし』と一緒に守りたいものがある。……倒させてもらうよ。なるべく痛くはしないから」

 ふらつく脚を、なんとか真っ直ぐに立てて。火照った頬に吹き付ける夜風に、身を引き締めて。

 塗依は、中指を親指で引き絞る。それは狐の手ではなく、デコピンのための形だった。

『なるほどな。……畜生、格好いいじゃねえかよ』

 またひとつ、AIは学習する。不良少女の生き様を。

 栞・エボシラインは、夢雨塗依に全力を以て応じるのが礼儀であると判断を下した。

 額に手を伸ばす。パーカーのフードがぱさりと背中側へ落ちると、毛髪を模した繊維が露わになる。少年だとしても短いくらいのベリーショートヘアに刈り整えられたその髪型は、頭部を開いてのメンテナンスに備えたもの。

 力強く太い眉の形に植え揃えられた繊維は凛々しく、そしてその間に、不可視のタッチスクリーンがあるのだった。

「……」

 シャンパンを呷り、最後の一滴まで飲み干すと、塗依はグラスを置いた。

 周囲の乱闘騒ぎの中で、互いを認め合ったふたりの不良少女の向かい合うこの直径数メートルの円だけが、異様な静けさを保っていた。

「ぬーくん!!」

「--・- - --- ・-- ---・- ・・・ ・-・・ ・-・ ・・・ -・-・- --- ・・-・・ -・・-・」

 悲痛に声を張り上げた『繚乱』の客の少女の首筋を、丈の短い浴衣から太腿も露わにしてあちらこちらと飛び回っていたコアントロー・ワンダーがささくれ立った指先でさっとひと撫でする。如何なる技術か、それだけで罪なき少女は昏倒した。客の少女の大半が『魔女離帝』に籍を持つことを、塗依は当然知っている。彼女たちが危害を加えられることはないだろう。その点は、まず安心だ。

「ガッハッハ、惰弱惰弱ぅ!」

 自信たっぷりの宣言に違わず、迫り来る『繚乱』のホストたちを小峰ファルコーニ遊我は腕のひと振りで弾き飛ばしてゆく。体格差がどうこうなどという次元ではなく、その影はまるで災害だった。手を貸せないのが申し訳ない――くらくらする脳でも、その痛みはきりりと鋭く感じる。『繚乱』という花束は、春を前にして散ってしまうのだろうか。頭領とは、花々を開かせる恵みの雨でなければならないはずなのに。

 だが――王子様になっても、それはそれで。塗依は、不器用なままだったから。

 目の前のことから、ひとつずつ。まずはこの鋼鉄の不良少女と決着をつけて、すぐに救援へ向かう。そう決めて、目を逸らす。

 星野杏寿が戦っている方へは、ほんの一瞥もしない。ただ、信じた。

『名乗んのがまだだったな。アタシは疾走機神・湘南一番機――個体名は、栞ってんだ』

 そして、夢雨塗依は、栞・エボシラインに向き直る。

『今から三分間――アタシが動けるあと三分で、テメエを始末してやるぜ』

 酔いの回った頭でも、焦点がしっかりと合う。

 パーカーのフードを脱いだ、鋼鉄なりし不良少女。彼女の纏う覇気が色を変えたことを悟り、夢雨塗依は唇を舐めた。

 泥酔した耳にも、届く、届く。栞の背負うリュックサックの中、発動機の駆動音が加速する。瞼が黄金色の輝きを放ち始めたのに呼応して。

『――エボシラインシステム、起動ッ!!』

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