第三話『第四使徒 硯屋銀子』4

 光条が幾筋も前方へ伸びて黒を切り裂く。

 夜の稲村ヶ崎、国道一三四号線を連隊が行く。改造マシンのマフラーから吐き出される白煙が、夜天の闇へ溶け合っていく。

 夢雨塗依<クラサメ・ヌリエ>の背中には、明るい茶髪を派手に巻き上げた同年代の少女が頬をすり寄せていた。深くスリットの入った薄いドレスを身に纏う彼女は塗依にとって馴染みの客であって、大切に思っていることには間違いなかったが、しかしハンドルを握る手もどこか力なく上の空であった。

 冬の夜、さらに海辺と重なれば、バイク乗りの顔に吹きつける風は感覚を麻痺させた。だが、それさえ気にもならないほど。

「……ぬーくん?」

 茶髪の少女が、塗依のジャケットを爪の先でかりと引っ掻いた。彼女にはそうする権利があった――店の営業が終わった後にこうして客をバイクの後ろに乗せ湘南の海辺を流すのは『繚乱』独自の伝統的なアフターで、その権利を手にするために彼女たちは安くない金額を注ぎ込んでいた。この茶髪の彼女の場合、『魔女離帝』特攻隊の一兵卒として楽土ラクシュミから賜る給金のひと月分ほぼ全てを、今ここで塗依の腰に手を回すために費やしてしまっている。

 それは勿論、虚構と知っていても目くるめく愛のひと時を過ごすためであって、こうもぼんやりとされては契約不履行だ――いけない。塗依の胸の奥がちくりと痛んだ。自分自身がそれどころではないというのに、ただ金をたくさん使ってくれるだけの少女を淋しがらせたことに罪悪感を覚えるくらいには、夢雨塗依は優しい不良少女だった。

「ああ……ごめんね。大丈夫」

 スクーターの低反発シートと少女の体温に抱かれながら、ぽつり、呟く。エンジンの唸る中でも耳に届くよう、甘い声で。運転中でさえなければ振り返って微笑みかけ、軽く肩か頭に触れていたところだ。塗依がそうするであろうことを、塗依は真似るだけ。

 純白のスーツ。薄いブルーのサングラス。左右からひと筋ずつ持ってきて額の前で水引のように結んだ、特徴的な前髪。全て、全てキャラクターに過ぎない。「僕」は夢雨塗依。「あたし」ならざる不良少女の姿。そうである。そうでなくてはならない。今夜は素面のままであったとしても。

 彼女が、『繚乱』の頭であったから。

 水恭寺沙羅と楽土ラクシュミがそれぞれ立ち上げた『酔狂隊』『魔女離帝』の二大勢力とは異なり、『繚乱<リョーラン>』は鬼百合女学院においてそれなりに伝統のある勢力(チーム)であった。世代を超えて受け継がれてきたその精神は、不良少女らしい喧嘩の心意気などとはかけ離れた「乙女を悦ばせる華たれ」というもの。

 早い話が――

 現在の鬼百合においては少数派となったバイカーチームであると同時に、『繚乱』は、余所の不良少女たちを歓待する男装ホストクラブとしてその名を知られていたのだった。

「天佑<テンユー>くん……私のお金でたくさん勉強して……素敵な詩人になってくださいね……」

「おう、いつもありがとな。これで今週も大井……じゃねえや、えーと、記念館とかに行けるぜ」

「ふふ……エマちゃんは本当に可愛いね。いつもより可愛いよ。今日はそう、瞼と耳たぶの辺りが特に」

「ふええ~~~ん、春彼岸<ハルヒガン>くんいっつも整形見抜く~~~」

 寒風を掻っ切って進む、甘ったるくて、刹那的で、空虚で、どうしようもない夜。

 それでも、不良少女たちは『繚乱』の店に集う。バイクに跨って、凍えそうな黒の中を疾走する。

 彼女たちの選んだ青春が、そこにあったからだ。

 それを塗依は『繚乱』の頭目として誇らしく思い、同時に――

「きひ――なァんだ、ヌリィ、テメーまだウジウジしてんのかァ?」

 ウゥン、と単車の唸り声ひとつ。左右へふらふらと滑るように身を振って、先頭を走る塗依の隣へと躍り出る。運転者と同じく星という名を持つ、カワサキのエストレヤ。

 マスク越しのくぐもった声が、からかうように投げかけられる。

「そういうこともあんだろ、引きずってんじゃねーよォ……きひっ、『青春は小雨続きよ花見酒』ってなァ……きひひっ」

 彼女ほど髪の長い少女は、男装軍団たる『繚乱』にはいなかった。灰色の直毛を背中まで伸ばし、ツーサイドアップにしている。それぞれの結び目には、明らかに首吊り死体を模した悪趣味極まりない紫色の布人形がぶら下げられていた。

 そっとずらして酒を流し込む時を除いて、彼女が黒いマスクを外したのを見たことのある者はいなかった。漫画みてーに歯がギザギザなんだよ、と星野杏寿<ホシノ・アンズ>は笑いながら言った。シンナーの吸入でエナメル質が溶け出しているのだった――軽率に口にする割に、酔った客たちが見せてくれるよう面白半分で頼んでも彼女は決してマスクを取ろうとしなかった。いつも、へらへらと笑って受け流していた。

 彼女の尖っているという歯を一度も見ようとしなかったのは、周囲では塗依ただひとりだった。

 不思議なもので、喜怒哀楽のうち三つまでは毛の先ほども振り撒かずただ飄々としているだけで杏寿は世界と上手く付き合っていくことができた。顔の下半分を隠し、誰が相手だろうが乱雑な口調を整えようとしないまま、ホストとして塗依に次ぐ指名数を稼いでいることが示すように。

「……杏寿」

「えっ、何なに? 何の話?」

 杏寿の背中に掴まっている眼鏡の客が、素早く横に顔を向けて塗依に視線を送る。彼女も常連で、『魔女離帝』の親衛隊に身を置いていたはずだ――そもそも、このアフターを勝ち取れるほど『繚乱』の店に金を落とすには『魔女離帝』で楽土ラクシュミから小遣いをはずんでもらう他ない。ただ、この眼鏡の少女に関して言えば、いつも杏寿を指名するものの彼女本人に強く入れ込んでいるという甘い雰囲気をまるで見せない不思議な客ではあったが、ホストたちからしてみると、どんな理由であろうが遊びに来て支払うものを支払ってくれれば文句などなかった。

「べッつにー? なァ、ヌリィ! 俺とテメーだけの秘密だもんなァ! きっひひひ」

 両手が空いていたら、思い切り平手で背中を叩いてきたのだろう。目を細める。焦点の定まらない、よく動く瞳の小さな目を。

 ……吸うものは吸ってきているのだろうが、彼女は意外とそこまでラリっているわけでもない――塗依にはわかる。話題が話題だけに塗依はどきりとするものの、絶妙に「言ってはいけないこと」のラインを踏み越えないのが星野杏寿だ。……むしろ、彼女は恐らく、煽っている。ふたりの後ろに乗る客の少女を。秘密をちらつかせ、彼女たちがまだ塗依と杏寿の共有している領域に立ち入る権利を与えられていないことを突き付ける。たちの悪い営業だ――少女たちを金づるとしか思っていない。杏寿は、名実共に『繚乱』のトップである塗依よりも遥かにホスト向きの性格をしていた。

「ちぇー、ケチーっ!」

「ぬーくん? どうしたの? 何か悩んでるの?」

 塗依の後ろの茶髪の客が、うなじに唇を寄せてくる。心配そうに。杏寿が余計なことを言うせいだ――知られてはいけない。特に、この少女には。

「ううん。何でもないんだ……ごめんね、心配かけて」

 言えるわけがないのだ。

 この数日、夢雨塗依がずっと悩んでいたのは――想いを寄せる相手にバレンタインデーの贈り物を渡せなかったからだという、そんな理由だなどと。

「杏寿は、女の子を煙に巻くのが好きなだけさ。……僕は元気だよ。今夜も来てくれてありがとう。きみと一緒にいると、とてもリラックスできるんだ」

 店で隣り合っているより、バイクで背中に語る方がよほど楽だ。演技臭さはエンジン音が誤魔化してくれるし、何より、罪悪感を感じながら目を見つめなくて済む。

「……えへへ」

 塗依の腹筋をなぞるように回された細腕に、力が入る。それが偽りであるときっと知りながら、今だけの恋人としての塗依を確かめるように。

 嗚呼、やはり、どうしても――申し訳ない。そう思ってしまう。

 向いていないのだ。不器用な塗依には。「僕」である時の「あたし」にも意識があれば、多少は、「彼女」と対話できるだろうに。「あたし」たる夢雨塗依は、「僕」と出会ったこともないまま、「僕」を演じて少女たちを悦ばせている。

「ヌリィ」

 凍えるような夜の風に、杏寿の長い髪が靡く。波音、渚に置き去りにして、不良少女たちは夜を駆けていく。塗依と杏寿の後ろには、同じように客を後ろに乗せたマシンが十六台、続いている。アフターは基本的には全員が参加する。『繚乱』の総勢。頼りない夢雨塗依を頭と仰いでくれる、男装の不良少女たちの軍団。

「最後の一年、だぜェ? テメーの好きなように、きひっ、やれっつってんだよォ、俺たちはさァ……なァ」

 剃り落として細く鋭く描いた眉と、三白眼。下半分が隠された彼女の顔の中、感情を伝えるのはそれらだけで。

 そしてその双方が、笑みの形に歪んでいた。

「テメーが選んだ夏なら、地獄の底でだって咲いてやんよォ……っ」

 シンナーの多幸感に狂った脳がそうさせたわけではなく、それは彼女の、星野杏寿の真なる言葉であると。

 塗依には、直感できる――

 二年間、毎晩、一緒に走ってきたのだから。「僕」のことも「あたし」のことも、彼女は、同じように呼んでくれたから。

「……杏寿」

 不良少女は、夏の季語。

 誰かがそんなことを嘯いたように、その季節は特別なものとして鬼百合を待つ。『繚乱』のホストたちも、物語の主人公たり得る不良少女たちであるのだから。

 夢雨塗依は夢想する。

 割拠する強豪チーム――『酔狂隊』も『魔女離帝』も押しのけて頂点に君臨することなんて、とても出来そうにはないし。

 今バイクを喚かせているホストたちの誰も、そんなことを望んではいない。

 ただ――

「うん。いつまでも走っていたい。それだけは間違いなく、願い……だなあ」

 ――そう。

 ――そうなんだ。あたしは、今のあたしは、これっぽっちも思えてない。

 ――硯屋が、あたしを選んでくれるなんて。

 ――うん。思えない。

 ――実際、今あたしが恐れているのは、この気持ちが報われないことよりも。

 ――ずっと支えてくれた杏寿や、『繚乱』のみんなを、失うことだから。

「あた……僕を選んでくれたみんなへの、唯一の恩返しだから」

 ――だから、これでいい。

 ――これが、いいんだ。

「……むー。ぬーくん、なんかあたしより杏寿くんと喋ってる時の方が楽しそう」

「いやーーー、たまらんわぁ……やっぱり次のオニケあんぬりで行こうかな……『繚乱』島だし……」

 陽の当たらない旧校舎の美術準備室で、不定期に『鬼百合女学院決起集会』なるイベントが勢力の垣根を越えて共同で催され、一部の不良少女たちをモデルにした自主制作の漫画や小説が盛んに交換されていることを、知っている者もいたし知らない者もいた。

「もうじき、春が来るからね。……僕たちが鬼百合で過ごす、最後の春だ。水恭寺も楽土も動き出すと思う」

 電飾で飾った、純白のヤマハ・マジェスティ。身に纏うスーツと一体になる、穢れなき色。

 夢雨塗依は、夜の闇の中で涙のように煌めく白となって、高らかに宣言する。

「無論――僕たちも、僕たちであるために戦おう。まずは、オープンキャンパスのミスターコンだね。今年も当然、僕たち『繚乱』で総取りを狙う」

 ちらりと、一瞬だけ後ろを振り返る。幾つもの光。その名の通り、繚乱たる百花。棘を隠し持つ薔薇のように、麗しくも苛烈な不良少女たちだ。

「みんな、一緒に来てくれるかな」

「勿論だよ、塗依くん!」

「待ってたぜ、やってやろうじゃん!」

「頑張ってね!」

「あたしたちも精一杯応援するから!」

 声がエンジン音の合間に次々と飛んでくる。遠い波音をかき消してしまう。真夜中、海から道路を挟んだ建物の灯りは全てが人の営みだ。それらを気にしていられないから、彼女たちは不良少女なのだ。

 隣では、杏寿が目を細めて笑っている。自分の方が何倍もこんな役回りに向いているくせに、いつも塗依を焚きつけて祭り上げるばかりだった。それが星野杏寿という女だった。

「きひ――『残雪や不安ひとつもなく凍れ』ってとこだァなァ?」

 杏寿がシンナーを吸った後にだけ詠む俳句は、その方面に詳しくない塗依には良いのか悪いのかもよくわからず、いつもただ曖昧に微笑むばかりしかできなかった。黒いマスクの彼女は、それで十分に満足げだった。そんなことをずっと繰り返して、『繚乱』は彼女たちの代になったのだ。

 男装の不良少女たちは瞬間を海辺のアスファルトに刻みつけながら華々しく夜を行く。暗い湾岸道の先は未来で、見通せないけれど冬の澄んだ空気の中にあって、そこへ向かって突き抜ける感覚が迷い煮詰まっていた塗依の頭をすっきりさせてくれた。

 暗幕の空にはオリオンの三つ星が小さく瞬いていた。

 朝の鬼百合女学院を「『繚乱』壊滅」という衝撃的なニュースが駆け巡る、ほんの八時間前のことであった。



「さすがは銀子君の兄君ですな。どれも非常に美味でした。量も――申し分ない」

 からん、と高い音がした。

 ……ヘルミの手放した散り蓮華が、綺麗になった椀の底へと滑り落ちた音。

 白くふっくらとした手を合わせ、微笑む。腕を組んだまま頬に冷や汗をつつと滴らせる硯屋鉄火を見上げて。

「大変満足です。ご馳走様でした」

 長い睫毛、瞬く。雪の妖精を思わせる――には、彼女の身体つきはやや逞しげなほどのふくよかさが過ぎていたかもしれないが。

 昨年末に始まった紅孔雀炒飯完食チャレンジ、初の達成者は銀子が実家に連れてきたふたり目の友人となった。

「「「……」」」

 テーブルを囲んでいたギャラリーたちはほとんどが近所に住む『硯華楼』の常連客なので、みな二年前まで実家暮らしをしていた銀子のことをよく知っていたが、彼女が連れて帰ってきた髪と目の蒼いフィンランド人は彼らの日頃の生活からしてみれば全きストレンジャーで。

 総重量三キロオーバー、禍々しく威容を誇っていた小岩が如き炭水化物と油の山が彼女の口に全て吸い込まれてしまった光景を現のものとはとても思えないのも、当然であった。

 ただ、唯一その光景に驚きを全く抱いていなかった目つきの悪い銀髪の少女だけが、頬杖をついて欠伸をする。

 信じていた――だなんて暑苦しい表現を使われたら、彼女はきっと苦い顔をするだろうけれど。

 当たり前のように、わかっていた。カロリーの塊をこれでもかと盛り付けた紅孔雀炒飯を、ヘルミは苦もなく平らげてしまうのだろうと。硯屋銀子の世界において、ヘルミ・ランタライネンはもはや異物ではなかった。

 パーカーのジッパーを胸元まで開け、紙ナプキンで口を拭ったヘルミの前から、苺ミルク頭のバイトが器を下げていく。豊かに張り出した胸とぽっこり膨らんだ腹の間で腕を組みながら片目を閉じて何やら彼女を口説いているヘルミを睨むと溜息ひとつ、そして麻袋のような長いスカートのポケットから煙草の箱を取り出そうとして――舌打ちをする。ガソリンスタンドでアルバイトをしている硯屋銀子はライターを持ち歩かない習慣をつけていて、大抵は傍にいるヘルミが代わりに持ち歩いてくれているのだった。

「やー……こりゃ敵わないわ。うん、ルールはルールよね。金一封、進呈します! おめでとう!」

「はっはっは、恐縮ですね。銀子君とどこか近場に旅行でもしましょうか」

 そして今、ヘルミは銀子の実母・鉄火や常連客たちに囲まれている。そこへ割って入る気にもなれず、銀子はただ不機嫌そうに席を立ち、サーバーで汲んだ冷水を口にした。長い脚、乱暴に組んで。彼女にとってこの週末に実家へ帰省したのはバレンタインデーという一大イベントにおける少女たちの猛攻から退避するためでしかなかったのだ。同居人たるヘルミと母親との会話を間近で聞かされるのは、常に斜に構えて世界と相対する彼女には拷問でしかなかったのだ。

 銀子が独り座るテーブルから見える厨房には、生来寡黙な兄・金太郎が苺ミルク頭に細々と指示を出しながら洗い物をする水音。埃に曇りながらちらつく蛍光灯の下で、濡れ布巾に磨かれっぱなしで冷たいテーブルに肘をついて、銀子は笑みを浮かべ母と語らうヘルミを見ていた。ぬるつく床を叩く靴底は心音より少し早いリズム。たった二十畳ほどの店内でありながら、荒野の彼方であるかのようだった。

「はいはい、散った散ったァ! おっさん連中うちの娘の彼女じろじろ見なさんな、やらしいわね。今日はもう店仕舞いよ、この子が全部食べ尽くしちゃったもの」

 大学生の姉と紹介されても信じざるを得ないほど若々しい鉄火が、歯に衣着せぬ物言いで常連客たちを店から叩き出す。ゆっくりしていきな、また遊びにおいでよ、と口々に残しながら硯華楼を後にしていく彼らに、ヘルミはその都度微笑みながら日本流に軽く会釈した。

 深夜、飲食店が暖簾を下ろす刻限。人気の去った空間はまるで祭りの後だ。それは元あった活気の規模に拠らず同じこと。誰かが小さく息を吐く。

 銀子は、不可視の壁を挟んで彼女を横目で見る。飄々としているヘルミ・ランタライネンはその実、銀子の知る限り、鬼百合でもなかなか上位の「誰でも接しやすい人間」なのだ――飄々としたその存在感に慣れてさえしまえば。作り物のように美しいが故に人間味を喪失させる冬の国の顔立ちを愛嬌ある体型が中和し、鬼百合においては珍しく他人に対して基本的には棘を突き付けないその人間性との相乗効果で、そこに「親しみ」という測定し得ないパラメータが生じる。実際、敵対勢力の不良少女に絞って尋ねたとしても、ヘルミ・ランタライネン個人を嫌い憎んでいる者などいるだろうか?

 だがそれでも、彼女は何故か、何故か銀子の傍にいる。よりにもよって、誰とも睦み合おうとしていなかった銀子の。どれだけ突き放しても多くの人を惹き寄せてしまう呪いじみた体質の硯屋銀子、彼女に何の遠慮もなく手のひらで触れられる位置にいる唯一の存在はヘルミ・ランタライネンなのである。

「しっかし、まあ、たまーに帰ってきたと思えば、外国の子連れてくるんだもんねえ。お銀もわからん子だわ。ヘルミちゃんだっけ? どう、あれと一緒に住むの。カリカリしてばっかでうんざりでしょ」

「ええ、ミッリでもルミでもご随意に。……して、そうでもないのですよご母堂。銀子君は不器用ながら――と、失敬。知り合って二年の私がご家族に語っては釈迦に説法も甚だしいですな」

 苺ミルク頭が油に汚れた古い換気扇のスイッチを入れる。音が人と人の間にある空気を撹拌する。

「あっはは、何々? 聞かせてよ、あの子うちの外でどんな風なのか気になるわ。っていうかこんな小汚いとこにずっといないで、上でゆっくりしててよ。あたしらも片付けと明日の仕込みだけ済ませたら上がるからさ。ほらお銀、連れてったげな!」

「っせーな、クソが……」

 絡んでくんじゃねえ、と目を細めて刺々しい気迫を放ちながら水を飲み干す。蛍光灯が大きく瞬いて、やや明るくなったような気がした。

 やはり、壁の薄い茅ヶ崎のアパートに置いてくるべきだっただろうか。こうなることはなんとなく理解していたはずだった。家族でただひとりお喋りな母親が慢性的に会話に飢えていることくらい、そしてヘルミがそれに同調して視界の端の銀子を話のタネにし続けることくらい、想像できていたはずだった。

 それでも、実家について来ようとするヘルミを、それほど強く拒絶しなかったのは。

 銀子にとって、その光景が、それほど嫌なものとは感じられなかったからなのかもしれなかった。

 だが。

「いいじゃないのよぅ、大鳥居<オートリイ>ちゃんの時だって――」

 だが、その話が始まるなら、別だ。その、硯屋銀子の底の方に苦く沈殿し続けている感情と絡みつく固有名詞が浮かんでくるなら、別だった。

「おい、ババア」

 銀子は低い声で遮り、左の瞼をひくつかせながら鉄火を睨む。

 器を振って水気を切っていた流し台の金太郎が、ちらりと視線を動かして母と妹とを見た。それにヘルミが気付いたのは、彼女ひとりが直方体の結界として区切られた店内を俯瞰的に眺めていたからだった。

 皮膚に緊張が駆け抜ける沈黙は、一瞬。

「その話はやめろ」

 それだけだった。

 銀子が口にしたのは、それだけ――常に口の悪い彼女なりの普段のコミュニケーションとは一線を画す、真に冷たい声音。

「……そう、ね。よね。ごめんね」

 軽口で返すべき時ではないと、鉄火も理解していた。新しい土地で、新しい出会いを経験して、銀子の中でそれがもはや過去のことになっているのではないかと――なっていてほしい、と思ってしまって、つい、境界を踏み越えた。親であるのに――ではなく、親であるからこそ。

 舌打ちだけを返した銀子はテーブルに強く手をついて立ち上がり、店の奥、簾に隠された階段を登っていってしまう。衝撃で傾いた空のコップが倒れ、テーブルに水滴が跳ねる。鉄火はヘルミの方に顔を向け、困ったように微笑をして頬を掻いた。たまに実家へ戻った娘と上手くコミュニケーションも取れないのが、淋しくもあり、母親として後ろめたくもあるのだろうか。

 ――ふむ。

 ――ご母堂の前で酒に頼ることはないにしても、銀子君の逃避癖は困ったものだな。

 ヘルミは、雲ったガラス戸の先に視線を送る。夜の帳が下りた、背の低い川崎の商店街。そう、硯屋銀子という少女はここで生まれ育った。魔県・神奈川の北東域。この地を離れて、何故、彼女は湘南へ来たのか――寝物語にぽつぽつと聞いて、ヘルミ・ランタライネンは、知ってはいる。編まれたナラティブとして。それは当然の限界なのだった。誰も、他人の記憶の中の過去を客観的に追体験することなどできはしない。物語のひとつとして聞き、寄り添うことしかできないのだ。

 だが。だが、それが果たしてどこまで本心なのか。

 あるいは、自身が本心だと思っていることさえ、真に本心たり得るのか。

 ヘルミ・ランタライネンは哲学する。低く響き続けていた換気扇の音に再開された水音が重なり、それらを弾き返すようにして、彼女の耳の奥で音楽が再生される。それは記憶の中の調べだ。ふたりきりの礼拝堂で、硯屋銀子がかき鳴らしたギター。暗号めくコードの連続。自嘲するような彼女の微笑。そんな時、ヘルミはオルガンに指を伸ばしたのだった。

 ――今回も、お姉さんが一肌脱ぐべきかな?

 ――いや。二月も半ば、か。

 ――あの乱痴気騒ぎに、銀子君は否応なく巻き込まれるだろうからな。

 ――それで何かが変わるなら万々歳だが、変わらないなら……まあ、それもそれだ。

 夜。誰にも平等な、夜。

 愛すべき銀色の独裁者を想い、その母親を安心させようと微笑んだ。

 ――格好いいところを、見せてくれたまえよ。

 ――お姉さんの……私の、銀子君。

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