第二話『第一使徒 乙丸外連』7

「ねえ、謝花。聞こえる?」

「……うん」

「そっか。……お前さ、ほんとヒメのこと好きなんだね。うちら、ヒメに女いたなんて知らなかったな」

「うん……わたしも。和姫が不良になってたなんて知らなかったし、女の子だってことも知らなかった……」

「でも、変わんないんでしょ? 好きだってこと」

「……うん。大好き。どんな和姫でも大好き」

「そっか、そっか。うちもおんなじだよ。沙羅が大好き」

 エンジンと風の音にかき消されないよう、一単語ずつをはっきりと、話す。つい十数分前まで殴り合い蹴り合っていたというのに、今は身体を密着させて、弾丸のように国道を突っ走っている。嵐の前の水面にも似た心の奇妙な落ち着きは、限界まで上げた速度が却ってもたらしたものだった。これ以上は急げないのだから、ふたりの手元にはそんな風に言葉を紡ぐだけの余裕があったのだ。

「ね、ね。うち、さ。喧嘩、強かった?」

「うん……すっごく」

「そっか。……ヒメとどっちが?」

「……外連せんぱい」

「へへへー。でもね、沙羅はうちなんかよりずっと、ずーっと強いんだかんね」

「……そう、なんだ」

「そ。……だからー、お前はそういう奴のチームの一員になるんだから。ビッと気合入れていってよね」

「え……でも、わたし……まだ、外連せんぱいに勝ってない」

「……んもー、なんなんだよ、むかつくなー……じゃあ、今ここにいるお前は何なのさ」

「……通りすがりの、島人」

「何それ。もー、バッカみたい……あはは。なーるほどね……お前みたいな奴が、鬼百合……そっかぁ。うん、向いてるのかもなあ」

「……? なに……?」

「なーんでもないっ」

 潮風の香りが強くなる。穏やかな時間が終わりを告げたとわかった。カワサキのエストレヤ、名に星を冠する単車が弧を描いて抉り込むようにドリフトして停まる。何度も色を塗り替えた痕のある、ぼろぼろの単車。渡されたヘルメットは笑いのこみ上げてしまうようなピンク色で、べたべたとステッカーが貼ってあって、百合子が知る彼女の印象とはうまくかみ合わなかったけれど、何故かそれが本来は誰のものなのかすぐに想像できた。外連の細い腰にぎゅっと回していた腕の力を、そっと緩める。

「……さ。行こっか」

「……うん」

 百合子がメットを脱ぐ間に、外連は運転してきたバイクの座席を飛び降りる。……足が付かなくても運転できるということを、百合子は初めて知った。

 夜、海沿いには冷たい風が吹いている。パーカーのポケットに両手を突っ込み、墓石のように硬い埠頭のコンクリートを荒々しく踏みつけて、外連は歩いていく。その後を、謝花百合子も小走りに追った。夜風にマフラー靡かせて。『酔狂隊』水恭寺沙羅の使徒、ふたり。

 視線の先には、錆びてペンキの剥げた金属の大扉がある。錠前はついていない。人の営みでは決してない、赤いランプだけが衛星のようにぼんやりと闇の中にいくつか浮いている。ちょっとした体育館のように見上げるほど大きな倉庫の外観はあまりに無機質で、氷の城のように聳えていた。人の気配はしないが――息を潜めているのか、単に壁が厚いのか。いずれにしても全員叩き伏せることに変わりはないので、どうでもよかった。

 彼女たちの身体を震えさせるものなど、この夜には何もなかった。燃え立つ胸の内に、熱く四肢を駆動させる炉心があった。



 戦いすんで、夜が更けて。

 色素を殺した短い髪は、黒い影として揺れる海を背景に映えていた。

 巻き直したマフラーに口元を埋めて、百合子は立っている。テトラポッドの傍らに。それを軽々と乗り越え、飛び降りていった乙丸外連は、ローファーの底を湿気た砂にぎゅっと押し込み押し込み波打際を歩いていた。

 キャスターの煙が、渦を巻くように踊っているのが見えた。吐息だって真っ白な冬の夜、彼女はひとりで湘南の海を見つめ、指の間で煙草を揺らしていたのだった。その甘ったるい香りは百合子のところまで届いてこないけれど、視線の先は重なっていた。闇の中、どこまでも果てしない海。沖縄とも繋がっているこの海。セーラー服の少女たち、秘密めくシーサイド・メモリー。

 長い喧嘩だった。七、八人しかいなかったはずの『力學党X』は余所からかき集められた兵隊で数倍に膨れ上がっていたが、床に転がされた鷹山覇龍架を見てブチ切れた乙丸外連の前には塵芥も同然であった。上級生のチームが持ちかけてきた交渉に外連が唾を吐いて返すと、乱闘が始まった。そこで百合子はするりと紛れ込んで、まず覇龍架を救出したのだった。縁もゆかりもない上級生たちを殴り飛ばしつつ。

「じゃーはなーっ」

 煙草を指に挟んだまま、口元に両手を添えて――外連は振り返り、大きな声で呼ぶ。

 あまりにも広く未明の海を、背にして。

「怪我、してないっしょー?」

「……うん、なんくるない」

「そっかそっか。そんじゃさ」

 くるりと、踊るように回って。ふわり、短い髪が広がって。まるで蓄えていた昼の陽射しを一気に放ったかのように、僅かな星の光にも照り輝いて見えた。

「タイマンのケリ、つけよーよっ」

 その頬にも手にも、擦り傷や痣がある。百合子とのタイマンでついたものか、倉庫へのカチ込みでついたものか、もはや判別のしようもなかったけれど。……いずれにしても、救出された鷹山覇龍架は楽土系の提携病院へ運び込まれ治療を受けているはずだし、謝花百合子と乙丸外連はこうして深夜の海岸にいた。それが全てであるのだった。

「……うん」

 そっと、マフラーを引いて解く。藤宮和姫がいないので、天の川のごと夜空にぱっと舞ったそれはテトラポッドの先端に引っ掛かる。

 ダッフルコートの留め具を外す。ふたつ。憂いを湛えたような目で、外連もパーカーのジッパーを引き上げた。

 人気の絶えた静かな夜の海で、爪弾かれる三線のように一定のリズムを繰り返す波音だけの中で、不良少女がふたり渚を駆ける。もはや見守る瞳もなく、目的さえも失いながら、ただこの夜を終えるために彼女たちはそうしたのだった。

 冬の砂浜に、力強い足跡が両側から生まれていく。波の大いなる周期を乱した足音は、しかし、不思議とぴたり一致した。波打際とテトラポッド、その中心線。貝殻混じりのしゃりしゃり硬い白砂が、さらさらとして水を含む細かな砂に変わるマージナル。

 外連は体勢を崩した。腕を伸ばして前のめりに、その両手で砂浜に触れて。細い両脚、振り上げる。濡れた靴から振り飛ばされた雫が夜を踊る。

 身体を、捻った。右の手のひらを支点として、身体を回転させる。ドリルのように右手が砂を掘って、押し付ける体重分の痛みがそこに走るけれど、そんなことが何だというのだろうか。

 スカートの下、化学繊維のスパッツを夜天に晒しながら、小さな身体をひとつの独楽として乙丸外連は回る。汀で。潮騒、静かに響く。広げた脚に怒りはない。だが彼女は『酔狂隊』の第一使徒であったので、一度始めた喧嘩を負けとして終わらせるわけにはいかなかったのだ。これから見舞うのは、そういうケジメとしてのひと蹴りであった。

 そうなるはずだった。

「……え?」

 しかし、天邪鬼に転倒した視界の中で。

 謝花百合子――ハイビスカスの少女だけが、正しい向きに映っていた。

 短い髪、逆立てて。余りがちな袖から懸命に伸ばした手のひら、湿った砂に押し当てて。

 ヘーゼルの瞳、煌めいて。

 濃紺のスカートがゆっくりと広がる。裏地を見せて、相対的に「下半分」となった彼女の上体を飲み込んでいく。

 しっかりと倒立していたわけではなかった。彼女の場合は片手を支柱として、重心を回すようにしながら斜めに脚を振り上げる最中のその刹那であった。

 瞬間、動きを止めた外連の脚を、百合子の脚が絡め取る。上下に反転したふたりの肉体が、初めて面と向かい、交わる。廻って、廻って、引き倒す。

「なっ、わっ、とっ……」

 予想もしていなかったベクトルへ働く力に、乙丸外連はバランスを崩した。脚の曲げ伸ばしで釣り合いを取ろうにも、先んじて脹脛を蹴られ、膝が曲がる。ちゃり、と耳に澄んだ音が飛び込んだ。逆十字に吊るしたピアスは、いつでもそこに在ってくれた。

 両手を交互につきながら軽い身を少しずつ跳ね上げ、最後にくるりと翻して――砂を撒き散らしながら、両の足の裏でなんとか踏ん張り着地する。

 そうして、はっと息を飲みながら上げた顔に――

「……やあっ」

 殴りつけるような軌道で飛来したローファーの踵が、したたか突き立った。

「みゃっ……!」

 足場を手へと切り替える間もないまま、外連は小枝のような両腕を投げ出して一周だけ錐揉み回転しながら吹っ飛び、そのまま――小さな身体が、転がった。肩から、湿った砂を抉り込むように。左の頬にも、色のない髪にも、泥めいた雫が跳ねた。

 決して、鼻の骨を砕くような強烈な一撃というわけではなかった。そうしようと思えば、きっと外連はまだ立ち上がることができた。

 だが、そうしようと思えなかった。

 天地の逆転した景色は、外連だけの世界だった。そこでの彼女はどこまでも自由に飛び回れるピーターパンで、無敵なままの子供だった。そのはずだった。逆立ちしたまま足を掬われたのは、初めてのことだった――ほんの一瞬の交錯の後に訪れたそんな帰結は掛け値なく外連の敗北を意味していて、ただぽかんとして尻餅をついたままでいた。

 対卍――完了。

 謝花百合子は、乙丸外連を打倒した。

「お……お前、それ、うちのカポエイラ……?」

 夢見るように虚ろな声で、恐る恐る問いかける。

 ぽすっ、と。逆立ちの姿勢から腕の力で軽々と跳び、体操選手のように美しい姿勢制御で砂浜に降り立った百合子が――

「……うん。大体、わかってたから」

 長い睫毛を伏せて、小さく頬を掻いた。

 黒髪の中に咲いた紅の花が、控えめに浮かび上がっていた。

「お前……そんなにすぐ真似できるんなら……なんで、さっき屋上では使ってこなかったんだよ」

 外連が今のスタイルを編み上げるために、何年を要しただろう。逆立ちしながら狙い定めた通りのところを蹴るのだって、初めは決して簡単なことではなかった。それをいとも簡単に模倣できる、そしてきっと全ての不良少女の喧嘩技能を己のものとすることができるこの南の島の少女は……もしかしたら、とんでもない怪物なのではないだろうか?

 新しい風どころか。世間の常識の外にある鬼百合女学院の常識さえ塗り替える、災害そのものなのではないだろうか……?

「だって、わたしのタイツ、薄いから……和姫にパンツ見られちゃう」

 見上げる目を丸くして。

 喉に野菜の塊を押し込まれた鵞鳥のように、空気も唾も言葉も一緒くたにして詰まらせて。

「あはっ」

 外連は、小麦色の頬を林檎のようにぽっと染めた百合子が視線を逸らしたところで、堰を切ったように笑い出した。

 波の音だけが続く夜の渚で、凍えそうに冷たい冬の水にスカートを濡らしながら。

「あっはははははは! 何なの!? もう、ほんとにさあ……何なんだよぅお前は!!」

 ――そんなわけないじゃんか。

 ――悪い奴かどうかくらい、タイマン張ったらわかるっての。

 ――うちだって、色んな奴と喧嘩してきたんだからさ。

「あーあ、日付、変わっちゃった。最初は沙羅にあげたかったのにな」

 手のひらの海水をパーカーで拭い、ポケットから出したスマートフォンをちらりと確認すると、小さな少女は立ち上がった。

「頼りない先輩かもしんないけどさ。これから、よろしくね」

「……?」

 ポケットのさらに深いところをまさぐる。小さな箱だ。子供向けらしい、デフォルメされたウサギのキャラクターが描かれた細長い箱。

 百合子が小首を傾げながら差し出した手に、外連はその箱を振ってストロベリーのチョコレートをふた粒、出した。

 きっと汐と混じり合って、涙のような味がするのだろう。それを飲み込んだら、もう、謝花百合子は乙丸外連にとって可愛い後輩のひとりだ。

「ハッピーバレンタイン、百合子」



「……」

 全てのドローンから映像データを受信し終え、絆は静かに息をしてタブレットの画面を消した。

 葉山、一色海岸――昼間であれば穏やかな海と空との無限の青を一望できる駐車場。赤錆だらけの柵から気だるげに身を乗り出して、沖へ吹く夜の風を感じていた。いつものカウボーイ風ポンチョの上に、アンバーホワイトのコートを羽織って。

 規則正しく打ち付ける波音だけがそこを支配していた。海は好きだった――ブロンクスの汚れ尽くした雑踏より、遥かに。鼓動と同じリズムで波打際が啼く。湘南――スリの小娘だった彼女は、あまりに美しい日本語の名前を貰って、この街で息をしている。

 コツ、コツと。ブーツの靴音が背後から。

「ホーント、やることが小悪党なのよねえ。ザっちんは」

 テンガロンハットが奪われ――冬の夜、突如として冷え切った空気に晒された脳天に肘が置かれた。

「……小峰先輩。重いのですが」

 絆は振り返ったが、振り返るまでもなくそこに誰がいるのかはわかっていた。小峰ファルコーニ遊我が、夜の中で白い歯を見せていた。二メートル近い長身を白いダウンジャケットで包んだその姿は、遠目で見ればスノーマンやベイマックスのように見えるのかもしれなかったが――イタリアの血が流れる彼女が間近に立っていると、やはり溜息が出るほどの美女であった。唇にはワインレッドのルージュが引かれており、アイシャドウはまるで流星雨の夜空の如く煌めいていた。

「先輩は逗子にお住まいでしたよね。何故こちらに」

「んー? 夜の散歩よ、散歩」

 嘘だとすぐにわかった――歩けば一時間。絆は目を細めるが、遊我がくすくすと笑ったのが腕の振動を通して伝わってきた。

「ウソウソ。ザっちんに会いたくなったのよぅ。ほら、あたしって寂しいと死んじゃうじゃない?」

「気色悪いです」

「つれないじゃないの、このガキャ」

 絆の頬を、マニキュアの塗られた指がつつく。鬱陶しい――部下は多かれども友達が絶無である絆は、そもそもマハラジャたるラクシュミ以外の人間との友好的交流をかなり苦手としていたが、中でもこの妙に馴れ馴れしくしてくる年齢も身長も腕力も上の同僚との会話は飛び抜けて嫌だった。

「あんたが唆したんでしょ? 『力學党X』の三年共」

「……」

 答えない。代わりにタブレットでメール画面を開いて、労いのメールを書いた。乙丸外連・謝花百合子と『力學党X』との喧嘩を撮影するために動かした親衛隊の部下たちへ宛てて。

「ザっちん意外とバカねえ、ちびっこ丸が水恭寺のお姉ちゃんを裏切るわけないでしょーがよ」

 腕を組む。それは実に悪手であったと思われた――中学生の鷹山覇龍架を拉致した『力學党X』は、謝花百合子が様子を窺い身を隠している間、乙丸外連に交渉を持ちかけたのだ。曰く、卒業する自分たちの手先となって鬼百合で頂点<テッペン>を狙ってみないかと。当然のようにそれは決裂し、謝花百合子の乱入と同時に、状況はカオスへと雪崩れ込んだのだったが――

 その『力學党X』に金を握らせ、この一件を仕組んだのが――絆・ザ・テキサス率いる『魔女離帝』親衛隊であるというのなら、その行為の意味合いは変質する。

「……バカはどちらですか。最初から乙丸が買収に応じるとは考えていません。ただ、春に新入生を勧誘した直後のタイミングで仕掛けることをマハラジャがお望みだとすれば――養老案<ヨーロー・アグネ>が不在の今、乙丸さえ消えればマハラジャと水恭寺のタイマンを妨害する者はいなくなります。ですから、怪我でもしてもらえればと思ったのですが」

 絆の中にあったのは、藤宮和姫のイメージだ。腕を折られた彼女が戦線復帰できるとしたら四月以降だろう。それも、乙丸外連を脱落させておくことにはただ戦力を削ぐという以上の意味がある――『酔狂隊』オリジナルメンバーの存在感を、水恭寺沙羅から奪うことには。

「……ん? じゃあなんで一旦スカウトさせたのよ?」

「真正直に『乙丸外連を潰せ』と指示して、『力學党X』が動くとでも?」

「わあ陰湿」

「如何様にも。常に、マハラジャの利益が私の第一義ですから」

「ふうん」

 怪力巨躯の上級生は、黒縁眼鏡の奥の瞳をにやにやと笑わせる。チェシャ猫のように。絆は虹の七色に染め分けた前髪を耳に掛けてちらりとその表情を窺った。

「じゃ、先輩方があっさり倒されちゃったのはザっちん的には不満ってわけね」

「ええ……しかし、まあ、仕方ないかと。私としても転校生……謝花百合子の介入は予想外でした。彼女の喧嘩の動画が撮れたのが僥倖と言えば僥倖ですね」

「ああ、あの沖縄の子」

 遊我は形の良い顎に手を当てる。実力行使としての喧嘩については、『魔女離帝』の中でも彼女が束ねる特攻隊の領分だ。いずれは拳を交えることになるであろう『酔狂隊』新メンバーのことが気に掛かっていたのは彼女も同じなのだろう。

 謝花百合子。まだ顔を合わせたことはないが、写真や動画で見る限りは物静かそうな少女だ。喧嘩が強いようにはとても見えないが――転校してきて数日で、田中ステファニーと藤宮和姫をタイマンで倒し乙丸外連と互角以上に渡り合った。当然のこととして、分析の上で何よりも重んじるべきは事実である。もはや、謝花百合子という少女を侮ることはできなかった。既に彼女は歴とした脅威である。その存在は、鬼百合女学院のパワーバランスを崩しかねない――

「遠からず彼女の情報が必要になる時も来るでしょうから。……しかし、面倒なことになったものですね」

「ガッハッハ、それくらいの方が面白いってのよ」

 ふたつ結びのお下げ髪が、冷たい海辺の風に揺れる。彼女は星の微かな空の下、暗闇の先の水平線を見ていた。

 ――場合によっては。

 ――私がこの目で確かめておく必要があるかもしれませんね……

 帽子を押さえる。そろそろ帰らなければラクシュミが心配するだろう。絆・ザ・テキサスは表情を顕わにしないままで、そっと唇を舐めた。

 背後から、黒い小箱が差し出された。アメリカンスピリットのペリック。遊我の指先が器用に蓋を弾いた。

「吸う?」

 振り向いて見上げると、紅々としたルージュの唇は既に煙草を咥えていた。覗く歯並びが腹立たしいほどに整っている。

「では……頂きます」

 一本、引き抜く。喫煙の習慣はないが、初めてというわけでもなかった。

 澄んだ金属音を立てながら、遊我はダウンのポケットから出したジッポーで火をつける。

「ほい」

「……ありがとうございます」

 いつも絆をからかう彼女のことだからシガーキスでも持ちかけてくるかと構えていただけに、灯ったままのライターがそのまま手渡されて絆は僅かにたじろいだ。

 これを吸い終わったら、宮殿に帰ろう。夕食後のラクシュミは大抵、ベッドに入る十一時まで読書か瞑想をして過ごす。勿論、彼女が部屋にいる絆を追い出すことなどは万に一つもあり得ないけれど、絆は夜伽に呼ばれるまではなるべく邪魔をしないようにしていた。

「身体、張んのはさ」

 ぽつり、と。

 水面に折り紙の舟を浮かべるように、そっと言葉を滑らせる。いつも豪快に笑う上級生は、黒縁眼鏡の奥でどんな目をしているのだろう。 

「あたしら兵隊の仕事だから、あんたは程々にしなさいよね」

 眼下に黒々と広がる水面を割るようにゆっくりと登る煙をぼうっと見ていた絆は、振り返った。

「マハラジャのためって突っ走って怪我したら、そりゃあんたは気持ちいいかもしれんわ。拾ってもらった儲けもんの命って思ったら、粗末にもできるでしょーよ。でも、マハラジャに……楽土にとって、あんたはひとりっきりの家族なんじゃないの」

 瞳の色は見えなかった。たとえ日中の光の中であったとしても、小峰ファルコーニ遊我の視点は高すぎるから。ただ、彼女の彼女らしからぬ落ち着いた声音だけが全ての答えであるようだった。

「小峰先輩、もしかして――それを伝えに、わざわざ来たんですか」

「は? いや全然? 生ハム買ったからマハラジャん家から高いワインでも貰おうかと思ったのよ」

「帰ってください」

 煙が立っていく。冬の宵闇に消えていく。遊我は静かに煙草を吸い終えて、アスファルトに落としブーツの靴底で踏み消すと、絆のテンガロンハットにぽんと大きな手のひらを乗せた。

 汐の匂いは、冷気に晒された鼻腔ではよくわからない。指の間で、煙草がじりじりと燃え尽きゆく。絆・ザ・テキサスは器用な少女だから、死神が灯した命の蝋燭の火でも上手く移し変えられると思っていた。

 春はまだ、少し遠いようだった。


(第二話『第一使徒 乙丸外連』完)

(第三話『第四使徒 硯屋銀子』へ続く)

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