第三話『第四使徒 硯屋銀子』16

「……てめーら……良い格好しに来やがって……」

「きひひっ……生憎、格好良いのが仕事なんでなァ」

 ぐらぐらと首を回しながら振り返る。顔の半分を黒マスクで覆った柄シャツにスーツ姿の少女。躍り出るなり人を殴り飛ばしたその腕も力を失って、重心の微動に振られ揺れる、揺れる。まるで荒れ地に忘れ去られた案山子のよう。端正にして凶暴な顔を貼りつけられ、ホラー映画の無彩色に立つ案山子だ。

 男装ホストらしからぬ長髪をツーサイドアップに留める首吊り人形が、笑っている。

 軽く広げた両腕の指先、有機溶剤で掻き回された頭の中を表すかのようにてんでばらばらに蠢く。

 湘南に住まう不良少女たちが語るところの、生ける伝説。彼女もまたそのひとりであるということを知らずに、夢雨塗依はいつの日か声をかけたのだ。

「星野だ……」

「星野杏寿じゃねえか……」

「あれが『ダスティミラー』の『絶拳』……」

 亡霊でも見たかのように、『月下美人會』の下っ端たちはたじろいだ。

 そう、彼女は。彼女こそは。

 輝かしき『繚乱』の名の下にあって、決して、少女たち誰しものための王子様たり得ない存在。

 虚ろな目にひとりきりしか映せない、しかばねの騎士。まるで絡繰仕掛けの如く関節を軋ませながら、星野杏寿はそこにいる。たったひとりの夢へ寄り添うために。

「ここは僕たちが引き受ける。早く行きなよ、ランタライネン……硯屋」

 まるでいつも通りの装いで駆けつけた杏寿とは対照的に、夢雨塗依の姿はたとえ夜の彼女を恋い慕う少女が見たとしても同定できるか怪しいほど、鬼百合に通う誰もの知る「夢雨塗依」からはかけ離れていた。

 ワイドパンツに合わせているのはクリーム色のセーター。着込んでいながら少女らしいシルエットを浮かび上がらせている。羽織り物も桜色のチェスターコートで、純白のジャケットよりは遥かにやわらかい印象だった。サングラスを掛けることも、長いふた束の前髪を引き結ぶこともせず。

 それもそのはずで――オープンキャンパスの日に『繚乱』の名を損なわれた顔で貶めないよう、ちょっとした変装とも言うべき格好で登校してきた彼女であったのだ。そのコーディネイトは実のところ、塗依にとっては休日用の私服に他ならなかったのだけれど。

 しかし今、ふたりとも、傷を隠すガーゼや絆創膏は既にその整った顔から取り払っている。

 いずれにしてもここにいる彼女たちが全てであり――服装などどうだろうと、顔と心意気はしっかり『繚乱』の彼女たちなのだった。

「くら……さ、め……」

 上体を起こそうとした銀子を自らの胸で押し留め、ヘルミは小さく頷いた。

「すまない。……恩に着るよ」

 駆けつけてくれた意図を尊重し、この場を任せて先へ進むこと。それは、彼女から塗依たちへの最大限の礼儀だった。

 当然、ヘルミにはわかっている。『繚乱』のふたりがただ人としての仁義に基づいて救援したわけではないということくらい。銀子はまったく罪な女だ。

 ここでああだこうだを繰り返しその足を止めさせれば、夢雨塗依の尊厳を愚弄することになる。だからヘルミはたったひとつの頷きに全ての感謝を込め、銀子を抱きかかえたまま走り去るしかなかった。他ならぬ銀子に、少女の想いを踏み躙らせるわけにはいかなかった。

「……!」

 群れを成す『月下美人會』の面々がゆらゆらと不気味に立ちはだかる杏寿を警戒しその挙動に気を引かれている隙に、壁際を走り抜けて階段へ向かおうとしたヘルミ。その姿を見逃さず鎖を振るったのは長谷堂爽ひとりだったが、引き摺りそうな長髪の彼女が意外にも素早く打ち放ったその鎖は、セーラー服の背中に届くより早く、兎の如くリノリウムを蹴った脚が弧を描いて捉えた。磨き上げられた革靴、金属音と共に鎖を撓ませる。

「きッひ」

 揺蕩いながら逆巻くもの。『絶拳』、星野杏寿。しかし追撃はしない。かっと目を見開いたまま、重心を落とした前のめりで腕をぶらつかせ続けている。誰にも、背中を見せることを許さない――そのスーツ姿の女が纏う獰猛な気は、爪と牙で命を引き裂かんとする野性に似ていた。ひりつくようなプレッシャー。彼女がそこに立っているから、誰も、銀子を抱えたヘルミの後を追うことができない。

 角を曲がる。階段へ差し掛かる。ヘルミの背中が消えていく。

「……うん。頑張れ、硯屋」

 腰の後ろで手を組んで。

 塗依はひとり頷き、薄桃の唇が開くか開かないくらい小さく呟く。

 これでよかったのだ。

 もう少し息を潜めていれば。屋上へ颯爽と現れることもできたのに。ヘルミ・ランタライネンも大鳥居みかも押し退けて、自分をこそ硯屋銀子の隣へ滑り込ませる機会だってあったはずなのに。

 それでも、夢雨塗依という少女は、こうすることを選んだ。

「マジで良いんだなァ、ヌリィ?」

「……なんのこと?」

 そんな彼女と目を合わせると。

 どこかで見たことのあるような顔で、静かに微笑してみせる。

 ナンバーワンのホスト――を、気取って。

「なァ、おい。すっとぼけんじゃねェや」

 星野杏寿は知っていた。夢雨塗依と硯屋銀子のことを。この学校の同期の誰かがあたしの遠い親戚らしいんだ、「あたし」の中に「僕」がいるみたいに王子様と裏表な子がもうひとりいるんだよ――と楽しそうに語る塗依を、杏寿は静かに見つめていた。杏寿が見つけた銀子の席を指し示した時、雷に打たれたように目を見開いて口元に手を遣り震える息をした塗依を、杏寿は静かに見つめていた。何度断られようとも、自分が生まれ変わるきっかけをくれた『繚乱』に銀子をスカウトし続ける塗依を、同じようにスーツを着て学校へ通うようになっていた杏寿は静かに見つめていた。

 星野杏寿の青春はずっと、夢雨塗依の小さな恋と隣り合わせだった。

 そして、今この瞬間が、消えた蒼い背中に抱えられた灰色の影が、その結末を意味しているのだと――ふたりともが、きっと気付いていた。

「……硯屋とランタライネンの背中を押しちまうんで、本当に良いのかっつってんだよ!」

「良いに決まってるだろ!!」

 両の手を、自分なりの大きさで、しっかりと拳に固めて。

 細くすらりと伸びた腿を叩きながら、塗依は叫んだ。

「惚れた女が苦しんでんのに! 何の力にもなれないんじゃ、不良なんかやってる意味ねえんだよ!!」

 それはまるで悲鳴のようだった。

 大きな瞳を潤ませて、頬を林檎のように火照らせて。

 息継ぎも上手くできないまま、そう、叫んだのだった。

 杏寿は瞬きだけ返す。ひとつ、ふたつ。

「……きひ」

 夢雨塗依。彼女は本来、どこまでも普通の少女だった。

「きひひっ……おめーはよォ、ヌリィ。……どうしたって鬼百合一強ェ頭(かしら)にゃなれねえわな」

 喧嘩のけの字も知らなかった彼女がこの学校へ入学することになってしまったのは、確かに手違いだったのかもしれない。

「けど、世界一格好良い頭だァな」

 それでも、今ここにいる彼女に間違いなどひとつもなかった。

 思うがままに生きるから、不良少女なのだ。

 そんな塗依の背中を、杏寿はバシンと音高く叩く。白い手のひらで、微熱の少しも伝わるように。

「てめえらッ――ボーッと見とれてんじゃねえ!! あのデブ追いかけて潰ッぞ!!」

 牧陸離が喚きながら釘バットを振りかざす。

 恐ろしくもなんともなかった。この瞬間ぞくりと背筋に走った、引き裂かれるほど冷たく抱きしめたいほど熱い快感を――塗依の隣で感じられなかったらと想像するのに比べたら。

「……飲まねェのか」

「うん。『僕』は女の子を殴れないから」

 耳鳴りの先で、塗依は唇を噛む。銀子よりも血が正統に近い塗依の中の「彼」は、優しすぎるのだ。

 酔太子拳は本来、専守防衛の術である。それも糺四季奈の絶対防御<オートガード>と根本的に異なり、ガードではなく千鳥足に任せた徹底的な回避を軸として立ち回るもの。愛の妄執に取り憑かれた少女たちの狂拳を避け、躱し、受け流し、最後には優しく宥めて賺す。カウンターで殴り倒すことなどとてもできない代わりに、彼女は決して傷を負わない。そんな公理が、夢雨塗依の喧嘩には前提として存在するのだった。制圧兵器としての機能を三分間だけ解放するエボシラインシステムの相手をさせられるなどという状況はあまりに例外的であって、さすがに無事では済まなかったけれど、「僕」にバトンタッチした塗依が荒事で負傷したのはその一度きり。

 そんな喧嘩を、生き残ってきた。「あたし」は、「僕」に依ることで。

「今のあたしは……あいつらをどんな目に遭わせてでも――屋上までの道、守りたいって思ってる」

 しかし、今の彼女は当然、覚悟している。言葉ではそう息巻くものの、酒気で呼び覚ます優位を捨てたただの喧嘩で、無傷の勝利などあり得ない。『繚乱』の女にとって何にも代えられない顔を、再び、みっともなく損なうことになるかもしれない。そう覚悟してまで、彼女は素面のまま立っていた。

 まるで現実感がないことだった。自分の拳で、僕に貸し渡さないあたしのままで、誰かと喧嘩をするなんて。

 それでも、年に一度の祝祭だから。

 少女としての塗依にだって、格好つけてみせる資格があるはずだった。

「いいねェ、いいじゃねェか」

 誰よりも初心なくせに、背伸びばかりのホストのエース。

 そんな彼女の遮二無二は、泣き腫らす寸前と大差なくとも、こんなにも気高い。

 自分に向けられたものではないと知って、それでも杏寿は、輝ける純真の視野を護らずにはいられないのだ。

「んじゃァ俺にも、一丁やらせてくれや――」

 まるで静謐な儀式のようだった。

 星野杏寿はそっと薄い瞼を閉じると、顔に手を伸ばし。

「惚れた女のために一肌脱ぐって奴をよ」

 黒いマスクを、そこから毟り取った。

 覗く。覗く、自嘲するように歪んだ非対称の唇から。溶けて崩れて、想い人の前でさえ笑うことを許さなかった歯列が。希死念慮に溺れて骨の髄から身を磨り潰そうとした罪の垣。腐れた黒ずみを隠すためにか、杏寿が口に影をつくる薄紫のルージュをさしていたことを、塗依だけは知っていた。そっとマスクをずらして酒を啜る彼女の口元を、客を挟んでにこりと笑いながら見ていたから。そうして、いくつも夜を過ごしてきたのだから。

「杏寿……」

「見んじゃねェ、殴んぞ」

 だが、そっぽを向き前髪を引っ掻くように荒く流す素顔。隔てられざるそこを目にするのは初めてで、瞬間だけ何が起きたのかわからなかった。

 それから、微笑する。瞼に焼き付けて。彼女の白い肌を、頬を撫でる髪を。今という青春の烈日を。

「綺麗だよ。すごく」

「……るせェや」

 それは果たして、つまらない慰めでもなんでもない本心で。

 銀子を呼び出す全校放送を聞いて迷わず階段を駆け下りた塗依には、隣で灰色が当たり前のように靡いてくれたことが、大切なものをいとも簡単にかなぐり捨ててくれたことが、泣き出しそうなほど嬉しかったのだ。

「ああ……クソみてえなトリップだ」

 だが気まずそうに踵を鳴らして後ろを向いた杏寿は、途端、何かを目にして。

 鼻をつまんで天を仰ぐと、苦笑し始めた。

「ロクでもねえモンばっか見えやがる」

 まったく、夢でも見ているかのようなことばかりだった。

 彼女の世界は、薬物を頭蓋の内で踊らせるまでもなく。

「傷だらけ痣だらけでよォ、不細工共が集まってんじゃねえよ。……『繚乱』の品位が落ちらァ、なァ?」

 夢雨塗依は、その言葉に振り返る。

 そこにいたのは。

「あ……」

 夢雨塗依と星野杏寿を除いた『繚乱』の男装ホストたち――などでは、なかった。

 騎士田天佑<キシダ・テンユー>。

 新見春彼岸<ニーミ・ハルヒガン>。

 叛神夜宵<ホンゴー・ヤヨイ>。

 聖剣斗<ヒジリ・ケント>。

 小仏虚無<コボトケ・コム>。

 繰子鳳梨<クリコ・ホーリ>。

 緋色渦<ヒーロ・ウズ>。

 三葉煙羅<ミツバ・エンラ>。

 宮辺善代<グーナベ・ゼンヨ>。

 彳亍進<テキチョク・ススメ>。

 丹任賀獅子香<ニニンガ・シシカ>。

 鼈木昼蛇<スッポンギ・ヒルダ>。

 芥子山葵<ケシヤマ・アオイ>。

 東儀帯水。

「塗依くん!」

「俺たちも交ぜてよね」

「独り占めすんなよう」

「やってやろうじゃねえの!」

 名も無き集団では決してなく。

 小峰ファルコーニ遊我に揃って薙ぎ払われた時の怪我も治っていないというのに居ても立ってもいられず病院から塗依の下へ駆けつけた、ひとりひとりが彼女の仲間たちだった。

「みんな……!? え、なんで……あたし……じゃない、えっと」

 混乱を処理するより早く、焦りに頬が火照る。ジャケットを着て薄いサングラスを掛け前髪を引き結んだいつもの「僕」の姿ではなかった。桜色のチェスターコートは、「あたし」たる塗依のお気に入りでしかない。

 誰も。

 仲間たちの誰も、「あたし」のことなんて知りはしないはずなのに。

「きひひっ」

 杏寿がそう笑う時に歯列を隠しながら吊り上げていた唇の端の皺は、初めて見るもののひとつだ。だがそれよりも、その笑顔の意味とは。

「みんな知ってたよ。塗依くんと塗依ちゃんの秘密」

「それでも、『繚乱』の頭は塗依くんしかいないんだっつの」

 夢雨塗依という少女が繋ごうと必死だった、あたしと僕の断続を。

 二年間も見てきて肯定したくならない者など最初からひとりもいなかったのだという、ただそれだけの証明だった。

「みんな……」

 熱くなる。目尻が。身体の芯が。

 そこにあった。夢雨塗依が守りたかったものは。

「……黙って聞いてりゃ、ウダウダウダウダ次から次へとよお……ナメてんのか、ああ!? ×××野郎共がよ!!」

 牧陸離が吼えると、長谷堂爽は鎖を橘高絹ゑはピザカッターを郭春涵は空気入れを構え、それぞれに笑う。凶悪めいて。ちらりと窓辺を飛んでいる円盤が見える、絆・ザ・テキサスの従える空撮用ドローンか。丁度良い――光彩にして陸離、外道なりしベリーショートヘアの不良少女は嫌味なほどに美しすぎる自分の名前が嫌いだった。だが今こそはあまりに丁度良い。乱反射する眩い光の群れとして、咲き誇る花どもの色香さえかき消す様を見せつけるのだ。カメラ越しに、鬼百合女学院の全土へ。『月下美人會』ここにありと。

 ……月下美人もまた花の名前であることを、牧陸離は知らなかった。

「ブッ殺せ!!」

 鬨の声。『月下美人會』は戦闘集団である。凶器を握ることすら躊躇わない彼女たちは、誰に嫌われようとも覇を唱えるまで止まれない。別市瀧生<ベツイチ・タキオ>の飴なき鞭の下、そう在ることを選択した。故に。故に。

 衆人環視の下、『繚乱』を踏み潰す。そのためにローファーは荒々しく地を鳴らす。

 だが。

「行くよ――あたしたちが!! 『繚乱』だあっ!!」

 夢雨塗依は、もう何も恐怖しなかった。

 もはやその姿を偽ることもない。男装ホストたちの先頭に立ち、迎え撃つように駆け出すのは、ただ髪が短いだけ――桜色のコートをはためかせる、恋する少女がただひとり。

 姿勢を低く、右手を上へ。短髪の陸離がフルスイングするバットの下へ、コートが汚れることなど気にせずに滑り込むと、脚を引っ掛けた。

「杏寿っ!」

「おうよォ」

 後続は灰色の蛇行。バランスを崩した陸離の鼻っ柱、杏寿の拳が叩き折る。ものがものを砕く快音。

「…………!!」

 仰向けに倒れ込むその陰から、音もなくぬっと現れる。長谷堂爽。鎖の両端を振り回し、手足を絡め取ろうとする。

「ヌリィ、まァかせんぜェ?」

「うんっ」

 杏寿がぱしんと塗依の背中を押すと、塗依はコートの裾を躍らせながら爽に半背を向け連脚を放つ。重い鎖を弾いて、長髪猫背の爽の胸元へ踏み込んだ。

「きみには功夫が足りないね! ……なんちゃって」

「……! ……!」

 掌底、両肩へ左右の。すかさず再び身を翻して重い後ろ回し蹴りを今度は一発押し込むと、たたらを踏んだ長谷堂爽はロッカーに背をぶつける。

「んなろお、死ねッ」

 釘バットを杖代わりに歯を食い縛って起き上がった牧陸離が、小鼻に指を当てて鼻血を乱暴に吹き払い、盛大にバックスイングを取る。喧嘩というより最早、夢雨塗依の肉体を木っ端微塵に砕くことだけに執念を燃やしているかのよう。

「あちょお!」

 だが勿論、黙ってやられる彼女でもなかった。客の少女の手を取るようにバット握る手首を掴み、シャンパンを開栓するように捻り上げて、リノリウムを蹴った彼女は夜空を舞う花弁になった。その僅かな滞空の間に一度目は右腕、二度目は大きな胸と左右の脚で蹴り、陸離の身体をまた中継の足場として利用しつつバク宙から着地。

 目の前の少女を滑走路として――早い話が、逆上がり。

「ご、ごめん……とは! 言わないよ!」

 ととっ、と軽くよろめきながら一瞬だけウィンクしてみせると、体勢を立て直し鎖を上段で振り回しながら突っ込んでくる長谷堂爽の脚を軽く払って流し。

「……!?」

「ぐ、べえっ」

 塗依の最後の踏み切りの衝撃で窓の下に倒れ込んでいた牧陸離へ、その勢いのまま圧し掛からせた。相棒の肘を鳩尾に落とされた短髪の彼女は釘バットを取り落とし目を回す。

「きひひっ、ナイッシュ」

「いやいや、ここまでするつもり……」

「なァにを急にぶりっ子してやがんだよ」

「……あった! だって許せないもの! まだまだ行くぞおらあーーーっ!!」

 鬼百合の中では、腕っ節が自慢の勢力ではないというだけで。

 泣きそうな少女にかけがえのない時間を用意するためなら、どこまでも強くなれる――それが『繚乱』なのだった。

「クソったれ、功夫使いのホストなんか聞いたこぼぐおっ」

「香港映画……結構観たんだよ、影響されてねっ!」

 凶器を振りかぶる『月下美人會』の新手。塗依は後ろ手に壁際の掃除道具用ロッカーを開けると、倒れてきた箒やモップの柄がバラバラと敵の頭を打ち据える。その隙に背後へ滑り込み、合わせ拳のハンマーでロッカーの中へ叩き入れ扉を閉めた。

「……!」

「さあ、まだまだ遊ぼうか!」

 駄目押しとばかり、立ち上がった長谷堂爽の手から鎖を掠め取ると彼女の額に額をぶつけ、適当なマッチアップ相手が見つからず傍で手持ち無沙汰にしていた『繚乱』のルーキー・東儀帯水に鎖の片方を投げ渡す。

 そのまま――ふたりで掃除ロッカーの周りを駆け、閉じ込められた不良少女ごと爽をそこに縛り付けた。

「あらあら、ええ戦法やねぇ……なぁお春(ちゅん)はん、パクりまひょか」

 ふわりと舞った薄いショールが、きゅっと引かれればロープと化す。杏寿の首に回って両端、絹ゑと春涵が握っている。

「好的(ハオデ)!」

「ほな……死ねどす♪」

 頷いた春涵と同時に左手でショールを引いて杏寿の首を絞めながら、その顔面へ右手の指に挟んだ三本のピザカッターを走らせようとする絹ゑ。鮮やかな袖が翻って。

「あ? てめーが死ね」

「ぎゃっ、ご……!?」

 胸の高さまで勢いよく突き上げた膝に、杏寿は掴んだ絹ゑの右腕を躊躇なく打ちつけた。めきゃりと肘の破壊された音がする。

 ピザカッターがリノリウムの床で跳ねて転がるまでの間に、絹ゑはさらに口元に杏寿の手の甲を貰って前歯まで折られ、血を噴き出して昏倒した。

「聞いてたのと違うある! 『繚乱』のゴミ虫共は女に手を上げられ、」

「そいつァ残念」

 即座に絹ゑを見捨てて身を返した春涵の襟首を鋭く掴むと、背骨を靴底で蹴り飛ばし壁に叩きつける杏寿。掛けられたショールを振り解き、こきっ、と首を鳴らして両腕をだらり垂らした。

「女心は天気と一緒で」

 迫り来るは手に手に凶器(ドーグ)を持った『月下美人會』の兵隊たち。星野杏寿は薄く笑って、殴る。

「『三寒四温』てわけだァな」

 殴る。

「ただまァこいつは」

 殴る。

「季違い(きちがい)だ」

 そして、蹴り飛ばす。何人も巻き添えを食うよう、体重乗せて前方へ。次から次へと薙ぎ倒し、唾を吐くと、静かに長く息を吸い込んだ。骨肉の軋む痛みが遠ざかる。壊れゆくから、『絶拳』――ただし今日は彼女の鼻と口を覆うマスクはなく、十分な酸素が祝福のように脳を満たす。使い方の無茶など百も承知だ。色づいて、高鳴る。それが全てだった。

 肌に殺気の波が当たって砕ける。ばきばきと肩関節を鳴らしながら振り返ると、意識を半ばまで失って前髪の下で目を剥いた郭春涵が、既に何も持っていない腕を振りかざし躍りかかってきていた。杏寿は、丁寧に呼吸する。全ては影絵のコマ送りに見えている。

「暦の上じゃもう春だからなァ……」

 左の回し蹴りが春涵の首を薙ぎ、そうして生じる上体の捻れをそのまま活かして、拳で宙をすくい上げる。

 どごん、と爆砕の音がした。

 くの字で吹っ飛んだ郭春涵の身体が鉄の引き戸一枚をひしゃげさせ、諸共に教室の中へ倒れ込んでいった音だった。

「きひひっ、楽しい季節ンなりそうじゃねェか?」

 緑がかった灰色に染めた長い髪、揺らして。廃墟の壁のように爛れ崩れてがたつく歯列を、もはや隠そうとせず。

 星野杏寿は、怒号の飛び交う中で窓の外の白い午後を独り見つめ、小さく笑った。

 ――中指がイきやがった。あばらァ一本で済んでんのかァ?

 手で触れずともわかっていた。脚もよく使った割に股関節脱臼が起きていないだけ上等だ。シンナーの常用によって骨までぐずぐずに溶かされつつある杏寿の肉体の耐久性は、不良少女の平均値に比べて著しく低い。マスクを外して全開の呼吸の下で駆動させれば、打撃を食らう間もなく有り余る力の反作用だけで自壊していく。それほどまでに脆いから、『絶拳』。

 痛みは無いようで在り、よろこびは確かに在った。

 それだけでよく、彼女は落書きだらけの壁に背を預け、開いたままの窓枠に腕を引っ掛けた。

 雪はちらちら光ることもなく、ただしっとりと融けて手の甲を湿らせる。

 白い息を吐いて、星野杏寿は短い髪を振り乱す少女たちを見た。

「おらよっと! 冴えてんぜハルヒ。おめ今度競馬付き合えよ、何でも見抜けんだろ?」

 角材のスイングを屈んで避け、少女の股を潜りながら膝にエルボーを食らわせる騎士田天佑。

「んん、そうだね……フフ、たとえばこの子の動きだと……呼吸の直前に隙がある!」

 いつも微笑みの形に細めていた目を見開き、躊躇なく手刀を喉元へ払い込む新見春彼岸。

「ああ、剣斗……俺の星(ひかり)……闇の中でもお前の鼓動だけが……導灯(しるべ)」

「夜宵! 相変わらず何言ってんだかわかんねえや! へへっ、喋ってっと舌噛むぜ!」

 叛神夜宵の長い脚が華麗に顎を蹴り上げ、聖剣斗が力を溜めた拳でその土手っ腹を撃ち抜く。ふたり、視線を交えている。

「新入り! 旗を揚げるんだ! 僕ら『繚乱』の旗を!」

「了解ですっ」

 バンダナ海賊巻きの中学生・東儀帯水が頷き、金属のポールを起こす。普段バイクで走りながら立てているその旗は決して高いわけではなかったが、乱闘の中でも勇壮に翻った。高貴な紫地に描かれるのは薔薇の花束と、金刺繍の『繚乱』字。ポールの先端は小さなミラーボールで、菱形の光の欠片を廊下に散らす。伝統の旗。この鬼百合女学院で、少女たちの心に寄り添い夜に夢を咲かせてきた男装勢力の誇りある旗。

 守りたかったものは今、ここに華々しくあった。

「なァ」

「どうしたの杏寿」

「幸せか、塗依」

 出会った頃には、名前を読み違えた――ふたりだけの渾名を、今はやめて。

 寒気と熱気が入り乱れる血風の中、少女たちは呼び掛け合う。

「……ん。すごくね」

「きひっ――そうかよ」

 思い描いていた未来とはまるで違っていた。あまりにもあっけない人の死に触れて、誤解と裏切りに満ちた闘争の世界に疲れ果てた少女は暴走族から足を洗った。水に映る星のひかりのように、いつか揺らめいて消えるまで、息もできない底の底でひとり生きていくはずだった。

 誰かと組んで喧嘩をするなんて。人に少しでも幸せな時間を与える仕事に就くなんて。不良のふの字も知らなかった花のような少女に、氷の心を融かされるなんて。

 そんな日々が、『ダスティミラー』の『絶拳』でしかなかった杏寿の歩む先に見えていたはずもない。

 ただ、狂おしいほど無垢だった彼女が差し伸べてきた手で。

 杏寿の人生は、夢のような万色に塗り変えられたのだ。

 今ここで息をして、文字通りに骨を折るのは、『繚乱』の星野杏寿であった。

「そんならいいや」



 それは、昔の話である。

 西日が廊下の窓からきつく射し込む中で音楽室のドアをそっと閉めた時、ここを訪れることは二度とないだろうと思った。

 白沼銀子、十二歳。中学一年生。

 お嬢様校や進学校というわけではないけれど平均より多少裕福な生徒が多いくらいの、ありふれた女子校に入った。両親の関係がもはや修復不能であることなど銀子にも薄々察しがついていた。しかし、父は十分な養育費を用意して来たるべき日に備え、母は快活な笑顔を絶やさず「保護者」の役割を独り担い続け、兄は若くして祖母の仕切る店の厨房に入り黙したまま鍋を握って、銀子が不自由なく成長できるよう誰もが力を尽くしていた。彼女が母・鉄火から王子の貴い血を受け継いでしまったことが家族の軋みの原因であったとしても、誰ひとり彼女を責めはしなかった。

 だからきっと、白沼銀子という少女は恵まれていたのだろう。世の中の、真正の苦難に立ち向かうことを余儀なくされていた子供たちよりは。

 それでも――突き抜けるように晴れた青空の生活を送っている先輩たちの音楽が彼女にとってあまりに単調に聞こえたのは、間違いないことだった。

 何も降ってはこないけれど、銀子の空はいつも曇天で。世の中に訴えたいことなんてありはしなくても、ただ楽器で遊ぶのが面白ければいいとも思えない。つまりそれは音楽性ならぬ人間性の違いでしかなく、明確にわかることとして銀子のやりたい音楽はそこになかった。

 トロイメライ。細い影が長く伸びていく。中途半端に渇いた喉、微熱を帯びた春の夕暮れ。白沼銀子は生きていていい理由を探すのに必死だった。彼女の三白眼には、こんな学校の全てはままごとのように映っていた。

 透き通っているのだ。何もかも。ここで過ごす少女たちは、今日より明日よりさらに先を見晴るかしながら生きている。好きな形の雲を描くことができるのは当たり前で、いつでも顔を上げのびのびと高く手を伸ばして。炭酸の抜けきったサイダーのような空の中で、微風に揺れる階段から足を踏み外すことなど想像もしていない少女たち。

 端的に言えば、今を生きる希望に満ち溢れた少女たちの道楽だった。

『カスだったでしょ、軽音』

 だから、その声に。

 銀子が振り返ったのは、当然だったのである。

『……』

『昨日さ、あたしも見学行ったわけ。でもダメだ。つまんないや』

 神様の庭に、彼女たちは相応しくないモノたち同士。

 クリーム色をしたサマーセーターの内側、タグを摘まんで捻じりながら、誰もいなくなったカフェテリアの白いテーブルに彼女はひとり座っていた。テーブルの上に、スカートの尻をつけて。弥勒菩薩のように片膝を横に突き出す脚の組み方をしている。「まるで不良みたいなこと」。高い窓から十字の影が、どこまでも広がるかのような床に伸びている。座った彼女がそれを従えているかのように、逆光の中にいる彼女は神秘的に見えた。

『音でわかるとかさ、そんな天才みたいなこと言えないけど。普通に顔でわかるよね』

 黒髪は長く、前を斜めに流している。人混みに紛れてしまったら見つけ出せないような顔だった。隠した左目の下には、年の頃らしいニキビがぷつぷつと赤く浮いていた。

『あたし大鳥居みか。ヘップバーンよりガルボ派だけど、大鳥居』

 脚の間、まるで股の前でスカートを縫い留めるかのようにスポーツドリンクのペットボトルを立て、その蓋を両手のひらで上から押さえていた。銀子は瞬きだけを返した。彼女はいつからここにいたのだろうか。遥か昔から姿勢を保ってそこにあった彫像に声をかけられるなどという子供じみた妄想に滑り込んでしまったのかとさえ思った。

『映画好きなひと?』

『……そんな広くは知らねえ』

 嘘だ。痩せぎすで白い肌は日に弱く、ほとんど外で遊ばなかった銀子にとって、父と母が競い合うように集めた古い映画のビデオが玩具代わりだった。父のコレクションは文学的な古典名作をしっかりと押さえていて、母のコレクションは幼い兄妹の莫逆となったアクション映画とパニック映画。

『広く? 好きなジャンルとかあるってこと? ねえ、教えて』

 大鳥居みかと名乗った少女は、ことんと倒れたペットボトルをテーブルに残してそこを飛び降りた。プラスチックの檻の内側、僅かに残った霧の薄白はプリズムとなって漉し取ったオレンジと紫のエッセンスをテーブルの白い天板にばら撒く。総天然色。学校の白いホールを夕陽が染め抜く中で、黒髪は影と交差する。

『るっせーな……香港映画だよ。もういいだろ』

『ああ、ブルース・リーかジャッキー・チェン?』

 ――ほら来た、それだ。

 大股で歩いてきたみかが手首を掴もうとしたので、銀子は振り払うようにそれを避ける。

 知ったふりの相手になど、もう、興味がない――

『それか、サモ・ハン・キンポー』

 三白眼を、少しだけ見開いた。

『あんた、ああいうのがタイプ?』

『……ざけんな。そういうんで映画観てねんだよ』

 男興味ねえし、と。

 舌打ちひとつ、投げつけたのは。彼女もきっと同じであるはずだと直感したから。享楽に耽るのではなく、普遍たる何かに触れてこころに刻みつけることを楽しめる人間であるはずだと。

 こんなに濁った世の中で、面白いものが何なのか。美しいものが何なのか。泥の中でちりちりと明滅している砂金を見つけ出そうと笊を突っ込めるような人間同士として、白沼銀子と大鳥居みかは見つけ合ったのだ。

 断言しておく――それは錯覚だった。運命などでは決してなかった。強いて言うなら、交通事故のようなものだった。同年代の少女たちに馴染めないまま斜に構えたタイプの思春期へ突入してしまったふたりが、たまたま鉢合わせただけの話だった。

『名前は?』

『……白沼銀子』

『そっか。白沼。しらぬま……いいね、白沼』

 だが、季節は急に止まれない。

 銀子は兄の友人から譲ってもらったギターを背負い直して、みかはスポーツドリンクの残りで喉を潤して。

 卸したての制服に身を包んだふたりは、桜の花弁が粉雪のように舞って風の膨らみをかたちどる中、ただ校門へ向かって並んで歩く以外の選択肢を有さなかった。

『ふたりでやろう、音楽。お利口な子たちにはできない、今のあたしらだけのこと』

 そして――そのまま、何もかもは上手くいった。

 そこまで上手くいっては、いけなかったのに。

 銀子の曲にみかが詞を書いた。ギターと歌で、少しくらいは世界を変えられる気がしていた。いきなり歴史に名を残すようなミュージシャンになれるはずはなくても、街中で見知らぬ誰かが一瞬だけ足を止めてくれて、緊張し通しで体感的には惨敗だったライブハウスでも何人かが身体を揺らしてくれていて、気付けば自分たちよりずっと長く生きている大人が千円札を何枚も差し出してCDを買ってくれるようになった。ラジオでマイナーな芸人が名前を出してくれた。みかが動かしていたふたりのSNSのフォロワーがみるみる増えた。そんなことのひとつひとつが、中学生たちを調子に乗らせるには十分だった。

 大手の事務所はやめようと口にしたのはどちらだっただろう。そんなところに本当の音楽はないから。もはや誰を食べさせてやりたいか選ぶ側であって誰にも守られる必要なんてないのだと、どうして溺れていたのだろう。

 家でゆったりと映画を観る時間さえ、なくなっていったのに。

 気付けば二年半が経っていた。大鳥居みかと白沼銀子にはそれぞれのリズムがすれ違い始めていることに気付く暇さえなかった。中高一貫校であったため三年生になっても進路のことを考えずに音楽へ打ち込めていたのを幸いだと捉えていた。進化の正方向にだけ拍動しながら概ね同じように続いていく日々の中で未来に盲目になっていることに気付く暇さえ、ふたりにはなかった。

 所属アーティストを実際に見てもらいたいとのことで、最初の打ち合わせには薄暗く煙草臭い小さなクラブを指定された。ふたりは事前にインターネットで調べたが、プロデュースにおいて確かな実績のある人物だと思えた。その頃の白沼家は鉄火が娘を連れて実家へ引っ越す算段でいっぱいいっぱいになっており、皮肉にも夫婦が久し振りに顔を突き合わせての話し合いに明け暮れていた時期だったので、銀子が日の沈んだ後に出かけようとしても誰も何も言わなかったのだ。だが誰のせいでもない。そんな時間に大人が中学生を呼び出すという時点でまともでないということに、世の中に対する警戒心の強い銀子ならば気付けたはずだった。

 事務所の社長だという若い男が入口で目配せすると、ふたりはパスできるはずのなかった年齢確認を飛ばして奥へ案内された。みかと銀子は言葉を交わすこともなく、ぺたぺたと粘つく床を歩いた。そこで演奏されていた音楽がどうにも耳障りだったことだけ覚えていて――気が付いたら、銀子たちのグラスには入っていないと聞いていたはずのアルコールによって呼び出された「俺」が、全身を茹だったように赤くして床に倒れているみかを庇うように立ちながら、男の首を壁に押し付けていた。

 みかの部屋へ行った。

 鉄火という女は自身を責めて悔やむばかりで平手のひとつもくれなかったから、今になって思えば、誰かに責められたかったのかもしれなかった。

 ベッドの上で項垂れていたみかは、頬を腫らした銀子が入ってきたことに気付くと、力なく口元を笑わせて片手を挙げた。

 銀子は最初から怪しいと思っていた――後からなら、何とでも言うことができた。ただ、みかはそうではなかったのだろう。銀子には声のかけ方がわからず、肘をきつく掴んでそこに立ち尽くしていた。

『また、やりなおしか』

 だが、瞼を伏せたみかが呟いたそのひと言に、銀子は目を見開かされた。

 初めて気付いたのだ。そこで。

 ――ああ、そうか。

 ――大鳥居は××××だったのか。

 大鳥居みかを苛んでいたのは、害を被ったショックではなく。

 何者かになれるチャンスだと思い込んでいたものが指の間から零れ落ちていった、その事実でしかなかったのだ。

 目の前に座り込んでいた弱々しい少女が、人の形をした何か別のものに見えた。あたりまえの地平から落伍しているのは大鳥居みかの方だとしっかり感じながらも、銀子にとって、そのどこにでもいそうな顔の少女は手が届かないほど崇高な気がした。

 ――あたしは。

 ――ここまで壊れられるほど、本気でいられなかったのか。

 遺志に満ち満ちた××××の隣で、よくも平然としていたものだ。

 ずっと、見返すために死ぬ気になることすらできないのにそれらしく取り繕って斜に構えることだけ得意な、からっぽだったくせに――

 斯くして、ふたりの道は分かたれた。

 白沼銀子は大鳥居みかのことを、ただ早熟なだけで髄のところでは自分と同じ、愚かしい賢さに首まで浸かってしまったニヒリストだと思っていた。

 だが、違った。

 みかは、脇目も振らず嵐の空を突き抜けて歓喜へ到ろうとした、飛ぶことしか知らない翼だったのだ。

 滑走路を一歩一歩踏みしめてゆく途上でどれだけ傷付こうが、構いやしなかったのかもしれない。辛く苦しい絶望の果てに一筋の光が見られれば、彼女の全ては報われたことになったのかもしれない。だが、その受難を、銀子は断ち切ってしまった。

 みかは銀子を責めやしない。銀子だって当然、みかを襲う棘から守ろうとしただけだった。きっと誰も悪くない。ふたりで泣き明かし慰め合いながら先に進んだところで、輝ける未来などありはしなかった可能性だって大いにある。それでも。それでも。それでも――みかから選ぶ権利を奪ってしまったと、悔やみ続けて。

 しかし、みかがどんな道でも突き進むというのなら、そうできない銀子は彼女にとって重石にしかなれないから。

 ちょうど中学も卒業間際だったことだし、白沼銀子はそっと、大鳥居みかの傍から姿を消したのだった。

 ――あばよ。大鳥居。

 ――あたしの、最初で最後の。

 そして、誰にも知られないようにひとりで歌をうたい続け。奇跡のようにヘルミと出会い――湘南へやってきて。

 何に対しても「興味ねえ」と不愛想に嘯く、灰色の不良少女が出来上がった。



「白沼」

 屋上の扉を開けると、彼女は立っている。

 スカイ・イズ・ザ・リミット。彼女たちの世界に覆い被さっていた天蓋の欠片が剥がれ落ちてくるかのような雪の中で、大鳥居みかは立っている。

「大鳥居……」

 ヘルミの肩に細い腕を回し、ほぼ全体重を支えてもらいながら、銀子はゆっくりと踏み出す。銀色に染めた頭に、紅潮する頬に、絶対的な白が触れる。

 冷えたノブを握って扉を開けたのは銀子自らだった。

 傷付くことも傷付けることも認めた上で、重い身体を引き摺ってきた。

 少女であること。そういう茨が銀子の肉体と精神に深く食い込んでいる。

 だが、少女だったから。大鳥居みかとの今も、夢雨塗依との今も、ヘルミ・ランタライネンとの今も、与えられて生きている。幸せも不幸せも抱きしめて、自分という形のままで歩いていかなければならないのだ。

 振り返る。海辺の冬の冷たい風に、茶髪が揺れている。色彩へ焦がれるように少しずつ、セーラー服の少女ふたり、向かってくる。

 腕を組み白い息を長く吐く。みかとは違う世界に生きている彼女。湘南は鬼百合の不良少女。

 歩いて、声が届く距離まで向かうのは、ヘルミ・ランタライネンに寄り添われた硯屋銀子だった。

「久しぶり」

「……ああ」

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