第三話『第四使徒 硯屋銀子』17

「……髪伸びたな、お前」

「あんただって、白髪が増えてる」

「染めてんだわ」

 額に手のひらを押し当て、眉を歪ませながらなんとか大鳥居みかを見つめた。腰の裏側、ヘルミに摩ってもらいながら。

 辛うじて、硯屋銀子は立っている。

 顔色は蒼ざめ、無理をしているのは一目瞭然だ。ところが、それでも立っている。対峙するために。

 誰と?

「おもしろい学校よね、ここもさ」

 銀子を追って、撮影用の円盤状ドローンのひとつが静かにランプを灯らせながら校舎の外壁を伝うように登ってきた。息も絶え絶えの彼女はそんなことに気付きもしない。グラウンドでは特設ステージのモニターに映る『月下美人會』と『繚乱』へ不良少女たちが口汚く野次を飛ばしている。

「ああ……」

 興味ねえよ、と。

 普段の銀子なら、顔を背けたのだろう。

 だが今はそうしない。対話するふたりの間、数メートル。ヘルミは静かに見守っている。口でする長い息は白く濁る。

「まあ、な……」

 銀子はポケットをまさぐりかけて――手を止める。ガソリンスタンドのアルバイトが多い彼女のためにいつもライターを持ち歩いてくれるのはヘルミだったが。今日は、蒼い妖精という形容を使うには巨躯な彼女、火を手にしていないと言っていたから。

 不思議なほどに静かな時間が流れた。この一秒一秒のため、祝祭を過ごす数多くの少女たちが巻き込まれたというのに。否――それ相応の価値が、離れて過ごしたふたりが不器用に見つめ合う一分間にはきっとあったのだ。

 雪がちらついては舞い踊る、凍てつくような風の中では、海辺の町でも汐の香りを感じることができない。鼻腔の奥がつんとして現実感を失わせるから。

「ねえ白沼」

 かしゃ、とフェンスが軋む。グラウンドを見下ろそうと屋上の縁まで歩いた大鳥居みかが金網の目に指を掛けて掴んだ。撓ませたフェンスは、何と何とを隔てていたのか。

「音楽って、もう辞めてる?」

 責めるような口調ではなかった。なるべく軽く聴こえるように喉を整えていた。千々に乱れ続けた日々の中でどれほど彼女が憔悴したか、泣き出す寸前の子供のように光沢させられた瞳がよく伝えていた。

 銀子にとってみかの来訪は旧き日々の中に置いてきたはずの美しいものが突如として再び姿を現しただけのことであったとしても、みかにはみかのこれまでが――人間が生きる毎日としてのみかのこれまでがあったのだという、それは当たり前の事実であった。

 遠く離れているようで、来る気になれば一時間。湘南とは少しだけ色の違う川崎の空の下で、大鳥居みかは生きてきた。圧し折られた翼での再起を誓ったつもりだったのに――志を同じくしていたはずの白沼銀子に捨てられたと。そんな思いを、きっと抱いて。それでも、彼女は生活にしがみついてきたはずだ。こんなことばかりの世界を、いつか音楽でほんの少し変えられると信じて。信じることをやめていたのなら、彼女は今ここにはいないから。

「……さぁな」

 はっきりと応答できない質問だった。……現在の銀子と音楽を結び付けて考える友人知人は少なくないだろう。礼拝堂の長椅子に腰を下ろして脚を組みアコースティックギターの弦で指を遊ばせる銀色の姿は『酔狂隊』の面々にはすっかり馴染み深くなったものだ。ただ――大鳥居みかと白沼銀子がかつてそうであって、恐らく今もみかは独りそうであるように、全てを音楽に捧げることに苛烈に燃えてはいない。決して。

 今ほど煙草を求めたことはなかった。役に立たない唇と歯が不安で、何かに使いたい。中途半端な隙間では、冷たい風が吹き過ぎてゆくだけだから。

 ヘルミの方を振り返りかけて、やめた。

 ここまで支えて抱えて連れてきてくれた彼女が何もせずただ腕を組んで見ているのは、そういうことだからだ。硯屋銀子という存在が、ひとりで立ち向かうべきだと思っているからだ。喉が渇く。

 過去の延長上に今があることを不自然には思っていなかった。ヘルミと出会った夜、ひとりで歌っていたのはなぜだったのだろう。自分が大鳥居みかのようには頑張れないことなど、とうに理解していたのに。

 ただ。ただ、大鳥居みかという意志の怪物について、少しでも理解しようとしたのだったか。それとも、彼女のためと思いながら逃げ出した後にどう生きていったらいいのかわからないという頭の中の蠢きを、ただ吐き出そうとしたのだったか。

 一般的には、それを歌と呼ぶのだったけれど。

「ねえ、もし――ううん、生まれ変わったらでいい。生まれ変わったら」

 決戦は湘南。想いの果ては包摂の海。

 行き着いた先で、彼女は既に敗北を悟っていたのだろう。だからそんな風に、物寂しく笑った上で。

「また、あたしと一緒にやってくれる?」

 その時だった。

 冬雲が絹のように裂け、白がそこから射してきた。

「新しい、夢……っつーか……なんか……あってよ」

 だから、銀子が選ぶべき言葉は、かたちも無いままに軌跡の兆候となって瞼の裏にあった。それをゆっくりと読み上げるだけで、彼女は言葉を紡ぐことができた。

 俯いて微かに揺れる冷たい髪に触れて光は整う。煌めきの中で、灰色は銀色に変わるのだ。

 二度と交わらないのに、それは収束して大鳥居みかの瞳へ向かう。直線という最短経路で。

「てめーの前で胸張って言えるほど……頑張れてるつもり、ねえけど……金貯めて、店、持とうと思ってんだ。今はバイトくらいしかできねえし……どっかのデブのせいで食費すっ飛んでくから……大して貯まっちゃねえんだけどさ……」

 痛みは身体中に広がったような気がする。視界さえ若干だがふらついている。それでも。

 ふらつきながら、それでも白い息をやめない。

 長く垂れる前髪が片目を隠している。猫背も三白眼も、彼女らしさなのだ。

「バーでも何でも、小さくていいからよ……あたしの好きな、良い音楽かけて……ほとんど常連しか来ねえんでも構わねーから……うちの、母親の実家みてえに……人が『居場所』だって思えるような店をさ……」

 全身全霊で、銀子は立ち向かっていた。他でもない自分自身と。怠惰に過ごしてきた彼女にとって、それはほとんどタイマンだった。

 朦朧としていなければ、そんな言葉は紡がなかったのかもしれない。そもそも意志の伝達自体が苦手な銀子であって、共に寝起きするヘルミにさえ打ち明けたことがなかった。誰も彼女のそんな夢を嘲笑うはずがないと知っていても、硯屋銀子はそういう類の生き方はしてこなかったから。

「……わかってんだよ……あたしの、言うこったあ……思えねえだろ? ……あたしだって、この学校来て……あのカビ臭え、礼拝堂で過ごすまで……考えたことも、なかった……」

 睫毛の向こうで、少し早い夏の景色が溢れている。ヘルミ・ランタライネンは少女を目撃する。

 長い髪と同じ色をした瞳の中で、脂汗を垂らす硯屋銀子の輪郭がグラデーションに染まっていく。

 ――ああ。そうだ。私は馬鹿だ。

 それは、彼女の夏模様。銀子の、銀子らしい、生き方のかたち。

 ――銀子君は、ずっと「何か」になりたくて。

 ――何もせずとも「何か」でいさせてくれる『酔狂隊』が、大好きだったのだな……

「そんでさ……笑えんだろ……うちの同期、あの……楽土の社長とかいんだよ……頭下げりゃ多分、意味わかんねえ大金、ポンと貸してくれるような奴でよ……でもあたし、セーラー服着たアホみてえな……時代遅れのスケバンに、力貸すって……最初に言っちまったから……ここで……ダラダラやるしかねんだわ……」

 いつか。

 そう遠くないいつか、この今が思い出に変わる日が来たとして。

 その時、周囲の目には気怠げな不完全燃焼体のように映っていたはずの硯屋銀子はきっと、胸を張って言えるのだろう。

 自分の青春には夢が煌めいていて、確かに熱く燃え迸っていたと。

「てめーに言わせりゃ……堕落したって見えんだろうな……でも、負け惜しみでも何でもねえ」

 ギターを構えて、大鳥居みかの隣で、白沼銀子は何者でもなかった。

 だが――硯屋銀子は今、「何か」になれているのだ。鬼百合女学院、不良少女たちのための楽土で。それが水恭寺沙羅という不良少女の力だった。

 出会いに理由などなかった。ただ「しらぬま」が「すいきょうじ」のひとつ前の席で、自分の机に腰掛けて乙丸外連と喋っていた水恭寺沙羅に文句を言った。それだけの関係から始まったのであって、第一印象は劇的でもなんでもなかった。

 ある日から「すずりや」になったことについて、煙草を燻らせながらヘルミに自分の席で説明していた銀子の背中をつつくと、彼女は大真面目な顔で言ったのだ。

 そんならあんたの席こっちじゃないかい、と。

 教室の座席なんて、銀子にはどうでもよかった。かつて遠い国の王子であった硯屋の血を継いで生まれたことも。ただ、当然のようにひとり親になる道を選んで苦しい顔のひとつも見せない硯屋鉄火という女の娘として生まれたことだけは、何者でもない少女にとってたったひとつのアイデンティティだった。

 つまるところ。

 自分でも気付いてはいなかったが、生まれたての「硯屋銀子」は、「硯屋」と呼んでほしかったのだ。

 ろくに会話も重ねないうちに銀子が何を誇りたいのか見抜いてみせたような女だから、どこかずれているような沙羅はきっと誰にでも慕われる不良少女で。

 硯屋銀子は、『酔狂隊』の第四使徒になることを選んだのだ。

「……そんなのがよ……面白えんだ……毎日、さ」

 それは、誰も知らない秘密だった。

 ヘルミさえ、隣で長い睫毛を上下させることしかできずにいる。

 銀子が。あの「興味ねえ」が口癖の硯屋銀子が、痛みに突き上げられながらであったとしても、そんなことを口にするなんて。

 ……だが、そういうことだって、あって当然なのだ。

 硯屋銀子は硯屋銀子という人間として、ひとり生きているのだから。実母である硯屋鉄火も、戦友であった大鳥居みかも、似た者同士の夢雨塗依も、ヘルミ・ランタライネンも、誰も知り得ない彼女だけの領域があるのなんて当然のことなのだ。愛する祖国で犯した罪のことをヘルミが誰にも打ち明けていないのと同じように。

 全てを理解し合わなければ触れ合えないなどというルールは、どこにも存在しない。

 多少の知らぬ間を隠し持ったままでも、心と心で通じ合えるのだ。

「きっとあたしは……生まれ変わっても、くっだらねえ不良になんだよ……だから、お前の横には並べねえわ」

 ほんの少しだけ寂しそうで、残りは全部楽しそうな。

 そんな表情を、痛みさえなければ、銀子は浮かべたのだろう。

「……お前、みたいに……なりたかったのかも、しんねえけどさ」

「そっか」

 硯屋銀子、一世一代の大立ち回り。それはタイマンでもなければ乱闘でもなく、独唱よりも突き抜けて静かな独白で。

 勿論、大鳥居みかというたったひとりの観客のために演じられたものだった。

 ヘルミの役割は、銀子をここへ連れてきた時点で果たされていた。ステージに上がりさえしてしまえば銀子はひとりで立っていられるはずだと確信していた。だから、傍観者以上の何でもないつもりでそこにいたのだが――思いがけず、輝けることを聞いてしまった。一緒に暮らすヘルミにさえ一度として聞かせなかった、かけがえのない言葉を豊満な胸の奥に刻みつけて、しかしやはり気に掛かるのは肝心要、大鳥居みかの応答である。

「あーあ。横浜にすごい探偵がいるって聞いて、バイト代全部使ってさ。そんな風にして調べてここまで来たのに、ぜーんぶ無駄足」

 案外。

 案外――晴れやかな顔で、彼女は腰に手を当てていた。

「でもまあ、遠回りには慣れてるからさ」

 燦々と、とはまだいかない。厚い雲の裂け目から降りてくる光の道はか細く、向かい合う少女たちの表情にコントラストを生むには至らないほど些細なものだ。

 だが、どんな匙加減を疑うまでもなく、それは楽しみにしていたケーキの最後のひと口を飲み下してしまった途端のような、愁いを噛んだ微笑だったのだ。

「さあて。……帰るかな!」

「……」

 喧嘩だったら。

 殴りかかってくる少女を叩き伏せる展開だったら、どれほど楽だっただろう。だが、そんなことを空想しても意味などありはしない。俺に委ねられないあたしのままで、硯屋銀子は大鳥居みかの全てを受け止めると決めたのだ。

「あばよっ、独裁者くん」

「……お前だろ」

 だから、すれ違いながら軽く片手を額に当ててみせた茶髪の少女に、銀子は振り返らなかった。心身の苦痛をそこで抱きしめて、小刻みに震えさえしながら、誰を殴ることもできない拳を握って立っていた。

「……お前は……ひとりの方が、成し遂げられる奴だって、そう思ったのは……嘘じゃ、ねえから」

 不細工なリズムだ。空気を身体に出入りさせることすら楽ではないのか、息継ぎが言葉をぶつ切りにして破調も極まりない。

「その……何だ。頑張れよ……大鳥居」

 だが、歌だった。

「うん」

 これまでに銀子が書いたどんな曲よりも。

 春を希う、応援歌のサビとしてそれは聞こえた。

 鬼百合女学院。この土地の異様さは、みかも足を踏み入れた瞬間から感じている。

 ただ、銀子がここで今も歌っているなら。

「白沼のこと任せたよ。デブゴン」

 ヘルミと銀子との関係を問い質すまでもなく、みかはただそこにいて全てを見守っていた北欧の少女にそう声をかけて。

 明日からの世界へ入場するために、迷わずつかつかと退場していった。

「……お姉さん、初対面でかなり直球を投げつけられたか?」

「……いや。違えんだわ。……違わねえけど」

 溜息、漏らさずにはいられないだろう。

 愛嬌があって誰からも好かれるのに格闘となればしっかりと強い、『燃えよデブゴン』のサモ・ハンが。

 目つきの悪さで男子から喧嘩ばかり吹っ掛けられていた小学生の銀子にとってはスターだったという、それだけの話。

 それだけのつまらない話を、大鳥居みかはずっと覚えていたのだ。

「さあ、銀子君。お疲れ様だ。お姉さんもいたく感動したよ。……よく頑張った。よく頑張ったとも、君は」

 ふらつく彼女の前で、大柄な彼女は両腕を広げる。その蒼い輪郭は、北の神話における魂の帰り来るところ、母なる巨樹が如くして。

「……黙れもう、お前、マジで……」

「はっはっは。……では今日という物語、盛大に幕を閉じてくれたまえよ。そこから見ている――大観衆に向かって、な」

 身を躱されて行き先を失ったならば、その手は指し示すのだ。悪態を吐きながらも、熱した鉄の棒を胎へ突き込まれるような痛みに耐えて唇の端を歪ませる彼女の前で。その視線、導くように。

 指す。全て、ふわふわと浮かびながら全て見守り続けていた、空撮ドローンのカメラを。

「……は?」

「格好良かったぞ、ミスター鬼百合」

「は……あ……? あーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 かくん、と銀子の膝が落ちかける。目を丸くしてヘルミは抱き止める。今度こそ。

「ふっ……ざけんなよ、てめーら……人の、お前……ああクソ……死ね……全員死ね……」

 どっと熱が出たような気がした。頬が火照ってやまない――ふつふつと沸き上がる感情は何であるか。考えるまでもない。

「見せもんじゃねーーーーーーーーーーんだよ……なあ……!! ……テメーも気付いてたなら言えやクソブ、タ……」

 怒り――それを噴き散らかそうとするが、銀子の肉体はとうに限界を迎えていた。土台、無理な話であったのだ。

 ヘルミの逞しい腕にしっかと抱えられながら、銀子はぎろりとカメラを睨む。

 さあ――終わらせよう。この、あまりに長かった、彼女のための物語を。

「いいかクソ共……ミスターコン、あたしなんかに入れんじゃねえぞ……入れた奴は全員……ブッ殺す」

 あれほど騒がしかった数分前が嘘のように、グラウンドは静まり返っていた。

 モニター越しに、誰もが硯屋銀子を見ている。青白い顔に脂汗をかいたその姿は、ヒーローにしてはあまりに情けなかったかもしれない。

 だが、誰ひとりとして、彼女を嘲笑う者などいなかった。

「あたしなんか……何もしてねえんだよ……なあ、わかんだろ。お前ら、全員の周りでよ、今日、色々あったろ」

 鬼百合女学院、オープンキャンパス。

 中学生たちに、この学校の魅力は、ほんの少しでも伝わっただろうか。

「格好良い奴なんざ、いくらでもいんだよ。それがこの鬼百合って学校なんだよ。だから……まあ、あたしも……」

 それを気にするのは銀子の役目ではなく。

 だから、本気で苛立ちながら、彼女がそれでも笑っていることにヘルミだけは気付いていた。

「おもしれー女たち、って、少しは……思ってる」

 一旦、目を閉じる。冬に晒して、頬の火照りを静める。ゆっくり息をすると、下腹の痛みも少しは楽になった。

「……わーったら、頼むからマジであたしとかじゃなくて、てめーの目で見た格好良い奴に入れろ」

 親愛なるヘルミに支えられ、ぐしゃぐしゃの髪の下から恨みがましい視線を投げる銀子は。

 誰の目にも明らかなほど、鬼百合女学院の王子様たる資格を帯びていた。

「で、どうしても思いつかねえんなら――『繚乱』の連中にでも入れてやってくれや。大した縁もありゃしねえあたしらのために、馬鹿ほど格好つけて駆けつけやがった奴らだからよ。……何もシャンパン開けに行けとは言わねえけど、捨てる票ならそいつらにくれてやって、また来年も気張らせようじゃねえか」

 一度は引き受けた、宣伝の依頼を。

 きちんと済ませて、舌打ちひとつ。

 いつも通りなその音は、祭りの終わりの合図だった。

「……以上。帰れ」



 ――長いような短いような、夢を。

 ――見たことがある。

「ねえ、杏寿」

 ――ちょっと曇った夏の朝だと、大きめの傘を持っていく。

 ――期待をこめて、ね。

 ――あたしが学校に着くと、グラウンドには大好きなみんながいる。

 ――「僕」と、杏寿と、天佑たち。サッカーかな。バスケかな。

 ――声をかけて手を振って、教室に向かおうか。

「あァ」

 ――あたしはスカートの裾を整えたり、何度も鏡を見たり、爪を磨いたりして待ってる。

 ――それから、予鈴ぎりぎりでギターを背負って眠そうにやってくる硯屋に、こう言うんだ。

 ――おはよ、って。

 ――そんなの夢だってわかってたのに……

 ――あたしも、僕も、その時すごく……満ち足りたんだよね……

 少女たちが、銀子を。

 そして銀子を救うために疾走した『繚乱』を称える万雷の拍手を打ち鳴らす中で、そっと校舎を出たふたりは日陰にいた。他の仲間は病院へ帰らせた。

「あたしたち――『僕』たち、酷い商売してたのかなあ」

 ――あァ。わかってんだわ。わかってんだよ。

 ――誰も悪かねえや。最高のハッピーエンドってやつだァな。

 辿り着いた果てで、銀子はまさに今日という日の華だった。

 そのために自ら身を献じたのだから、塗依にだってそれは涙が出るほど嬉しいことで。

 さらに加えて、約束を、硯屋銀子は果たしてくれた。『繚乱』が鬼百合の華たり得ることを、自分たちに代わって大観衆へ伝えてくれた。塗依が密やかで無垢な欲の建前として求めた、本来あるはずだった今日のかたちまで、銀子はつくってみせてくれた。

 恋した相手から、これ以上ないような称賛を受けて――それなのに。

 その美しい言葉が――どうして、自ら決した少女の首へ落ちる残酷な刃になってしまうのだろう。

 ――大した縁もありゃしねえ、と来やがるかよ。

 ――ままならなさすぎねえか、なァ……

 脆く崩れそうな歯を、食い縛るばかりで。長い睫毛で弾け飛ぶ小さな雫から目を逸らしているのが精一杯だった。

 ずっと口を塞いで抱え続けた想いを、地下で告解することなどできないから。星野杏寿には、胸に黒薔薇を咲かせて硯屋銀子に挑みかかる資格さえありはしないのだった。

 だから、爪が薄い理性を食い破って血が出そうなほど拳だけ握り込んだままで、彼女は俯いて立っていた。

 長すぎた髪を留めたゴムを飾る布人形は、首吊り死体を模していた。

「失恋って、きついんだね」

「……きっ」

 そんな――

 そんな言葉は、あまりにも、あんまりで。

 自嘲するように笑いかけてしまうけれど――瞬間、飲み込んで。

 ただ、かくんと力なく折れた塗依の首を、肩で受け止める。目の前にあるのにこれほど遥か遠い鳴動の中でスポットライトを浴びているのは、彼女でなければいけないのに。

 ――あァーあ。

 ――ンだよ、これ。

 今日一日の。

 否――これまで積み重ねてきた。

 星野杏寿が、ひとりの女のために必死に歯を食い縛ってきた青春の帰結が、これなのか。

 ――こんなん、無ェだろ。ナメてんのかァ?

 杏寿が有機溶剤を吸い始めたのは、それが骨まで溶かしてくれるからだった。死んで焼かれた後に何も残らなければ、誰の記憶にも残らずいられると信じていた。

 だから、忘れないでいてほしいと願ったのは初めてだった。

 大切に磨いてきたガラスの靴が割れてしまって、いつか来る素晴らしき日々を祈りながら泣くことしかできなかった日、決してひとりぼっちではなかったのだと――忘れないでいてほしいと、杏寿は塗依の震える背中を不器用に摩りながら願っていた。

 肩が涙に濡れてゆく。

 ――ただ、まあ。

 ――今ここに立ってるためだけに、俺ァ、生まれてきたのかもしんねェやな……

 そう、これは誰ひとりとして気付いていない何よりの秘密であったのだが。

 星野杏寿は、夢雨塗依のことを、ずっとずっと心の底から愛しているのだった。



 戦い済んで、日が暮れて。

 外連は特設ステージの端で胡坐をかき、『魔女離帝』スタッフたちの撤収作業をぼんやり見ていた。

「乙丸さァーん、そろそろどいてもらえないスか? そこもバラすんで……」

「るっせーやい! 後回しにしてよね!」

 大モニターも客席も既に取り払われ、祭りの会場は校舎の窓から見下ろされる日々のグラウンドへ回帰しつつある。だが、ここで待たねばならない理由が外連にはあった。ミスターコンテストばかりに注目が集まるのは例年のことだけれど、ダンス大会のステージでもあったこの場所で。

 ――もう。

 ――沙羅のばか。

 ――屋台とか。一緒に回ろうって言ったのにさ。

 スマートフォンに指を走らせる。楽土傘下の事業者によって提供される、鬼百合生のためのクローズドSNS。外部の一般的なSNSの愛用者も多い上いくら不良少女とは言え今日日の女子高生にはなかなか掲示板も流行らないようで、使用者はそう多くないのだが、どこで誰と誰がタイマンしただのどの勢力とどの勢力がきな臭いだのと治安の悪い情報がそれなりの頻度で交換されている。

 そこに上げられていた目撃報告から、実際のところ、外連は待ち人の来たらざる理由をある程度想像できてはいるのだけれど。

 それはそれとして、俯き加減で頬を膨らませるくらいの権利はあった。

「……外連」

 しかし噂をすれば影。グラウンドの砂利を、便所サンダルのゴムが踏みしめて来る。ぱっと顔を上げると、逆十字のピアスの玉鎖がちゃりと鳴った。

 誰もに見上げられるステージに座って、それでようやく視線が合う。

 水恭寺沙羅と乙丸外連。一緒に過ごした時間は数え切れなくて、それは、一日一日を蔑ろにしないできたからこその積み重ねなのだ。

 何度も喧嘩をして、何度も仲直りをした。手を繋ぐ時間がどれだけ長くなっても、殴り合って出会ったことだって思い出に変わりなくて。

 そんなふたりの片方なのだから、外連は何も恐れずに眉を吊り上げることができた。

「おっそい! ふっざけんなよっ、ばかばか!」

 彼女が何をしてきたのか、察したのだから。頬と右手首の痣や服の汚れ、冬の夕だというのに寒そうなほどびっしょりとかいた汗が目に入ったら、心配して然るべきなのだ。

 そんなことは百も承知で、乙丸外連はベニヤのステージを皮膚の硬くなった手のひらで叩いた。

 そうしなければ、どろりと零れそうになる熱の塊を瞼の中に押し留めておけなかった。

「……悪かったって。ほんとに……悪かった、悪かった」

「もう、なんなんだよお前さあ……心配ばっかかけてさあ……!」

 きまり悪げに首筋を掻く沙羅。鬼百合最強と謳われる神の子が、童女そのもののような外連の爆発を前にたじたじだった。

 本当は、屋台だの何だのはどうでもよかった。そんな約束は些細なことだった。その反故を取り戻して余りある日々を、ふたりで生きてきた。

 ただ、外連は。

 不安だっただけなのだ――彼女が。漁火美笛<イサリビ・ミフエ>と同じように、いつかふっと波間に攫われて、目の前からいなくなってしまうのではないかと。

「沙羅、小峰と喧嘩したんでしょ」

「いや、ちょいとさ……原付持っていく途中、すっ転んでね」

「そんで、あのでっかい小峰をわざわざおんぶして、楽土系の病院に運んだんでしょ」

「いや……何のことだかね」

「全部見られて書き込まれてんだってば、まぬけ!! 目立つに決まってんじゃん、そんなんさあ!!」

 外連は指でスマートフォンの画面をかつんかつんと叩く。そっぽを向いて強引に白を切ろうとする沙羅を前に、ぷりぷり怒ってみせながら。

 セーラー服の上に緑のパーカーを羽織った、ピーターパンのはずの外連が。今は、悪戯な子供を叱る親のようだった。

「いいや」

 しかし、毅然として。

 沙羅は、首を振る。色を抜いた外連の短髪の下に煌めく逆十字とお揃いの、正十字のピアス。揺れて。パーマをかけた明るい茶髪は、夕暮れの風の中にある。彼女たちが明日へ向かうための答えと共に。

「あたいが勝手にコケたのさ。小峰の奴が病院行ったってんなら、あいつも同じだろうけど」

 沙羅は、不良の世界の政治が決して得意ではないけれど。

 それでも、『魔女離帝』特攻隊長の小峰ファルコーニ遊我がよりにもよって『酔狂隊』総長の水恭寺沙羅に仕掛けたと明るみに出ればどんなことが起こるかくらい理解できた。そして、遊我のプランの中にはタイマンに敗北した場合のルートとしてそういう未来も用意されていたのだろうということも。

 だが――目撃者のいないあの戦いについて、沙羅さえ口を噤んでしまえば。負けたことを自ら喧伝して『魔女離帝』の看板を貶める行為に遊我が走るはずない以上、秘め事のようなあの喧嘩は「なかった」ことになる。故に。

 タイマンで『魔女離帝』の魔人を人知れず打破せしめたという名誉など、水恭寺沙羅は喜んで投げ捨てよう。

「とにかく――あたいは、なーんにも知りゃしないんだよ」

 腕を組んで。

 オープンキャンパスから締め出しを食った鬼百合最強は、紅を引き直した唇を微かに歪めてみせた。

「……んっとにもー!」

 呼び出されて、喧嘩をして。

 撃退したって、つい今しがたまで殴り合っていた相手がのびているのを放って帰れないような女なのだ。それも、ただ救急車を呼んだのでは楽土の息のかかっていない病院に運ばれてしまうかもしれないから、わざわざ二メートル近い小峰ファルコーニ遊我を背負って町を彷徨ったのだろう。きっとどこから内情が漏れようと楽土ラクシュミは握り潰せたはずだけれど、それでも沙羅は鬼百合とそこに通う少女たちを、遊我と同時に守ろうとした。

 ――あーもう、あーもう、ああーーーもう!

 ――そんな奴だから!

 ――そんな奴だから、うちは好きになったんだけどさ!

 茶髪がくるりと波打つ下で、黒いままの眉は決して歪めずに。

 外連が胡坐をかいたまま膨らませた頬に手のひらを当てる、その目の前。

 出会った頃と何も変わらない、何を考えているのか何も考えていないのか――背の高い彼女は舞台に肘をついて、外連の機嫌を窺うように口元を微笑ませながら見つめてくる。外連は、ぷいと目を逸らさずにはいられない。わけもなく髪を耳に掻き上げると指の平にツーブロックの刈り上げ箇所がさりさりと小気味よく触る。嫌になるほど整っているくせに時代遅れなメイクを施している真っ正直な顔を覗き続けていたら自分の苛立ちがあまりに可哀想になるから、外連は反対の頬まで膨らませて、意味のないことを途方もないスケールで想像した。

 ボトルガムの化石。知恵の輪のパラダイム。人類最初の一球はストライクだったのかボールだったのか。

「あ? ……沙羅さんに外連さんじゃん。帰ってないんすか? ウケんだけど」

 そのうちに。

 太古まで遡るほどのこともなく、たった一年弱の因縁が回帰してくる。

 屋台の廃棄物を本部テント跡地のゴミ捨て場へ運ぶ途中の、田中ステファニーが。

 たまたま、通りかかって。

「ってかパイセンら、これよかったら要る系? 作り置きちょい残って、捨てに行くとこだったんで」

 祭りは終わり、少女たちはその解体に追われて。既にただ忙しなさに支配された宵の口、沙羅と外連の視界でただひとり立ち止まると。

 両手に持っていた、真冬だというのに氷のたっぷり入ったタピオカミルクティーを。

 あと一秒でどうにかなってしまいそうだった、持っていく先を喪失した外連の小さな胸の前にひとつ。それから沙羅の前にひとつ、ぶっきらぼうに突き出した。

「いいのかい? 買うよ」

「あー、マジいいんで。ガチめ捨てるやつだし、あーしんとこ鬼儲かったんすよね。今日日タピこんな飲まなくね? ってノリで。卍」

 外連はそれを両手で受け取る――冷え切った手のひらには、その表面の温度さえよく伝わらなかったのだけれど。

 小さく唇を開いたままぱっと顔を上げてしまったら、沙羅の瞬きが見えたから。

 どうしたらこんな冬の日を嫌いになれるというのだろうか。

「つか沙羅さんさ、どーせまたガッコのためにタイマンとかした感じじゃないすか? 礼ってことでよくね? ほら、あーしこの前、カッコいい鬼百合任せるとか何とか言ったやつの」

 ずっとロングスカートのポケットに仕舞われていた秘蹟の右手が触れる、長いカップの下半分は。

 作り置きではあり得ないほど、湯で戻したばかりのタピオカの熱を帯びたままで。

「……そうかい。ありがとね」

 確かに『酔狂隊』の金庫番を自称してはいたけれど、決してイスカリオテのユダが如く神の子を売り渡したわけではなく。

 ただ野望に殉じた末期としての別離を選んだかつての使徒と、沙羅はそれ以上しつこく言葉を交わそうとしなかった。

 この鬼百合という荒野にて、暴君の地位を捨てた彼女はもう独り戦い始めているのだから。

 それは、彼女を突き放すことで守った沙羅からのエールでもあった――が、水恭寺沙羅という不良少女は、それを口には出さないのだった。

「……田中!」

 代わりに。

 隣の彼女は、小さな身体に漲るもの全てぶつけるように、冷たい空気を吸って高く叫ぶ。

「ごめん! あんがと!」

 きっと――もうすぐ、春が来て。

 そうしたらすぐに、不良少女の旬が来る。二度とない高校三年生の夏が。

 いつまでも、いつまでも記憶に残る日々だから。この今を、きっと何重にも焼き付けることになるから。

 去っていく田中ステファニーの背中にかつて何を思ったか、嘘で上書きすることはできなくても。今この瞬間に感じたことを、精一杯で伝えずにはいられなかったのだ。

「……あいつ、かっこいいとこあんじゃん」

「そうさね」

 軽く挙げた片手をひらひらさせて、ステファニーは外連のエゴに応えた。幼馴染たちと――水恭寺沙羅と作った原初の『酔狂隊』が、大好きで。変わっていくものたちから目を背けてたったひとりで子供のままの意固地でいようとした外連は、きっと気付けなかっただろう。

 変わっていく日々の景色の彼方は、きっと恐ろしいものなんかではないと。

 それを外連に教えてくれたのは、変わらないものを信じながら湘南にやってきて、不良少女になり始めた、謝花百合子の拳だった。

「こんな学校に集まる馬鹿ってのはさ。みんなどっかは格好悪くて、どっかは格好いいんじゃないかい」

 なくしてしまった今日一日の何十倍も、何百倍も、何千倍も、ふたりなら思い出をつくっていける。

 ずっと、そうだったのだから。

 オープンキャンパスの残骸を。舞台を、ぴょんと飛び降りる。タピオカミルクティーのストローを咥える。

 吸い込む前に見上げる。時代遅れのスケバンルックで長いスカートを引き摺りそうな隣の少女。首を鳴らした、傷だらけの顔を。どちらからともなく手を繋ぐ。

 そうしてふたりは違う歩幅で、合わせるまでもなく並んで帰る。



 ぱちり、瞼を開く。その直前に聞いたのは、囁くような子守唄。

 天井――白く、見知らぬもの。

「……おはよ」

 身体を起こ、せない。その認識ほどには深刻でないのだろうが、ただ全身の筋肉が悲鳴を上げている。

「おっ。お目覚めなんだな、ガキ大将」

「……ピカ……ドール?」

「うん。ぼくじゃ嫌か?」

 ぱきぱきっ、とプラスチックが砕けるような妙に心地良い音が小さく鳴った。注ぎ口の広くなっているココナッツウォーターの紙ボトルが開けられた音だった。優しい声で子守唄を歌っていたのは彼女なのだろうか。……あるいは、彼女の姿を脳が認めて、それと結びつくものとして夢うつつの中で子守唄を錯覚したのかもしれない。

 螺子を回すように身体をゆっくりと回転させると、視界に入ったのは、大きな布バッグだった。ベッドサイド、テレビの上に横たわっている。

「それ、エボシラインから預かったんだな。充電でラボに帰らないといけないからって」

「栞か……ん、わかった。あんがとねん」

 それならば入っているのは同人誌だろうが、見られていたとしてもピカドールなら別に問題ない。額に手を遣ると包帯があり、お団子に結っていたブロンドは解かれて枕の上で波打っていた。黒縁眼鏡を探り当てると、フレームが少し歪んでいた。

 別に怪我人への差し入れというわけでもなかったらしくココナッツウォーターをこくこくこくとラッパ飲みしながらピカドールは頷いた。膝に大切なものを載せ左手を添えて支えながら、右手だけで器用に一リットルボトルを傾けつつピースサインを出す。

 思い出さずにはいられない――体感的には先程まで、拳を交えていた相手。遊我の意識を撃ち抜いた、輝かしい右の拳。

「病院……っつー、ことは」

 落ち着くと薬と清潔なシーツの匂いを感じて、遊我にはそこがどこか理解できた。磨りガラス越しの廊下は暗く、彼女の眠っていた大きなベッドのある病室だけに方形の白色LEDが灯っていた。

 身体のあちこちが痛み、ベッドに横たわって目を瞑るまでの記憶はない。……状況判断は容易だった。

「やー、負けた! 恥ずかしいったらないけど、完敗だったみたいねん」

 それも、ただ負けたわけではない。もちろん遊我は自分が水恭寺沙羅に敗北することも可能性未来のひとつとして想定していたのだけれど、『魔女離帝』の人員、それも戦闘員として重要なポジションにあるピカドールがこんなところに来ている時点で彼女の企ては破綻したということだった。

 本来なら、それどころではないはずなのだから。

「びゃ~~~」

「おおー、よしよし。小峰の姉ちゃん、でっかくて怖いんだな。大丈夫、ママが一緒にいるんだな」

 遊我が大きな声を出して伸びをし、続けざまに布団を叩いたので、赤ん坊が泣いた。確かに怪獣を思わせる挙動だったかもしれない。

 ミニチュアのようなピンク色の服を着せられた赤ん坊を抱いて、ピカドールはベッドの傍に座っていたのだ。

 鬼百合女学院に年頃の少女は多かれども――子連れの不良少女と言ったら、彼女こと羊崎トオル<ヒツジザキ・―>の他にはない。時にはやわらかい幼児を襷掛けに背負ったまま拳を構え、そこへの打撃を決して許さない苛烈な攻め手で知られる喧嘩巧者のひとりだ。

 アッシュカラーの髪はふわふわと、首元で内向きに丸まっている。頭の上には大きなスパンコールのリボン。眠たげな半目と口元の黒子がどこかセクシーではあるが、その頭の中ではいつも面白おかしいことばかりが考えられている。デザイナーの手元に蛍光ペンしか残っていなかったかのような、蛍光パープルの生地に蛍光イエローのラインが入った異常なブレザーを着て。

 かつて、『死闘組合<シトークミアイ>』というチームがあった。青々とした日々を仲間たちと共に駆け抜けた先の今で、彼女は『魔女離帝』特攻隊のナンバー2として働いている。色々なことがあったものだが、今はすっかり遊我の盟友だ。

 短い手足をばたつかせるローラの背中を摩り、軽く左右に揺らして宥めるピカドール。

 彼女は遊我を責めなどしない。一体誰に戦いを挑んでこうなったのか、知らないはずもないのに。遊我が何を思ってオープンキャンパスに浮かれる鬼百合を抜け出し水恭寺沙羅と一戦交える計画を立てたのか、問い質そうともしなかった。

 ただ、それが失敗したことだけを察して、静かに赤ん坊をあやし続けていた。

「あう、あぶ」

「うんうん、お前はかわいいんだな」

 ……実のところ。

 遊我の立てた計画では、オニケ会場にて目当ての冊子を買い漁らせた後、栞・エボシラインは校門付近で待機――とラクシュミへ出す運用予定表には書いておいたものの、本当は急ぎスーパーの駐車場へUターンさせる手筈だったのだ。加勢のためでは無論ない。その頃に遊我が沙羅を下せていればそれで良し、もし遊我が敗れるならその瞬間を栞に目撃させることで、自らの敗北を声高に知らしめずとも『魔女離帝』と『酔狂隊』の最終戦争を起こすことができた。

 だが――僅かに、僅かに栞・エボシラインは間に合わなかった。

 それはもしかしたら。

 もしかしたら、栞・エボシラインという鋼鉄の不良少女の感情機能が、誰とも親愛の線で結ばれていない自分という存在を突き付けられた瞬間のゆらぎによってアルゴリズムを僅かに狂わせ演算を焦げ付かせた、そのほんの些細なタイムロスに起因したのかもしれなかった。

 だがそんなことを遊我が知る由もなく、彼女はひとり、手のひらを見つめている。嫌気がさすほど人工的に白い壁に囲まれて、ただ自分の敗北だけを見つめている。死刑執行を待つ女囚のように、寝台の上、そっと股の少し上で手を重ね合わせて。

 勝てなかった――

 二メートルに届こうという長身も、その腕と脚から生み出される膂力も、プロレスというそれらを十全に活かすスタイルも。その全てを武器として容赦なく揮いながら、遊我の身体は水恭寺沙羅という女の右腕一本で乗用車に叩きつけられ意識を吹っ飛ばされたのだ。

 沙羅――水恭寺沙羅。暫定的に鬼百合最強の不良少女。神の子、生ける伝説。

 楽土ラクシュミの宿敵。

「ピカドール。あんた、『魔女離帝』に入ってよかった?」

 この病室は四階か五階くらいであるようで、窓からは駐車場を見下ろすことができた。ぼんやりとした冬の闇の中、常夜灯が一定間隔で道の輪郭を示している。

「うーん……そうだな。そりゃあ、愛鎖<アイサ>や塩基<エンキ>と一緒に行きたかった、とは……今でも思うけど。なんだかんだ、ローラと一緒に過ごせてぼくは幸せだし……マハラジャにも感謝してるんだな」

「……」

 遊我は赤ん坊を可愛いと感じたことなど一度もなかった。理と情がせめぎ合う中で藻掻いて生きるのが人間の美しさの定義だから――とかなんとか理由を捻り出すことはできたが、別にそんなことをする必要もなく、ただ条件が満たされると泣き出す物体としか認識できないというだけの話だった。ピカドールを良き友人だと思ってはいるが、それのために身を捧げる心はまるで理解できない。

 ただまあ、それはいいだろう。彼女に限ったことでもない。

「あ、そ。……そうよねえ、たくさんの女の子が幸せになれるようにって、マハラジャはそればっか考えてんだもの」

 ラクシュミも絆も、誰もがそうだ。各々、命を懸けるべき青春の命題を持っている。それが不良少女というものだ。

 だから遊我は共感しようとすることをやめ、共感されようとすることをやめ、共感しようとされることをやめ――ただ、我独りの「願望」のために生きることを決めたのだった。

「皆で一緒のハッピーエンドなんてお伽噺よ。だったらあたしは、マハラジャとザっちんのふたりだけでも、幸せにしてやりたいのよねん」

 ラクシュミと絆が、「たかが高校を卒業した程度のことで」離れ離れになるなどとは、遊我は微塵も思っていない。

 だが――不良少女という肩書きの他は何もかもをかなぐり捨てて青いままいられるのは、あと一年だから。

 既に社会で世界で生きているあのふたりだからこそ――ただの高校生としても生きられる残り時間を、寄り添って過ごしてほしいから。

 特攻隊長・小峰ファルコーニ遊我は、一刻も早く、その妨げとなる『酔狂隊』を撃滅したくてたまらないのだ。

「……なるほどな」

「あん? 何がわかったってんのよ」

「いや、『っぽい』雰囲気にしただけなんだな」

 真顔でこういう振る舞いをする。羊崎トオルという少女は、親友たちといた頃から何も変わっていない。

 絆・ザ・テキサスの願望は楽土ラクシュミへ繋がっている。楽土ラクシュミの願望は水恭寺沙羅へ繋がっている。水恭寺沙羅の願望は――しかしピカドールは違う。いつか拒んだ大人の姿にピカドールはもうなりかけてしまっていて、今の彼女の願望はローラというその小さな子供と、それから鬼百合を離れていった少女たちにしか向かわない。

 だから、味方につけるには最適なのだ。

「要はねん、ピカドール――マハラジャとザっちんのために、あのふたりを裏切れるかって話なわけ」

 そこは病院、楽土系列の病院。多くの命が始まり、もっと多くの命が終わる場所。

 生きる方向性を決めるにはうってつけのようで――ほんの一歩引いて見れば、あまりに馬鹿げていた。

 喧嘩だの何だのは全て、大人になってから振り返れば笑ってしまうような、女子高生のお遊びだというのに。本来、そこに命のやり取りなど介在するはずがない。

 だが、それでいいのだった。策を巡らせ、身体を張って、命まで懸ける覚悟を拳の中に握りしめて、不良少女たちは海辺の町で生きていた。

 それが、きっといいのだった。

「えっ? 嫌なんだな、普通に……ぼくら『魔女離帝』なんだから良くないし……」

「あーぶっぶー」

「いや、あの……うん、あたしが悪かったわ。その、ちょっとカッコつけたんだけど……あたしなりにほら、あいつらがね、残り一年を」

「……わかってる。ちょっとからかっただけなんだな。お前、ぼくのことバカ者だと思ってるんだな?」

「あんた終いにゃブン殴るわよん」

 赤ん坊を抱いたまま口元を不敵な笑みの形に歪めるピカドール。

「そういう話なら――テキサスの気持ちとお前の目的は、多分ダブってる。ティン子に話してみるんだな」

 アウグスティン恋愛<ココア>は、遊我たちと同期でありながら、親衛隊で絆・ザ・テキサスを補佐する立場にいる。面倒事の後始末に長けており、今回のオープンキャンパスのような大きいイベントの最中こそ化石発掘旅行に出かけ、しょんぼりしながら帰ってきては残された問題を把握し芸術的な手際で片付けてしまう恐竜マニアだ。『酔狂隊』事務方の幹部として絆にとっても信頼に足る先輩である彼女には、ピカドールと同じく『死闘組合』に身を置いていた過去がある。

「あたしとうちのガキんちょ四人、ピカドール……ティン子が手を貸してくれたとしても……ガッハッハ、『酔狂隊』を落とすにはちょいと足んなさそうねん」

 身体に残る鈍い痛みは、沙羅との実力差を思い知らせてくる。分の悪さなど百も承知だった――『魔女離帝』の何よりの強みは「数」。しかし、当然ながら特攻隊にもマハラジャたるラクシュミに忠実な者は多く、隊長の遊我であっても表立って私的に動かすことはできない。ましてやラクシュミの意思に背こうというのなら尚更で、むしろ部下たちにさえひた隠しにせねばなるまい。

 遊我が臨もうとしているのは、誰に望まれるわけでもない戦いだ。ただ、ラクシュミの恩に報いるため。彼女を一途に慕う可憐な絆の背中を押すため。

 魔人は密やかに道を違えてでもその怪腕を揮う覚悟を、とうに決めていた。

「ピカドール、あんた今日一日どうだった? ……『魔女離帝(うち)』が青田で買えそうな新入生の中に、あたしら側に引き込めそうなのはいるかしらねん」

「うん。……ぼくは、フランクフルト屋さんをやってたんだな。途中でおむつを替えるのに、親衛隊の一年を呼んで店番してもらって……用が済んだ後は、ローラと一緒にたこ焼きと回転焼きを食べたんだな。それから温かい甘酒を飲んで、あ、あと女原に屋台を交換してくれたお礼に行って、モツ鍋も貰ったんだな」

「ああー、もういいもういいもういい。あたしが悪かった」

 悪い人間ではないのだが――ピカドールと話していると時々頭が痛くなる。絆をからかっている普段の遊我ならば乗っかってもいけるのだが、今は至極真面目に悪だくみを進めている最中だった。

「で、戻ろうとしたらワンダーと会って……あ、そうだ」

 ピカドールは遊撃班のコアントロー・ワンダーを舎妹(スール)としている。

「……マハラジャとかテキサスが知ったらえらいことになるから、まずお前に報告しようと思ってたことがあったんだな。ユと女原が喧嘩に行って、やられたっぽい。イベント終わるまで屋台に戻ってこなかったらしいんだな」

「あん? ったくぅ、なーにやってんのよあいつら……で相手は?」

「糺」

「……あ?」

「遠目に見てたワンダーが言うには、糺四季奈だって話なんだな」

「――――――?」

 消灯時刻過ぎの病棟で、ただでさえ大きな遊我の声が素っ頓狂にこだました。

 二心にして一途なりし『魔女離帝』の魔人、小峰ファルコーニ遊我。彼女の計画はゆっくりと、深呼吸よりもゆっくりと、動き始めようとしていた。



 静かな昼下がりだった。

 よく晴れて、顔には間もなく止まってしまいそうなほど微かに感じる程度の風。サニーオレンジの半袖ポロシャツに白いミニスカート、ニーソックスを合わせた楽土ラクシュミは絞るようにグリップを握り、肩幅程度に脚を開いて立っている。

 一面の緑が目に爽やかではあるが――そんな薄着でラウンドできるのは、自然体としてヨガの呼吸を行える彼女くらいのものだ。後方でそっと白い息をする絆はセーターと細いスラックスの内側に機能性インナーを着込んでいる。どんな快晴であろうと、日本の冬は容赦ない。

「……!」

 風切り音がした。

 しぱん、とラクシュミのドライバーは正確にボールの芯を捉えた。筋肉を収縮させないよう目だけに集中しながら程良く力を抜いた美しいスイングであったが、女性離れしたその腕力によってティーは砕け後方へ放物線を描きながらくるくると舞い上がる。絆は小指の先ほどの大きな欠片を手のひらで受け止めると、拍手をした。

「ナイスショットです、マハラジャ」

「ありがとう。けれど貴女には届きませんわね」

 兜のようにも見える金色のバイザーを外し、波打つ黒髪を掻き上げてぱたぱた扇ぐ。

 鬼百合女学院のオープンキャンパスは、概ね恙なく終了した――トラブルも二三あったとはいえ、それも祭りの醍醐味というもの。運営本部のトップとして東奔西走しつつ自ら特製ハンバーガーの屋台を回しミスターコンテストに出場しと目まぐるしい一日を終えた絆を労うため、ラクシュミは彼女をふたりきりのゴルフへ連れ出したのだった。

 彼女との不似合いぶりがシュールに思われるほど安っぽいゴルフカートの助手席に乗り込んで脚を組んだラクシュミは、左手のグローブを外して指を鳴らす。たちまちのうちに後部座席に置いておいた銀盆の上のショットグラスを絆が摘まみ取り、運転席側から主に差し出した。飲みさしの濃い蜂蜜色は、伝統に則ったスコッチウイスキー。……未だ寒い中で束の間のレジャーとはいえ、彼女たちの立場は変わらない。愛するマハラジャの身の回りの世話を一身に担うことこそが絆の福楽であるのだと、ラクシュミ自身よく理解していた。

「動かします」

「ええ」

 主と自分のドライバーをキャディバッグに戻すと運転席へ回り、絆はエンジンをかける。頷いて、ウイスキーを舐める。小さくがたつきながらカートは芝の波間を行く。

「そう、ミスターの集計結果が出たんでしたわね」

「はい……出力したものが、そちらに」

 妙に歯切れの悪い絆がハンドルを握りながら後部座席のハンドバッグを示すと、ラクシュミは腕を伸ばしてその中の紙束を取った。

「まあ、概ね想像通りだと思いますわ。わざわざ見るほどのことも」

『一位 夢雨塗依(未出場)

 二位 星野杏寿(未出場)

 三位 楽土ラクシュミ(未出場)

 四位 硯屋銀子(棄権)

 五位 絆・ザ・テキサス

 六位 叛神夜宵(未出場)

 七位 ヘルミ・ランタライネン(未出場)

 八位 新見春彼岸(未出場)

 九位 大鳥居みか(部外者)

 十位 謝花百合子』

「流石にとんでもないですわね!?」

「はい……全くです」

 上位十名として並んだうち、あろうことか八名までも受賞資格がない。

 オープンキャンパスの目玉企画であるミスターコンテストに『繚乱』が揃って欠場では、確かに盛り上がらない。そんな折にあれだけの派手なアクシデントの連続であったから、粋なラクシュミは特別に投票用紙を選択式から記名式に取り換えさせた――ある程度でも彼女たちに票が流れてくれれば、特別賞でも与えて盛り上げることができるだろうと。ラクシュミは、主催者の立場からそんなことを意識していた。

 いた、が。

「硯屋さんの演説、効いたようですわね」

「まさしく……ただ、硯屋先輩自身があれだけ拒んだにもかかわらず彼女も四位入賞ですが」

 ほとんどが一連のアクシデントの関係者だ。ラクシュミが土壇場で認可した台本のないあの出し物は、確かに不良少女たちの心を掴んだらしい。

「マハラジャへの投票もまさかここまで伸びるとは……本来は私が仰せつかった広告塔ですのに、不甲斐ないばかりです」

「ええ、ええ、仕方ありませんわ。だって? わたくしですもの! お~っほっほっほ!」

「っと……着きました。この辺りにボールが」

「貴女の! そのノリの悪さだけ! なんとかなりませんの!?」

「痛いですマハラジャ。痛いですマハラジャ」

 冷静にカートを停めた絆の細い腕を掴み、何度も「しっぺ」を打つラクシュミ。

「お待ち」

 そこまでは痛くもないだろうに、表情に乏しいままひりひりと赤くなった腕を摩りながらカートを降りた従者を、ぷりぷりと怒ってみせる主人は呼び止めた。

「わたくし、普段はヒールばかりでしょう? 履き慣れない靴だと、こう……力の入れ方が難しいですわ」

「……はあ」

 そう言うと、ラクシュミはさほど広くないカートの車内で身を屈め、ゴルフシューズとニーソックスを脱いだ。

 露わになった褐色の素足、差し出す。ふたり分のアイアンを担いで先行しようとした絆を挑発するように、ゆったりと。

「揉んで頂戴、絆。誰に迷惑でもありませんもの、ボールは後でゆっくり探せばよろしくてよ」

 広大な山間に他のプレイヤーの姿はない。2サム保証だの何だのという次元の話ではなく、このゴルフ場そのものがラクシュミの持ち物であった。当然、今日はふたりの貸し切りである。

「はい、マハラジャ」

 躊躇う素振りもなく、少女はクラブを地に寝かせてグローブを外し、白いスラックスの膝を芝の縁につくと、高い座面から伸びてくる脚に触れた。

 筋肉に引き締められた脹脛を摩るように揉み込みながら、足の裏を支える。そこが砂に触れないよう。冷えた白い手がすべすべと心地良く、ラクシュミは象牙色のペディキュアに彩られた足指を小さく前後させながら奉仕を味わっていた。

 真昼の陽光を緑が照り返し、高原へ吹き上がる冬の風は不意に凪いでいた。星の中心は彼女たちだった。

 楽土ラクシュミの体温が、チョコレート色の皮膚を越えて絆・ザ・テキサスの手のひらに伝わる。境界は融け、自然に抱かれながらふたりは存在を絡めていく。

「『繚乱』には」

 口紅のような金のシガーケースの蓋をくるくると開ける。几帳面に切り揃えられていた葉巻が、大君たるマハラジャの唇に咥えられる。

 火を付け、薫り高い煙を朦と立てながら、彼女は爪先を起こして絆の顎を撫でた。

「お酒でも贈っておいて頂戴な。お祝いと、お見舞いと、小峰さんが迷惑をかけたお詫びにね」

「……ご存知だったのですね、マハラジャ」

「ええ勿論。鬼百合において、わたくしの知らないことなんてなくってよ。……きっと小峰さんなりに『魔女離帝』のためを想って動いたんですもの、怒れませんわ」

 煙が肺を深く満たす。身に自然と染み付いたヨガの呼吸は葉巻を吸う時でさえ止むことなく、楽土ラクシュミの肉体の芯を仄かに燃やし続ける。世界経済の鬼才である美しき帝王は、格闘者としても一流の天性を持って生まれていた。

 絆に理解できないのは、そんな彼女を衝き動かす不良少女としての矜持――執務の上では鬼百合女学院をたったひとりで治める立場に在り、惜しみなく私財を投じて自由なりし楽土の盾となっている。しかし彼女の自己定義は『魔女離帝』のマハラジャ、鬼百合制覇を志す一勢力の頭領という位に留まり続けているのだ。何の社会的影響力も持たない水恭寺沙羅のことなど、本気になれば指先ひとつも動かさぬまま木っ端微塵に砕くことができるのに、楽土ラクシュミは決してそうしない。楽土コンツェルンの総帥というビジネスの顔へ切り替えた途端、残酷なまでにあらゆる手練手管を揮う彼女なのに。

 ただ喧嘩の果てにしか見つけられないものを、ラクシュミは探している。恋するように焦がれている。

「それより絆。繰り上げ繰り上げで、正規のエントリーの中では貴女がミスター鬼百合じゃありませんの。おめでとう。ご褒美は何が良くって?」

「……!」

 自分がマハラジャを所有しているのではなく、マハラジャが自分を所有しているのだから。ただ右腕として彼女を支えられることだけが嬉しく、意地汚く視線を欲したことなどないはずだが。

 足の先で器用に愛玩されるくすぐったさに、耳まで熱を帯びていく。今は、今この場所においては、ラクシュミは絆だけを見つめている。絆・ザ・テキサスという名を与えられた肉体と精神が、崇高なる意思を独占している。そう感じると、絶えず生まれ変わるように全身を巡る赤い血を自覚することができてしまった。

「そのお言葉だけで、私には過ぎた誉れです。ですが」

 ただ、踊りの褒美を賜れるのなら。

「サロメが如く、ヨカナーンの首を。……いえ、私があれを愛しているなどとは、反吐の出るような喩えでした」

 ラクシュミは黙って聞きながら、翡翠を飾り立てる睫毛を上下させた。葉巻の先から煙が何かの形を描いて静かに宙へ浮く。

 実のところ、彼女が言葉を続けたのは予想外であった。普段の絆であればそれを固辞するはずだから、そんな彼女をからかいながら寵愛して遊ぶという算段だったのだが。

「あらゆる不良少女を受け容れるマハラジャの思想を、私は尊く感じますが。どうか――どうか私に一度だけ、謝花百合子を貴女の楽土から追放する機会をお与えください」

 恐らく、誰もが大なり小なり察し始めていること。そして、絆が誰よりも明確に把握し、危惧していること。

 このたった数週間で、鬼百合のパワーバランスに乱れが生じている。

 これまで、二大勢力たる『魔女離帝』と『酔狂隊』の戦力はぎりぎりの均衡を保っていた。その緊張感こそが鬼百合という混沌に最低限の秩序をもたらしていた。もしもこの両者の全面対決となれば鬼百合は大抗争時代に逆戻りすると誰しもが理解していたからだ。

 だが、この二月は嵐のように吹き荒れた。田中ステファニーが倒され、藤宮和姫が倒され、乙丸外連までも倒されたことで、『酔狂隊』の面々は新たな使徒が少なくとも新二年生の番付を書き直させるくらいに強力であることを認めずにいられなかった。そもそも少数精鋭の『酔狂隊』が新たな構成員を迎えたこと自体、ちょっとやそっとのニュースではなかったのだが。

 波浪はそこからさらに高さを増して、多くの少女を巻き込み始めた。オープンキャンパスの日には、小峰ファルコーニ遊我が水恭寺沙羅に、桜森恬が糺四季奈にそれぞれ挑戦した。ミスターコンテストのクライマックスで、硯屋銀子の足を引っ張りにかかった『月下美人會』を武闘派チームではないはずの『繚乱』が迎え撃った。

 そして――絆が独り知ることとして。

 その翌日には、偶発的な衝突を防ぐため絆と情報を交換し続けていた『酔狂隊』の内通者が、密約の破棄を告げてきた。

 何もかもに関与しているわけではないはずだ。だが、潮目が変わったタイミングは、間違いなく彼女の出現だった。

 全ての、歯車は。

 謝花百合子――彼女が鬼百合へやってきて、狂い始めた。

 絆は確信していた。あの毒花は、いつか鬼百合を脅かす――その前に。その前に、摘んでしまわねばならないのだ。

「……いじらしい子。そんなにあの子が気になりますのね」

「マハラジャ……!」

「ええ、ええ、結構ですわ。ただ、形のない力を振りかざして誰かを追い出せば、鬼百合は鬼百合ではなくなりますの。貴女とて例外には出来なくてよ? 叶えたい願いがあるのなら」

 手を伸ばす。何億年の昔から凍りついたままだったような空の下で。チョコレート色をした肌が、血を透かす白い肌に触れる。絆の細く引き締まった腿を躊躇なく足場としてまで、ラクシュミは身を乗り出し、彼女の手を取る。指を優しく畳ませて、象徴的な形を作らせる。

「暗躍は終わりにして、拳(これ)で勝ち獲りなさいな」

 それは、恐るべき承認であった。

 謝花百合子とは、単なるひとりの不良少女に非ず。既に、彼女はれっきとした『酔狂隊』第六使徒になってしまっている。

 で、あるならば――ラクシュミの許可の下に絆が百合子を討ち果たせば、『魔女離帝』と『酔狂隊』による最終戦争が勃発する可能性は十二分にあり得る。

 それを踏まえて、ラクシュミは頷いた。彼女たちの青春を完結させるその日まで大切に残しておくはずだったメインイベントが、混沌としたまま雪崩れ込むように始まってしまうリスクまで考えた上で。

 彼女は、たったひとりの従者が珍しくも口にした望みを、聞いてやりたいと思ったのだ。

 手に触れてくれたラクシュミの手を両手で包み返し、その指の付け根へそっと唇を押し当てると、絆はうっとりと言った。

「はい。次は、私が自ら動きます。『魔女離帝』は永遠でなくてはなりませんから」

 傍の草むらの中でその誓いを聞いていた絆のゴルフボールは、直後、黙して奮い立つ彼女の力強く正確なスイングによって美しい放物線を描いたという。


(第三話『第四使徒 硯屋銀子』完)

(第四話『第十使徒 正宗皇乃』へ続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る