第三話『第四使徒 硯屋銀子』1

 店は熱気の中にあった。

 魔県・神奈川は川崎、大きな国道沿いの小さな店である。時刻は七時を回り、既にとっぷりと日が暮れてあらゆる風は恐るべき寒気に支配されていた。

「さあさ、フィンランドのお姉ちゃん。準備はいーい? 待ったは無しよ」

「無論」

 ブロンドを瞳と同じ空色に染めた少女は、右手に金属箸を持っていた。西洋人がそうしているとは思えないほど美しい形で。がたつくビニール張りの椅子に、日頃その身に纏うセーラー服のスカートとは異なるジーンズに押し込んだグラマラスな尻を乗せている。

 その目の前には、もうもうと湯気を立てる狂気の大杯。タイヤホイールのような常識外れの大きさを誇って鎮座する朱の陶器。

 天井には旧式の蛍光灯が煌々と輝き、換気扇は轟と音を立てて熱風を吐く。床にも壁紙にも油染みの浮いたその店は決して美しくはなかったが、いかにも町中華らしい温もりをどことなく感じるような佇まいの店だった。

 こんもりと盛られた、食欲そそる香りの炒飯。その上から溶岩じみた麻婆豆腐を滝のように流し掛け、縁に焼き餃子二人前と握り拳大の小籠包を並べることで浮島めいた土台としつつ黒酢豚、エビチリ、青椒肉絲、八宝菜を四方にひと掬いずつ豪勢に乗せ、さらに中央には揚げ春巻を鉄骨が如く積み重ねて蓮の花を象っていた。

 いわゆる「デカ盛りグルメ」の、絵に描いたような姿である。一人前のラーメンや炒飯を美味しく食べ終わって満腹の客にとってその威容は禍々しくさえ感じられたであろうが、豊穣を司る女神のようなシルエットをしたこの北欧の少女の目にそれは大変満足のいく餐と映った。

 コンビニの天丼弁当が何よりの好物である彼女だ。油物のジャンクな舌触りに不愉快を覚えることなどあり得ない。

 だがそれは極めて特異な趣向であって、大抵の女子高生はこんな丼を前にするとただ眩暈に立ち向かう他なくなるのである。

「……狂ってんのか、この店はよ」

 隣の卓に肘を置いて頬杖をつき、呆れたように大きく舌打ちをしたのは硯屋銀子である。湘南は鬼百合女学院に通う『酔狂隊』第四使徒。髪を銀色に染めて括り上げた、目つきの悪い不良少女。

 ヘルミ・ランタライネンと同じ時間を過ごす中でその食欲の有り様もそろそろ見飽きた頃であったが、それにしても――彼女がそうであるように。

「いやあ、ありゃ無理だろ……」

「満漢全席じゃねえんだぞ……」

「確かにめちゃめちゃ食いそうな良い身体してっけどよ……」

 テーブルを取り囲むギャラリーも全員、余すところなく引いていた。

 実に上等である。幸福なことだ。ヘルミは微笑みを浮かべ満足そうに頷いた。腹の虫は低く唸り続けている。

「『硯華楼<ケンカロー>』名物、紅孔雀炒飯! 五十分一本勝負――お銀の彼女ったって情けは無用、チャレンジ失敗したら一万円のお支払いね」

「オイ、ババア、誰が誰の彼女だ」

「こらこら、ご母堂にその言葉遣いはないだろう銀子君」

 茶と金の入り交じった髪を娘と同じアップスタイルに纏め上げ、長い睫毛を持つ勝ち気そうな吊り目は少女らしくさえある。

「アッハハ、半グレ娘なんか怖くないわよ。こちとらお銀がおしめに――」

「クソババアここメシ屋だぞ!!」

 そう――室内とはいえ冬だというのにTシャツ一枚で腰に手を当てた勝ち気そうな店の女主人は、ともすれば二十代にも見えるほど若々しく溌剌としているが、厨房で鉄鍋揮う硯屋金太郎とここにいる硯屋銀子、二子を育てた実母であるのだ。

 早い話が、この店は――硯華楼は、銀子の実家であった。

「ふむ――ご母堂、せっかくの機会です。お姉……私にも、銀子君の幼少期の思い出話など聞かせて頂きたいものですな。こちらの夕食を頂いた後、酒の肴と致しましょう」

「いーわよいーわよ? デヘヘ、お銀が友達連れてくんのなんていつ以来かしら。優しい子なんだけどねえ、誤解されやすいでしょこの子。そうよお銀、あの子とちゃんと連絡取ってんの? 中学の頃一緒に……ってちょいちょいちょい、お姉ちゃん。アンタねえ、うちのコレ完食する気でいるわけぇ?」

「っせーなクソ共が……メス豚ァ、やる以上は稼がねーと殺すぞ」

 その銀子もまたヘルミと同じく、『酔狂隊』の象徴たるセーラー服姿ではなくカーキ色のカーゴパンツに安物のフリースの上着を合わせた私服姿でそこにいた。週末、彼女は珍しく実家に帰っていたのだ――同居人を連れて。

「ああ。まあお姉さんに任せたまえよ」

 目を細めると途轍もない量の香辛料が鼻腔を衝く。硯屋鉄火<スズリヤ・テッカ>はストップウォッチを握り締めた。髪を苺ミルクのようなピンクに染めたバイトの少女が吊るされた銅鑼を厨房の奥からガラガラと転がしてくる。全てにうんざりしながら、頬杖をついて睨むようにヘルミを見つめ続ける銀子がいる。

 ヘルミ・ランタライネンは、小さく笑った。

 今こうしている、全ての瞬間が愛おしい――

「造作もない」

 苺ミルク頭のバイトがドワァーーーンとヤケクソのように銅鑼を打ち鳴らす。

 まずは春巻の塔を崩しにかかる。

 戦いが、始まる。



 特に憂鬱なわけでもないけれど、癖のようになっている溜息をひとつついて、鍬木茉莉里は自動ドアのボタンを押し開けた。

「らっしゃい!」

 鬼百合女学院から最寄りのラーメン店、『湘南家系らーめん 最強家』。海沿いの国道を三分ほど歩き、ほんの爪先ばかり市街区に入った辺りに位置している。横浜を中心に展開される豚骨醤油スープの所謂「家系ラーメン」を出す店であり、一般に女学生にウケの良い店とも思われなかったが、鬼百合に通う不良少女たちのラーメン欲を独占したためか昼休みの時間帯などはなかなかどうして繁盛している。しかし、こうして夕食の時間となると賑わいも落ち着くものだ。

 今日は特にやるべきこともなかったので、ホームルームを終えるとすぐに学校を引き揚げ、海辺をジョギングしたり楽しみにしていた少女漫画を読んだりしてのびのびと過ごした。母も今日は帰ってこないというので、たまには身体に悪い夕餉もいいだろうとジャージ姿で再び街へ繰り出したのだ。

 券売機に小銭を入れて食券を買い、適当なカウンター席を選ぶ。桜色をしたサマンサベガのバッグを隣の椅子に置き、店主に食券を差し出した。服には全く頓着しないが好きなバッグ以外は持ち歩きたくない――そんな彼女は、きっと自分で思っているほど普通でもないのかもしれなかった。

「固め、濃いめで。ライスいりません」

「あいよっ」

 茶髪の先を指で軽く捻りながら、脚を組んでスマートフォンを操作し始める。上司にあたる親衛隊長、絆・ザ・テキサスからのメールに目を通す。マハラジャの最側近でありながら誰よりもワーカホリック気質である彼女は、今はオープンキャンパスの準備に掛かりきりだった。会場スタッフや屋台の出店など運営の大部分を『魔女離帝』が取り仕切るそのイベントだが、茉莉里には当日の仕事は割り当てられていない。彼女は所属を隠し同級生の藤宮和姫や謝花百合子を監視する密偵の任務を請けているからだ。

 結局のところ自分自身にはさほど関係のなかったメールを読み終え、画面を消してひと息つき、氷水のグラスに手を伸ばしかけ――

「……はい、和姫。あーん、して……」

「熱ッッッつい! おま、待てって! いいよ! 左手でゆっくり食うから!」

「何してんの、ヒメぴりか。うっさいし。超ウケるんですけど」

 奥のテーブル席に、よく見知った顔を見つけた。

 ――あれ。

 ふざけている様子は一切なく、いつもの硬い表情の中に心配そうな色を滲ませながら箸で麺をすくい上げ隣の幼馴染の口に近付ける黒髪に花飾りの少女。右腕を吊った状態のまま必死で抵抗し彼女の線の細い肩を左手で押しやる癖っ毛に赤縁眼鏡の少女。そのふたりの向かいに浅く腰かけ、餃子をつまみながら手酌で瓶ビールを呷っている金髪にギャルメイクの少女。……思い切りブレザーを着ているのに普通に酒を供する店も店である。

 謝花百合子、藤宮和姫、田中ステファニー。

 茉莉里のクラスメイトであり、『酔狂隊』の新旧第六使徒および第七使徒――早い話が、日頃の監視対象であった。

「ってか腕折ってんのにラーメン食いに来んの意味わかんなくね?」

「いいだろ別に! 理屈じゃないんだよ」

 ――しっかし、わかんないなあ……

 ――あのふたりが、こんな風に仲良くなるなんて。

 セーラー服を振りかざす教室の暴君であったステファニーが、自らを倒した百合子の舎妹(スール)になると宣言した。その噂はもちろん茉莉里の耳にも入っているし、何ならこのように彼女たちが共に時間を過ごす様子を直接観察したり写真に収めたりもしている。若草色のブレザーに着替えたステファニーが相変わらず下品に胸元や脚を露出しながらも人懐っこい笑顔を見せ、小麦の肌をした日本人形のような痩せっぽちの謝花百合子に服う姿は、まるで深い森の奥で為される童女と獣との密やかな交遊。

 そんな風にして田中ステファニーの牙が抜かれたことばかり目立つのは当然だけれど、むしろ――藤宮和姫。茉莉里は百合子に寄り添われながら苦笑している彼女の変貌こそが最大の特筆事項であると捉えていた。

 荒れ狂う竜巻のように人を虐げるステファニーを、藤宮和姫はいつもただただ傍観していた。仮にも『酔狂隊』の仲間であったステファニーの蛮行を、彼女は偽りの平穏という塔に独り籠って見下ろしていた。正義のために揮える拳がありながら、冷たい目で見つめるばかりで、見ていないふりを続けるばかりで、藤宮和姫は一度として止めに入ろうとしなかった。弾圧されるマーリーとしての鍬木茉莉里に言わせれば――彼女こそが、本物のクズだったようでもあった。

 二月十三日の夕暮れのことを、茉莉里は情報として絆・ザ・テキサスから聞いていた。彼女の計略で『力學党X』が鷹山覇龍架を拉致し乙丸外連を呼び出した時、藤宮和姫は利き腕を折っていながらも水恭寺綺羅の警護を固めるために奔走したという。傍観者に徹し、第七使徒と呼ばれながら『酔狂隊』のために動くことなどほとんどなかった彼女が、そんな――そんな、「血の通った人のように」動き始めたのは。

 きっと――

「……やっぱり、ふたり……仲良し、だと思う……」

 謝花百合子。

 紅の花を挿す南の島の少女が、星雲に似るヘーゼルの瞳で――周囲の人間を、変性させていくからなのか。

「和姫……スープ、飲んだ……?」

「ん? 飲んだよ。どうかしたのか」

「ううん……ニンニク、たくさん入れちゃったから……和姫にも先に食べてもらわないと、恥ずかしい……」

 ぞわりとした気色悪さは、茉莉里にとって二度目のものだった。

 茉莉里は決して喧嘩が強いわけではないが、この海辺の街で生きるひとりとして、不良少女の何たるかは心得ている――己の信念を貫き通すことしか知らず、不器用に削り合い続ける子供と大人の中間者。鬼百合女学院は全ての信念を受け容れる。『魔女離帝』頭目にして学校法人としての鬼百合の理事長、偉大なるマハラニ――もといマハラジャ、楽土ラクシュミがそうあるべきと統治しているから。

 だが、謝花百合子は――他者の信念を、力ずくではなく塗り潰す。説き伏せる、或いは、絆す――それは、この世で最も穏和な、侵略。

 一度目は、対照的なそれだった。いかなる信念をぶつけられようと、毛の先ほども心が動かない。常軌を逸して「変わらない」女。己の敬愛する存在以外の何も、もしかしたら、本質的には視界に入れていないのかもしれない。そう思わせるほど冷たい目をした、少女。彼女と初めて会った時も、茉莉里はこの生理的な恐ろしさを覚えた。そう思い出した。

 とっくに画面の暗くなったスマートフォンを汗の滲んだ手のひらで握る茉莉里の前で、わざわざ固めで注文した麺はすっかり伸びていた。

 その少女とは、絆・ザ・テキサスのことである。

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