第11話 澱

 ザザザーン……


 音が聞こえた。

 繰り返し、繰り返し、同じ音。



 ザザザーン……ザザザーン……


 眼を閉じている感覚はない。けど、何も見えなかった。


 ザザザーン……ザザザーン……



 絶えず聞こえ続ける音。次第に頭の芯が痺れてくる。

 眠りに拐われるように、俺の意識は落ちた。



       ∞



 ゴワゴワとして硬い、麻の布の感触。嫌な感触。

 俺の記憶の底の底に沈む、嫌な過去を思い起こすような。

 振り返りたくもない、酷い記憶。だから不意に思い出したりしないように、ずっと底の方に押し込めた。


 何だよ……何で俺、麻の布なんて頭から被ってんだよ。

 これじゃ……これじゃまるで、……あの頃みたいじゃん……。


 そう思った瞬間、誰かが俺の背中を激しく蹴り上げた。

 その痛みと共に、心臓が大きく跳ね上がる。

 記憶の蓋が、乱暴にこじ開けられていく。



「いつまで寝てやがるっ! この無駄飯食らいのガキがっ!」



 もう二度と聞きたくなかった筈の、野太く荒れた怒鳴り声。

 俺の全身に、気持ちの悪い脂汗が滲んだ。



 ……最悪だ。何だよ、これ……。


 被っていた麻の布が、無理矢理剥ぎ取られる。乱暴に、冷たい空気に晒された。

 もう一度、背中を蹴られる。

 俺は重たい瞼を上げて、頭上に眼を向けた。


 俺を見下ろす、髭むくじゃらの悪魔みたいな中年男の顔。無駄にたるんで、でかい体。その全てが醜い、クソヤロウ。


 こいつの事は、もう一生見なくて済むと思ってたのに……。


 どういうわけか、俺は戻っていた。一番忘れていたかった、過去の時間に。

 やめてくれよ、もう……。


 俺の記憶のひだにこびりついたまま取れない、俺の人生で最も汚くて最低なこいつが、今また俺の前にのさばってやがる。幼かった俺が、何度となく殺してやりたいと思った、この男が。


 何で戻っちまったんだよ、よりにもよってこんな過去に……。


 俺は粗末な寝床から上体を起こした。蹴られた背中がズキズキと痛む。

 何が無駄飯食らいだ。働いたって、ろくなもの食わせてくれないくせに。馬鹿にしやがって!

 俺は、贅肉にまみれたあの野郎の薄汚い背中を睨み付けた。



 俺の生まれた、ルニア星は戦場だった。

 俺はまだ2歳の頃、ルニア星から避難船に乗せられマーズに逃がされた。

 家族の事は知らない。記憶にすら残っていない。子供だけが数人、その避難船に乗せられた。

 きっと俺の両親は、俺が生き延びる事のできる僅かな可能性に願いを託して、見た事もない遠い星へ逃がしてくれたんだと思う。


 その願い通り、俺は生き延びて命を繋いだ。

 けれど辿り着いたその星には、全く形変えた地獄が待っていた。


 マーズに逃がされてから数年間、一緒に避難船に乗せられてきたターサたち仲間と保護施設で生活した。俺が6歳か7歳になった頃、違法な人身売買ルートで仲間たちと一緒にある業者に売られた。


 それが、今居るここだった。

 買い取った子供に、極めて非道な労働をさせては私腹を肥やす。そんな連中ばかりの場所。あいつはこの小屋を仕切る、醜い化け物。

 俺たちはあいつに云われるままに、毎日スリをしたり、ヤバい薬物を運んだりして生きてきた。死んでるのと、同然だった。


 俺は腕がいいのと逃げ足の速さで、たいがいスリをさせられた。俺は幸いというか一度もドジをしなかったけど、捕まった別の奴は半殺しみたいな目に合わされた。

 ターサやチビたちは、薬の運び屋をさせられた。見つかれば子供だろうが実刑になるような、危ない仕事だ。俺は、ただ見過ごしてなんていられなかった。だから俺は、あの化け物によく楯突いてはその度に殴られた。


 俺はなんにも間違っちゃいない筈なのに、力じゃどうにもならない。

 悔しくて悔しくて堪らなかった。毎日毎日、あいつを本気でぶち殺してやろうと思ってた。


 俺は、ズキズキと痛む背中を押さえた。


「大丈夫か、ソモル兄ちゃん」


 ターサが心配そうに、俺の顔を覗き込む。この頃俺は9歳だから、ターサはまだ7歳か。

 幼い顔のターサ。艶のないパサパサの髪に、ガリガリの体。顔色も、酷く悪い。

 きっと今の俺も、似たような感じなんだろうな。


 何だか、鼻の上の皮膚までズキズキ痛い。

 俺はそっと指先で、痛む皮膚に触れた。ザラッとした、傷の感触。


 ああ、そうか……。


 俺は、壁に掛けられたひびの入った鏡を背伸びして覗き見た。まだ幼い俺の顔が、濁った鏡に現れる。頬が痩けて、今より幾分険しい目付き。

 鼻の上には、まだ生々しい赤くえぐれた傷があった。顔の中心につけられた、バツ印の傷。酒に酔ったあの化け物に、ナイフで刻まれた傷。俺から一生消えない傷跡。


「お前はガキどもの中で、一番反抗的なダメガキだ。だからダメな奴には、きちんとダメ印をつけないとな」


 酒の混じった生臭い息を吐きながら、醜い化け物は云った。

 太い指で俺の頭を鷲掴みにして、笑いながら俺の皮膚にナイフを滑らせていたあいつの顔、十年近く過ぎた今でもはっきりと覚えてる。忘れるわけもない。


 まだ小さな俺は、怖くて堪らなかったんだ! けどそれよりずっと、悔しい思いの方が勝っていた。だから俺は、一瞬たりともあの野郎から眼を逸らさなかった。

 あいつが俺の顔に傷をつけてる間中、ずっと睨み付けてやった。

 力ではどうしたって敵わない相手に、絶対屈したくなかった。


 その負けん気と気力だけで、あの頃の俺は生きていた。


 そしてその数ヶ月後、俺は仲間のチビたちを連れて逃亡した。捕まればきっと、今までよりもずっと酷い目に合わされる。

 だから、死ぬ気で逃げた。


 生きる為に、逃げ出したんだ。



       to be continue








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る