第36話 終わる処……始まりの海
水の揺らめく音が、鼓膜に触れる。
その中を泳ぐように伝う、空気の音も。
皮膚を浸す、ひんやりした水の温度。
体の感覚が戻ってくる。首筋から肩、その先に伸びる腕。指先を動かしてみる。
手のひらに握る、水の感触。重く、少しぬるりとしている。
俺は、少し怯えながら眼を開く。
まだ、死んじゃいないよな……?
ぼやけた視界に、濃厚な青が滲む。見詰めた先の空の色。
夕刻よりも深く、夜よりも淡い。
耳元で揺れる水音。首や頬を
俺の鼻腔を刺激する、少し生臭さを含んだ潮の匂い。
俺は水面に浮かんだまま、仰向けで空を見ていた。
頭の芯が、まだじわじわと痺れている。今の状況を、上手く呑み込めない。もっとも、容易に理解できない事ばかりが起こり過ぎているのだけれど。
曖昧なコントラストの空。夜明け前のような濃淡。星のような光が、点々と。
静かな潮の流れに体をあずけたまま、波に漂う。風はない。
まるで悠久の時を漂っていたような錯覚。
感情の波に呑まれて、いつの間にここに流れ着いたんだろう。
俺はまた、一人になっていた。何の気配もない。
潮の匂いと、波に揺れる海面の音だけ。
他のものは何もない。全てが消失していた。
ミシャの崩壊。
数知れない愛という感情の渦に巻かれながら、俺はラオンの事だけを思い出していた。
そして今波に漂いながら、ラオンを想う。
何もない。何も存在しない。
ここにあるのは、俺の迷いと欲望だけ。
この皮膚の下の肉の中にそれを隠したまま波に漂う、俺が居るだけ。
何も身に付けず、潮に浸した体。お前への愛情と欲望だけで満たされた、この体。
海の水が皮膚を撫でる感触。
まだ、死んじゃいないんだ。
俺は、不器用な恋を続ける。
生きている限り、俺はお前に恋をする。
ラオンへの想い、恋心で満たされていた。
他に、何もない。何もない。けれど、それが全て。
ここには、それしか存在しない。
ラオンに恋をする俺と、その想いで満たされた海。
ラオンが好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。好きだ。
お前が愛する感情を失ったまま俺を好きになってくれる事がなかったとしても、俺は一生お前を好きでいる。
そう誓った気持ちは嘘じゃない。
けど、やっぱり俺……。
俺は、お前に愛されてみたい。
そう、強く思う。
感情が高ぶってる。
遠くで、ラオンが手招きしている……。
繋がり合った心の結び目を、少しずつ、ゆっくり手繰り寄せる。
ゆっくりゆっくり、俺たちは惹かれ合う。
俺はその結び目の先に居る、ラオンを想った。
∞
そこにすでに海はなく、俺はラオンと向かい合いそこに居た。
別の空間。
俺とラオン、二人だけ。
他には何もない。何もない。空気も光も闇も、何も。
いや、あるのかもしれない。
けど、俺にはラオンしか見えなかった。
言葉もなく、黙ったままただ見詰め合う。
今はそれだけで、不思議な程穏やかに満たされていく。
1mmも逸れる事なく、瞳の焦点を重ね合う。
それだけでいい。
それだけで、確かめなくたって判る。
心の欠片、愛するという感情を取り戻したラオンが、眼を細めて微笑む。
そうやって、心と心で重なり合う。
ここには、互いの体はない。心だけで、俺たちはここに存在する。
物理的に触れる事はないけれど、今、心と心で重なり合う。
だから、言葉なんていらない。必要ない。
そんなものなくたって、互いの心を感じるから。
心と心の結び目から、互いの感情、嘘も誤魔化しようもない気持ちを。
ラオンの心は暖かくて柔らかで、俺の内側にある全てを包み込んでくれた。
俺も、もう二度と見失わないように、ラオンの全てを包み込む。
優しく触れ、抱き締め合うように。
ここには、俺たちしか存在しない。
俺とラオン、二人の心だけ。心だけが、何処までも無限に続く処。
この場所に、ずっととどまり続けたい。元の場所になんて、戻りたくない。
俺の欲望。
ラオンを俺だけのものにしていたい欲望。
けどラオンは、優しく俺の手を引き、帰ろうと微笑む。
傍に居るから、もう離れないから、一緒に帰ろうと。
本当だな?
もう絶対、一人で遠くに行かないな?
うん、約束。
……約束、俺も絶対に離れない。ずっと、傍に居るから……
約束だよ。
約束。
二人の心が、ふわりと溶け合う。
結びついた心の糸がゆらりと引き合い、互いの存在を手繰り寄せながら。
to be continue
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