第19話 君の心に触れてほどける

 酷く鈍い感覚の夢を見た。

 濃厚な液体の中に沈んでるような夢。息苦しい夢。


 体中の感覚は弛緩して、意識だけがそこに漂ってるようなイメージ。俺の『意識』という一部だけを残して、他が全て曖昧になっている。そんな感じ。


 その意識さえも、何だかぼんやりしている。そのうち、全部溶けてしまいそうに。


 そうやってただ何となくうつろっている俺の意識を、まるで呑み込むように上から別の意識が覆い被さった。生暖かい、感覚。ぬるま湯に浸かっているような、あるいは毛布にくるまっているような。そんな感覚。温もりが柔らかい。


 ここは、とても居心地がいい……。


 まるで、まるで、ここは……。《まるで、……何だ?》



 朧気に、意識が浮かんでは沈んでいく。

 記憶が交差する。俺の記憶と、誰の、記憶……?


 ふわりとした気配。花の咲く頃のような気配。

 何だか、酷くこそばゆいような。もどかしいような。

 まだ熟しきらない木の実の酸っぱさ。仄かに甘い匂い。


 俺の内側、心の表面に直に触れてくる。


 気持ちが高ぶった。何故だか、そわそわと落ち着かなくなる。

 俺もその柔らかな気配に、ゆっくりと触れ返した。

 体温と感触。しっとりと、柔らかくて暖かい。


 どきりとした。心臓が大きく波打った。


 好きなに、そっと触れる瞬間。初めて、そのカタチに触れる瞬間。


 初めてお前に触れた瞬間。……いつだっけ。


 初めて触れた、細い肩。小さな、小さな背中。指触りのいい長い髪が、僅かに揺れる。

 赤い、長い髪。


 そして振り向く。振り向いて、俺を見上げる。

 綺麗な、綺麗な翡翠ひすいの眼。俺のカタチを映した、大きな瞳。



 この娘の、名前……。ナマエ……ナマエは……。


 胸が緩く締め付けられる。甘酸っぱいような心地。

 この娘の事を想う度に、俺の内側を満たすその感覚。


 それは、俺がこの娘に恋をしているから。



《………………ラオン!》



 空間が、ぐらり揺らいだ。

 ひずんでいた世界が、パラパラと雨粒のような音を立てる。歪みが、また別の歪みを生み出していく。世界は歪んだまま、また動き始める。


 空間と空間が、気泡のような粒を孕んだ。



 何だ、俺……。どうして、忘れてたんだろう。


 自分が、とてつもなく情けなくなる。今やっと、思い出した。

 こんなに惚れちまってる、ラオンの事を……。

 何を忘れていたのか、何を思い出そうとしていたのか。


 ラオン。


 そうだ。この感覚は、ラオン。ラオンの感覚。

 ラオンを感じた、俺の心の動き……。


 俺の心のずっと深い処に棲む、ラオンへの感情。

 ラオン以外誰も触れる事のできない、俺の一番大切な感情。



 …………ラオン!


       ∞


 俺は、目が覚めた。

 もうすっかり明るい朝だ。現実の朝だ。

 急激な覚醒に、意識が混乱していた。


 一瞬の間を置いて、俺はもう一度全てを思い出す。

 忘れていた事。一番、大切な存在。小さな、カタチ。


 俺は跳ね上がるように寝床を飛び出した。簡単な着替えをして外に出ると、手押しの井戸水を頭から浴びた。

 勢い良くほとばしった冷水が、俺の混乱した頭の熱を一気に奪っていく。俺は三度程ポンプを押して水を出し、乱暴に頭を洗った。

 軽く水を切り、ゆっくりと顔を上げる。髪に残った水滴が、首筋を伝い肩から背中に流れ落ちていく。


 ここは現実だ。夢じゃない。


 昨日丸一日、俺の中から剥がれ落ちてしまっていた、ラオンの記憶。

 世界から、ラオンの存在だけが綺麗さっぱり欠落してしまったかのように。他の全てを残して、ラオンだけが消滅した記憶。


 俺、一体どうしちまったんだ。ラオンの事、忘れるなんて。

 知らない間に、どっかで頭でも強く打ったか?

 よりにもよって、ラオンの事だけ忘れちまうなんて……。


 俺は瞬間、はっとした。

 そうだ、俺だけじゃない。ラオンの事思い出せなかったのは、俺だけじゃない。


 俺は、駆け出していた。

 今すぐに、確かめたかった。


 確かめなければ、気が済まなかった。



        to be continue






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