氷上川継の変
侵入者
天応元年(七八一年)四月、光仁天皇は山部親王に譲位し、山部親王は桓武天皇として即位する。同時に、光仁天皇は早良親王を還俗させて桓武天皇の皇太子(継嗣)とした。上古の日本は兄弟相続が一般的であり、相続する兄弟がいない場合に世代間相続が行われる。桓武天皇の皇太子に早良親王がなることは当然のことであると受け止められた。年齢も桓武天皇四十五歳、早良親王三十二歳、桓武天皇の長子である
天応二年(七八二年)閏一月十五日の夜、桓武天皇は種継、早良親王、清麻呂、明信ら側近を自室に呼んだ。
騒がしい正月の行事が終わり、宮中は久しぶりに静かな夜を迎えている。日が暮れると同時に寒さが厳しくなり、瓶の水には氷が張りだした。板の間の冷たさが足の裏から入ってきて、頭のてっぺんに伝わってゆく。油皿に灯した火でさえ冷たく見える。戸を固く閉め、厚着をして火鉢に手を当てて白湯をすすると、ひと息つける。不寝番以外は部屋の中でじっとして暖を取っているか寝てしまったのだろう。人の気配はおろか、犬の鳴き声さえ聞こえてこない。
桓武天皇は湯飲みを置いて種継を見た。
「蝦夷の反乱はどうなっている」
「藤原小黒麻呂が関東に着いたという話がきていますが、その後連絡がありません」
「冗官整理の詔の根回しは」
清麻呂が、
「国の出費を抑えることに正面切って反対する者はいませんが、国司の兼任で季禄が増えている者は嫌な顔をしています」
と報告した。
「僧尼の資格については」
「経も読めない者が税を免れるために僧籍に入ることは、寺でも前から問題になってるけど、縁故があったり、派閥や寺同士の勢力争いが絡んでいたりして、解決の糸口は見えてません」
早良親王は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「朝廷に入ってくる
「詔の効果は秋にならないとはっきりしません。ただ、季節に関係しない反物の質は良くないです。国司や在地の有力者が良い物を自分で売りさばいて利益を上げ、残った悪い物を税として上げている。きっと数が合っていれば良いと思っているのでしょう。良い品を都の貴族が求めているから始末に負えない」
明信は答えてから、ゆっくりと白湯を飲んだ。
「批判をして、文句を言っていればすんだ下級役人のころは気楽だった。天皇になって国の頂点に立てば自分が思ったとおりの政ができると思っていたのに苦労ばかりが積もる。天皇になれば、聖徳太子の十七条の憲法の理念を実践できると思っていた。父さんの代の大臣や、世話になった宿奈麻呂様など、朕の頭が上がらない人はすでに亡くなって、思い通りの政ができるはずなのに、現実はどうだ。朕の理想や言うことに反対する者はいないが、実践してくれる者はない。平城京に都を遷したときには、天皇から下位の官人まで国創りの理想に燃えていたと言うが、今は自分の事しか考えない。もう一度人々の心を一つにまとまられないだろうか」
桓武天皇が溜め息をついたとき、采女たちが酒と肴を膳に乗せて入ってきた。膳が各自の前に置かれ、互いに酌を始めたとき、廊下から「キャー」という女の叫び声が聞こえてきた。
「何事か」
天皇の声に弾かれるように全員が庭に面した廊下に出ると、闇に溶けるような黒い服を着た男が庭に立っていた。
種継と清麻呂は廊下から庭に飛び降りる。
「怪しい奴め。おとなしく縛につけば情けを掛けてやるが、刃向かうのであれば内裏に忍び込んだ罪をきっちりと償ってもらう」
男が太刀を抜くと、廊下にいた采女たちが一斉に悲鳴をあげる。
「賊は刀を持っている。狙いは天皇だ。早良と明信は天皇を守って部屋に入れ。俺は賊を何とかする」
「何とかするって、種継兄さんは丸腰だろう」
男は走り出すと種継と清麻呂の間を縫って廊下に飛び乗った。采女たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ回り、桓武天皇は明信と早良に部屋の中に引っ張り込まれた。
逃げ込んだ部屋の戸口に男が立つと、油皿の炎に照らされて銀色の刀身が輝いた。
明信が土器を投げつけたが、男は簡単に打ち落とす。早良も肴が乗った膳を投げつけたが、やはり男は刀で弾き、膳と肴が床に飛び散った。
天皇を守るように、早良と明信は両手を広げて立った。
「朕は誰かを楯にしようとは思わない」
天皇は二人を押しのけて前に出ようとしたが、二人の腕はびくとも動かなかい。
男が太刀を大きく振り上げたとき、種継が「ウオー」と大声を上げて、男の背中に飛びかかった。
種継と男は絡み合いながら転がり、壁にぶつかって止まり、清麻呂が足で男の顔を踏みつけ、早良は男を後ろ手にして動きを止めた。明信は男が放り出した刀を拾い上げる。
男を取り押さえてほっとしたときに衛士が入ってきた。
「遅いぞ」
種継の叱責に、衛士の長は「すみません」と謝り男を縛り上げた。
「賊は明らかに天皇様の命を狙って忍び込んできました。賊が一人で内裏に入るとは思われず、背後には何かしらの者がいるに違いありません。私はさっそく賊の取り調べにかかります」
と清麻呂は言うと、衛士と一緒に賊を連れて出ていった。
「皆が無事で何よりだ。種継はよくやってくれた。明信や早良もすまなかった」
「清麻呂が賊を調べるのなら、俺は衛士たちに宮門を固めさせ、内裏の警護を強化するよう命じてこよう」
「自分は
種継と早良も一礼すると部屋から出て行った。明信は采女たちを使って散らかった部屋を片付け始めた。
程なくして、二十人ほどの武装した衛士が緊張した面持ちで庭に現れ、三基の篝火を焚いた。
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