第五章 山部親王の誣告
光仁天皇呪詛事件
井上皇后
白壁王は宝亀元年(七七〇年)十月に光仁天皇として即位したが、井上皇后は内裏へ入ることなく、
「我々臣下では皇后様に意見するのは畏れ多い。山部親王は井上皇后様の義理の息子に当たるから、宮中に移ってくれるよう説得してくれ」
と、
猫の首に鈴を付けなければならないと衆議は一致するものの、いざ実行となると望んで手を上げる者はいない。日頃威張っていたり、偉そうなことを言っていたりする者たちは、なんだかんだと理屈を並べて役目を回避するので、いつの時代も、立場が弱い者に仕事が押しつけられる。
癇癪持ちの井上皇后様など、誰も相手にしたくない。若い頃から通い慣れた道だが、皇后様の事を考えると足が重くなる。会わずに帰ってしまおうか。
「種継と早良には付き合わせて申し訳ない」
「ああ迷惑だ」
と答えた種継は苦笑いしている。
「だが、山部親王が担ぐ荷が重いときには、俺が手伝ってやる」
「自分も井上皇后様に挨拶しておかなきゃと思っていたから、良い機会だよ」
早良親王も笑って答えてくれた。
屋敷に着いた山部親王は門を見上げて驚いた。
四脚門は豪華な八脚門になっていた。朱塗りの柱は、新しくてつやつやと輝き、白木の板は削ったばかりの香りを漂わせている。ねずみ色が鮮やかな瓦は焼きたてで、シミや汚れを探すことはできない。門扉の左右にある部屋は空いているが、いずれ仏像が入るのだろう。朱塗りの柱だけでもどのくらいの費用が掛かったのか分からない。
山部親王が子供の頃の屋敷は、形ばかりの質素な門だった。井上内親王が白壁王の后として屋敷に入ると四脚門となり、白壁王が即位すると八脚門になった。そのうち、門は二階を備えた楼門になり、屋敷はお寺に成長するんじゃないだろうかと思えてくる。
四脚門を壊して、八脚門を新築したというのか。今までも父さんの季禄を使って贅沢していたが、皇后になって、独自に位封や季禄をもらえるようになり、贅沢に歯止めが掛からなくなっている。
前帝の放漫財政を引き締め、季禄を増やすためだけに下賜された兼職を整理しようと父さんが頑張っているのに、皇后が豪華な八脚門を新築していては公卿百官に示しが付かない。
屋敷の中もすっかり様変わりしていた。山部親王が子供の頃に遊んだ庭や屋敷は跡形もなければ、井上皇后が白壁王の后として屋敷に入ってから、建てたり改築したりした建物すらない。見覚えがある物は何一つなく、どの建物も見るからに新しい。いったん更地に戻してからすべての建物を作ったように見える。
「兄さん。屋敷を間違えたんじゃないか。父さんの屋敷はもっと小振りだった」
「この場所に間違いないが、自分が暮らしていた屋敷じゃない。左右の家をどけて、敷地を広くしている。自分たちは、称徳天皇様の崩御後を慌ただしく過ごしていたというのに、井上皇后様は何をやっていたのだろうか」
山部親王のつぶやきに種継が答えようとしたとき、楽しそうな笛や鼓の音が屋敷の中から聞こえてきた。
「称徳天皇様の諒闇期間中は歌舞音曲が禁止されているはずなのに、何事だ?」
三人は顔を見合わせながら、音に釣られるように屋敷に入った。
奥の部屋では、上座に井上皇后が顔を赤くして座り、下座には何人もの楽師や采女がいた。多くの火鉢が置かれ、冬だというのに部屋の中は汗ばむほどに暑い。上質な酒と干物を焼いた匂いが混じって鼻をくすぐってくる。膳には正月と盆が一緒に来たと思われるほど、何品もの料理が並べられている。采女たちも皇后のお相伴にあずかっているらしく赤い顔をして、手拍子を打ちながら大きな声で笑っていた。
「称徳天皇様の喪中です。お遊びは控えた方がよろしいかと」
山部親王が戸口に立ったまま言うと、楽師たちは演奏を止め、采女たちはつまらなそうな顔を向けてきた。
山部親王は、目が据わっている井上皇后に睨まれた。
「称徳が死んで清々しているのです。今まで嫌と言うほど称徳にいじめられてきたから、羽を伸ばして何が悪い」
「前帝の喪が発せられ、宮中や都では歌舞音曲が禁じられています。皇后様は天下に範を示すお方であれば宴会は止めて下さい」
「称徳が死んで、いよいよ私の時代になったのです。好きにさせてもらう。本当は性根の悪い女が死んだことを祝って大宴会をしたいのです。山部は親に意見する気ですか」
「『父に
「難しいことを言ってないで、山部も一緒に飲んで歌いなさい」
酔っぱらいに何を言っても無駄かも知れないが、屋敷に来た目的を果たさねばならない。
「皇后様におかれましては、内裏にお入りくださるよう申し上げます」
「宮中のような堅苦しいところはごめんだわ。称徳だって、法華寺で道鏡とよろしく遊んでいたでしょう。屋敷は新築したばかりだし、東隣をどかせて広くするつもりだから、宮中になんて入らない。来年は山背に別業を作り、夏には巨椋池に船を浮かべて遊ぼうかしら」
「それでは、他戸親王だけでも
「他戸はまだ幼いから、私の側に置いておきます。博士らを屋敷に寄こしなさい」
「皇后様と皇太子が宮中にいなければ、儀式ができませんし警備にも差し障りが出ます」
井上皇后は
「山部のような無粋な者が来るから、せっかく盛り上がった宴が白けてしまいました。すぐに帰りなさい。私はこの屋敷で過ごします。警護が必要なら、中衛府から兵を率いてきなさい」
井上皇后は、右手で追い払うような仕草をする。
「皇后様が奢侈に走っていては綱紀がたるみます。財政を引き締めようとしている折りですので贅沢は控えて下さい」
「うるさい!」
皇后が怒鳴りつけてきた。
「私は光仁天皇の後を継いで天皇になる身です。口答えは許しません」
なんということだ。皇后になったばかりだというのに、父さんの後を継いで即位するつもりでいる。
「皇太子は他戸です。皇后様は即位することはできません」
「他戸親王様と呼びなさい。他戸は聖武天皇様の娘である私の子供。山部は田舎氏族の娘の子なのです。同じ親王でも身分の違いをわきまえなさい」
山部親王は一歩前に出ようとする早良親王を右手で、種継を左手で制した。
「母さんの悪口は言わないでいただきたい」
「事実でしょう。他戸が天皇になれば、私は国母になるのです。国母は天皇と同じなのです。山部はぐだぐだ言ってないで帰りなさい」
皇后様は自身が天皇になれなくても他戸の後見として、称徳天皇様のように好き勝手するつもりらしい。頭がくらくらしてくる。
仲麻呂卿、道鏡禅師、称徳天皇様、井上皇后様……。よくもまあ、私欲を追い国家を顧みない人ばかり出てくるのはなぜなんだろう。
二つ目の土器が飛んできて、山部親王の横に立っている早良親王に当たった。
「皇后様におかれましては、早々に宮中へお入り下さい」
「うるさい!」
山部親王が言い終わらないうちに、酒入れが飛んできた。飛び散った酒が山部王の衣にかかる。
「帰るぞ種継。酔っぱらいに何を言っても無駄だ」
山部親王が背を向けると、皇后は雷のような怒鳴り声を上げた。
三人が土間に下りると、奥の部屋から笛の音や手拍子が聞こえてきた。
「やれやれだ。先が思いやられるよ」
早良親王はあきれ顔で言う。
「永手様は、自分が皇后様の義理の息子だから説得できると言っていたが、血はつながっていないから、皇后様は自分のことを官人の一人ぐらいにしか思っていない。種継や早良には不快な思いをさせてすまなかった」
「山部親王こそ、はらわたが煮えくりかえっているんじゃないか」
「自分が馬鹿にされるのは耐えられるが、母さんを貶められたときには、殴ってやろうかと思った。種継や早良がいてくれたから自分を抑えることができた」
「兄さんが止めなかったら、自分は殴りかかっていたよ」
玄関を出ると、門の横に置いてある皇后用の車駕が目に入ってきた。新調された車駕は、真鍮の飾りが金色に輝き、鮮やかな紫の帷帳が目に眩しかった。屋根には金色の鳳凰が飾ってある。
「毎度のことながら井上皇后様にはうんざりさせられてしまう。称徳天皇様と同じで政や民の暮らしにはまったく興味を持っていない。自分さえ良ければ他はどうでもいいというお人だ。永手様や台閣の諸卿には悪いが、皇后様は宮の外の屋敷で遊んでもらっているほうが、政を邪魔されなくて良いような気がする。どこかへ行って欲しいと思う」
「自分が呪詛の法を使うことができれば、皇后様を呪ってやる」
「早良は物騒なことを言うな」
「山部親王と早良親王がやるというのであれば、俺も一肌脱ごう」
種継は本気とも冗談とも取れる顔をしていた。
自分は井上皇后様を殺すと言ってしまったのか。確かに国のことを考えれば、井上皇后様はいない方がよいが、殺されるような罪を犯しているわけではない。気に入らないからといって邪魔者を殺せば、仲麻呂卿、道鏡、称徳天皇様と同じだ。仲麻呂卿らと同列になりたくない。
父さんの後を井上皇后様が継いだら、称徳天皇様のように政を混乱させるだろう。
山部親王は屋敷の外に出て振り返った。青空を背にして、新築の屋敷は眩しいくらいに美しい。
思わず大きな溜め息が出てきた。
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