藤原宿奈麻呂の変
山部王は宿奈麻呂の指揮の下で連絡役として、種継は仲麻呂一派に関する情報を収集する役として働き、翌年の天平宝字七年(七六三年)二月の終わりには決起の準備が整うまでになった。
三月三日の一番星が輝き出す頃。山部王は宿奈麻呂の屋敷を訪れた。
山部王は屋敷を一周し、自身が尾行されていないか、怪しい人影が屋敷の近くに潜んでいないかを確かめてから門に手を掛けた。立て付けが悪くなっている門も、扱う勘所が分かって難なく開閉できるようになった。
山部王が奥の部屋に入り怪しい者はいないことを報告した。部屋には二十人を超える者たちが集まっていた。三人以上で合わないという決め事をしているので、普段は部屋の広さをもてあましていたが、決行の日時を決めるために、多くの人が集まると窮屈に感じられる。
山部王は宿奈麻呂に「山部王殿が最後だ」と言われて座った。
宿奈麻呂は決起の手順と役割を要領よく確認してゆく。
山部王は、種継と一緒に石上宅嗣に従い、大炊天皇に近習している
「決行の日時は明後日、三月五日の卯の刻(午前六時)とする」
いよいよ決起の日が決まった。指の先まで気で満たされ、体中に力がみなぎってくるのが分かる。仲麻呂卿を倒せば天下は変わる。自分も活躍すれば、台閣へ上る道が開け、聖徳太子の理想を政に生かすことができるようになる。
「大騒ぎはできないが多少の酒と肴を用意した。みんな飲んで食べて英気を養ってくれ」
宿奈麻呂が指示すると、下女が膳を持って入ってきた。上質の酒の香りと一緒に、蛤の佃煮と山菜を入れた味噌が運ばれてきた。
外は闇が降りてすっかり暗くなっている。
山部王が箸を付けようとしたとき、一人の下男が息を切らせて入ってきた。
「屋敷の外に大勢の兵が詰めかけています」
山部王たちが一斉に立ち上がると、いくつかの膳が転がった。
「兵は屋敷に集まっている者たちを捕らえると言ってます。門のところで押し問答をしていますが、踏み込まれるのは時間の問題です」
自分が敵を見逃していたというのか。いや、自分が屋敷に入ってからずいぶん時間がたっている。後から来たと考えるべきだ。末席の自分や種継が見張りに立っていれば良かった。
「ここは儂が引き受ける。皆は逃げてくれ」
「宿奈麻呂様はどうなさるつもりですか」
「儂はこの屋敷の主であれば、どう頑張っても捕まる。責めは一人で引き受けるから、皆は逃げて再起を果たしてくれ。幸い夜になっている。夜陰に紛れて裏口から逃げてくれ」
「裏口にも兵がいます。兵の数は表に四十、裏に二十人ほどです」
「鶏小屋に火をつけて敵を攪乱し、南の塀の壊れかけているところを倒せ。下男たちは裏口から一斉に出て敵を混乱させろ」
集まっていた者たちは宿奈麻呂の声で一斉に動き出したが、宿奈麻呂は「すまない」と言って座り込んだ。
山部王は宿奈麻呂の左腕を掴んだ。
「宿奈麻呂様も早く。捕まれば、黄文王様や道祖王様みたいに殺されます。宿奈麻呂様がいなくては仲麻呂卿を倒すことができません」
「決起前の集会で屋敷が兵に囲まれたということは、仲麻呂は儂らの企てを察知しているということだ。儂は屋敷の主だから逃げることはできない。儂が時間稼ぎをしているうちに山部王殿や種継は逃げよ。そして再起を図れ」
玄関の方からワーという声が聞こえてきた。
山部王は宿奈麻呂の腕を引っ張ったが、宿奈麻呂は座ったまま梃子でも動こうとしない。
「山部王殿には娘の
鶏が大騒ぎする声と一緒に煙が入ってきた。何人かの足音と怒鳴り声も聞こえてきた。
山部王と種継は、宿奈麻呂の「早く!」という言葉に追い出された。
山部王は、土間で大泣きしている乙牟漏を見つけた。乙牟漏は「お兄さーん」と泣きながら、山部王に寄ってくる。
かわいそうに、幼い子供には何が起こっているのかわからないのだろう。急に家の中が騒がしくなった上に、煙まで入ってきてびっくりしているのだ。宿奈麻呂様に子供を任されたからには、必ず東大寺まで届ける。
山部王が腰を落として乙牟漏と同じ目線になる。
「泣かないで小さな姫様。兄さんが安全なところまで連れて行ってあげるから」
乙牟漏は、「お兄さん!」と大きな声を上げて抱きついてきた。
山部王は乙牟漏の涙を優しくぬぐう。
「お父様は、悪い男たちを懲らしめています。姫様はお父様の邪魔にならないように、外に出てましょうね」
乙牟漏は小さな手で山部王の衣をしっかりと握り泣くのを我慢した。
宿奈麻呂様は、「責めは一人で引き受ける」とおっしゃったが、捕まれば、黄文王様や小野様のように殺され、乙牟漏は
山部王が乙牟漏を背負って立ち、部屋に戻ろうとしたとき、戸口から種継の「早く来い!」という叫び声が聞こえてきた。
「宿奈麻呂様も連れだそう。捕まったら殺されてしまう」
「宿奈麻呂の叔父さんは藤原一門だから捕まってもその場で殺されるようなことはない。永手伯父さんや八束伯父さんに頼んで釈放してもらう」
土間に白い煙が満ちてきた。煙にむせて涙が出てくる。背中の乙牟漏も「ごほごほ」と咳いている。
山部王は、部屋に戻ろう一歩を踏み出したところで、種継に腕を握られて強引に外に引っ張り出された。屋敷の外では何人もの男たちが小競り合いをしている。乙牟漏が再び泣きだした。
小さな子供を背負って何かできるような状況ではない。
「乙牟漏を東大寺に預けて、永手伯父さんのところに駆け込むぞ」
種継の言葉に、山部王は壊れた塀から屋敷の外へ出た。
道でも、先に逃げ出した者と兵士が乱闘を繰り広げている。兵たちは目の前の相手に忙しく、後から出てきた山部王と種継には気づいていないらしい。
「しめた! 逃げ切ることができる」と走り出したところで、二人の兵士に行く手を遮られた。兵は鎧を身にまとい、太くて長い杖を持っている。
「おとなしく縛につけば良し。逆らうようなら痛い目に遭わせてやる」
杖を相手に丸腰では突っ切るしかない。種継が右、自分が左に走れば、兵は混乱するか?。
敵も二人いるから無理だ。第一、乙牟漏を背負っていては、走ることもままならない。
乙牟漏降ろして、敵を戦い倒してから逃げるか?。
武器がなければ、杖に打ち据えられるだけだ。自分たちに勝ち目はない。
屋敷に戻り、馬に乗って逃げるか?。
屋敷の中は混乱していて、戻ったら出られない。
いかにして、逃げ切るか。
山部王が思案していると、種継が「山部王頼む!」と言い、二人に肩からぶつかっていった。三人は絡み合うようにして地面に倒れる。
「種継!」
山部王の背中で乙牟漏は泣きじゃくっている。
「ここは俺に任せて早く行け。乙牟漏を東大寺に届けたら永手伯父さんのところへ行け」
種継は兵たちよりも早く立ち上がると杖を拾い上げ、立ち上がろうとしている兵の足を払った。一人は種継の杖に転がされたが、もう一人は立ち上がると杖を構えて種継に向かってきた。
種継は素早くよけて反撃する。杖がぶつかり合う音を何回もさせたが、種継は、起き上がってきたもう一人の兵に倒されてしまった。転がった種継と目が合う。
「山部王は乙牟漏をつれて速く逃げろ! 乙牟漏を届けたら叔父さんのところへ行け」
山部王は種継の叫び声に、呆然と立ちすくんでいたことに気がついた。
乙牟漏を背負っていては何もできない。宿奈麻呂様に託された乙牟漏を無事に東大寺に届けてから、種継や宿奈麻呂様を助け出す!。
種継は地面に転がっても、杖を振り回して二人の兵に抵抗を続けている。
「早く行け!」
種継の声に、山部王は「必ず助けに戻る」と言い東大寺に向かって走り出した。
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