藤原宿奈麻呂の変

種継の誘い

 山部王は種継の家ではなく、藤原宿奈麻呂の屋敷に連れて行かれた。

 夕方になって雨は止んだが、梅雨の雲は厚く月も星も全く見えない。屋敷の近くを流れる佐保川は増水して川幅が広がり、濁った水が音を立てて流れている。川岸に生えているカキツバタは流されないように頑張り、蛙は時を得たようにうれしそうに鳴いている。

 宿奈麻呂の屋敷は慎ましやかで、敷地は狭く、小振りな母屋に離れが一つあるだけだった。庭は野菜畑になっていて雅な雰囲気はまったくない。角には柿の木が植えてあったが手入れはされていないように見える。

 宿奈麻呂様には従五位上が下賜されているのだから、多少の贅沢ができると思うが、屋敷は大和郷にある自分の実家と変わらないじゃないか。むしろ実家の方が馬小屋や鶏小屋、近くには一族の家があって大きく感じられるくらいだ。朝廷から派遣されている資人も少ないのか、静かで人の気配もしない。

「世間では藤原一族は栄えていると思われているが、贅沢しているのは仲麻呂卿の一家だけで、他の藤原はこの程度さ。おまけに宿奈麻呂の伯父さんは上野守だから、都にいるのは一年のうち一、二ヶ月くらいで、屋敷まで手が回らないし、資人も少ない」

 宿奈麻呂は、奥の部屋で三歳くらいの女の子とじゃれ合って遊んでいた。子供は久しぶりの父親がうれしいらしい。

「お父さんは大事な話があるから、お母さんと一緒にご飯を食べなさい」

 と促すと、子供は

「良くいらっしゃいました」

 と可愛らしくお辞儀をして出ていった。

 宿奈麻呂は、小柄で四十代半ばを越えているように見える。色が黒いのは上野守として任地で働いているからだろうか。柔和な雰囲気は人を安心させてくれるし、整えられた髪の毛や汚れも皺もない衣からは、几帳面で信用できる人と判断できる。

「白壁王様の息子さんか。種継と同い年と聞いていたが、種継よりしっかりしている」

 種継は笑いながら宿奈麻呂に抗議した。

「さて、山部王殿は今の政をどのように考えているか」

 種継は日頃から自分が仲麻呂卿に批判的なことを知っている。種継が会わせてくれたということは仲麻呂卿の政を批判してもかまわない。

「仲麻呂卿は孝謙太上天皇様の覚えが良いことを利用して政を私してきました。官職や役所の名前を唐風に改めるなど、自らの趣味で政を行っています。唐風の保良宮は悪趣味ですらあります。加えて、台閣を息の掛かった者や息子たちで占めています。やまと以来、氏族が力を持ち合って天皇を支え、互いに牽制して天皇よりも大きな力を持たないようにすることが伝統でした。仲麻呂卿の力は、子飼いの大炊天皇を擁することで、天皇を陵駕しており、由々しきことです」

 宿奈麻呂は口元を緩めた。

「山部王殿がいうとおり藤原仲麻呂の悪行は十指では足りない」

 種継が宿奈麻呂の後を継いだ。

「俺たちは仲麻呂卿を倒すために立ち上がる」

「仲麻呂卿を倒す?」

 種継や宿奈麻呂様は、橘卿や黄文王様のように謀反を起こすというのだろうか。

 橘卿の変は苦い思い出だ。明信に匿われて難を逃れたが、自分も黄文王様のように拷問を受けて殺されるところだったし、小波王女こなみのひめみこにはひどい振られ方をされた。小波王女の泣き顔は忘れられない。投げつけられた憎悪は、今でも思い出すと胸が痛くなる。

 橘卿の時のような嫌な思いは繰り返したくないが……。

 自分が言ったように、仲麻呂卿はすべての元凶だから、宿奈麻呂様に大儀はあると思うが、宿奈麻呂様は官位が低く橘卿よりも力がない。謀反に加わって良いのだろうか。そもそも、種継や宿奈麻呂様は藤原一門だ。同じ一族同士で争うというのか。

 宿奈麻呂と種継の顔を交互に見たが、二人とも顔に揺るがない決意が表れていた。

「勝算はあるのでしょうか。橘卿の失敗があります。仲麻呂卿の権勢は橘卿の変の時よりも大きくなっています」

「仲麻呂は孝謙太上天皇様を後ろ盾としていたので誰も太刀打ちできなかったが、道鏡が現れてから、太上天皇様と仲麻呂の間にひびが入ってきた。依然として朝廷は仲麻呂を中心に回っているが、権勢には陰りが出てきている。橘卿は味方を増やすために話を広げたので、密奏する者が多く出たが、今回は口の堅い者にしか声をかけない」

「合力して下さる方は?」

佐伯今毛人さえきのいまえみし殿、石上宅嗣いそのかみやかつぐ殿、大伴家持おおとものやかもち殿だ。皆儂の旧知で信頼の置ける人間だ。知ってのとおり佐伯、大伴は武門として名前が高い」

「それに、永手ながて伯父さん、八束やつか伯父さん、浜成はまなり伯父さんも協力してくれる」

「どういうことだ種継。南家以外の藤原一族は仲麻呂卿を引きずり下ろそうとしているのか」

「南家でも豊成様一家は協力してくれるから、正確には、仲麻呂卿以外の全藤原だ。伯父さんが言ったように、太上天皇様が保良宮から急にご帰還されたのは、仲麻呂卿との間に亀裂が入っている証拠だ。今なら仲麻呂卿を倒すことができる」

「仲麻呂卿を倒した後はどうするのですか」

「太上天皇様を中心に朝廷と国家を立て直す。儂は上野守の他に幾つかの地方官を経験したが、諸国では豪農が興り、昔からの郡司の家は没落して国司の言うことが末端まで届かなくなっている。一方で、仲麻呂や有力な寺院は国家とは別に税を取るようになっている。律令国家が崩れかかっているのだ」

「『国司くにのつかさ国造くにのみやつこ百姓ひやくしよう(人々)からおさめとることなかれ。国に二君なし。民に両主なし』ですね」

「山部王殿のいうとおりだ。国に二君はいらない。仲麻呂が天皇に並ぶ権力を持ってはいけないのだ。種継と一緒に動いてくれる同志が欲しい。山部王殿も我らに加わってくれないだろうか」

 宿奈麻呂様の目は澄んでいて、私心なく天下国家を考えている。佐伯今毛人、石上宅嗣、大伴家持といった人望がある人や、藤原一族も動くのであれば、橘卿が謀反を起こしたときとはずいぶん違うらしい。

 失う物が多ければ、失敗を恐れて大胆な事ができなくなるが、そもそも自分には失う物がない。官位官職もなければ、嫁も子供もいない。土地も屋敷も蓄えさえもない。出世も仲麻呂派が幅を利かせている限りない。失う物があるとすれば、自分の理想と種継との友情だ。理想や友情をなくしては人生の意味がない。種継には命を助けてもらった借りがある。種継は貸しなどと考えるような性格ではないが、恩を忘れるような恥知らずになってはいけない。

 一回の失敗でめげていては人生を失ってしまう。過ちを繰り返すのは馬鹿だが橘卿の時とは違う。

「自分も宿奈麻呂様に加えて下さい」

 山部王が頭を下げると、宿奈麻呂は相好を崩して笑い、種継は肩を叩いてくれた。

「種継にも山部王殿にもたくさん働いてもらう。我らの手で国家を作り直そう。さっそくだが、次の会合の知らせを同志のところへ持っていってもらいたい。その前に夕餉を食べていってくれ」

 山部王が宿奈麻呂の屋敷を出たとき、雲は消え星が瞬いていた。

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