藤原乙牟漏
山部王は東大寺の山門をくぐると息が切れて一歩も歩けなくなり、背中の乙牟漏を降ろして地面に仰向けになった。一気に汗が噴き出す。胸が焼けるように熱く足も張って動かすことができない。
乙牟漏は「お兄さん」と泣きながらすがってきた。
体が軽い乙牟漏が被さってきても苦にならない。乙牟漏の紅葉のような小さな手が、山部王の手を握りしめ、目からあふれ出した大粒の涙が山部王の顔に落ちてきた。
「兄さんは一体何をやってるんだい」
聞き覚えのある声に顔を向けると、満天の星を背景に早良王が見下ろしていた。
「早良か。ちょうど良かった。子供を匿ってくれ」
「一体何をやってる。お寺にちっちゃな女の子なんか連れてきて。どこの子? 泣いてるじゃない」
「説明している暇はないが頼む」
山部王は起き上がると、早良王が持っていた竹箒を奪った。
「弟から竹箒を取り上げて、山部王さんは夜中に境内の掃除でもするつもりなのかしら? 一体何があったの」
声の主は明信だった。明信は乙牟漏を抱き上げてあやし始めた。明信の優しい声に安心したのか、乙牟漏は泣き止む。
「宿奈麻呂様と種継が兵に捕まった。殺される前に助け出す」
「何を言ってるのか、わかんない。ちゃんと説明して」
明信も早良王に同調して肯いている。
早良や明信に説明している時間はない。黄文王様は捕らえられるとすぐに拷問に掛けられ殺されてしまった。早くしないと宿奈麻呂様も種継も殺されてしまう。宿奈麻呂様は、天下国家のため台閣で活躍しなければならないお人だ。種継は幼なじみで、橘卿の変の時に自分を庇ってくれた。今日だって、自分と乙牟漏を逃がすために兵の足止めをしてくれた。東大寺に隠れていれば無事にやり過ごせるかもしれないが、二人を見殺しにしたという後悔を背負って生きるくらいなら一緒に死にたい。小波王女には誤解から怨まれてしまったが、ちっちゃな乙牟漏から卑怯者と言われたくない。
乙牟漏は早良と明信に任せておけば間違いない。しばらく休んで息も整ってきた。足の痛みもなくなり、血の巡りが良くなって、体が軽くなってきた。
「とにかく宿奈麻呂様と種継が危ない。これから衛士府へ行って二人を助ける。乙牟漏を頼む」
山部王は、明信の「何するの」、早良王の「待って兄さん」という言葉を背に受けながら走り出した。
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