小野東人の勧誘

 山部王は、大学寮を出ようとしたときに小野東人に声をかけられた。

 さっきは言い過ぎた。きっとお目玉を食らうのだろう。

「山部王には見所がある」

 山部王の「はあ」という生返事を気に留めることなく東人は続ける。

「大炊王様は父親である舎人親王様を早くに亡くされてから仲麻呂卿に育てられていて、仲麻呂卿には頭が上がらない。大炊王様が即位されれば、仲麻呂卿の権勢は天皇様を凌ぐことになる」

 叱られると思ったが、話は違うらしい。

 山部王が頷くのを見ながら東人は続ける。

「台閣は仲麻呂一派の一強他弱の状態になり、伝統氏族が互いに牽制して天皇様を盛り立ててゆくという国家の根本が揺らぐことになる。『賢哲を官に任ずるときは、誉むる声すなわち起こり、奸者が官をたもつときは、禍乱からんすなわち繁し』と昔の人は言った」

 山部王は「聖徳太子ですね」と相槌をうつ。

「仲麻呂卿は天皇様をないがしろにして国を動かそうとする奸臣だ。我々は仲麻呂卿を倒すために集まっている。山部王も我々に加わって欲しい」

「仲麻呂卿を倒す? 我々とは?」

 小野様には大学寮で仕事を一から丁寧に教えてもらった。備前守びぜんのかみを勤められていたときの評判は良い。能力と人柄は信頼できる。仲麻呂卿の一派ではないことは確かだが、権力者である仲麻呂卿を倒すとは穏やかではない。小野様の話に乗って良いのだろうか。

 山部王は部屋を見渡したが、部屋の中には山部王と東人の二人しかいなかった。

 自分の考えを言っても、誰かに聞かれて密告されるようなことはない。話を聞いてもらい、小野様の反応を見て判断しよう。

「大学寮の同僚にとって仲麻呂卿は雲の上の存在で、話題にすることすらありませんが、やっと語り合えるお方に会うことができました。仲麻呂卿の専横には憤りを感じています。良識がある道祖王様を皇太子の座から引きずり下ろして、子飼いの大炊王様を皇太子に据えるなど、臣下の道に反しています」

 東人は深く頷いた。

「『国に二君なく、民に両主なし。卒土そつど兆民ちようみんは天皇をもって主となす』と申します。仲麻呂卿が天皇様に並ぶことがあってはなりません。小野様の考えは理にかなっています」

「聖徳太子の十七条の憲法を暗唱しているとは、山部王は若いのにしっかりしている。我々は仲麻呂卿を倒し、政を正しい方向に直すために集まっている。仲麻呂卿を倒すことは命懸けの仕事だ。失敗すれば謀反の罪に問われ死罪となるかもしれぬ。山部王に命を懸ける覚悟がなければ、今の話は聞かなかったことにしてくれ」

 東人と目が合った。

 曇りのない目に私利私欲はなく、天下国家のことを考えている。自信に満ちた表情や、体から立ち上る気は計画の成功を確信しているようだ。

 小野様は信頼できる人で、行おうとしていることは正しい。小野様に付いていって間違いないと思う。

「自分が小野様たちの計画を密告するとは考えないのですか」

「四月に大学寮に来てから見ているが、山部王は真面目で頭脳明晰、知識が豊富だ。自分の意志はしっかり持つが、人の意見を聞く事ができ、人を裏切るような性格ではない。たとえ、我々の計画に加わらなくても、密告して褒美を得ようという人間でないと確信している」

「自分のことを誉めすぎですが、私も小野様のことを信頼しております。小野様のおっしゃるとおり、仲麻呂卿を倒すことに失敗すれば死罪もあり得ますが、天皇の権威を高め、国を正しい形に整えることであれば皇祖皇宗の加護があります。ぜひお仲間に加えてください」

 東人は顔をほころばせた。

「それでは、本日のさるの刻(午後四時)に黄文王きぶみおう様の屋敷に来てくれ。皆に紹介しよう」

「黄文王様が中心人物なのですか」

「黄文王様も重要なお方だが、我々は橘奈良麻呂様を中心に動いている」

 東人は「期待しているぞ」と山部王の肩を叩きながら、横を通り過ぎて部屋を出て行った。

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