橘奈良麻呂の陰謀
道祖王廃太子
大学寮で働いていた山部王が、筆を持つ手を休めて庭を眺めると、眩しい光の中で二頭の白い蝶がじゃれ合いながら飛んでいた。
楽しい時は速く過ぎるが、つまらない時はじれったいほどに長く感じられる。代わり映えのしない仕事をこなしていると、自分が何者なのか分からなくなる。大学寮で一生懸命仕事すれば、認められて出世できると思っていたのに、現実は甘くなかった。毎日、四書五経の写本をしているだけでは、政を司る立場にまで出世できるとは思えない。朝廷は外から見ていたよりも、ずっと藤原仲麻呂卿の力が強いし、十七条の憲法からかけ離れているのに、自分には何もできない。
山部王がくしゃみをこらえていると、山部王たちの上司である
「みんな聞け。
孝謙女帝は独身で子供がないことから、父親の聖武
山部王の大きなくしゃみに、東人は驚いて固まったが、我に返って興奮した様子で話し始めた。
「道祖王様は閨房が乱れていて、先帝の喪が明ける前に幼女を招き入れたり、宮中の秘事を
「嘘だ! 道祖王様は見識と礼節のある方で、閨房が乱れているという話など聞いたことがない。けっして幼女を召し入れるような方ではない。橘奈良麻呂卿はなんとおっしゃったんですか」
山部王の問いに東人が答える。
「橘卿は、親様の喪に服していて今日の朝議は欠席された」
「橘卿がいない時に道祖王様を廃されるなど、だまし討ちじゃないですか」
東人は山部王の抗議を聞き流して続ける。
「天皇様は道祖王様を廃した後、
部屋のあちこちから「大炊王様って誰だ」という声が上がった。
「大炊王様は
「完全に仲麻呂卿の策謀じゃないか。仲麻呂卿の筋書きに孝謙天皇様が乗せられて、良識ある道祖王様を廃されるなんて筋が通らない。ただでさえ仲麻呂卿の権力は強いのに、子飼いの親王を皇太子にして国を乗っ取るつもりだ」
「山部王は口が過ぎる。いくら皇族でもそれ以上言えば朝廷を批判することになる」
東人の注意にひるまずに山部王は続ける。
「天皇様と仲麻呂卿は聖武太上天皇様の遺詔にそむくつもりだ」
「口を慎め。天皇様は先帝様から、『
「すべて仲麻呂卿の仕組んだことでしょう」
「大きな声を出すな。仲麻呂卿の耳に入ったら事だ。無冠の山部王などひと息で大隅まで飛ばされるぞ」
仲麻呂卿と距離を置く道祖王様を廃し、子飼いの大炊王様を皇太子に擁立すれば、仲麻呂卿の権力は万全となって、朝廷で逆う者はいなくなる。
「台閣の一人に権力が集中するのは良くない。『事はひとり
「山部王は熱くなりすぎだ。ひとまず座れ」
座れと言われて、山部王は立ち上がって拳を握りしめていることに気がついた。
山部王が腰を下ろして外を見ると、二頭の蝶が風に流されていくのが見える。
人にとって気持ちの良い風でも、小さな蝶にとっては体が飛ばされるような嵐なのだろう。自分も蝶と同じで吹けば飛ぶような存在なのだ。仲麻呂卿が風で、自分は吹き飛ばされる蝶だ。仲麻呂卿の行いを許すことはできないが、今の自分に仲麻呂卿と対峙する力はない。
天下国家のために微力でも尽くしたいが……。
山部王が大きな溜め息をついた時に、昼の鐘が聞こえてきて、同僚たちは大きな声で話しながら部屋を出て行った。
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