宇佐八幡宮神託事件

和気清麻呂

 山部王が和気清麻呂の下向を知ってから四ヶ月後の神護景雲三年(七六九年)九月二四日。大和郷で清麻呂の帰りを待っていた山部王たちは、清麻呂が法隆寺に入ったという知らせを受けて急行した。

 法隆寺の本堂は清らかな空気で満ちていて、中に入るだけで心が清められてゆく感じがする。正面に金銅釈迦三尊像、左右には金銅薬師如来座像と金銅阿弥陀如来座像が鎮座している。いずれの顔も慈愛に満ち、見ているだけで心が穏やかになる。釈迦三尊像の横には、四天王が邪鬼を踏みつけて立っている。踏みつけられている鬼は、人の悪い心を象徴しているという。天井には天人と鳳凰が飛び交う姿が、周囲の壁にはお釈迦様や阿弥陀仏が描かれ、人の心を浄土へと誘ってくれる。山部王が二十一歳の時に見た、聖徳太子の十七条の憲法もしっかりとあった。

 和気清麻呂は法隆寺の本堂に一人で正座し、頭を下げて祈っていた。

「和気清麻呂殿とお見受けします」

 山部王が本堂の入り口から声を掛けると、清麻呂は体の向きをかえた。

 清麻呂は山部王よりも幾つか年上らしい。小柄な体に冠を載せ、皺や汚れのない朝服で盛装している。太い眉と四角い顔は堅実な性格を、しっかりと閉じた口は意志の強さを感じさせる。瞳に曇りはなく二心を抱くような人物ではなさそうだ。中肉中背の敏捷そうな体は誠実が衣を着て歩いているようだが、長旅の疲れがにじんでいるようにも見える。

 腰には勅使の証しである象嵌が入った小刀を下げていた。

 狩衣姿の山部王と種継、法衣姿の早良王は清麻呂の前に胡座をかいた。

「自分は白壁王の息子の山部と言います、左右の二人は藤原種継と弟の早良です」

「山部王様とおっしゃるのですか。寺の回りには多くの護衛がいたはずですが、どのようにして中に入って来られたのでしょうか」

 清麻呂は会釈をして尋ねてきた。

「ご覧のとおり弟の早良は僧籍にあります。早良が東大寺の使いとして法隆寺に来て、自分と種継は従者だと言ったら護衛は通してくれました」

「仏様のお導きでしょう」

 清麻呂は静かに手を合わせた。

「清麻呂殿に単刀直入に伺います。宇佐八幡宮の神託はどのようなものでしたでしょうか」

 清麻呂はしばらく目をつむってから、言葉を選ぶようにして答えてきた。

「神託は『道鏡禅師を天皇にすれば天下が治まる』という内容です。それでは参りましょうか」

「どこへ行くのです。外にいる兵を呼ぶのですか」

「私を殺し神託を奪いに来たのでしょう。神聖な本堂を血で汚すことはできませんから、中庭に参りましょう。護衛の兵を呼ぶようなことはしませんから心配はいりません」

 山部王は、片膝を上げて立ち上がろうとする清麻呂を「お待ち下さい」と止めた。

「どうして自分たちの目的が分かったのですか」

「難波津に着いたとき、右大臣様や大納言様の使いが来たようですが、道鏡禅師の息が掛かった護衛に追い返されました。大和に入る前に賊に襲われましたが、野盗と言うよりは中衛府の兵のようでした。他にも何件か接触を持とうとした者がいましたが、すべて護衛に追い払われています。私が宇佐八幡宮から神託を持ち帰ることは知られていますので、目的は私から神託を奪うことでしょう」

「清麻呂殿の言われるように、自分は貴殿を殺して神託を奪おうと思って来ました。殺されると分かっていて、どうして平然としていられるのですか」

「宇佐八幡宮は、大仏造立の時に聖武天皇様に取り入って力を得ました。仲麻呂卿に疎んじられたため権力から遠ざかっていましたが、弓削浄人卿を梃子にして再び権力を得ようとしています。道鏡禅師を天皇にするという神託を下せば、権力に近づけると考えているのでしょう。曲学阿世とは習宜阿曾麻呂のためにあるような言葉です」

「清麻呂殿は神託を天皇様に復命されるつもりでしたか」

 清麻呂は目をつむって深呼吸をした。

「本堂の壁に、『みことのりけては必ず謹め』とあります」

 山部王は壁に掛けてある、聖徳太子の十七条の憲法を見た。

「私が受けた命令は宇佐八幡宮から神託を持ち帰ることです。神託を持ち帰って天皇様に奏上しなければなりません。しかし、神託には道鏡禅師を天皇にするよう書いてあります。道鏡禅師は天皇になれる血筋ではなく、政を司る器量もありません。道鏡禅師を天皇にすることは、天地を覆すことであり国を壊すことになります。神託を奏上すべきかどうか悩みながら宇佐八幡宮から戻ってきました」

 清麻呂は目をつむって続ける。

「神託を持って逃げるとか自害するとか考えましたが、私に下された命令が神託を持ち帰ることであれば、逃げたり死んだりすることは詔に逆らうことになります。自害しても神託が残れば、神託だけ都に届けられるでしょう。道鏡禅師の手の者が始終見張っていて抜け出すこともできません。賊に襲われたときは、しめたものと思いましたが、頼りない野盗でした。私が神託を持ち帰れば道鏡禅師が即位します。最後の望みを掛けて法隆寺で仏様にすがっていたところへ山部王様が来ました。仏様のお導きなのです。殺されて神託を奪われるのであれば、天皇様に不忠を働くことにならず、道鏡禅師も即位できません。さあ、ひと思いに殺して下さい。神託は私の懐の中にあります」

「境内に護衛を入れていないのは、刺客を引き入れるためだったのですか」

「山部王様の言うとおりです。法隆寺に参拝するのであれば、一人になる名目が立ちます。兵たちも門を固めれば私を護衛できるので中に入る必要はありません」

 大和郷で清麻呂殿を待っているときは、殺して神託を奪えば片が付く、清麻呂殿は道鏡の一味で、甘い汁を吸っている悪人だから殺してもかまわないと考えていた。法隆寺に清麻呂殿が一人でいると聞いたときは、千載一遇の好機であると喜んだが……。

 目の前にいる清麻呂殿は名前のとおり清廉の士で、天皇様の命令を誠実に実行しようとしている忠臣だ。私利私欲のためには詔や律令であろうとも従わない官人が多い中で、かけがえのない人物だ。しかも、天皇様に尽くせば、道鏡を天皇にしてしまうという矛盾に悩み続けてきた。

 山部王は種継や早良王を見た。二人とも山部王と同じように困惑している。

「道鏡禅師を天皇にする事などできません。私一人の命で国家が迷わないですむのならば喜んで死にましょう」

 壁に掲げてある、聖徳太子の十七条の憲法が目に入ってきた。

『それへつらあざむく者は、則ち国家あめのしたくつがえ利器りきなり。人民を絶つ鋒剣ほうけんなり。またかたましく媚ぶる者は、かみに対しては則ち好みてしもあやまちを説き、下にいては則ち上のあやまち誹謗そしる。それかくの如きの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱のもとなり』

 道鏡こそが国家を覆す鋭利な刃物であり、人民を切り裂く剣なのだ。道鏡は天皇に諂い、民を欺いている。道鏡は天皇様にいかほどの忠心もなければ、民をいたわる気持ちもない。国家を危うくするのは道鏡であって清麻呂殿ではない。

「兄さん、清麻呂様を殺して神託を奪っても、代わりの人が遣わされるだけだ」

 早良の言うとおりだ。道鏡にとって清麻呂殿は手駒の一つに過ぎない。死んでも代わりはいくらでもいるし、次は弓削浄人や習宜阿曾麻呂が直接乗り込んでくるかも知れない。清麻呂殿を殺して神託を奪っても無駄死にさせてしまうことになる。清麻呂殿を殺そうと考えた自分は間違っていた。

 山部王は両手をついて清麻呂に頭を下げた。

「清麻呂殿への無礼をお許しください。自分と清麻呂殿の思いは同じです。ともに道鏡を倒し、天下あめのしたを創ってゆきましょう」

 山部王が顔を上げたとき、清麻呂は苦笑いをしていた。

「死に損ないました。兵を寺の外に置き、一人でいれば必ず誰か来てくれる。仏様に念じていたところに山部王殿が見えたので、私の願いが聞き届けられたと思っていたのですが。さて、明日には都に入ります。どのようにしましょうか」

 清麻呂殿が高潔な人間であることは分かったが、道鏡を天皇にするわけにもいかない。如何にするべきか。

「神託を書き換えましょう」

「早良王様は神託を偽れとおっしゃるのですか。神様の言葉を勝手に換えれば、国に災いが及びます」

「神様が下されたお言葉を書き換えるならば天罰が下りますが、清麻呂殿がお持ちの神託は、弓削浄人や習宜阿曾麻呂、道鏡禅師が仕組んだことは明らかで、神が託された言葉ではなく、神に託した言葉です。人の欲望を正すのですから問題はないでしょう。清麻呂殿の後ろに掲げてある、聖徳太子の十七条の憲法をご覧ください。『悪をこらし善をすすむるは、いにしえの良きのりなり。ここをもって人の善をかくすことなく、悪を見ては必ずただせ』とあります。道鏡は称徳天皇様を誑かすという悪事を働いています。悪事は正すべきです」

 清麻呂が目を閉じて考えていると、本堂の外から清麻呂を呼ぶ声が聞こえてきた。兵は「そろそろ出発しないと遅れてしまう」と言う。

 清麻呂は立ち上がった。

「山部王様に会えて良かった。迷いをふっ切ることができました。やはり仏様が山部王様を私の元に遣わされたのです」

 山部王たちが頭を下げると、清麻呂は立ち上がって出て行った。

「神託を書き換える打ち合わせが途中で終わったが良かったのか」

「清麻呂殿は天皇様や道鏡禅師の機嫌取りだと思って来たのだが、会ってみると私心のない忠義な人物だと分かった。清麻呂殿は信じるに足る人物だ。種継も清麻呂殿を信じよう」

「もし清麻呂様が宇佐八幡宮で受け取った神託をそのまま復命したら兄さんはどうする」

「そのときは、謀反を起こして道鏡禅師と差し違えてやる。道鏡禅師ならばためらわずに殺すことができる」

「俺も手伝おう」

 山部王は種継の言葉を聞いて立ち上がった。

 清麻呂を追って境内に降りると、雲一つない真っ青な空から日の光が降り注いでいた。あまりの眩しさに目をつむってしまう。

 目が日の光になれたとき、広い境内には清麻呂の姿も兵の姿もなかった。

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