宇佐八幡宮の神託
和気清麻呂が帰京した翌日、称徳天皇と道鏡は五位以上の者を大極殿に集めた。
集まった者たちは位の順に整列し、下位の山部王と種継は部屋の一番後ろに座った。
本降りの雨が屋根を鳴らし、霧のように細かい雨粒が冷たい空気と一緒に流れ込んできて、床や衣を濡らしている。昼間だというのに大極殿の中は夕暮れのように暗く、秋の初めのはずなのに冬を思わせるように寒い。大極殿に百人以上が集まったというのに話をする者はいなく、ときおり小さな咳払いが聞こえるだけで、雨の音しか聞こえてこない。
山部王は近くを見回したが、誰もが浮かない顔をしていた。
清麻呂殿が宇佐八幡宮から持ち帰った神託の内容は誰でも想像がつくから、皆うんざりした表情をしている。道鏡が尊敬される立派な人物で、律令や漢籍に詳しく、国を率いてゆくだけの実力があればまだしも、誰よりも権力欲や物欲が強く、上には媚びを売り、下には威張り散らしていている。道鏡が国の頂点に立ち天下に号令をかけると思うとやりきれない。望みは清麻呂殿だけだが……。
清麻呂殿の本心は法隆寺で分かったが、肝心の神託を書き換える相談はできなかった。清麻呂殿に任せておけば大丈夫だと思うが、清麻呂殿は、あまりにも真面目な人間だから不安が残る。
称徳天皇と道鏡が入ってきて並んで座ると、一同は深く頭を下げた。
小柄の天皇と大柄の道鏡が並ぶと、ちぐはぐ感が半端でない。
天皇の顔は良い知らせを聞いた後のように晴れやかで、頬が少し赤くなっている。色黒の道鏡の顔に感情はないが、口を一文字に閉じて、こみ上げてくる笑いを殺しているように見える。
道鏡が公卿を睥睨するのは許せない。まして、道鏡が天皇様と並ぶことなど以ての外だ。今すぐにでも飛び出していって道鏡を打ちのめし、引きずり下ろしてやりたい。道鏡は目の前にいるというのに遠すぎる。
礼服で盛装した清麻呂が入ってきた。
清麻呂は天皇と道鏡の前に平伏し、無事に帰ってこられたことを感謝してから報告を始めた。
「私は勅命を受けて宇佐八幡宮に参りました。天皇様から預かった宝物を宮に奉り神託を願い出ましたが、大宮司は神託を下すことを拒否しました」
称徳天皇と道鏡の顔がすっと曇った。
「不審に思いましたので、私が宇佐八幡宮の神に顕現を願ったところ、身の丈三丈(約九メートル)の僧形の神が現れ、私に神託を下されました」
清麻呂は懐から紙を取り出して読み上げる。
「わが国家は開闢以来、君臣のこと定まれり。臣をもって君とする、いまだこれあらず。皇太子には、必ず皇族を立てよ。無道の人はよろしく早く
大極殿の空気が一瞬にして固まった。
天皇は顔を真っ赤にして震えだした。道鏡の浅黒い顔でさえ、赤くなっている。
清麻呂は一礼した後に、神託を丁寧に折りたたんで三方に乗せた。
「なんという事ですか!」
天皇の甲高い声が大極殿に響くと、全員が恐れをなしてひれ伏し、慌てた山部王は頭を床に打ち付けてしまった。
「清麻呂に問う。卿は本当に宇佐八幡宮へ行き神託を受けてきたのか」
清麻呂は頭を床につけて答える。
「臣・和気清麻呂は確かに宇佐八幡宮へ行って参りました。道鏡禅師様が付けた護衛の兵が証人でございます」
道鏡が席を立ち、三方に乗せられている神託を奪うように取り上げて広げる。道鏡の手はわなわなと震えだした。
称徳天皇も立ち上がり、道鏡の横に並んで神託を覗き込んだ。
「神託は偽物です。もう一度宇佐八幡へ遣いを出します」
称徳天皇のあまりの迫力に、ひれ伏していた清麻呂は頭を床にこすりつけた。
道鏡は鬼が乗り移ったような形相で清麻呂を睨みつけている。
「お待ち下さい」
最前列にいた左大臣
「清麻呂は宇佐八幡宮から神託を持って帰りました。再度神託を取りに行かせることは神を疑うことになります」
「神託は偽物だ! 本当の神託は拙僧に皇位を継がせるべしと出るはずだ」
「道鏡禅師殿は何故に神託の中身を知っているのでしょうか」
道鏡の顔は茹でた蛸よりも赤くなる。
「左大臣ごときの知ったことではない」
「神託が下りたからには従うべきです」
永手に続いて、大納言・
「卿らは結束して……」
天皇はふらふらと席に戻って座った。赤くなっていた顔は青白く変わっていた。
「偽物の神託など破り捨ててやる」
道鏡の大声と共に、紙が裂ける音が大極殿に響いた。
「道鏡禅師ともあろう者が、神託を破り捨てるとは何事か」
道鏡は永手の抗議などかまわずに粉々にした神託を放り投げた。
神託の切れ端が、大極殿の中で雪のように舞う。
「もう良いでしょう。卿らの勝手にしなさい」
称徳天皇はつぶやいてから、ふらふらとした足取りで大極殿を出ていった。
「和気清麻呂には追って沙汰をする。公卿らも罰を覚悟しておけ」
道鏡が足を踏み流しながら天皇の後を追って外に出ると、大極殿の中には安堵の空気が満ちた。永手をはじめとした高官たちは、清麻呂を囲んで声をかけ、肩を叩きながら、誉めている。清麻呂は体を震わせて泣いているらしい。
部屋の角にいた山部王と種継は大きな溜め息をついた。
「清麻呂殿は大仕事をした。まさに救国の英雄だ。道鏡を即位させてはいけないという神託が下って、公卿のすべても反対するのだから、天皇様といえども勝手にできない。道鏡の即位はなくなって、騒動はおしまいだな。清麻呂殿のところへ行って礼を言いたい」
清麻呂は公卿たちに囲まれて部屋を出るところだった。
「屋敷に戻って、俺たちだけで清麻呂殿を祝福しよう」
山部王は種継に同意して肯いた。
「天皇様に御子様はいないし、誣告や謀反で皇位継承権者がほとんど死んでいるから皇統が絶えてしまう。道鏡が即位する芽はなくなったけれども、次は誰が即位するのだろうか。もし、天皇様が崩じられたら、皇位をめぐって世の中が乱れるのだろうか」
聖徳太子が理想とした国家からさらに遠のいてゆく。
「山部王も皇族の端くれだから、俺は山部王を押し立てて戦に出よう」
「確かに自分も皇族の一員だが、百年前の分家だし、母さんは大和の弱小氏族の出身だ。皇位を継ぐことなどできない」
「俺は本気だ。山部王は白壁王様の息子で天智天皇様の曾孫だ。和気王様や不破内親王様がいなくなった今では、山部王にも皇位が回ってくるかも知れない」
「からかうなよ」
「井上内親王様が皇位を継ぐことになっても良いのか」
「それは……」
大極殿の外は大雨だった。軒下を通ってもずぶ濡れになってしまう。
山部王は種継と一緒に、庭に溜まった水を蹴って走り出した。
称徳天皇は、和気清麻呂を
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