不破内親王の処分

 山部王が不破内親王を輿に乗せて平城宮の壬生門に着くと、道鏡が十数人の武装した兵を従えて現れた。

 紫の袈裟を着て盛装した道鏡は、壬生門の前に立ち詔書を広げる。

「天皇様の詔である。畏まって承るように」

 道鏡の声に、道鏡の兵と山部王の兵は跪いて頭を下げた。山部王も慌てて跪く。

「不破内親王が息子である氷上川継を天皇にするために、忍坂女王、石田女王らと謀り、称徳天皇様を呪詛して命を縮めようとしたことは明白である。よって不破内親王を厨厨女くりやのくりやめ(厨房の下女)、氷上川継ひかみのかわつぐ氷上ひかみの志計志麻呂しけしまろ(穢れた男)と改名し、土佐国に配流する」

 山部王は顔を上げた。

 道鏡は、背の高さが六尺(百八十センチメートル)もあり、跪いて見ると山のように見える。彫りの深い顔、浅黒いが艶の良い肌に、紫の衣を着こなしている。年を取っているにもかかわらず、若い頃に山野修行に励んだ体躯はしっかりしている。肩幅は広く胸板も厚く、僧侶とは思えないくらいに腕は太い。声には張りと潤いがあり、もし僧侶でなく良いところの貴族であれば、多くの浮き名を流したに違いない。

「お待ち下さい。不破内親王様は宮に着いたばかりで、何一つお話ししていません。申し開きもできずに処分を言い渡されるとは不合理です」

「黙れ!」

 道鏡の一喝に山部王の髪の毛や衣が震え、兵たちはひれ伏した。

「読み上げたのは称徳天皇様の詔である。下級官吏風情が意見するとは何事か」

 道鏡の、雷のような声に山部王は顔を上げることができない。

「罪人を宮中に入れる訳にはいかない。早々に立ち去れ」

 道鏡が右手で合図すると後ろに控えていた兵たちが輿を取り囲んだ。不破内親王が輿の御簾を上げ、道鏡に向かって金切り声を上げたが、兵たちは無視して輿を引いて行く。山部王は立ち上がって道鏡に抗議しようとしたが、三人の兵に囲まれて動きを封じられ、輿が連れて行かれるのを見ているほかなかった。

 抗弁も聞かず、旅立つ準備もさせず引き連れて行くとは無道の極み。道鏡の非道を許すことはできない。

 気がつくと道鏡と兵は消え、壬生門の前には山部王だけが残されていた。

 結局自分は何もできなかった。道鏡の手先となって不破内親王様を連れてきただけだった。内親王様を好きになれないが、気の毒なことをしてした。殺されなければよいが……。

「何もしていない妹を土佐に追いやるとは、称徳天皇はひどい人間です」

 聞き覚えのある声に振り返ると井上内親王が立っていた。

「称徳天皇は道鏡を天皇にするために、皇位継承権がある人間を一人ずつ潰しに掛かっています。次は私と他戸おさべが標的になるでしょう、天智天皇の血を引く白壁王も潰す人間の名簿に入っているはずです」

「本当に天皇様は、卑賤の出である道鏡禅師に皇位を譲ろうと考えているのでしょうか」

 山部王は内親王に鼻で笑われた。

「お前は卑官だから、宮中で起こっている騒ぎを知らない」

 従五位上は卑官ではないし、大学助という役職も賜っている。井上内親王様は人を見下し、いつも癪に障るような言い方をする。

「宮中で起こったことを知らない山部に教えてやろう。大宰帥だざいのそち(太宰府長官)の弓削浄人ゆげのきよひと大宰主神だざいのかんづかさ習宜阿曾麻呂すげのあそまろが、『道鏡法王を皇位につければ天下は太平になる』という宇佐八幡宮の神託を奏上してきて、天皇は我が意を得たとばかりに喜んで神託を朝議で披露した」

「弓削浄人は道鏡禅師の実弟です。神託は兄を天皇にするためのでっち上げでしょう」

「山部も多少は知恵が回るらしい。神託は、天皇と道鏡一味が仕組んだ白々しい芝居で間違いない。台閣の公卿たちも良い顔をしなかったから、天皇は、和気清麻呂わけのきよまろを勅使として宇佐八幡宮に下向させた」

「和気清麻呂殿とは誰でしょうか」

「天皇の身の回りの世話をしている尼の弟で、天皇と道鏡の忠実な下僕だ。清麻呂は天皇の言うことなら何でも聞くから、宇佐八幡宮に遣わせれば、天皇が思うままの神託を持ち帰る。清麻呂が帰ってくれば道鏡が天皇になるから公卿らが騒いでいる。山部も何とかせよ」

「何とかせよと言われましても……」

 井上内親王は山部王の答えを聞かずに宮中に消えてゆき、山部王は溜め息をつきながら内親王の背を見送った。

 毎度の事ながら井上内親王様と話をすると頭に来る。内親王様に言われなくても何とかしたいが、何をどうすれば良いのだろうか。

「ひどい目にあったな」

 声の主は種継だった。法衣を身にまとった早良王も横にいる。

「種継は美作から帰ってきていたのか。早良はちょっと見ないうちに背が伸びた。二人とも一部始終見ていたのか」

「俺は道鏡が詔を読むところから、早良王は井上内親王様が山部王を責めているところから、生暖かく見守っていた」

「二人とも人が悪い。近くにいるのなら助けて欲しかった」

「嫌だよ兄さん。自分は井上内親王様が苦手で、前に出ると何も話せなくなる」

「内親王様はともかく道鏡の横暴は目に余るし、天皇になるなんて許されない。仲麻呂卿を倒したのに、天下は良くなるどころか、輪を掛けて変になってきた」

「道鏡を天皇にすることが、称徳天皇様のご意志であれば、謀反を起こして世の中をひっくり返すか」

「種継は宮の前で何を言うのか。誰かに聞かれたら逮捕されるぞ」

 種継が「じゃあ宮から離れて話をしよう」と言い、三人は並んで山部王の屋敷に向かって歩き出した。

「何とかしたいが、天皇様は畏れ多い」

 はぐれ雲が日を隠すと急に暖かさが抜けて行く。道ばたの蛙は人間世界のことなど関係ないとばかりに鳴きだした。

「宮中で同志を募り天皇様に奏上しよう」

「無理だよ。天皇様は兄さんたち中級官人の話を聞くお方じゃない。奏上なんかしたら罰を受けるからみんな尻込みしちゃうよ」

「同志を募るのは無理か。ならば、道鏡を襲って亡き者にする」

「山部王が動くのならば、俺も協力しよう。ただ、道鏡は年をとっているが屈強だから、一対一で戦えば返り討ちに遭うかも知れないし、名前を覚えられたら呪い殺されるかも知れない。天皇様を骨抜きにした男だ。手強いぞ」

「種継はふざけていないで真面目に考えてくれ。国家の将来が掛かっている」

「二人とも落ち着いて。道鏡は法王宮にいて兵に守られているから忍び込んで殺すなんてできないよ。第一、法王宮は宮中にあるから、忍び込んだ時点で殺されても文句は言えない」

「道鏡と差し違えることができれば死など恐れない」

「種継兄さんはもう少し慎重になって。二人だけで押し入っても、道鏡にたどり着く前に殺されるから、差し違える事なんてできない。ところで、天皇様に自信があれば、大宰府から神託が届いた時点で道鏡に譲位していると思う。道鏡を天皇にすることには公卿たちの反対が強いし、天皇様にも気が咎めるところがあるから、清麻呂という人を宇佐八幡宮へ向かわせたんだ。清麻呂が『道鏡禅師を天皇にせよ』という神託を持ってくれば公卿たちは反対できないだろう。兄さんは天皇様と神様がおっしゃることに反対できる?」

「清麻呂が神託を持ってこなければ道鏡は天皇になれないのならば、清麻呂を襲って神託を奪えばよい」

「清麻呂は勅使だよ。勅使には護衛の兵が付いているし、自分が道鏡なら、清麻呂が無事に戻ってくるよう、変なことをしないよう、息が掛かった者を見張り兼護衛に付けておく。兄さんや種継兄さんのように殺気だった人間が近づいたら間違いなく殺されてしまう」

 山部王は腕を組み「うーん」と唸ってしまった。種継にも良い案はないらしい。

「天皇様や道鏡に会うことはできないが、清麻呂ならば会えるかも知れない」

「井上内親王様の話では、すでに下向している」

「都に帰ってくるところで捕まえよう。難波津から平城京へは大和川を遡ってくる。爺さんに頼んで大和に網を張ってもらえば清麻呂に合うことができる」

「清麻呂の居場所が分かっても、護衛の壁は突破できるの。会ってどうするの。清麻呂を殺す? 例え、清麻呂が帰る途中に殺されて神託が届かなかったとしても、次の勅使が出されるだけよ。そして兄さんは罪人として処刑されちゃう」

「早良の言うことはもっともだが、何かしなければならない。大和へ行って清麻呂を迎えよう。会うことができたなら、その後は成り行きだ」

 三人が山部王の屋敷に着いたとき、ポツポツと梅雨空から雨が降り出した。

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