保良宮の大事件

保良宮の大事件

 山部王が再び出仕するようになってから三ヶ月後の、天平宝字五年(七六一年)十月、孝謙太上天皇は大炊天皇や公卿百官を引き連れて保良宮(滋賀県大津市、瀬田川右岸)に行幸した。孝謙は、滞在中に床から起き上がることができないほどの病に罹り、年内に平城京へ帰還する予定が保良宮で年を越してしまった。藤原仲麻呂は道鏡禅師を長とする看病禅師団を組織して孝謙の平癒を祈願したが、病は長引き五月になるまで床から抜けられなかった。

 天平宝字六年六月一日、水無月が始まるのを待っていたかのように朝から大雨が降っている。雨幕が通り過ぎるたびに、保良宮の屋根が大きな音を立てて、遠くの山は雨に煙って輪郭が薄くなっている。

 山部王と種継は、「孝謙太上天皇様が平城京に帰還するから車駕を用意するように」と命じられて、車駕がしまってある倉庫を目指した。蓑は全く役に立たず、軒下から五歩も踏み出さないうちに頭から足の先までずぶ濡れになった。

「何も大雨の日に帰らなくても良いじゃないか。太上天皇様が元気になられたのは喜ばしいことだが、雨に濡れたら病気がぶり返してしまう」

 種継の返事は雨の音で聞き取りにくい。蓑を着ているので動きにくいし、濡れた衣が体に張り付いて気持ちが悪い。

 山部王は頭からしたたり落ちてくる雨水を拭うのを止め、ついでに蓑も脱ぎ捨てた。

 蓑を脱いだおかげで身が軽くなる。衣を洗って流れる雨も温かく気持ちよかった。

「種継も蓑を脱いでみろ。泳いでいるみたいで気持ちが良いぞ」

 山部王と種継が力を合わせて倉の扉を開けたときに、車駕を引く牛が到着した。牛たちも大雨の中を引き回されて迷惑そうな顔をしている。

 山部王たちが車駕を出すのに手間取っていると「早く出せ」という声が掛かってきた。山部王と種継は「せいの!」というかけ声を出して車駕を倉から出した。

 牛を付けた車駕を宮の前に持って行くと、孝謙太上天皇が出てきた。采女たちは太上天皇が濡れないように、車駕までの道に何重にも筵を敷き、舎人が二人がかりで大きな傘を差した。

 山部王と種継は、顔を泥水につけるくらいまでひれ伏す。

 車駕が動き出す音で立ち上がり、門を出るまで頭を下げて見送った。

 やれやれと伸びをすると、両手は泥だらけで、衣の裾や膝が泥水で茶色く染まっていた。

 汚れた衣はすぐに洗いたいし、湯を使って濡れた体を拭いて、乾いた衣に着替えたい。火を使う厨に干しておけば、梅雨時でも乾きが早いだろう。

 山部王と種継が舎人寮に向かおうとしたとき、宮内省の役人が宮から出てきた。

「太上天皇様に続いて、天皇様と仲麻呂卿も平城京へお帰りになる。お二人の車駕を用意せよ」

 山部王と種継は顔を見合わせた。

「雨の中をお帰りになるのですか」

 役人は、

「さっさと準備に掛かれ。天皇様を送り出したら、お前たちも都へ戻るのだ」

 と言い残して宮の中に入っていった。

「太上天皇様の大雨を押しての御帰還。続いて天皇様と仲麻呂卿が車を出して、末端の自分たちも都へ帰るようにという命令が出た。国家の一大事かあったに違いない」

「山部王は考えすぎだ」

「国家の重鎮が何の前触れもなく揃って帰還されるのだ。種継はもっと真剣に考えろ。病み上がりの太上天皇様が帰る理由とは何か。大宰府に新羅が攻めてきた。平城京か摂津で謀反が起こった。東北の蝦夷が大規模な反乱を起こしたのか。それとも、四国で天変地異が起こったのか。いずれにせよ国家を揺るがす大事件に違いない。自分たちもうかうかしていられない」

 山部王の言葉に種継が「何か?」と調子の外れた声で尋ねてきた。

「天下の一大事だ。自分たちも都に急行して国のために働くぞ」

 種継の返事は、再び降り出した強い雨に消されてしまった。

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