第二章 藤原宿奈麻呂の陰謀
井上内親王
他戸王の誕生
橘奈良麻呂の変の後、山部王は大和郷の母親の実家に戻って暮らした。
事変の翌年に孝謙天皇は大炊天皇(明治時代に淳仁天皇と追諡)に譲位して
橘奈良麻呂の変から四年経ち、ほとぼりも冷めた天平宝字五年(七六一年)七月、山部王は実父の白壁王に異母弟が生まれたことを祝うために、弟の
久しぶりに訪れた
屋敷を囲む塀は、お世辞にも白いとは言えないほどに黄色く変色していたり、緑色の苔が張り付いていたりしたはずだったが、塗り替えられた漆喰の白さが眩しい。山部王と早良王が幼いときに調子に乗って書いた落書きもきれいに消されている。
庭は玉石で覆われていて土は見えず、雑草は一本も生えていない。箒で掃いた筋が川のような模様を作っていて美しい。
庭に馬を入れることがためらわれたので、山部王たちは門の柱に馬の手綱を繋いだ。
早良王も目を白黒させ、場所を間違えたのではないかとあたりを見回している。
門の横には、多くの実をつける梅の古木があったはずだが、人よりも大きな獅子の置物になっていた。庭の野菜畑や鶏小屋は、築山と池に代わっている。築山の上には石灯籠があり、池には鴨の親子が泳ぐ。
母屋こそ前のままだったが、床は張り替えてあり、資人や下人の数も増えていた。
山部王と早良王は奥の部屋で父親の
「爺さんがお祝いに持ってゆけって渡してくれたものです」
山部王が土産の品を差し出すと白壁王はうれしそうに受け取ってくれた。
「山部も早良も元気そうで何よりだ。山部は色が黒くなった。爺さんや母さんと一緒に野良仕事をしているのか。早良は一回り大きくなった。四書五経の勉強は進んでいるか」
父さんは五十三歳になって、髪に白いものが目立つようになったが、声にも肌にも張りがあり元気そうだ。
「朝廷の様子はどうですか」
「相変わらずだ。仲麻呂卿を頂点として一大派閥ができている。台閣は仲麻呂卿が支配していて、儂らは何もできず、お飾りでしかない。大炊天皇様は政を仲麻呂卿に任せきりだから、仲麻呂卿が増長しまくっている」
「父さんは従三位をもらったんだろ」
「儂の従三位は、仲麻呂卿が息子たちを引き上げるための口実に使われたに過ぎない。最近は仲麻呂卿の家は他の藤原家とは違うと言い出した」
「仲麻呂卿を快く思わない公卿百官も多いでしょう」
「仲麻呂卿に異を唱えるものは閑職を当てられたり左遷されたりしている。公卿らは目をつけられないように文句を控えている。儂も井上内親王をもらっているから目をつけられている一人だ」
井上内親王は聖武天皇の娘で、長く伊勢斎宮を勤めていた。内親王と身分が高いことや伊勢斎宮も勤めたことがあることから、適切な嫁ぎ先が見つからず、困った聖武天皇は、皇族である白壁王に嫁がせていた。井上内親王は孝謙太上天皇の異母妹にあたるが、仲は非常に悪かった。
「内親王の夫だからということで、従三位に叙せられたが、儂は仲麻呂卿とは距離を置いてきたし、太上天皇様と井上内親王の仲が悪いということもあって、仲麻呂卿は儂を追い落とす機会を待っている。儂は難を逃れるために酔っぱらいのふりもすれば、朝議に無断欠席することもある」
白壁王が溜め息をついたとき、入り口の戸が開いて井上内親王が入ってきた。
内親王は、鮮やかな赤色に金糸の刺繍がある衣を着て、髪には金銀で飾られた櫛を刺していた。二重瞼の目はすっきりとして、鼻筋も通っている。頬は桃のような艶と張りがあり、唇にさした紅は艶めかしい。子供を産んだとは思えないくらいに体は細く、上から下までとても四十五歳には見えない。出会う人のすべてが美人と評するだろう。伊勢斎宮を長く務めていただけあって、歩く姿は見とれてしまうくらい優雅だ。
井上内親王は、両腕で白い絹の産着にくるまれた
父さんも井上内親王様も高齢のくせに、よく子供を作る。自分も嫁さんを見つけて家族を作りたい。
山部王が顔を上げると井上内親王は赤ん坊をあやしていた。
「かわいい赤ちゃんですね」
「うちに来るのなら、もっと良い土産を持ってきなさい。まったく、田舎の郡司は気が利かない」
あいかわらず口が悪い。井上内親王様は性格が悪いから美人が台無しになる。伊勢斎宮として下にも置かれない扱いを受けていたから、我が儘で人の気持ちを慮ることができないのだろう。久しぶりに会ったのだから、お愛想の一つでも言えばよいのに、皮肉や憎まれ口を叩くのが分かっていたから、祝いの品だけを父さんに渡して帰りたかった。
「次に来るときは襁褓をたくさん持ってきます」
「襁褓はたくさんあります。
白壁王の「うんざりだ」という目を見ながら、山部王は「承知しました」と答えた。
井上内親王は、赤ん坊がぐずりだしたので、あやしながら出ていった。
白壁王が溜め息をつく。
山部王は気になっていることを聞いてみた。
「屋敷は一体どうしたのですか」
「びっくりしたろう。井上は、儂が従三位になるまでは離れて暮らしていたのに、いきなり押しかけてきたと思ったら、屋敷を変えまくっている。塀、庭といじって、家の中も変えたが、まだ気に入らないらしく、屋敷を建て替えると言い出した。孝謙太上天皇様に睨まれるから止めておけと言うと、ムキになって怒り出す。あいつが儂の季禄を全部食べている」
「ご姉妹の仲が悪いというのは本当のことなのですね」
「井上のことは置いといて、お前も出仕しろ。儂が従三位になれたから、お前も従五位くらいは下賜されるだろう。五位になれば都に屋敷も持てるし将来も開けてくる。良家の娘をもらうこともできる。幼い頃から四書五経や政を学んでいれば、大和郷で一生を過ごすよりも朝廷で出世しろ」
畑仕事や村人とのつきあいは嫌いじゃないし、仕事の合間に馬で駆けたり鷹狩りしたりするのも楽しいが、田舎暮らしには飽きてきた。学んだ漢籍や律令を仕事に生かしてみたいし、法隆寺で見た十七条の憲法も忘れたわけではない。父さんが従三位になったので、自分にも官位がもらえるのであれば、宮仕えも悪くない。大和郷にいては、嫁の当てが全くないのもつらいが……。
「自分は橘卿の変のときの事があるので」
「罪に問われなかった下働きのことなど誰も覚えていない。仲麻呂卿の力が大きいとはいえ、子供を大学寮に押し込むことくらいはできる」
「大学寮はさすがに知った顔が多いので、
「山部がその気になってくれるのなら、儂の方で取りはからっておこう」
「早良は東大寺で仏教を学びたいと言ってます。四年前に法隆寺の和尚さんの話を聞いてから、折を見て通っているようです。漢籍も正式に学びたいようです。早良も将来について考えることがあるのでしょう」
「早良のことも任せておけ。爺様や
「保良宮?」
「大津に仲麻呂卿が作っていた宮が完成した」
「聖武天皇様のように遷都を繰り返すようになるのでしょうか」
「仲麻呂卿は遷都を行って国を疲弊させるほど馬鹿ではない。宮と名乗ってはいるが別荘で、孝謙太上天皇様のご機嫌取りだ。仲麻呂卿は上に取り入ることがうまい。どうだ、久しぶりだから飯でも食べてゆけ。爺様や母さんにお礼の品を持っていってくれ」
白壁王はうれしそうな顔をし、早良王を連れて部屋を出て行った。
西の空は鮮やかな夕焼け色に染まっていた。夕餉の香りが漂ってきたと思ったら、腹が大きな音を立てた。
山部王は白壁王の伝手で
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