千年の都
しきしま
第一章 橘奈良麻呂の変
十七条の憲法
十七条の憲法
奈良時代の中葉にさしかかった天平勝宝九年(七五七年)三月の終わり、
山部王は天智天皇の曽孫にあたり、れっきとした皇族なのだが、庶流の出であり「王」と名乗ることが許されていても、皇位はおろか朝廷での出世も望めない末端皇族であった。
父親は
山部王は、「四月から朝廷に出仕すれば、しばらくの間、早良と遊んでやれなくなる」と考え、馬に乗れるようになったばかりの早良王を連れて遊びに出たが、高安山まで行く途中、斑鳩に入ったところで雨に降られてしまった。山部王たちは、近くに寺を見つけると、雨宿りのために馬を寄せた。
「はじめての遠乗りが雨に祟られてしまったな」
山部王は早良王が馬から下りるのを手伝いながら声をかける。早良王は八歳になったばかりで、馬に乗って走ることはできるが、体はまだ小さくて、乗り降りは誰かに手伝ってもらわなければならない。
山部王は手早く二頭の馬を近くの樫の木に繋ぐと、弟の手を引いて山門に走った。
二階建ての重厚な造りの門は、寺の歴史と格を感じさせ、覆い被さるように張り出ている軒は、二人に雨宿りの手を差しのべてくれている。
二人は石段を早足で登り、軒下で雨粒をはたく。
「兄さん、このお寺は」
「法隆寺だ。聖徳太子が建立した由緒あるお寺だ。早良は初めて来たのか」
早良王は首を縦に振って門の中に入っていった。
山部王が早良王の後を追って門の中に入ると、早良王は蛇に睨まれた蛙のように、斜め上を見て固まっていた。
「仁王様だ」
仁王像は山部王たちを憤怒の形相で睨みつけてくる。今にも動き出しそうな体は筋肉の鎧で覆われ、腕は棍棒のように太い。大きな拳骨は岩でさえ粉々に砕き、眼力だけで飛ぶ鳥を落としそうだ。開いた口から火を噴き出すかもしれない。
「動き出しそうで恐い。なんで仁王様は怒っているの」
「えーっと、それはだな…… 早良のおねしょだ」
早良王は、「もう兄さんたら」と頬をふくらませた。童顔の早良王は何をしても可愛らしい。
「金剛力士像といい、寺の中に仏敵が入らないように睨みを利かせているのです」
突然の声に驚いて振り向くと、ねずみ色の衣に身を包んだ初老の男が立っていた。二人が深くお辞儀をすると、男は会釈を返してくれた。
「口を半開きにしているのが阿形像、反対側にある口を閉じている像が吽形像です。二体あるので仁王様とも呼ばれています」
男に言われて反対側の像を見ると、確かに口を閉じていた。吽形像も阿形像と同じく筋骨隆々で今にも動き出しそうだ。
「お二人はどちらからいらした」
「大和郷から来ました。
「それでは、山部王様と早良王様でしたか。私はこの寺の住職です」
山部王は、「『様』と言われましても」と頭を掻く。
「年の離れたご兄弟ですね」
自分は二十一歳だから、早良とは十三離れている。皆にからかわれるが、兄弟の年の差については親に文句を言って欲しい。
「今日は雨宿りのお客さんが多い。門の下では寒いでしょう、雨が止むまで外の仕事をすることができないので、法隆寺の縁起や仏様のお話をしましょう。本堂へいらっしゃい」
早良王は「わー」と大声を上げながら、雨の中を本堂目指して駆けだしてゆく。
寺は四方の白壁によって世間から隔てられ、清い空気に満たされていた。世俗の垢や埃は微塵もなく、雨でさえもすがすがしい。敷き詰められた白い玉石が雨に濡れて艶を増し、落ち葉一つもないほどに掃き清められた庭は、竹箒でつけられた筋が川のように見える。右手の本堂は威風堂々とした姿でたたずみ、左手の五重の塔は空に向かって伸びていた。
本堂には二人の先客がいた。薄暗さに目が慣れるにしたがって客の輪郭が明らかになってくる。
「
と叫びながら、早良王は右に座っていた女に飛びついた。
明信は烏の濡れ羽色の黒髪を腰まで垂らしていた。二重の目は爽やかでおちょぼ口、鼻筋も通っていて、誰もが振り向くほどに顔が整っている。薄桃色の衣が若さと艶やかさを引き立てていが、百済王一族らしく、馬にも乗れば剣も振るうことができる。面倒見が良い性格で、笑顔を絶やすことがないから、明信の周りには人が集まる。
明信は早良王を胸に抱きかかえると、やさしく頭を撫でた。
小さな子供は何をやっても許されるからうらやましい。自分も明信と一緒に暮らせたらどんなに幸せだろうか。しかし、今の自分は無位無冠で、やっと大学寮にもぐり込めたに過ぎない。将来が望めない男と一緒になってくれるような女はいないから悲しくなる。
明信の横に座っていた男が「やあ」と言って右手を挙げた。
「
藤原種継は藤原鎌足の曽孫である。父の清成は早世していたので、母親の実家である
種継と明信が一緒にいるということは、二人は逢い引きをしていた? 自分の知らないところで、二人ができているとしたらしたら嫌だな。
「山部王と早良王か。入って来るなり何をやっているとは失礼な。俺らは聖徳太子様のありがたい教えを学ぼうと来ているのだ」
「嘘よ。雨宿りさせてもらっているだけよ」
明信は早良王を膝に抱いて、山部王に手を振って答えてくれた。
明信の笑顔はいつ見ても癒やされる。
「冴えない者同士は引き合うとはよく言ったものだ」
「種継は冴えないかも知れないが、自分は違うぞ」
「俺は今をときめく藤原一門だが、弱小の分家で山背国で燻っている。山部王は皇族だが二十を過ぎても無位無冠、出世する見込みはない。冴えない者同士と言ってよかろう」
「自分はまだ二十一になったばかりだ。叙位されたら昇進を重ねて大臣になってやる」
「その意気だ。山部王が左大臣になったら、俺を大納言にしてくれ」
種継は横に座った山部王の背中を叩きながら豪快に笑った。
住職が本尊である金銅釈迦三尊像を背にして座ると山部王たちは頭を下げた。
「皆さんお知り合いなのですか」
「幼なじみです。ふたりは藤原種継と百済王明信といいます。みんな同い年の二十一です。和氏と百済王氏、秦氏は親戚なので、昔から連れだって遊んでいました」
「雨をよけて集まった人がすべて幼なじみとは奇遇な事です。仏様のお導きでしょう。聖徳太子様の教えをご希望とあれば、雨が止むまで聖徳太子様と法隆寺の縁起について、私がお話ししてさし上げましょう。そもそも我が法隆寺は、聖徳太子様が斑鳩の地に居を定められたときに創建されたお寺で……」
初めて聖徳太子の話を聞く早良王は興味深そうに聞いているが、種継は早々に船をこぎ始めた。山部王と明信が種継を肘で小突くと、種継は一旦起きるが、すぐにまぶたを閉じて居眠りを始める。
「……我が国に仏教が伝えられたのは欽明天皇様の御代ですが、聖徳太子様が我が国の仏教の祖と言ってよいのです。雨が上がったようですので、私の説教も終わりにいたしましょう」
住職の話が終わると同時に日の光が差してきて本堂の中が明るくなってきた。
光の中に、天井の鳳凰や、壁の阿弥陀仏など極彩色の壁画が現れる。早良王は明信の膝を飛び出し壁画に走り寄った。
山部王の目に、力強い筆で書いてある一文が入ってきた。
『
「良いところに気づかれました。壁の書は聖徳太子様がお定めになった十七条の憲法です。太子様は百五十年以上前の方ですが、『人々の和を大切なものとしなさい。争いを起こさないようにしなさい』など、当世でも十分に通用する大切な教えを残されました。私が住職を引き継いだときに、お参りに来る人に知っていただきたいと思って書きました」
『
今の世の中は天皇様や藤原仲麻呂卿をはじめとして、上の方が自分のことばかり考えて、国家の将来や民を顧みていないから、官人や民も律令を守らなくなっているのだ。
奈良時代に入り、国家の枠組みが安定すると、有力者たちは権力争いを起こし始めた。長屋王の変や
『
民から集めた税で贅沢な宴を繰り返している奴らに聞かせてやりたい。太子の教えに心が洗われるようで、読んでいて涙が出てきてしまう。十七条の憲法には国家の理想が書いてある。聖徳太子が理想とした国家は、自分が日頃からもやもやと思い浮かべていた姿だ。自分も偉くなって、聖徳太子が理想とした国を創ってみたい。
「住職様のおっしゃるとおり、十七条の教えのすべてが現代に通じています。とても百五十年前の人の言葉とは思われません。自分も太子様の教えを実現できたら良いと思います」
「山部王様は皇族であれば、いずれ国家の重責を担われることになるでしょう。偉くなって官人や民を率いるようになったら、太子様の言葉を思い出して下さい」
偉くなったら……。
朝廷は、孝謙天皇様の寵臣である藤原仲麻呂卿が力を持ちすぎている。増長した仲麻呂卿は政を私しているから世の中が乱れているのだ。仲麻呂卿は
だが、二十一になっても従五位下すら下賜されない自分にとって、仲麻呂卿は雲の上の存在だ。政のことを考えるのは楽しいが、現実には希望がない。
山部王がため息をついたときに、「おーい」と種継が戸口から呼びかけてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます