山部王逮捕
山部王が勤めを終えて大学寮の建物を出ると小雨が降っていた。小さな雨粒は山部王の顔を濡らした。雲は厚く、じきに本降りになるのだろう。
楽しい時間はあっという間に過ぎてゆくが、速く過ぎて欲しいと思っていると、時間の流れはじれったいほどに遅い。今日ほど時の進みがまどろっこしい日はない。仕事を終えて一刻も早く安全なところへ逃げたいと思っていても、時の経つのが遅すぎる。衛士が自分を捕らえに来るかもしれないという思いで、足音の一つ一つに体が痺れた。鼓動の高鳴りが手や足に移って震え出すたびに、深呼吸をして手足を落ち着かせた。一刻も早く安全なところへ逃げなければならないが、不審なそぶりを見せてはいけない。同僚たちに自分の動揺を見られたかもしれないと思うと気が気でない。仕事など手に付かないが、逃げ出しては自ら一味であると白状しているようなものだ。もし、空を飛ぶことができるのならば、仕事など捨てて飛んで行くのに、鳥でない身が恨めしい。
山部王は雨に濡れた顔をぬぐった。
自分は、雨が降り出したことに気づかないほど緊張していたのか。平静を装って仕事をしていたが、よく考えれば、体調が悪いから早退するとか、厠へ行くふりをして抜け出れば良かった。律儀に仕事が終わるまで大学寮にいる必要はなかったのだ。
雨が降っているから、走って帰っても不審に思われない。早く、できるだけ遠くに逃げなければならない。父さんの屋敷に着いたら、馬を借りて大和郷の実家へ行こう。大和郷の家で旅支度を調え西国に逃げる。西国へ行ってからは出たとこ勝負だ。
仲麻呂卿を倒すという企てが完全に露見したわけではないと思う。首謀者はおろか、下っ端の自分が謀反に加わっているということは知られていないはずだが、小野様が部屋に戻って来ないことが気になる。小野様は捕まってしまったのだろうか。
「山部王だな」
体にずしりとくるような太い声に振り向くと、鎧に身を固めた二人の衛士が立っていた。二人は山部王よりも背が高く腕も太い。甲は着けていないが、腰には大太刀を佩き、身の丈より長い
「左衛士府まで来てもらう。謀反について洗いざらい白状してもらう」
「自分は謀反など考えたこともない」
「山部王が黄文王の屋敷に出入りしていたという証言がある。知っていることを教えてもらう。おとなしく付いて来れば良し。逆らうのなら杖に物を言わせる」
山部王は右腕をぎゅっと捕まれた。
「痛いぞ。放せ。自分を皇族だと知っての乱暴か」
「謀反は八虐の罪だから、皇族や貴族であっても減刑されることはない。藤原仲麻呂様からは、皇族であろうとも容赦するなと言われている。覚悟することだ。すでに
黄文王様が捕らえられているとしたら、屋敷に出入りしていた自分もやばい。左衛士府へ連れて行かれれば、厳しい拷問が待っている。自分は拷問されて殺される。父さんは、朝廷で発言力があるわけではなく庇ってもらうことは望み薄だ。むしろ、息子が謀反に関係したとして官位を取り上げられてしまうだろう。左衛士府に連れて行かれたらおしまいだ。なんとしても衛士から逃げなければならない。
「自分は、橘卿とは関係ない」
「俺は黄文王と言ったが、橘様とは一言も言っていない。橘様との関係について詳しく聞かせてもらう」
右腕を強く振り払って走り出そうとしたとき、山部王は足を引っかけられて顔から転んでしまった。
鼻を地面に打ち付けると、目の前に火花が散り、濡れた土が口の中に入ってきた。
音がするほどに、背中を杖で打ち据えられ、鋭い痛みが背中から頭のてっぺんと尾てい骨に走ってゆき手足が痺れる。痛みにもがいて仰向けになると、今度はみぞおちを突かれた。酸っぱい胃液が口に逆流し、苦しくて息ができなくなる。泥の上で体をくの字に曲げたところで、二人の衛士に両脇を持ち上げられた。
「手間を掛けさせるな。左衛士府に行く前に、この場で叩きのめしてやろうか」
大学寮から出てきた
同僚の罪人を見るような視線が辛い。自分は天下国家のために藤原仲麻呂卿を除こうとした。だから罪を犯したわけではない、と言いたい……。
天皇様の寵臣を殺そうとしたのだから謀反に違いないが、政を私している藤原仲麻呂卿を除くという志は間違っていないはずだ。
「キリキリ歩け」
山部王は拳骨で右の頬を殴られた。痛さに思わず涙が出る。口の中を切ったのか、泥に混じって血の味がしてきた。杖で突かれたみぞおちと背中がずきずきと痛む。雨と泥にまみれた顔を拭おうとしても、両腕を抱えられているので手を動かすことができない。泥水に濡れた衣がぴったりと体に付いてきて気持ちが悪い。
自分は拷問されて殺されるのか。
まだ二十一歳になったばかりで、やりたいことはいっぱいある。官位官職はもらっていないし、嫁はおろか、相聞歌の一つも交わしたことがない。律令国家を立て直すという大望もある。犯罪者の汚名を着せられて殺されるなど堪らない。法隆寺で政に志し、天下を変えると誓ったのに、何もできずに人生が終わるとはあまりにもむなしい。
小野様の誘いに乗るのではなかった。
左衛士府の建屋が、閻魔王庁のように見える。中からは鬼に責められる罪人の叫び声が聞こえてきそうだ。自分の両脇を抱えている衛士は閻魔王庁の鬼に違いない。
「山部王さん? どうしたのですか」
透き通るような女の声に三人は立ち止まった。
「お前は誰だ」
「私は
二人の衛士は、山部王を抱えたまま直立の姿勢になって頭を下げた。
「山部王さんが何をしたというのです」
「天皇様の詔にありましたように、都には御宸襟を騒がそうとする輩がいます。我々は大納言藤原仲麻呂様の命を受けて、どのような人間が関係しているのか調べているところです」
「山部王さんが関係しているのですか」
「いえ、山部王殿が橘奈良麻呂様、黄文王様などの屋敷に足繁く出入りしているという知らせがあったので、屋敷の内部を知っていれば教えてもらおうと考えまして、左衛士府まで同行願っているところです」
「衣を泥だらけにし、頬に叩かれた跡を作って、同行と言うより連行ですね」
明信の厳しい口調に、衛士たちは「これは山部王殿が……」口ごもる。
「山部王さんは皇族として立派な人です。山部王さんがあやしい企みに加わっていることなどあり得ません。ただちに手を離しなさい」
「山部王殿が謀反に加わっているかどうかは取り調べてみないと分からないことです」
明信が口を開こうとしたときに、明るい声で、
「山部王に明信じゃないか何をしている」
と割って入ってきた者がいた。
「俺は藤原式家の種継という。話は聞かせてもらった。山部王は橘卿らとは無関係だ。手を離してもらおう」
「藤原仲麻呂様を害しようという企みの全貌を明らかにするためには、山部王殿を取り調べなければなりません」
「山部王は皇族だが式家の縁者でもある。藤原の縁者が謀反に係わっているというのか」
「お
「橘卿の謀反計画は、皇太后様、天皇様、仲麻呂様の知るところです。仲麻呂様が謀反に関係した者を捕らえて全貌を暴こうとしているのです」
「お義父様は右大臣です。大納言である仲麻呂様とどちらが偉いのですか」
「山部王を放してくれれば、お前たちが山部王を痛めつけたことを忘れてやろう」
種継の言葉に、衛士たちは山部王を放すと会釈をして立ち去った。
山部王は積み木が崩れるように、その場に座り込んだ。
額や背中から汗が噴き出し、喉が痛いほどに渇く。杖で打たれた背中やみぞおちが鈍く痛み、口の中は血の味がする。
「山部王さん、本当にどうしたの」
見上げた明信は微笑んでいたが、種継は両腕を組んで難しい顔をしていた。
山部王は礼を言おうとしたが、喉が涸れて咳き込んでしまった。
「山部王も橘卿の謀反に関係していたのか」
声が出なかいので、代わりに肯いた。
「何人も天皇様や仲麻呂様に、橘卿の謀反を密奏したらしい。天皇様は皇太后様の意を受けて、謀反の関係者を注意するだけで済ますつもりだが、仲麻呂様は衛士府の兵を使って謀反の関係者を捕らえている」
「謀反に加わるだなんて、山部王さんは恐ろしいことを考えたのね」
「いくら仲麻呂様が政を私しているからといって、橘卿の謀反に加わるとは、無謀にも程がある。橘卿は過去に
うつむいた山部王の背中を雨が濡らしてゆく。頬はあいかわらず痛い。
「さて、これからどうするかだ。律令で謀反は死罪と決まっている。仲麻呂様は機会到来とばかりに反対派を粛清し権力を絶対にするだろう」
山部王は、種継が伸ばしてくれた手にすがって立ち上がった。
膝が笑って立っていられないし、手の震えも止まらない。種継も明信も「弱った」という顔で見つめてきた。
「とりあえず、うちに来てほとぼりが冷めるまで
「俺の家より明信の屋敷のほうが安全そうだな。でも、何で失敗しそうな企みに加わったんだ」
「道祖王様が皇太子を廃されたことが許せなかった。黄文王様や橘卿となら仲麻呂卿を倒して世の中を変えられると思った」
「山部王の思いは分かるが、行動は浅はかだ。仲麻呂様をよく思っていない人間はいっぱいいる。組むのなら別の人にすべきだった」
「こんなところで話をしていては、また、役人に捕まるかも知れないから、すぐに私の屋敷へ行きましょう」
種継は「俺は、叔父さんたちのところで話を聞いてくる」と言い残して太政官院の方に歩いて行った。
明信の「さあ行きましょう」という言葉に促されて、山部王は後に従った。
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