謀反発覚

孝謙天皇の説諭

 七月二日朝、前日まで降っていた雨は上がり、目の覚めるような青空から太陽の光が降り注いでくる。雨に濡れた草木は生き生きと枝葉を伸ばし、何羽もの燕が気持ちよさげに空を飛んでいる。蝉は雨の間鳴けなかったことを取り戻すかのように騒がしく、乾き始めた道からは何本もの陽炎が立ち上がった。

 自分に与えられた役割は小さいかもしれないが、国を変えるという大仕事の一角を担うことができる。準備は万端整えてある。体からあふれ出る気を同僚に感づかれてはいけない。決起の刻限までいつもと変わらぬように過ごすだけだ。

 山部王が大学寮に入った時、

「孝謙天皇様のお話があるから、全員朝堂院の中庭に並べ。官位のない下働きも含めて全員が天皇様の話を聞くように」

 という触れが来た。

 山部王たちは、「正月でもないのに何だろう」とか「褒美でも下さるのだろうか」と勝手なことを言いながら、朝堂院中庭に並んだ。

 雲のない空から降り注ぐ強烈な日の光で体が焼かれる。背中を垂れてゆく汗が気持ち悪く、うるさいほどの蝉の声が不快さを増している。

 藤原仲麻呂が先導して、孝謙天皇が大極殿から出てくると、中庭は水を打ったように静かになった。

「皆に集まってもらったのは他でもありません。都に不穏な空気が漂っています」

 孝謙天皇の甲高い声が山部王たち百官の頭上に響いてゆく。

「諸王や諸臣の中に反逆の志を抱く者がいて、私兵を備えて大宮を包囲しようとしていると何人もから奏上がありました。私は、公卿百官が明るく清い心で朝廷に仕えてくれていることを知っていますから、逆心を持つ者がいるとは考えられず、初めて奏上されたときには聞き流そうと思いましたが、同じ事を多くの人間が奏上してくるので捨てておけなくなりました。謀反は八虐に数えられる重罪であり死罪に値します。いったん取り調べを始めれば、多くの人を処分しなければならなくなります。政は法に従って厳粛に行うことが大切ですが、温情を忘れては成り立ちません。今回だけは無謀で愚かな心を持っている者たちが改心することを期待します。身に覚えがある者は、すでに事が発覚していることを知り、人に咎められるようなことをしてはなりません。反逆の心を改めようとしない者は、私が慈悲の心を大切にして許そうと考えていても、国法が裁くことになるでしょう。おのおのは、自らの家や一族の名を汚さぬよう、これからも清く明るい心を持って職務に励みなさい」

 橘卿の計画が露見しているのだ。しかも天皇様に!。謀反で捕まれば、死罪もあり得る。

 目の前が真っ白になり何も見えなくなった。

 うるさいほどの蝉の声で我に返ると、鼓動は苦しいほどに高鳴り、息苦しくなってきた。暑苦しさは吹き飛び、首筋を冷や汗が垂れる。手が震え、膝が笑って立っていられない。

 小野東人を探したが見つからない。山部王の位置からでは、橘奈良麻呂や黄文王が並んでいるはずの最前列は見ることができない。

 落ち着け。回りの同僚たちは、天皇様が何をおっしゃっているのか分からないはずだ。取り乱して自分が橘卿の謀議に加わっていたことを知られてはいけない。

 先ずは深呼吸だ。深呼吸して手足の震えを止めよう。

 天皇様は『今回だけは改心することを期待します』とか『清く明るい心を持って職務に励みなさい』とおっしゃったではないか。つまり見逃して下さるということだ。死罪にならずにすむ。

 だが、仲麻呂卿は自身を殺そうとした者たちを許すことができるか。昨日と変わらず、朝廷や台閣で顔を合わせることができるか。傲慢な仲麻呂卿でなくても、自分を殺そうとした人間を許すことはできない。『謀反は八虐に数えられる重罪で死罪に値する』。仲麻呂卿は謀反を口実に政敵である橘卿や黄文王様を潰しにかかるだろう。『いったん取り調べを始めれば、多くの人を処分しなければならなくなります』と天皇様はおっしゃった。自分も謀議に加わった一人として殺されてしまう。今すぐ逃げなければならない。でも、どこへ逃げたらよいのか。

 気を確かに持てと思っていても膝が笑う。指先に血が回らなくて痺れてきた。夏の日差しに射られて暑くてたまらないはずなのに汗が出ない。

 深呼吸をして動悸を押さえ、手足に血をめぐらせる。絶対に取り乱してはいけない。

「五位以上の官人は皇太后様のお話があるので、内裏に移るように、その他の者は解散!」

 という声が聞こえてきた。朝堂院に集まっていたものたちは一斉に騒ぎ出し、山部王の回りでも、あれやこれやと議論したり解説したりする者が出てきた。

 山部王は同僚たちと一緒に大学寮を目指して歩き出した。

 天皇様がおっしゃったことをよく考えろ。

 天皇様は誰が悪いと名前を挙げることはなかった。もし橘卿の計画が全て知られているのならば、官人全員を集めて説教するというじれったいことなどせず、仲麻呂卿が逮捕に動き出すはずだ。都に不穏な空気が流れていて謀反の噂があるが、首謀者や全貌が分からないから、全員を集めて釘を刺したのだ。ということは、小物である自分の名前は知られていない。うろたえて挙動不審なことをしては、自分が一味だということを白状しているようなものだ。今すぐ逃げ出すよりも、仕事が終わるまで平静を装っていた方がよい。午前の仕事が終わったら、身の回りの物を取りに屋敷に戻り、その足で大和郷の実家へ行こう。実家で旅支度をして西国へ行きほとぼりが冷めるまで姿を隠せばよい。

 『同じ事を多くの人間が奏上してくる』ともおっしゃっていた。密告者とは誰だ?

 密告者から橘卿に関係した人間の名前が出ているはずだ。あえて許すとおっしゃった意図はどこにあるのか。五位以上の人が集められたが何をしているのだろうか。

 考えても全く分からない。

「山部王ではないか、元気だったっか」

 声の主は種継だった。種継は屈託のない笑顔をして山部王に寄ってきた。

「顔色が悪いぞ、何か悪い物でも食べたのか」

「ああ、変なものを食べたかもしれないし、風邪を引いたのかもしれない」

「体の調子が良くないのなら無理せず休め。ところで、天皇様のおっしゃったことは分かったか」

「奥歯に物が挟まったような言い方をなさったから、何をおっしゃったのか分からなかった」

「五位以上の人だけ再び集められているようだが、何かあるのだろうか」

「さあな。無冠の自分たちには関係ないことさ」

「そうだな、下々の俺たちには関係ないことなんだろう。ところで、仕事が引けたら、俺の家で飲まないか。梅雨が明けたと思ったら、むちゃくちゃ暑くてやってられない。夕涼みでもしようや」

「五ヵ条の勅が出ている。家で飲み会などやったら捕まるぞ」

「関係あるものか。大々的にやらなきゃわかんないって。それに俺たちのような小者がすこしばかり羽目を外したって、大目に見てくれるって」

 小者であれば大目に見てもらえるのか。

「誘ってくれてうれしいが、今日は体調が悪いから今度にしてくれ」

 山部王は、種継の「そうか、体に気をつけろよ」という声を聞きながら大学寮に急いだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る