小波王女
山部王は橘奈良麻呂や黄文王らの屋敷を行ったり来たりして言づてや文を運ぶようになった。
奈良麻呂からの文を黄文王に渡して返事を待つ間、勝手が分かってきた屋敷の中を歩いて庭に面した縁側に出た。初めて黄文王の屋敷を訪ねたとき、二本の梅の木は白い花を咲かせていたが、今は青い葉を茂らせ多くの実を付けている。
縁側で小波王女が座って棒のような物をいじっていた。
「小波王女」
山部王が声をかけると、小波王女は驚いた様子を見せた後に、にっこりと笑って
「山部王さんこんにちは」
と、挨拶を返してくれた。いつ見ても笑顔がかわいらしい。
「笛の手入れをしていましたの」
山部王はためらいながら小波王女の横に座ると、小波王女は赤色の漆が塗られた笛を見せてくれた。
「椿油を布に付けて磨くときれいになるの。この笛は音色が良くて気に入っています」
「一曲聴かせていただけませんか」
と山部王が微笑んで言うと、「はい」と王女は笛を口にして吹き始めた。
軽やかな笛の音を聞きながら目を閉じると、佐保川の川辺を二人で歩いている姿が見えてきた。山部王が遠慮がちに小波の手を握ると、小波は顔を赤くして握りかえしてくれた。川面は日の光を反射してきらきらと輝き、底から上がってきた魚が白い腹を見せて反転し再び潜っていく。瑠璃色の背中が鮮やかなカワセミが魚を追って飛び込んだ。
「騒がしゅうございました」
気がつけば、曲が終わって小波王女は微笑んでいた。
「とてもすばらしかったです。もっと聞いていたいのですが」
「山部王さんは、お上手ですね」
小波王女は笑顔を絶やさない。こんな娘と一緒になることができたら、幸せになれるだろう。
「今日は何のご用でしたか」
「自分は橘卿の文を黄文王様に届けに来ました」
「お父様と一緒に、朝廷の奸臣を懲らしめようとなさっているのですね」
「小波王女は橘卿や黄文王様の考えていらっしゃることをどこまで知っているのですか」
「全部知っていましてよ。お父様が教えて下さるの。山部王さんもお父様の力になって下さいね」
「もちろんです」
小波王女の手を握ると嫌われるだろうか。
「山部王さんは朝廷で何をなさっているのですか」
「自分は大学寮で史生をしています。いずれは
「すてきな目標ですね。山部王さんは、漢籍とか和歌にも詳しいのですか」
「大学寮で書籍を借りて勉強中です。そういえば、自分の好きな和歌があります。
秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 吾れは物思ふ つれなきものを
(秋の田の稲穂が片方になびくように、わたしはあなたを思っているのですが、あなたはつれないそぶりをしています)」
小波はころころと笑った。
「今は夏の初めですから、稲穂はまだ出てませんが、私も山部王さん恋歌に答えましょう。
おしていなと 稲は
(あなたのことがどうしても嫌だったというわけではありませんが、稲つき仕事をして昨夜はひとりで寝ることになってしまったので、稲の穂が揺れるように心が揺れて落ち着きません)」
小波は口に右手を添えて再びかわいい声で笑った。
『恋歌に答えて』とはなんと響きの良い言葉だろう。小波王女は自分に好意を持ってくれている。
「今度、若草山に遠乗りに行きませんか」
思わず握った小波の手はすべすべして気持ちが良い。
「私は馬に乗れませんし、お父様のお許しをいただかないと」
山部王が握った手を小波はすっと引っ込めた。
「自分は馬が得意です。二人乗りもできます。黄文王様には自分からもお願いしますから、いっしょに遊びに行きましょう」
小波が「そうですね」と答に詰まっているときに、黄文王が部屋から出てきた。
山部王は慌てて立ち上がり頭を下げる。
「橘卿には、決行が七月二日の亥の刻(午後十時)であれば、最後の打ち合わせは六月二十八日の酉の刻(午後六時)に太政官院にて行うのが良いだろうと伝えてくれ。準備が整い事を起こすときがきた。山部王には小野殿と一緒に内裏の警護の役を担ってもらう」
「承知しました。黄文王様に与えられた役割を十二分に果たして見せます」
小波は、「お仕事頑張って下さいね」と、笑いながら立ち上がって、黄文王と一緒に部屋の中に入ってしまった。
頭を上げると、夏の強い日差しが顔に照りつけてきた。蝉の声は応援歌のように聞こえる。深呼吸で吸い込んだ空気は、勝利の確信を全身に運んでくれ、気がつけば拳を痛くなるほどに握りしめていた。
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