第三章 藤原仲麻呂の乱

藤原讃良

東大寺の密会

 生駒山から下りてきた秋茜の群れが平城ならの空を彩る季節になり、山の猿は木の実集めに忙しく、鹿の群れが林を駆けている。色づき始めた山が錦を纏ったようになるまでにはまだ時間がかかりそうだ。稲穂は重たそうに垂れてきた。もう半月もすれば稲刈りを始めることができるようになるだろう。春に長雨が続いたので収穫が心配されたが、夏は好天に恵まれ今年は豊作になるという。佐保川や堀川では鮎が落ち始め、漁を生業としない人たちまでもが川に入って精を出している。平城京は何事もなく過ぎているように思えた。

 季節は移り変わるのに、人の世はなかなか変わらない。宿奈麻呂すくなまろ様の事件は、池に投げ入れた小石ほども波を立てなかった。宿奈麻呂様は仲麻呂卿を倒そうとしたが、仲麻呂卿は迅速かつ見事な処理で、かえって権力を強固なものにしてしまった。宿奈麻呂様は、道鏡禅師が太上天皇様に取り入ることで、仲麻呂卿の力に陰りが出てきたと言っていたが、朝廷で下働きしている身としては、仲麻呂卿の力は絶大で、何も変わっていないように思える。

 朝廷と同じように、自分も文字どおり十年一日の生活をしている。二十九になるというのに中衛府の下働きしかできないから、親から独立することも、嫁をもらうこともできない。有力氏族の息子であれば、二十一で従五位下が与えられるというのに、自分には官位がもらえる兆候すらない。もっとも、宿奈麻呂様の変で、仲麻呂卿に殴りかかったから官位など望むことはできない。お目こぼしで中衛府にいられるだけましなのかもしれない。

 宿奈麻呂が謀反に失敗してから一年半後の天平宝字八年(七六四年)九月九日、山部王は、袋いっぱいの荷物を背負って東大寺の山門をくぐった。

 大仏殿を右手に見て歩けと早良に教えてもらったが、大小の建物が多すぎて、どこに早良がいるのか、さっぱり分からない。

 山部王は近くの建屋に入って、早良のことを尋ねたが居場所は分からない。しだいに足はつらくなり、担いだ荷物は肩に食い込んできた。

 山部王はうんざりしながら何棟目かの建屋に入った。

「お前は何者だ!」

 突然の怒鳴り声に、思わず背筋を伸ばした。

「我らの話を立ち聞きしていたのならば、ただでは済まさん」

 山部王は土間に腰掛けていた三人の男に睨みつけられた。

 一人は老年で白髪、気難しそうに目を吊り上げている。一人は中年で精悍な顔つきだが融通が利きそうにない。最後の一人は壮年で色黒、太刀を佩いているので武人らしい。

 三人で密会して何を話していたのかは知らないが、かなりやばい状況だ。許しなく動けば武人が太刀で斬りつけてくるかもしれない。

 三人は共に気品がある。朝廷でそこそこの役職をもらっているのだろう。

「何者かと聞いている。姓名と官職を名乗れ」

「自分は山部王といいます。中衛府将曹ちゆうえいふしようそうをしていますが無冠です」

「王? 無冠の皇族が東大寺に何用か。肩に担いでいる大きな袋は何か」

「弟に着替えや身の回りの品を持ってきました。決して怪しい者ではありません」

 危ない人たちに向かって迂闊にも名乗ってしまった。もし仲麻呂卿の関係者ならば、どんな目に遭うかもしれない。

「弟を探して迷っています。今入ってきたばかりで、皆さんの話は何も聞いていません」

 少し間があってから、老人が手を打って笑い出した。

「山部王とは白壁王様のご子息だ。宿奈麻呂の変の時はご苦労であった」

 老人につられて残りの二人も笑い出した。

「太政大臣に竹箒で挑んだという男か。なかなか見所がある」

「その意気や良し」

 穴があったら入りたいが、仲麻呂卿の手先ではなさそうだ。

「お父上に感謝しておくことだ。お父上が仲麻呂卿に何度も頭を下げ、太上天皇様に懇願したから無事でいられるのだ」

「我らは国家の大事を話している。今日は遠慮せよ。修行僧の宿坊は右手をまっすぐ行ったところにある」

 三人は朝廷の実力者で、仲麻呂卿を倒す打ち合わせをしているたのだろう。盗み聞きされたと勘違いして怒鳴ってきたのだ。自分はつくづく謀反に縁がある。

 今まで二回も謀反にかかわり失敗している。仲麻呂卿の権力は盤石だから、慎重に謀反の計画を進めても、必ず密告する者が出てくる。橘卿の変では多くの人が殺され四百人以上が処罰された。自分も危うく捕らえられて殺されるところだったし、小波王女には恨まれてしまった。宿奈麻呂様の変では永手様が出てきてくれなければ、自分は確実に殺されていた。謀反を成しとけることはきわめて難しい。二度の謀反で、自分は奇跡的に無傷だったが、次に、謀反加わり失敗すれば確実に殺されるだろう。謀反はこりごりだ。

 だが、仲麻呂卿が朝廷に君臨している限り、自分は一生日陰者で過ごすことになる。十七条の憲法を政に生かす機会など巡ってこない。嫁ももらえないだろう。今の自分には将来の展望が開けない。

 考えれば、自分には命以外に失うものもない。

 理想を失い、だた生きるだけならば死んでいるのも同然じゃないか。食らうだけなら犬でもできる。息をするだけなら猫でもできる。

 たとえ命をなくすことになっても信じる道を進みたい。理想に近づく努力をしたい。

 破れかぶれと人は笑うだろうか。

「お話とは、仲麻呂卿を倒す算段でしょうか」

「察しがよい」

「仲麻呂卿は朝廷の元凶です。仲麻呂卿を倒し世の中を変えてゆくために、ぜひ、自分も仲間に加え役目を下さい」

「宿奈麻呂殿に協力した人間ならば信頼できよう。次は竹箒ではなく太刀で貢献してもらうから、いつでも出られるよう用意しておけ」

「いつのことになるのでしょうか」

「蟻の一穴から堤が壊れるという。これ以上は言うことはできない。時が来たら使いを出そう」

「せめてお名前だけでも」

 山部王の問いに武人が答えてくれた。

「右から吉備真備きびのまきび様、山村王様、自分は坂上苅田麻呂さかのうえのかりたまろという」

 山部王が三人に向かってお辞儀をしたとき、背後から声をかけられた。

「兄さんじゃないか。こんなところで何してる」

 坊主頭に墨染めの衣を着た、いかにも「小僧」という青年が立っていた。

「山部王が白壁王様の息子なら、早良坊とは兄弟になるのか。縁とは実に奇異な事よ」

 早良王は、「皆様の夕餉の用意ができました。どうぞいらして下さい」と言って笑い、三人に先導して歩き出した。

 山部王が早良王に小声で「お三方とはどういう関係だ」と聞くと、早良王は、

「吉備真備様が今年の一月に造東大寺長官に返り咲かれたときからお手伝いしています。自分は真備様や苅田麻呂様と一緒に世の中を変える仕事をしています」

 と、笑って坊主頭を掻いた。

 薄曇りの空は、きれいな茜色に染まってきた。鐘楼から鐘の音が聞こえてくると山部王の腹も大きな音を立てた。

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