山部親王の決断
山部親王査問
宿奈麻呂の屋敷は壊れたところが修理してあるだけで昔と変わらずこぢんまりとしていた。築四十年くらいで、とても台閣で第二席の人の屋敷だとは思えない。仲麻呂の乱に勝った記念に植えた桃の木が大きくなっていて、時間の流れを感じさせる。
愚痴と自慢話と説教は世の中の三大聞きたくない話だ。説教を聞かされるときは自分に落ち度があるときだから、反論もできず言われるままに話を聞くしかない。説教している本人は、正しいことを言い、未熟な者を指導できていると思っているから気持ちがよいのだろうが、説教される側は自分の落ち度を繰り返しえぐられて、自分が悪かったと何度も同意を迫られるから、たまったものではない。罰せられるのは覚悟しているから、ひと思いに処分して欲しい。
処分……。皇后を誣告したのだから、官職を召しあげられて大和郷へ返されるという緩い処分では済まないだろう。土佐や伊豆への配流で済ませて欲しいのだが。
下女に案内されて屋敷に上がると、「お兄さん、久しぶり」と言って抱きついて来た娘がいた。
「
宿奈麻呂様の一件から乙牟漏にはすっかり懐かれてしまった。乙牟漏は会うたびに大きくなる。女の子は男の子に比べて成長が早いというが、十歳を過ぎてからの乙牟漏の成長には目を見張るものがある。自分の腰くらいまでしかなかった背はすっかり伸びた。耳を隠すくらいしかなかった髪の毛は腰まで伸びている。わずかに丸い顔と大きな瞳に幼さが残っているが、二十であると紹介されれば信じてしまう。もう、両手で抱き上げてあやすことなどできそうにない。
「姫様、お客様に失礼です。お父様のご用が先です」
下女に注意されると、乙牟漏は「はーい」と言いながら右手で自分の頭を軽く叩いた。
高い声と腕に抱きつくような子供っぽい仕草も可愛らしい。自分も乙牟漏のような娘と夫婦になりたいが、三十も半ばの男では相手にしてもらえないだろう。自分は女に縁がなかった。官職をもらえば、屋敷を持てば、親王になったから嫁をもらうことができると思ったが叶わなかった。物事には適切な時期というものがある。妻を娶り子をなすのなら二十代前半までに済ませなければならない。官職をもらうのも、親王になるのも遅すぎた。大和郷で母さんの勧めに従って、
乙牟漏は「じゃあ後でね」と言うと奥へ下がっていった。
嫁よりも、宿奈麻呂様に叱られることの方が問題だ。
山部親王が気を取り直して奥の部屋に入ると、宿奈麻呂が一人で座っていた。
眉をひそめ、口を横一文字に閉じて両腕を組んでいる。反論でもしようものなら雷を落とされそうだ。
山部親王は宿奈麻呂の前に座って頭を下げた。
「井上皇后様が呪詛を行っていたという話は誣告であるな」
「呪詛に使った人形や呪詛を手伝ったという采女の証言が……」
朝議の席で井上皇后様を告発したときに、自分を責める人はいなかったが、空気は白けて視線は冷たかった。宿奈麻呂様だけではなく、父さんをはじめとして台閣の方々も自分が井上皇后様を陥れようとしていることを察している。不破内親王様を陥れたときと同じ内容では、誣告でないという方がおかしい。
嘘をついてもしかたがない。宿奈麻呂様や台閣の方々にすべて知られているのなら正直に話すしかない。
山部親王は頭を下げた。
「宿奈麻呂様のおっしゃるとおり誣告です」
「山部親王殿なら、人の罪を告する者は
誣告の罪は覚悟していたが、指斥乗輿や親不孝までは考えてなかった。今となってはしかたがない。
「人を呪うことは自分を呪うことと同じであると承知しています。もとより処分は覚悟の上です」
「処分されることを覚悟して、皇后であり義理の母である人を陥れようとする意図は何か」
「皇后様は贅沢が好きですが、政や民の暮らし国家には興味ありません。天皇様は高齢であり最近は健康が優れませんので譲位の話も出てきましょう。皇太子の他戸親王は未だ幼く政を聴くことはできません。譲位や不予の際は、皇后様が即位して政を司ることになりますが、先帝である称徳天皇様よりも政が混乱することは火を見るより明らかです」
「先帝様の政を批判することは指斥乗輿である。親王といえども慎め」
山部親王が頭を下げたところで宿奈麻呂は声を落として言う。
「山部親王殿が言うとおり、聖武天皇様、称徳天皇様の父娘によって政は混乱し綱紀がたるんでいる。度重なる遷都や大仏造立で、国富のかなりの部分を失った。それでも、我らは天皇様を批判してはならないのだ。分かるな」
宿奈麻呂は咳払いをして声の調子を元に戻した。
「山部親王殿は誣告をするまえに、井上皇后様に諫言すべきではないのか」
「皇后様に意見しましたが、皇后様は幼い頃から伊勢斎宮として人に傅かれる暮らしをしてきましたので、人の意見を聞くことはできない人です。自分は卑母の生まれであるとして、意見するなど畏れ多いと叱られました」
「誣告は母君を貶められた私怨を晴らそうとしてのことか」
「母をけなされたから仕返ししたのではありませんが、私怨がないとは……」
「山部親王殿は、他戸皇太子様が幼く政を聴くことができないと言ったが、井上皇后様をひきずり下ろした後に、他戸皇太子様も廃して、自身が権力を握るつもりなのではないのか。道鏡は即位したいために、和気王の変、佐保川髑髏事件を起こした。山部親王殿は道鏡に倣ったのではないのか」
他の人からは皇位を狙って動いているように見えるのか。国のためを考えて動いたのであって私利私欲ではない。自分は断じて仲麻呂卿や道鏡とは違う。
「自分が即位することなど、決して考えたことありません。他戸親王に罪はなく、血筋を鑑みれば他戸親王が即位するべきです」
山部親王の強い口調に宿奈麻呂はひるんだ。
「山部親王殿は皇后様を排することだけが望みだと言うのか。政に対して思うところがあるのではないのか」
「二十一の時、法隆寺で聖徳太子の十七条の憲法を見て深く感動し、聖徳太子の政を実現したいと強く思ってきました。橘卿の変に加わったり、宿奈麻呂様の元に通ったりしたのは、仲麻呂卿の暴政が聖徳太子の理想の国とかけ離れていると感じたからです。道鏡を法華寺に閉じ込めたのも道鏡が即位すれば、聖徳太子の理想とは違う国になってしまうと思ったからです。道鏡と同じく、井上皇后様が権力を握れば、自分の願いを実現することができなくなります。井上皇后様には退場していただかなければならないと考えました」
「山部親王殿は権力を握りたいという願望を、もっともらしい建前で覆い隠しているのではないのか。皇后様が山部親王殿の出世の邪魔になるのではないのか」
「皇后様は国家の障害であって、自分の出世とは関係ありません。参議にならなければ政に参画できませんので、出世の望みはありますが参議以上は望んでいません。権力を握ることよりも世の中を変えてゆきたいと思っています」
「他戸親王様が即位するとして、実の母を誣告で追い落とした山部親王殿を参議に引き上げてくれるであろうか」
「それは……」
宿奈麻呂様の言われるとおり、親の仇を優遇する人はいない。自分は大和郷へ帰って畑を耕すことになるのか。
「ところで、山部親王殿はどのような政を行いたいのか」
「持統天皇様は律令を定めて日本国を創りました。天皇様を始めとして、当時の為政者は自分のことよりも、国創りに力を入れ、営農指導や治山治水、救恤施策などを行いました。しかし、代が変わるにつれて、律令を定めた頃の情熱は失われ、現在は上から下まで私欲を優先させています。国司は私欲のため定めよりも多くの税を多く取り、二代にわたる、仏教重視の政のおかげで、寺院は特権を享受しています。自分は聖徳太子が百七十年前に示した国創りの基本、争わず、礼節を保ち、公正な天下のために、律令に基づいて国家を運営したいと考えています」
「親王殿の理想は聖徳太子や持統朝にあると」
「律令の基本である戸籍や班田収受が実体をなさなくなっているように、綱紀が緩み天皇の権威が落ちています。このままでは、天皇や朝廷の権威は墜ち、国が衰退してゆきます。自分はもう一度国創りの頃に立ち戻り、国家を引き締めたいと考えています」
宿奈麻呂は深く肯くとニッコリと笑った。
「山部親王殿のお考えは十分に理解できました。台閣で政を行っている儂らよりも、大局的に物事を見て、確固とした理想を持ってお見えになる」
宿奈麻呂は立ち上がると、山部親王に「こちらの席へいらして下さい」と上座を勧めてきた。
「自分は上座に着くことはできません。どうかお許しください」
宿奈麻呂は山部親王の背を押して無理矢理上座に移し、山部親王の前に座ると深く頭を下げた。
「人を試すような事をして誠に申し訳ありませんでした。私たちは山部親王様を主上と仰ぎたいと考えています。皇太子になって下さい」
「私たち? 主上と仰ぎたい? 皇太子とは?」
宿奈麻呂の言葉を合図に、中臣清麻呂、
「自分は台閣の皆様方が頭を下げてくださるような人間ではありません。どうか頭を上げてください」
「山部親王様の言われるとおり井上皇后様では政ができません。他戸皇太子様は幼く道鏡のように媚びを売る者が現れると手のつけようがなくなります。親王様がおっしゃったとおり、律令国家は危機に瀕しており立て直すためには、しっかりとした展望と行動力のある指導者が必要なのです」
「自分には展望も行動力も……」
「展望は先ほど伺いました。行動力は、仲麻呂卿の乱、道鏡封じ込めなど誰もが認めています。近江を転戦する力、鳳凰の飾りを射落とす胆力があるのは親王様だけです」
「自分の母は
「道鏡は血筋も問題でしたが、態度や野望が問題だったのです。道鏡は称徳天皇様に媚びましたが、親王様は誰にも媚びるところがありません。道鏡は自身や一族の利益しか考えていませんでしたが、親王様はご自身よりも天下国家を考えており、道鏡とは天と地ほどの差があります」
「血筋的に……」
「親王様はもともと三世王です。父君は光仁天皇様として即位されています。母君の血筋を心配して見えますが、
「官人としての経歴が……」
「山部親王様は大学寮や中衛府で働き下積みの苦労を知ったうえで、
「父さん、天皇様が存命のときに次代を云々するというのは……」
「天皇様とは話がついています。というより、天皇様が我々に『息子の人物を、見定めて欲しい』と諮問されたのです」
「未だ独り者ですし……」
「乙牟漏をもらって下さい」
{えっ! 乙牟漏は子供で……」
「乙牟漏は充分大人になりました。子供も産めます。山部親王様に助けられてからずっと親王様を想い続けています」
中臣清麻呂ら他の者も口々に山部親王に皇太子に就くよう奏上してきた。
「あまりにも急な展開に頭がついて行けません。少しお時間を下さい」
山部親王は頭を下げると、逃げるようにして部屋を出た。
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