山部親王の決断

 宿奈麻呂の屋敷で審問を受けた翌日、山部親王は馬を駆って法隆寺に参詣した。

 雨上がりの斑鳩の山々は新緑を濃くし、日の光を弾いて滴を輝かせている。青い空には小さな白い雲が二つ浮かび、椋鳥の群れが気持ちよさそうに飛んで行く。鹿や猿の鳴き声と一緒に爽やかな風が頬を撫でてくれた。

 山門の仁王像は、恐ろしい顔で邪な者が入らないよう睨みを利かせ、寺を囲む回廊は、世俗の汚れが中に入ってくるのを防いでいる。

 境内に入ると、空に向かってそびえる五重の塔と威風堂々の金堂が迎えてくれた。

 しっとりと濡れた玉砂利を踏みしめながら歩けば、清い空気に身も心も洗われてゆき、仏様に見守られているという安心感が、日頃の緊張や悩みを解きほぐしてくれる。

 金堂の中は薄暗く、最初は何も見えなかったが、目が慣れてくると幾つもの仏像が見えてきた。正面に釈迦三尊像、左右に薬師如来像、阿弥陀如来像があり、持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が守護するように置かれている。天井には天人と鳳凰が飛び交う様子が色彩豊かに描かれている。

 壁の絵の前には、聖徳太子の十七条の憲法が掲げてあった。

 二十一の時に初めて十七条の憲法を見てから何年も経つ。種継、明信、早良と雨宿りで訪れたのが昨日のことのようだ。いくつかの争いを経験し、天皇様の御代も代わったが法隆寺だけは昔と変わらないし、十七条の憲法も変わっていない。

やわらぎを以て貴しとなし、さからうこと無きをむねとせよ……』

 若いの時には分からなかったことが、経験を積んで実感できるようになってきた。十七条の憲法は自分の理想だ。

 宿奈麻呂様は主上と仰ぎたいと言って下さった。自他共に官人として人生を送ると思っていたのに即位して良いものだろうか。自分が即位することで、天下の秩序が乱れることにならないだろうか。そもそも、自分に天皇を務めるだけの能力があるのだろうか。

 天皇になれば政を総覧することができる。聖徳太子が理想とした政を行うことができるが……。

 見上げた釈迦三尊像が、堂の中に入ってきた光に照らされて輝いた。

「山部親王即位すれば、天下静謐ならん。まさに立つべし」

 聞き覚えのある声と共に種継が仏像の後ろから出てきた。

「天は我をして語らしむ。我が声は種継の言にあらず」

「種継が畏まって言うから笑ってしまう」

「俺には山部親王の考えていることが分かる。父親は皇族とはいえ百年前の分家で庶流。母親の出自は低いから即位しても良いか悩んでいるのだろう」

 種継は山部親王の前に腰を下ろした。

「光仁天皇様は、たるみきった綱紀の粛正や、財政の立て直しに苦労されているが、昔からのしがらみを引きずっていて思うように動けない。即位を支援してくれた藤原氏には配慮しなければならないし、伝統氏族や寺社の権益が蜘蛛の糸のように絡みついている。山部親王はずっと日陰者だったおかげで、氏族のしがらみも寺社とのつながりもないから自由に政を行うことができる」

「自分が日陰者と言われれば反論できないが。何だか腹が立つ」

「箒一本で太政大臣に立ち向かったとか、鳳凰の飾りを射落とす罰当たりをしたとか、山部親王でなければできなかったことだ」

「恥ずかしいからよしてくれ」

「国家を立て直さなければならないという問題意識は公卿に共通した思いだが、公卿たちは氏族や自身の利益にとらわれて総論賛成、各論反対になっていて前に進めないでいる。朝廷に新しい風を吹き込んでくれる山部親王に期待が集まっている。今回の機会を逃せば、国家を変えることなど一生できないぞ。人生最初で最後の機会を逃すな」

 種継の言うように、今を逃せば聖徳太子の政を実現するという夢は叶わなくなる。

 歴史に埋もれるか、中興の祖となるか、迷う判断ではない。人生を悔やんだり呪ったりしないためにも立つべきだ。

 山部親王が顔を上げると種継と目があった。種継が差しのべてくれた手にすがって立ち上がると、光が差し込んできて、釈迦三尊像や四天王像が一斉に輝いた。

「自分は天皇になり国を変えて行こうと思う」

 金堂の外に出て階に立つと、境内にいた早良親王、明信、和気清麻呂が寄ってきた。

「なぜ、種継だけではなく、お前たちまで法隆寺にいるのだ。法隆寺に来ることは誰にも話していないはずだが」

「なぜとは失礼ね。みんな山部親王さんの応援に来たのよ」

「兄さん、決めたんだね」

 山部親王が早良の言葉に肯くと、明信が歓声を上げた。

「私は、藤原種継殿に連れてきていただきました。本日より山部親王様の臣下です。清麻呂と呼び捨てにして下さい」

「自分はもともと天皇になれるような生まれではない。天神あまつかみの差配か仏の思し召しかは分からないが、高御座たかみくらに座ることが許される立場になった。律令がたるみ国は疲弊してきている。自分は聖徳太子の理想を元に天下あめのしたを立て直したいと思う。手伝って欲しい」

 早良親王は笑みを、明信は涙を浮かべ、清麻呂は立て膝になって頭を下げた。種継は「伯父さんたちに知らせてくると」駆けていった。

「虹が出ている」

 明信が指さす方を見ると、白い雲の端から山に降りるように大きな虹の橋が架かっていた。虹に手を伸ばせば掴めそうな気がする。

「手を上げて何をしているの」

「虹に手が届かないかと思っていた」

「虹よりもすてきなものを手に入れたじゃない」

 明信の言うとおりだ。自分は望んでも手に入らないものを手に入れることができた。


 宝亀三年(七七二年)三月、井上皇后と他戸親王は身分を剥奪され大和国に流され、翌、宝亀四年一月、山部親王は正式に皇太子となった。

 翌宝亀五年四月、井上皇后と他戸親王は大和の配流地で没する。朝廷は二人が食あたりで亡くなったと発表した。

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