光仁天皇呪詛事件

 宝亀三年(七七二年)三月一日、太政官室の外で控えていた山部親王は、左大弁さだいべん佐伯今毛人さえきのいまえみしに呼ばれて部屋の中へ入った。

 部屋の中には、上座に顔色が優れない光仁天皇と、けだるそうにしている井上皇后が並んで座り、右大臣・中臣清麻呂、内大臣・藤原宿奈麻呂、大納言・文室大市、藤原魚名、中納言・石上宅嗣、石川豊成ら台閣の面々が左右に分かれて座っていた。

 朝議の場に初めて入ったが、お偉方の視線を一挙に集めると肝が縮み上がる。早朝の空気は震えるくらいに寒いが、手のひらや額に汗がにじみ、喉が渇いていがらっぽい。柄にもなく緊張しているのだ。気を落ち着かせなければ失敗する。平常心が大切だ。

 母さんは、「情けは人のためならずと言います。思い遣りの心を持ちなさい。他の人への親切は、巡り回って自分にもどってきます」と教えてくれた。早良は、「因果応報。人を呪い殺せば、相手の恨みを受けて自分も殺され、相手と自分で墓穴が二つ必要になる」と戒めてくれた。

 無実の罪で人を陥れることは悪であって、不破内親王様を陥れた道鏡のように、いつかは自分も足をすくわれると思うが、男には、自分を犠牲にしてもやらねばならない時がある。人を陥れる罪も神聖な朝議の場を穢す罰も一身に受けよう。幸いにも、自分は種継や明信と違って身軽な独り者だ。失うものは官職しかない。私怨で動くのかと問われれば否定できないが、天下あめのしたのためなのだ。

「本日は山部親王殿から奏上があります」

 山部親王は思わず唾を飲み込む。

「皇后様が天皇様を呪っているという訴えがありました」

 部屋の空気が固まり、弛緩しきっていた皇后の顔は瞬時に引き締まった。

「山部は何を言っているのですか! 私が天皇を呪うなどとあり得ない」

「自分は、先頃亡くなった難波内親王様の死に疑問を抱き陰陽師に占わせました。陰陽師は内親王様の死が呪詛によるものであること、呪詛はまだ続いていて天皇様の具合を悪くしていることを突き止めました。呪詛を止めさせるべく、犯人を捜していましたが、昨日になって皇后様付きの采女が私に告発してきました。采女によれば、皇后様は夜ごと人形ひとがたを使う呪詛を行い、天皇様のお命を縮めようとしているとのことです」

「嘘をいうでない。私が呪いを行っているという証拠はあるのですか」

 山部親王の衣や髪の毛は、井上皇后の怒鳴り声で細かく揺れた。

「証拠はあります」

 山部親王は懐から焼けて、半分炭になった人形を出した。

「かなりの部分が焼けていますが、残っている部分に天皇様の諱である『白壁』の文字を読み取ることができます。人形は宮の外にある皇后様の屋敷にありました」

「嘘です! 私は呪詛など行っていません。夫を呪い殺して私に何の得があるというのですか」

「皇后様に何の益があるのは分かりませんが、皇后様の屋敷から呪詛に使われた人形が出たことは確かです」

 光仁天皇は口を一文字に閉じていた。宿奈麻呂や他の公卿たちも何も言わずに山部親王の言葉を聞いている。

 井上皇后に睨まれるのは耐えられるが、父さんや公卿たちの視線は辛い。

 顔を真っ赤にした皇后は、握り拳を振るわせながら立ち上がった。

「不破と同じじゃないですか。山部は私に濡れ衣をかけて陥れようとしているのです」

 不破内親王様の事件は称徳天皇様と道鏡の陰謀だった。「呪詛をやっていないことの」証明などできないから、事件の時は卑劣な手法に憤ったが、まさか同じ手法を自分が使うとは思ってもみなかった。

 井上皇后は近くにあった木簡を取り上げ、つかつかと歩み寄ると、山部親王の頭に思い切りたたきつけた。

 木の板が砕ける大きな音がして破片があたりに飛び散る。

「天皇は待っていればじきに死ぬのに、なぜ私が呪わなくてはいけないのですか」

 井上皇后は、宿奈麻呂の「皇后様はお控え下さい」という言葉を無視して怒鳴り続ける。

「山部は称徳と同じように、無実の人間に罪をかぶせようとしている。私は呪詛など行ってません。山部こそ誣告です。直ちに山部を逮捕しなさい。東国でも、西国へでもどこでも良いから流してしまいなさい。いや、皇后を陥れようとしたのです。死罪になさい」

「人形という動かせない証拠があります」

 皇后は山部親王から人形を奪い取ると、「こんな物」と大きな声を出して部屋の外に投げ捨てた。

「藤原宿奈麻呂は山部の讒言を信じるのですか」

 宿奈麻呂はにじり寄ってきた皇后を避けるように体をひねった。

石上宅嗣いそのかみやかつぐは如何に」

 宅嗣は下を向いた。

 井上皇后は公卿たちに寄って問い質すが誰も答えない。

「台閣は大馬鹿者が揃っている。みんな山部にだまされている。山部をすぐに放り出しなさい。殺してしまいなさい」

 井上皇后が叫びながら山部親王に寄り拳骨を振り下ろすと、鈍い音が山部親王の頭から出た。

「この嘘つき者」

 皇后は山部親王を拳骨で叩いたり蹴ったりし始めた。

 宿奈麻呂が「種継」と叫ぶと、種継が部屋に入ってきて、皇后を羽交い締めにして山部親王から離した。

 皇后は大きな声で「私は無実だ」とか「山部は極悪人だ」とか叫び続ける。

「種継は皇后様を屋敷までお送りせよ」

 皇后の声は、部屋から出た後も聞こえてきた。

 皇后の怒りがなくなった部屋に、醒めた空気が入ってくる。

 山部親王は身を正し、光仁天皇に向かって深く頭を下げた。

「朝議の場をお騒がせして誠に申し訳ありませんでした。台閣を汚した罪は免れません。官位官職を天皇様にお返しし、自分は大和郷に帰りたいと思います」

 自分は、仲麻呂卿や道鏡のように人を陥れる人間を嫌っていたのに同じことをしている。自己嫌悪とため息しか出ない。

 天皇は口を固く閉じ渋い顔をしている。宿奈麻呂は目をつむって両手を組み、中臣清麻呂は呆れたという表情で見つめてきた。数人が溜め息をついた。

「皇后の呪詛疑惑は台閣で審議する。山部は沙汰があるまで参内を禁じる」

 天皇の言葉は暗い。

 山部親王が天皇や公卿たちに深く頭を下げ、後ずさりしながら部屋を出ようとしたとき宿奈麻呂に声をかけられた。

「山部親王殿は、明後日の午後に儂の屋敷に来るように」

 処分を申し渡されるのか、それとも説教か。いずれにせよ叱られることは確かで、自分がまいた種とはいえ憂鬱だ。

 山部王は戸口で体を折りたたむようにして頭を下げ太政官室を出た。

 部屋の外では明信が腕組みをし、両頬をふくらませて待っていた。

「まったく無茶なことをして。謀をするのなら種継さんくらいには話しておきなさいよ。種継さんも、台閣の皆さんも目を丸くしていたわ。根回しはしてたんでしょうね」

「罪に問われるのは自分だけにしたかったから、誰にも言わなかった」

「あきれた。山部親王さんって賢いからもっと考えて行動すると思ってた」

 誣告という罪を犯した自分は、大和郷へ帰って爺さんの後を継ごう。朝廷から出てしまえば、聖徳太子の十七条の憲法を政に活かすという夢が消えるが、井上皇后様を朝廷から追い出して、天下の役に立ったと思えば、多少は慰められる。

 山部親王は明信の言葉を背に受けながら、長い廊下を歩いた。

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